大判例

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徳島地方裁判所 昭和54年(た)1号 決定

請求人 冨士千代 外三名

主文

本件について再審を開始する。

理由

(理由目次)

第一  確定判決の存在

第二  確定判決の認定と証拠

一  第一審判決

1 その認定した事実

2 第一審判決の認定と証拠

二  第二審判決

1 第二審判決の事実認定

2 第二審判決の証拠説示

第三  本再審請求に至る経緯

一  第一次再審請求

二  第二次再審請求

三  第三次再審請求

四  第四次再審請求

五  第五次、第六次再審請求(本請求)

第四  本再審請求理由並びに検察官の意見

第五  当裁判所の基本的態度

一  第五次、第六次各請求相互の関連

二  本請求と第一次乃至第四次請求との関連

三  証拠の新規性

四  証拠の明白性

第六  当請求審で取調べた証拠の範囲

第七  再審請求理由の検討

一  西野清、阿部守良の証言の信憑性

その変遷過程の考察と偽証告白の評価

1 当請求審における両名の証言

(一) 西野清の証言要旨

(二) 阿部守良の証言要旨

(三) その評価

2 両名に対する捜査段階の取調経過

3 両名の捜査段階における供述の考察

(一) 事件直後の昭和二八年一一月中における両名の供述

(二) 西野逮捕(昭和二九年七月二一日)に至るまでの両名の供述

(三) 西野逮捕(昭和二九年七月二一日午後九時四五分)前後から阿部逮捕(同年八月一一日午前零時一五分)頃に至るまでの両名の供述

(四) 阿部逮捕(昭和二九年八月一一日午前零時一五分)前後から茂子起訴(同年九月二日)に至るまでの両名の供述

(五) 茂子起訴(昭和二九年九月二日)後の両名の供述

(六) 捜査段階における両名の供述の特徴とその評価

4 両名の第一、二審における証言

(一) 西野清の第一、二審における証言

(二) 阿部守良の第一、二審における証言

(三) 両名の証言の特徴とその評価

5 偽証告白に至る経過とその内容

(一) 両名が偽証告白に至る経緯

(二) 両名の偽証告白の内容

6 西野清、阿部守良の第一、二審証言に対する総体的評価

二  各論

西野清、阿部守良両名の証言と相まつて確定有罪判決の根拠となつた証拠及び確定記録中のその他の証拠(旧証拠)と新証拠との総合的検討

1 西野、阿部両名の格闘目撃供述の信憑性―特に犯行当時の明暗度について

(一) 第一、二審判決の証拠説示

(二) 旧証拠の評価――西野、阿部の目撃供述

(三) 犯行当時の明暗度に関する鑑定

(四) まとめ

2 電話線、電灯線の切断

(一) 第二審判決の証拠構造

(二) 西野供述の信憑性

(1) 茂子よりの切断の依頼

(2) 切断の時期――二度切断

(3) 切断方法に関する西野供述

(三) 事後切断、二度切断の不自然性と新旧証拠の総合的考察

(四) 証人石川幸男の証言

(五) まとめ

3 匕首

(一) 第一、二審判決が認定した事実と証拠

(二) 篠原澄子の供述の信憑性

(三) 阿部供述の信憑性

(四) 新証拠により認められる匕首の捜査経過

(五) 匕首に巻かれた糸

(六) 匕首入手の目的

(七) 証人阿部幸市の証言

(八) まとめ

4 兇器である刺身庖丁

(一) 第一、二審判決の認定と証拠

(二) 西野供述の信憑性

(三) まとめ

5 茂子の供述――特に自白の真実性について

(一) 茂子の供述内容とその推移

(1) 事件直後の供述

(2) 内部犯人説に立脚した地検の捜査が開始されて以後の供述

(3) 昭和二九年八月二六日付、同二七日付自白調書の全容

(4) 自白の撤回とその後の供述

(5) 公判段階における供述

(6) 判決確定後の供述

(二) 茂子の供述の推移に見られる特徴

(三) 自白の真実性

(1) 自白と亀三郎の創傷との照応関係について

イ (5)(6)創及び(7)創について

ロ (1)(2)創について

ハ その他の創傷((3)(4)(8)(9)の各創傷)について

ニ 左手掌面の創傷について

(2) 自白と茂子の受傷との照応関係

(3) 自白と茂子の寝巻に存するO型血液痕

(4) その他

(5) 自白の形成過程、持続過程、撤回過程に見られる問題点

(6) 自白の真実性についての評価

6 第二審判決が情況証拠として説示する諸点(第二審判決第二の一の(五))

(一) 犯行現場の血痕等の附着状況(同第二の一(五)(イ))

(二) 茂子の左季肋部の受傷(同第二の一(五)(ロ))

(三) 亀三郎の左手掌面の創傷(同第二の一(五)(ハ))

(四) 茂子の寝巻に存する亀三郎の血液(同第二の一(五)(ニ))

(五) 「犯行後現場に敷いてあつた夜具蒲団を逸早く取片付けてあつたこと」について(同第二の一(五)(ホ))

(六) 「四畳半西北隅押入の板戸が割れポスターに血痕の附着していること」について(同第二の一(五)(ヘ))

7 犯行の動機

三  外部犯人の証跡

1 靴跡又は足跡

(一) 靴(足)跡の存在とその形状

(二) 靴跡は誰が残したのか

(三) まとめ

2 懐中電灯

3 新築工事場表出入口の開閉状況

(一) 第一、二審判決の認定と証拠

(二) 各証言内容の検討

(三) 第一、二審で排斥された証拠及び新証拠による総合的検討

(四) まとめ

4 逃走した犯人を目撃した者の存在

(一) 辻一夫証人の目撃内容

(二) 酒井勝夫証人の目撃内容

(三) 走り去つた男は中越明か

(四) 高畑良平の目撃内容

(五) まとめ

5 侵入し亀三郎を殺害した犯人を目撃した者の存在

(一) 茂子の目撃内容

(二) 三枝佳子の目撃内容

6 侵入し逃走した犯人の痕跡

(一) 新築工事場二階から屋根上に通じる東側窓枠に存した「指紋二ケ、掌紋一ケ」

(二) 新築工事場表出入口の柱に附着した人血

(三) 新築工事場板戸附近に落下していた人血

(四) 犯行直後における警察犬による追跡

7 電話線、電灯線の切断

8 遺留されていた匕首

四  本件捜査経過とその特徴

1 事件直後の捜査

2 昭和二九年六月の時点における捜査の集約

3 内部犯人説に基く捜査の開始とその発展

4 本件捜査の看過し難い特徴

第八  結論

(略語表)

以下の記述は左の略語例によることがある。

昭二八・一一・五裁 昭和二八年一一月五日付裁判官の尋問調書

検         検察官に対する供述調書

事         検察事務官に対する供述調書

員         司法警察員に対する供述調書

弁、又は弁聴    弁護士に対する供述調書又は聴取書

法、又は法聴    人権擁護局・法務局の調査書又は聴取書

不1   富士茂子の殺人被告事件の不提出記録全三冊中の第一分冊(「1」の数字は分冊を示すもので、当該証拠が当該分冊中に所在することを示す。以下同じ)

一偽2  西野、阿部第一回偽証被疑事件不起訴記録全七冊中の第二分冊

二偽   西野、阿部第二回偽証被疑事件不起訴記録

松山3  松山光徳不起訴記録全三冊中の第三分冊

川口6  川口算男不起訴記録全六冊中の第六分冊

一検審  第一次検察審査会記録

二検審  第二次検察審査会記録

法務省  法務省人権擁護局からの取寄記録

一再審1 第一次再審請求事件記録中の第一分冊

(添付図面)

事案の簡明化のため、左記の図面を添付し、適宜理由中に引用する。

(一)  三枝亀三郎方周辺地理案内図

(二)  三枝電機店現場見取図

(三)  事件発生直後現場見取図

(四)  亀三郎の創傷図

(五)  茂子の創傷図

(六)  遺留品手配書による靴跡の図型

(七)  電灯線の切断と修理の図解

第一確定判決の存在

徳島地方裁判所昭和二九年(わ)第三〇二号被告人富士茂子に対する殺人被告事件の確定記録、同控訴記録によると、次のことが明らかである。

昭和二八年一一月五日未明、徳島市八百屋町八番地の亡冨士茂子(当時四三歳)方において、同人の内縁の夫三枝亀三郎(当時五〇歳)が、何者かによつて、匕首様の兇器で全身九ヶ所を刺傷され、間もなく死亡するという事件が発生した。三枝方屋根上の電灯線、電話線が切断され、事件現場四畳半の間に中古の懐中電灯が、新築工事中の建物の裏風呂場焚口付近に匕首一振が遺留されていた。そして三枝方家族の寝ていた蒲団の敷布上に足跡二ケが印象されていた。捜査当局は、当初、犯人は外部からの侵入者である、とみて捜査を展開したものの、捜査は難航し、その後、昭和二九年七月に至り、犯人は三枝方内部の者ではないかとの徳島地検の判断のもとに捜査方針が転換され、同年七、八月、右三枝方の住込店員であつた西野清(事件当時一七歳)、阿部守良(同一六歳)らに対して逮捕、勾留、観護措置決定がなされ、その期間中における同人らの供述を主要なる証拠として、昭和二九年八月一三日、冨士茂子が逮捕され、同年九月二日、徳島地方検察庁は、徳島地方裁判所に対し、同人を殺人罪により起訴した。

冨士茂子は、起訴後、一貫して無実を主張していたが、昭和三一年四月一八日、徳島地方裁判所は、二〇回に及ぶ公判期日を重ねた末、同人に対し、懲役一三年、未決勾留三六〇日算入の有罪判決を下した。同人は、右判決に対して控訴申立をなし、検察官も量刑不当を理由として控訴申立をしたが、昭和三二年一二月二一日高松高等裁判所は控訴棄却の判決をなし、同人は、さらに上告申立をしたが、昭和三三年五月一二日、自ら上告を取下げたため、右有罪判決は確定するに至り、同人は服役した。

第二確定判決の認定と証拠

一 第一審判決

1 その認定した事実

第一審判決が認定した罪となるべき事実は、

「被告人は二回に亘り結婚したが共に失敗に終り、昭和十二年頃から徳島市中通町三丁目においてカフエーを経営したが火災に遭つてやめ、昭和十五年頃から同市幸町二丁目において喫茶カフエー「白ばら」を始め、之を営業中昭和十七年頃から当時同市大道四丁目においてラヂオ商を営んでいた三枝亀三郎(明治三十六年二月八日生)と知り合い、間もなく同人と情を通じ、昭和十八年十一月同人との間に佳子を儲けるに及んで、同人はその妻八重子と不仲となり、遂には同人等夫婦はその間に子女五名がありながら離別するのやむなきに至り、昭和二十二年には戸籍上も離婚して了つたのであるが、斯くなることによつて被告人は三枝家に入り込み、亀三郎とは自他共に許した夫婦として、子供達に対しては八重子に代る母としてその面倒を見ると共に、亀三郎の営業の補助者として立働らき、やがて戦災後の営業再建もなり、昭和二十六年頃同市八百屋町三丁目八番地に仮建築を設けて移転し、八重子の子供達のみ右大道四丁目に住まわせ、営業所には店舗に続く四畳半の間に亀三郎、被告人、佳子の三名が、裏に仮設した板囲い小屋に店員二名がそれぞれ寝起し、営業成績も順調に発展し、本格的営業所としての鉄筋三階建建築も昭和二十八年五月着工し、同年末までには完成する運びになつていたものであるが、

亀三郎は生来浮気で、本妻八重子がありながら被告人と関係を結び、右の通り八重子を離別したのであるが、またまた、昭和二十六年頃から小学生当時からの知り合いである未亡人黒島テル子と懇ろとなり、同女にラヂオの販売をさせたり、被告人方店舗に出入させたり、将来を誓つて屡々情交し、果てには被告人を追出すか、自分が家出するなどと称して同女の意を迎えるようになつており、加うるに、昭和二十八年夏頃曩に離別した八重子から女中としてでもよいから子供の側で世話をさせてほしいとの手紙があつて、被告人の胸中に一沫の不安を投じた矢先でもあつたのであるが、被告人は黒島テル子との関係を自ら夙に感付き、他からも仄聞し、心安からず密かに悶々の日を送り亀三郎に対する憤りの念を深く懐いていたところ、たまたまラヂオの宣伝販売のために関係業者の間で出雲大社への旅行招待が計画され、被告人方へも数枚の招待券が配付され、その招待券の分配のことから右黒島テル子を厚遇せんとする亀三郎の真意を推察するや、未だ自分が亀三郎の籍に入つていないこと、曩に離別されて了つた八重子のこと、佳子のことなどと思い巡ぐらし、八重子と同じ運命に陥ちゆく自己のゆくすえが案じられ将来に対する絶望感と、黒島テル子に対する嫉妬と亀三郎に対する憤まんの情は押さえんとして押さえがたく、終に斯くなる上は亀三郎を殺害するに如かずと決意するに至り、犯行の方法、犯罪後の処置等周到に考慮した上、昭和二八年一一月五日午前五時頃、右八百屋町三丁目八番地の営業所奥四畳半の間において、刺身庖丁を揮つて同衾中の亀三郎の頸部、腹部等を目がけて突き刺し、因て、間もなくその場で同人を右創傷に基く大出血による失血のため死亡せしめ、以つて殺害の目的を遂げたものである。」というものである。

2 第一審判決の認定と証拠

第一審判決は、以上のような事実を認定した上、本件犯罪が被告人(亡冨士茂子のこと、以下同)によつて敢行されたとする理由として証拠を摘示し、簡単なコメントを付す形で心証を説明している。後の叙述の便宜のため、第一審判決の理由中証拠説明部分を全て摘示し考察の出発点としたい。尚、項目と文章は全て同判決のとおりである。

「(二) 証拠

第一判示冒頭記載の事実

一 被告人の検察官に対する昭和二十八年十二月十日附供述調書

二 被告人の司法警察員に対する昭和二十八年十一月二十日附供述調書

三 証人女鹿八重子の第八回公判における証言((記載)=(公判調書の記載を意味す。以下同じ))

四 証人羽柴盧の第十三回公判における証言(新館建築に関する点のみ)

第二罪体に関する事実(犯罪の主体に関する部分を除いた事実)

一 被告人の当公廷での供述

二 司法警察員作成の実況見分調書

三 鑑定人松倉豊治作成の鑑定書

第三本件犯罪は被告人によつて敢行された犯罪である事実

以下項を分けて証拠を検討し、その上でこれらを綜合することによつて本件犯罪が被告人の所為なりと結論する。

一、犯罪の動機等。

イ 亀三郎が浮気者であつた点

1 証人三枝登志子の第八回公判における証言(記載)

2 証人黒島テル子の第八回公判における証言(記載)

3 黒島テル子の検察官に対する昭和二十九年九月六日附第四回供述調書

4 永山キヌエの検察官に対する昭和二十九年九月九日附供述調書

ロ 加之曩に離別した八重子から女中としてでよいから子供の側で世話をさせて欲しいとの手紙があつて先づ先づ自分を母として慕つて呉れる子供等との間にすら水を差されるような不安を感じていたものと推察されること。

1 女鹿八重子から被告人に宛てた手紙(昭和二十九年押第一三四号の第七号)

2 証人三枝登志子の第八回公判における証言(記載)

ハ 被告人が亀三郎の浮気について懊悩していた点

1 証人三枝登志子の第八回公判における証言(記載)

2 三枝登志子の検察官に対する昭和二十九年九月一日附供述調書

ニ 判示招待券にからむ亀三郎との口論によつて同人に対する憤まん、黒島テル子への嫉妬、将来に対する絶望感に駆り立てられ、いよいよ犯行の決意を懐くに至つた点

1 被告人の検察官に対する昭和二十九年八月二十九日附供述調書

2 証人三枝登志子の第八回公判における証言(記載)

ホ 被告人が正式に亀三郎の籍に入つていない点

徳島市長作成の三枝亀三郎の戸籍謄本

二 被告人は本件犯行は外部から侵入した者の兇行であると主張するが、当時の情況は、外部者の侵入した形跡が全く認められないこと。

イ 犯行が物盗り等の犯行と認められないこと。

1 現場において金品が盗まれておらず、又金品物色の形跡がないこと。

司法警察員作成の実況見分調書

2 家人に対して金品要求の事蹟のなかつたこと。

被告人の警察以来の一貫した供述

ロ 亀三郎の受傷は残虐であり、徹底的であつて、斯かる結果より考えると単なる物盗り等の行為ではなく、同人に対する怨恨者の仕業と認められるが、亀三郎が他に怨を受けるような事情がないこと。

被告人の一貫した供述

(事件直後駆けつけた警察官に犯人は米田なる旨申告しているが、同人については不在証明があつた。証人西本義則の第五回公判における証言(記載))。

ハ 現場四畳半の間裏側附近の通路を通過したと思われる者のなかつたこと。(通路には板で作つた橋のようなものがあつて、歩いたり、走つたりすれば大きな音がするようになつていた。)

1 司法警察員作成の実況見分調書

2 証人西野清の第二回公判における証言(記載)

3 証人阿部守良の第十二回公判における証言

4 証人田中佐吉、同新開キチの第四回公判における各証言(記載)

5 証人工藤岩吉の第七回公判における証言(記載)

ニ 現場西隣被告人方新築工事場表出入口から侵入者が逃走したとは認められないこと。

1 右ハの各証拠

2 新築工事場出入口は閉鎖されていたこと。

証人石井雅次、同新開鶴吉、同田中佐吉の第四回公判における各証言(記載)

証人辻一夫の第十五回公判における証言

3 工事場内部は暗くて逃走する者の姿は認められないこと。

昭和二十九年十二月五日施行の検証結果を記載した調書(勿論明るさは検証時より当時の方が明るかつたとしても)。

4 証人三枝佳子の第六回公判における証言(記載)は措信せず(以下何れの場合も同じ)。

5 新築工事場表出入口附近から元町ロータリーの方向に走り去つたものは中越明である。

A 証人辻一夫、同酒井勝夫(同証人の戸を倒し、その戸を踏みつけて出て来たとの証言は措信しない。)の各証言

B 証人中越明の第十五回公判における証言

ホ その他の箇所より侵入者があつたものと認める証拠がない。

裏側(通町方向)より侵入したものとは到底認められない。

1 司法警察員作成の実況見分調書

2 田中佐吉方、工藤岩吉方の飼犬が吠えたことがない。

A 証人田中佐吉、同石井雅次の第四回公判における各証言(記載)

B 証人真楽与吉郎、同工藤岩吉の第七回公判における各証言(記載)

3 不審な足音等誰も聞いていないこと。

証人田中佐吉、同石井雅次、同新開鶴吉の第四回公判における各証言(記載)

ヘ 普通外部から部屋内に侵入せんとするものは、一応部屋内の様子を窺つた上侵入するものであるが、現場四畳半の間への裏出入口硝子戸には内部を覗き見たと思われる形跡がないこと。

証人和田福由の第三回公判における証言(記載)

三 被告人は本件犯行を外部から侵入した者の兇行であるかの如く欺瞞するため、之に添うように現場を偽装していること。

イ 曩にラヂオ商堤藤子方において電話線を切断された上、ラヂオを窃取された事件があり、そのことに暗示を得て、犯行直後店員西野清をして電話線及び電灯線を切断せしめ、侵入者が侵入前これらを切断したかの如く仕做していること。

1 証人堤藤子の第九回公判における証言(記載)

2 証人西野清の第二回公判における証言(記載)

3 証人西野清の第十一回公判における証言(記載)

4 押収に係る匕首(前示同領置号の第一号の一乃至五)の存在

5 電話線二片(同右第十三号)の存在

6 電灯線二片(同右第十二号)の存在

7 警察庁技官大久保柔彦作成の匕首及び電話、電灯線に対する鑑定書

8 警察技官佐尾山明作成の匕首等に対する鑑定書

9 司法警察員作成の実況見分調書

ロ 被告人が外部よりの侵入者が犯行用兇器を新館風呂場焚口附近に遺留して逃走した如く装うため、血痕附着の匕首を該箇所に立て掛けたこと。

1 該匕首は、被告人が本件犯行前から所持していたものであつて、侵入者が遺留したものではない。

A 証人阿部守良の第二回公判における証言(記載)

B 証人西野清の第二回公判における証言(記載)

C 証人佐野辰夫、同児玉フジ子、同辻本義武の第五回公判における各証言(記載)

D 証人篠原澄子に対する昭和二十九年八月二十五日附証人尋問調書

2 該匕首をもつて店員西野清に電話線を切らしめそしてその匕首は被告人に返還されたこと。

A 証人西野清の第二回公判における証言(記載)

B 警察技官佐尾山明作成の匕首等に対する鑑定書

C 警察庁技官大久保柔彦作成の匕首及び電線等に対する鑑定書

3 匕首を立て掛けた者は被告人であること。

A 前示2後段の事実

B 匕首は人為的に立掛けたものであつて、抛棄したものが刃を上にして壁に立掛けられるようになることはあり得ないこと。

司法警察員作成の実況見分調書

ハ 電話や、店員西野清の申告によつて駈けつけた警察官に対して、犯人が遺留したものとして被告人から提出した懐中電灯は、従前から被告人方にあつたものであること。

1 証人武内一孝の第五回公判における証言(記載)

2 司法警察員作成の実況見分調書

3 証人西野清の第三回公判における証言(記載)

4 証人阿部守良の第七回公判における証言(記載)

5 押収に係る懐中電灯(前示同領置号の第二号)の存在

ニ 被告人方配電盤の蓋は被告人によつて開放せられたこと。被告人は犯行の行われているとき電灯が点かなかつたことを終始主張しているが、これはこの配電盤の蓋を開けたことに対応せしめる為のものである。

1 電灯が消えていたのは配電盤の蓋が開放されていたためであること。

A 証人坂尾安一の第四回公判における証言(記載)

B 押収にかかる四国電力徳島支店の故障受付簿

(前示同領置号の第十五号)中の昭和二十八年十一月四日の欄の記載

2 被告人が配電盤の蓋を開放したものであること

A 配電盤は陳列台の上に上れば子供でもたやすく開閉できる。

検察官作成の検証調書及び証人真楽与吉郎の第七回公判における証言(記載)

B 該蓋は自然に開く程緩くはない(のが通常である。)

右検証調書添附の写真第四

C 他に之を開放した者がない。前晩店員両名は店じまいをして部屋に行きラヂオを聞いている。

証人西野清の第二回公判における証言(記載)、

証人阿部守良の第十二回公判における証言

四 被告人は犯罪後証拠の湮滅につとめている。

イ 本件犯罪の用に供した刺身庖丁を店員西野清をして投棄せしめている。

1 本件犯罪の供用兇器は柄共の長さ約一尺の刺身庖丁である。(押収されている二挺の刺身庖丁(前示領置号の第五号の二及び第六号)より小型のもので、通常六寸刃庖丁又は七寸刃庖丁と称するものと思われる。)

A 亀三郎の創傷は有尖にして鋭利な片刃の刃物によつて突き刺された為生じたものである。

鑑定人松倉豊治の鑑定書

B 本件犯行の後に従来あつた刺身庖丁がなくなつている。

証人阿部守良の第二回公判における証言(記載)

C 被告人が店員西野清をして投棄せしめた物は本件兇器である刺身庖丁である。

証人西野清の第二回公判における証言(記載)

2 該刺身庖丁は徳島市中を東に流るゝ新町川に両国橋上から投棄されたものである。(その後該庖丁は川ざらえの結果によるも発見されなかつたことは証人大柳忠夫の第九回公判における証言(記載)によつて明らかであるが、このことは特に右認定の妨げとはならない。)

A 証人西野清の第二回公判における証言(記載)

B 証人西野清の第十一回公判における証言(記載)

ロ 犯罪現場に敷いてあつたと思われる蒲団等を警察官等が駈付ける前に素早く取片付けている。

1 司法警察員作成の実況見分調書

2 証人村上清一の第三回公判における証言(記載)

ハ 警察官に対して積極的に米田なる者が犯人なりと指摘し、他人にも同様云つている。

1 証人武内一孝の第五回公判における証言(記載)

2 証人西本義則の第五回公判における証言(記載)

3 証人黒島テル子の第八回公判における証言(記載)

4 証人郡貞子の第十五回公判における証言

五 被告人の(犯罪後の)態度に於て奇怪なものがある。

イ 右三、四において考察した各事情

ロ 被告人は四畳半の間において、「キヤツ」(証人西野清の証言)又は「どろぼう」(証人阿部守良の証言)と声を発して裏の通路に出、新築工事場附近迄歩き、工事場附近で振返つたとき、物音に飛び出した店員二名と逢い、顔を見合せておりながら一言も発せず唯黙つて立つていた。

1 証人西野清、同阿部守良の第二回公判における各証言(記載)

2 証人西野清の第十一回公判における証言(記載)

3 証人阿部守良の第十二回公判における証言

4 証人新開鶴吉の第四回公判における証言(記載)

このことは、犯行の昂奮の継続中で、未だ充分に我にかえらない状態において店員等と出くわし、やゝ狼狽したため、一言も発し得なかつたものと推察される。

その後三、四分経過して「泥棒」(証人西野清の証言)又は「若い衆さん来て」(証人阿部守良の証言)と店員を呼んでいる。

1 証人西野清、同阿部守良の第二回公判における各証言(記載)

2 証人西野清の第十一回公判における証言(記載)

3 証人阿部守良の第十二回公判における証言

ハ 被告人は前示のとおり裏通路に出たことは、救を求めるためであつたと供述(第二回公判における供述記載)しているが、これはその犯行を感付かれていないかどうかを確認するための目的であつたものと認められる。救いを求めるためには外に出て黙って歩いていてはいけない筈であり、意味なき方向を見廻わすことはない。

証人西野清、同阿部守良の第二回公判における証言(記載)

ニ 一言も発せず、倒れている(被告人は卒倒しているものと思つたと弁解)亀三郎が重態であることを知りながら目と鼻の先程近い斉藤病院もあるのに、わざわざ遠く離れた市民病院の医者を迎えに店員を遺わしている。

1 被告人の第二回公判における供述(記載)

2 証人阿部守良の第二回公判における証言(記載)

3 証人阿部守良の第十二回公判における証言

ホ 被告人は、所謂身内の一人としての愛情と誠意を以て自ら、又は他をして亀三郎の受傷の程度を確かめたり、何らかの介抱をしたりなどしたことが微塵も窺えない。

1 被告人の第二回公判における供述(記載)

2 被告人は亀三郎の創傷が重症であるとは想い到らなかつたと謂うが、左様なことのあるべき筈のないことは確実である。創傷が重大であることは松倉鑑定人の鑑定書を俟つまでもなく一見して明瞭(司法警察員作成の実況見分調書)である。暗くて一見不可能とするも一言も発せずして倒れているのであり、被告人の思つた卒倒していることそれ自体重大である。仮に重大でないとの錯誤に陥つていたとするも重大か、どうか確かめることこそ通常の人の人情である。まして被告人は亀三郎の内妻である。

ヘ 被告人は事件を警察に申告せしめるに際り、亀三郎受傷の事実を秘して、単に泥棒とのみ申告せしめている。(普通の場合、被害者は、大袈裟に申告するのが常識である。)

1 証人西野清、同阿部守良の第二回公判における各証言(記載)

2 証人田中佐吉、同新開鶴吉の第四回公判における各証言

ト 急を聞いて駈けつけた新開鶴吉(同家と被告人方とは平素から心良くつき合つていたものではなく、却つて不服を持ち込まれたこともある仲ではあるが)が被告人に対して見舞の言葉を掛けたのに対して、懐中電灯の光で亀三郎の顔を照して眺めていた被告人は吃驚し、取乱した態度で咎めるような一言を発したのみで返事もしなかつたこと。当時被告人は既に相当時間も経気分は落付いていた筈であり、危急の救を求める態度でなければならなかつたこと。

証人新開鶴吉の第四回公判における証言(記載)

六 被告人が亀三郎に対する加害者である。被告人の称する格闘の相手方は被告人一人である。

イ 格闘が行われたこと。

1 証人西野清、同阿部守良の第二回公判における各証言(記載)

2 証人新開鶴吉、同新開キチ、同田中佐吉の第四回公判における各証言(記載)

3 司法警察員作成の実況見分調書

ロ その格闘の当事者は被告人一人である。

1 証人西野清、同阿部守良の第二回公判における各証言(記載)

2 証人西野清の第十一回公判における証言(記載)

3 証人阿部守良の第十二回公判における証言

右両証言の通り部屋内に相対峙していた白い影が見えるかどうかについての昭和二十九年十二月五日早朝の検証の結果(同日附検証調書の記載)によれば同日は暗くて内部は全然見えないのであるが、徳島測候所長よりの回答書により窺われる通り、月令天候、日出時間等を考慮するときは、本件犯行当日の同時刻頃はより明るかつたのであつて従て右各証言はこれを信用していゝわけである。証人武内一孝の第五回公判における証言(記載)によるも部屋内は白黒を区別出来る程度の明るさであつたものと認められる。

ハ 亀三郎に打撃を与えた最初の創は、頤部下端正中の下僅か右から左下顎頤下部左に貫通する創傷である。

1 該創は屍体頤部の右から左へ貫くものであつて兇器の刃は咽喉(内側)に向つており、その内部において舌骨と甲状軟骨との間を貫き甲状軟骨の左右側板の一部を切除し、左頸静脉を大半切破している。

鑑定人松倉豊治作成の鑑定書

2 亀三郎は格闘中一言も言葉を発していない。それは右創傷のため発声出来なかつたものと認められる。

被告人の第二回公判における供述(記載)

3 該創傷は亀三郎の横臥中に受けたものである。

A 創傷の方向と通常刃物を持つ場合の刃の方向から推察される。

B 亀三郎が使用していた蒲団カバー(掛敷共)の血痕の附着状態から之を認められる。

(押収に係る敷布(実際は敷蒲団カバー)及び蒲団カバー(前示領置号の第九、十号))

ニ 被告人の兇刃は被告人の寝巻にその返り血を迸ばらしている。

1 押収に係る寝巻(前示同領置号の第八号)

2 警察技官佐尾山明、同三村卓共同作成の鑑定書

ホ 四畳半の間裏縁側附近においてはげしく格闘が行われ、その場所において格闘は終熄したものである。

1 亀三郎は最後の勇を鼓して抵抗したが、最初に受けた深傷に加うるに、更に深く一刀を(右胸部の創傷ではないかと推察される)受けるに及んで力尽きて縁側の敷居附近に崩折れたものである。

A 亀三郎の右拇指の血紋が裏への出口にある障子の親桟(内側からみて右側内側)に強く印象されていること。

B 該障子内側に迸ばしつた血痕のあること。

C 縁側に滴下した多量の血痕の存在すること。

A、B、C各事実は、証人和田福由の第三回公判における証言(記載)及び同人作成の鑑定書によつて認める。

2 被告人も亦亀三郎の抵抗を排除して奮闘している。

A 縁側便所入口前に敷居に接近して被告人の右足母趾の血液紋がずれて二重になつて二箇所印象されている。

B 該母趾紋は何れも斜め外方に向いている。

C 該母趾紋はその方向に向つて進行したものではなく、躊躇逡巡して停止している。

A、B、C各事実の証拠

証人和田福由の第三回公判における証言(記載)

及び同人作成の鑑定書の記載。

3 亀三郎と被告人とは相接近して対峙していたものである。

右1、2の関係から認められる。

ヘ 右の如く崩折れて障子附近に倒れた亀三郎を四畳半の間東側中央附近の柱の附近へ頭が、縁側の方向に足が向く様に寝かせるため引摺つたものである。

1 縁側に滴下した血痕の上を摺つたような形跡のあること。

この証拠

司法警察員作成の実況見分調書添附の写真第二三号。

2 証人和田福由の第三回公判における証言(記載)

3 証人和田福由の第十三回公判における証言

ト 被告人は格闘終熄後縁側に置いてあつた茶瓶の水を飲んでいる。

証人和田福由の第十三回公判における証言

チ 被告人の受けた創傷は、亀三郎から加えられたものである。被告人は裏へ出ようとした際、後より来た犯人に便所のところで追越されるため便所側へ身をよけた際、腹部にひやりとしたと供述しているけれども、

1 被告人の左季肋部創傷は対向者によつて刺されたもの(該部から僅かに尖端が上方に向かい真直に刺入している)であつて、後から追越さんとする者の加えたものではない。

A 証人蔵田和己、同伊藤弘之に対する各証人尋問調書

B 被告人の主張通りとすれば、創傷は体の横(左側)にある筈である。

C 仮にその受傷の部位は被告人の主張通りであるとしても、その方向は体の右側方向に向うはずである。

2 該創傷は亀三郎から加えられたものである。

亀三郎の左掌に刃物を握つたと認められる創傷がある。

この証拠 松倉鑑定人の鑑定書

斯くして亀三郎は被告人から一度兇器を取上げたものと推察される。

七 被告人の検察官に対する昭和二十九年八月二十六日附供述調書中、判示亀三郎殺害顛末の供述記載。

イ 本調書の任意性について。

従前の取調においては犯行を極力否認し、自分は被害者であると称し、検察官は盲だとか、検事を馘にしてやるとか豪語したり、声を上げて泣いたりしたが、当日の取調に際してはそのような豪語は勿論、大声も出さず、余り泣きもせず検察官に被告人の従前の供述の非合理性を二、三指摘された結果、翻意して自白するに至つたものであつて、自白を強要されたりしたものであることが認められないこと。

右は、証人村上善美の第十八回公判における証言によつて認められる。

ロ 本調書の真実性について

1 被告人の所為によつて亀三郎が死亡したとの自白は前示屡述したところと矛盾なく妥当する。

2 自白するに際り、子供達のことを願いますと前置することも被告人の真情に添つた供述であり、そは被告人の当時の念いであり、今も尚懐いている心配の一つであろう。

3 被告人が亀三郎から一刺しされたことも被告人の受傷の事実と一致する。

4 尤も、被告人の十数回に亘る公判審理の態度及び本調書の自白をなすに際しても始めこれを躊躇し逡巡している点(前記証人村上善美の証言)から推して、本調書の記載が全部そのまま真実であるかは疑問であるが、その大綱たる亀三郎を刺殺したことを自白した点については之を措信するに充分である。

ハ 本自白後の昭和二十九年八月二十九日附検察官に対する供述調書は又否認の調書であるが、該調書の記載は従前の供述調書と異なり、店員西野清や阿部守良の犯行であると述べるに至り、免ぬがるゝためには他を陥入れ、捜査の注意を他に転換せしめようとする否認者の通有性を露呈している。

八 その余の司法警察員及び検察官に対する被告人の供述調書並に公判廷における供述は何れもその大本において罪を免がれんがための捏造事実の陳述や、その場遁れや、新たに発見された捜査結果に順応せんとする矛盾撞著の記録に過ぎない。

イ 犯行直後に於ては犯人は被告人方の元外交員の米田なりと指摘し、佳子の言葉を引用してその服装、その他のことを明かにしている。(昭和二十八年十一月五日)

ロ 米田のアリバイ成立後には犯人と称する者の服装等はおぼろになつている。(昭和二十八年十一月二十日、昭和二十八年十二月十日)

ハ 格闘中主人は被告人に外へ出るよう言つたとの供述(昭和二十八年十一月二十日、昭和二十八年十二月十日)が主人が合図をしたとの供述(昭和二十九年八月十七日、昭和二十九年八月二十九日)に変つている。

ニ 被告人は新館工事場板囲いの表出入口の板戸から逃げる犯人を目撃したと供述し始めたのは昭和二十八年十一月二十日からである。

ホ 被告人は主人と賊とが格闘中電灯を点けようとしたとの供述(昭和二十八年十一月五日、昭和二十八年十二月十日)が主人も賊と格闘中電灯を点けようとしたとの供述(昭和二十九年八月十七日、昭和二十九年八月二十九日)に変化して来ている。

ヘ 主人は相当傷を受けているように思つたとか、血まみれになり云々の供述(昭和二十八年十一月五日、昭和二十八年十一月二十日)が、主人の胸にかき傷を見たようであるとか、見たとかの供述(昭和二十九年八月五日、昭和二十九年八月十六日)に変り

ト 主人は賊に負けるとは思わなかつたとの供述(昭和二十九年八月十六日)が、助けがなければ太刀打出来ないと思つたとの供述(昭和二十九年八月二十九日)に変り

チ 最後には前示の通り店員二名が他と共謀して本件を犯したもの(昭和二十九年八月二十九日)と称するに至つた。

結局、被告人の各供述を検討すると、被告人は前示の如く偽装を施しているので、その偽装に相当するよう如何なる場合にも電灯の点かなかつたこと、電話が掛らなかつたこと、懐中電灯のこと及び自己の受けた刺創のことについては用心深く辻褄を合わせることを忘れてはいないのであつて、従つて被告人の各供述は些末なことについては兎に角、事本件犯罪につき被告人が無実であるとの点については全然措信出来ないものである。

九 尚、ここに検討すべきは、証人西野清、同阿部守良の各証言の真実性の問題についてである。

イ 両証人共未だ少年である。

ロ 両証人は共に被告人の本件犯行当時の被用者である。

ハ 特に証人西野清は供述態度から見て普通人並より僅かに智能程度は低いようである。

と謂う事情を斟酌して、両名の検証現場での供述も含めて四回(証人西野清については五度)に亘る供述は一貫している。些細な点については尋問者の尋ね方や、問の受取り方や、証人の表現力不充分等によつて異趣旨の供述をしたかの如く疑われる点もないことはないが、その大綱には全然影響を及ぼさない。被告人側の全反証を以つてしても、その他の証拠を以つてしてもいさゝかも動揺しない。

(三) 犯罪の情状

一 被告人に不利益な情状

イ 本件犯罪は全く残虐である。

1 鑑定人松倉豊治の鑑定書

2 司法警察員作成の実況見分調書

ロ 本件犯行は徹底的である。

右鑑定書

ハ 本件犯罪は計画的である。

1 物心両面の準備

証人阿部守良の第二回公判における証言(記載)

2 犯罪隠秘手段の徹底

前示第三の三、四において説明した各証拠

ニ 責を他に転嫁せんとして自から悔ゆるところがない。

被告人の各供述調書及当公廷での供述

二 被告人に利益な情状

イ 被害者亀三郎は浮気者であつた。

証人黒島テル子、同永山キヌエ、同三枝登志子の各証言(各記載)。

ロ 被告人は約十年間亀三郎と同棲し、佳子さえ儲けているのに未だ入籍されていない。

徳島市長作成の三枝亀三郎の戸籍謄本。

ハ 遺された子供達は被告人を信じ、慕つている。

証人三枝登志子、同三枝満智子の各証言(登志子の分は記載)。

ニ 三枝電気商会にとつては被告人が営業のためになくてはならない地位にあること。

証人三枝登志子、同三枝満智子、同三枝皎の証言(登志子の分については記載)」

二 第二審判決

1 第二審判決の事実認定

第二審判決は、本件犯行の計画性について第一審判決認定のような計画的犯行ではなく、嫉妬、不安の念募る余りの突発的犯行であると認め、第一審判決の認定を一部修正した。

すなわち、第二審判決は、被告人が本件犯行に至る経緯やその動機について第一審判決とほゞ同旨の事実を認定したあと、「被告人は………(昭和二八年一一月)四日自宅四畳半の間で亀三郎、佳子とともに就寝したが、翌一一月五日午前五時頃目覚めて上記の如き亀三郎の素行、仕打を考えるうち、嫉妬の極さらに自己将来に対する不安も加わり、遂に亀三郎の殺害を決意し、台所棚の上にあつた刺身庖丁を揮つて右亀三郎の腹部頸部等を突刺し因て間もなくその場で同人を右創傷による大出血による失血のため死亡せしめて殺害の目的を遂げた」旨認定し、「右は、結局、原判決認定の事実と、犯行の計画性の点につき僅かに見解を異にするのみであり、この点を除き原審の認定に誤りはない。」とした。

そして、同判決は、その事実認定に至る過程について第一審判決に比し、相当詳細に検討を加えている。その中で、第一審判決が右の犯行計画性の点のほか、犯行の加害順序につき、亀三郎の頸部頤下部の創傷が最初の創傷である旨認定していることにつき、被告人の昭和二九・八・二六付検面調書その他を参酌して、先ず胸を突き、その後格闘してのち、最後に咽喉部を横から一突きした旨認定を変更し、さらに犯行後における被告人の行動評価に関する幾つかの点について第一審判決の認定を修正したが、それらは、いずれも事実誤認ではあつても、判決に影響を及ぼすものではない、とした。

2 第二審判決の証拠説示

以下の叙述の便宜のため、第二審判決が右の事実認定につき説示するところのうち、同判決理由「第二、証拠の検討」と題する項目部分全部、及び「第三、控訴趣意の各個に対する判断」と題する項目のうち、弁護人、被告人の主張に対する判断部分の全てをここに摘示する(尚、検察官の控訴理由は、第一審の量刑が軽すぎるというのに尽き、事実認定には関係しない)。項目、用語は、全て同判決のままである。

「第二 証拠の検討

一 本件犯行が判示の如く被告人によつて敢行されたものである点について。

(以下証人何某というときは原審証人の供述記載を示し、「一四八」等は記録丁数を示し「三―二六〇」等は第三回公判調書、記録二六〇丁なるを示す。)

(一) まず事件直後の現場並びに附近の概況は次のとおりである。司法警察員の実況見分調書(一四八)によれば(同見分は昭和二八年一一月五日午前七時五〇分から同一一時五〇分までの間に行われている)亀三郎は居宅四畳半の間で頭部を東側中央よりやや南よりの柱(台所入口の柱)の下にし、足を西南に向けて仰臥して殺害されており、既に医師の診察も終り被告人も斉藤病院に入院した後で蒲団はたたまれわずかに被害者にその一枚がかけられていたこと、右四畳半は南に半間の廊下と便所(西隅)があり、同室東側南部には台所への半間の出入口で同室と通じており、右廊下の南は裏庭となり約一、二米の距離をおいて店員の寝室にあてたバラツク建小屋があり、その西側に約一、八米をおき大工小屋、両者の中間に水道の設備がある。同室西側は壁、北側は西から半間の押入、東側一間は出入口となつて北側店舗土間に通じる。店舗は北向きで八百屋町通りに面している。居宅西側は判示建築中の鉄筋三階建コンクリートの新館で周囲は足場が組まれており、被告人方居宅の右四畳半の裏口から新館裏に至る通路は前記大工小屋、店員小屋にはさまれ、かつ右足場が組まれているため甚だしく狭隘である。実況見分開始時には右新館表側を囲う板塀の出入口が開いており、前記通路のなる木、踏板等に血痕が附着し(なる木のそれはなすりつけたような形跡を示し、血型液A型、踏板上のそれも同型であつたことは後の鑑定により明らかとなつた。被告人の血液型もA型、被害者のそれはO型であつた。松倉豊治の鑑定書一七五、証人村上清一三―二六〇)

右新館の南東隅より西へ約〇、五米の地上に血の附着した匕首が刃先を上にして新館の壁にもたせてあるのが発見され(匕首に附着の血液型は検出し得なかつた。佐尾山明作成の鑑定書三四六)、なお居宅屋上で電灯線並びに電話線が引込口附近で切断されていた。

以上のような状況が認められ、現場の状況は恰も外部から侵入した犯人が電灯線、電話線を切断した上犯行後兇器を捨てて逃走したものごとき様相を呈していたことが窺われる。

(なお原審検証調書六三七参照、その他の現場の血痕等の情況についてはなお後述)

しかし本件はかかる現場の状況にかかわらず冒頭認定のごとく被告人が自宅の刺身庖丁を揮つて敢行した犯罪であり犯後店員西野清をして電灯線並びに電話線を切断せしめ、匕首は右西野をして電話線切断に使用せしめた後自ら前記の場所に差押いて、結局上記のように外部侵入の犯人による犯行のごとく装つたものであり、このことは以下の証拠によつて明白である。

(二) 証人西野清(二―七四、三―三〇一、一一―一〇一六、一二―一一三三)同阿部守良(二―一一六、七―七五四、一二―一一四六)の証言を通じ次のような供述があること。

「昭和二八年一一月四日被告人方店員である西野清(昭和一一年一一月生当時一七歳)阿部守良(同一二年八月生当時一六歳)の両名は午後九時半頃亀三郎にいわれ店舗の戸締り消灯をすませて店舗から被告人等の寝室である奥四畳半の間に上り同室を通り裏側小屋の同人等の寝室に入り間もなく就寝したこと、同夜は右四畳半の間では被告人は既に臥床し亀三郎は翌日新野町に商用で行くための用意をしていたこと、翌一一月五日午前五時すぎ頃両名は四畳半の間の方から聞えるドタン、バタンという音に目ざめ、小屋内北側板のすき間から四畳半の間の方を覗いたが何も見えなかつたので小屋を出、小屋の西側を廻つて四畳半の間の南側から同間をのぞいたこと、同室の南二枚の障子、その南廊下をへだてた二枚の硝子戸は何れも東に開放され(即ち西側が開いており)室内中央部に亀三郎と覚しい背丈の者が西南に向き、これと向い合つて被告人と覚しい背丈の者が格闘しているごとく動いているさまが暗中にうす白くぼんやりと見え二分位してその影は同室西北隅押入の方に移動し縁側西端の便所の陰になり見えなくなつたので夫婦げんかと考え、両名は小屋の中へ這入つたこと。まもなく被告人らしい叫び声(西野証人はキヤアーという声と述べ、西部証人は泥棒という声であつたと述べる。)に驚いて小屋西側の出入口から再度小屋を出、西側水道附近まで来ると、被告人が四畳半の間の方からゆつくり出て来て、証人等の前をすぎ同人等から約五米離れた前記建築中の新館裏の風呂場焚口附近に立ち止り四辺を見まわし、その際同人等の方を見たのに拘らず何ら話しかけ又は救いを求める言葉もないので同人等は再度小屋に立戻つたこと。すると間もなく再度被告人の「若い衆さん」という叫び声に三度出入口から同小屋を出たこと、つづいて被告人の声で「泥棒が入つたから警察に電話するよう頼んでくれ」という意味の叫び声がしたので阿部はその場から裏の田中佐吉方に対しその旨を怒鳴つたこと、つづいて両名は右四畳半の間に入ると、亀三郎が同室東側略中央の柱にもたれ足をなげ出すようにして倒れていたこと。北につづく店土間でガチヤガチヤと電池を懐中電灯に入れるような音がするので両名が土間に下りて行くと、被告人と佳子が陳列台の所におり、阿部守良に対し懐中電灯を渡し「市民病院へ行つてくれ」というので同人は直ちに店の表戸一枚を開き土間の自転車に乗つて近くの市民病院に行つたこと。同人が出た後西野は腰のあたりに何かふれるものがあるので手をやると、それは被告人が持つた匕首で被告人は「これで電灯線と電話線を切つてくれ」といつたこと、同人は被告人の命ずるまま表へ出、建築中の新館足場を伝つて屋上に出、電話線を引込口で数回匕首で切り込み折り曲げて切断したこと、電灯線は後に切断することとして屋根を下り四畳半の間にいた被告人に切断した旨を告げ匕首を返したこと。被告人はさらに同人に対し大道へ行つて子供等を起してきてくれと命ずるとともに新聞紙で巻いた細長いものを差出しこれを捨ててくれと命じたこと、西野はそれを寝巻のまま懐中し自転車で大道に向う途中両国橋の上で欄干に片足をかけ自転車に乗つた侭右手で河中に投げ捨てたこと。右新聞包みのものは長さ一尺位の細長いもので先から刃先がのぞいており、刺身庖丁のごとくであつたこと。ついで同人は被告人から命ぜられてはいなかつたが両国橋派出所にて三枝電気店に泥棒が入つたからすぐ来てくれと届けをなして大道四丁目の家に赴き、家人に知らせて帰つたこと。ついで電灯線を切断するため新館表足場から屋上に上ろうとしたとき隣家の新開鶴吉に発見され危いぞと注意されたので一旦中止したこと、間もなく被告人は斉藤病院に入院のため家を出、西野は命ぜられて病院へ蒲団を運び、ついで近所で七輪を買入れて病院に届けて帰り、阿部とともに小屋で寝巻の着換えをし、小屋西側の水道で洗面しようとするとき新館風呂場焚口附近の壁に刃先を上にして立てかけた形に置かれてある匕首を阿部が発見し、来ていた警察官に申出たこと、右匕首は西野が被告人から命ぜられて電話線切断に使用した匕首であること、洗面を終つた西野は店の間からナイフ、ペンチを携え新館西側階段から新館二階に上り東側窓から店舗屋上に出、引込口附近で電灯線にナイフで切込みをつけペンチで一方をはさんで折りまげて切断したこと、しかも直ちに現場にきていた警察官に対し電灯線が切られているのを発見したと申告して警察官を案内して切断箇所を示したこと、その後西野は参考人として警察署等にて取調べを受け帰宅後店舗から電線を持ち出し屋上の切断した電灯線を接続して修理したこと。」

以上のような供述がある。

右匕首についてはさらに証人阿部守良に次のごとき供述があること。

即ち「昭和二八年一〇月下旬、店に二十五、六歳の労働者風の男が来て被告人と話をしており、被告人は阿部守良を指してこの子をやるからと言つたことがあること、その後一週間位して森某方に修理したアンマ機を届けに行くとき、被告人から新天地の篠原方に立寄り三枝から来たと言えばわかると命ぜられ、新天地の篠原に行き同家で女の人からハトロン紙包みの匕首を受取つてかえり被告人に渡したこと、二、三日位後被告人から丈夫な糸がないかと言われ店の修理箱から古いラジオのダイヤル糸を探し出して渡したこと、しばらくすると被告人から再度呼ばれ台所へ行つて見ると、被告人は右糸を前記匕首の柄に巻いており強くしばつてくれというのでその糸で匕首の柄を強く巻いたことがあること、なお右匕首は新天地から持帰つた日台所の棚の上にそのまま置いてあり、同夜西野清からそれについて聞かれ新天地から持つて帰つたと答えたこと。」

さらに証人西野清は

「昭和二八年一〇月下旬の午後、阿部守良がハトロン紙包みのものを持帰つたのを見たこと、その日台所棚の上にそれが置いてあつたのでそつと開けて見ると長さ一尺位の匕首であつたこと、同夜小屋で阿部に聞くと、あれは新天地から持つて帰つたということであつた」旨供述しているところである。

(三) 右西野、阿部の供述を裏付けるものは次のとおりである。

(イ) 西野清の電灯線、電話線の切断の事実に関するもの

(A) 証人新開鶴吉(四―四〇九)

同証人は被告人方の東隣であり、事件当日の朝同人は被告人方に赴いたこと、被告人が病院に出かけた後、五分位して西野清が寝巻のまま工事場二階へ上ろうとしていたので危いと注意したことがある旨述べている。

(B) 証人櫛淵泰次(一―二八八)

右証人は徳島市警察署巡査として午前六時三〇分頃現場に赴いたものであり、西野から電線が切断されているとの申告を受け同人の案内で屋上電灯線、電話線の切断個所を現認して電灯線並びに電話線の切口を切断領置した旨述べている。

(C) 押収に係る匕首一振(昭和二九年押第一三四号の第一号の一乃至五、以下昭和二九年押第号を略し単に第何号という。)

(D) 電灯線切端二本(第一二号)

(E) 電話線切端二本(第一三号)

右匕首は前記新館裏風呂場焚口附近に刃の方を上にして壁に立てかけてあつたものであり、前記西野並びに阿部証人によれば右匕首は阿部が新天地の篠原方から持帰り被告人に渡したものであり、さらに西野清が被告人から命ぜられ、これを用いて電話線を切断したものである。第一二号電灯線切端二本は前記のように西野清が切断直後現場に来ていた櫛淵巡査に申告し切断個所へ案内し同巡査において証拠物として切口の両端部を切断領置したものであり、第一三号電話線切端二本も同時に同様同巡査が切断領置したものである。(司法警察員作成の実況見分調書一四八、任意提出書二九、領置調書三〇、前記証人櫛淵泰次)

(F) 警視庁科学捜査研究所長の回答(三三二)

(G) 佐尾山明作成の鑑定書(三四六)

右回答によれば前記電話線、電灯線は何れも右匕首のごときナイフ様の工具により切込の後折り曲げて切断したものであることが確認され、又鑑定書によれば右匕首には刀身、柄の部分に血痕の附着が認められるが血液型は不明なること、なお鍔部に白色の粉末が附着しており、さらに刃先の方に刃こぼれがあり銅粉の附着が認められる。即ち以上右電話線、電灯線の切口の状況、匕首に附着する銅粉、刃こぼれ等何れも西野の前述電灯線、電話線を切断したとの供述に照応しこれが真実性を保障するに足るものである。

以上のように西野の電話線、電灯線の切断自体にはこれを裏付ける客観的な情況事実が存在し到底否認し得ない事実であつて、本件断罪の資料として甚だ重要である。

(H) 証人石井雅次(二―三九八)

右証人も被告人方裏に居住しており、事件発生直後現場に赴いた者であるが同人は新開鶴吉方から四国電力徳島営業所に被告人方の電灯の修理方を架電したと述べている。

(I) 証人坂尾安一(二―三八一)

(J) 同四宮忠正(二―三九二)

右両証人によれば四国電力徳島営業所が右石井雅次からの修理方申込を受付けたのは一一月五日午前五時五〇分であり、係員が同六時頃被告人方に赴き店員に聞いて配電盤を調べるとその蓋が開いていたのでそれを閉めると直ちに点灯した事実が認められる。

従つて西野の前記電灯線の切断は、その後のことであり、又従つて被告人が西野をして電灯線を切断せしめる前、犯行直前、故ら配電盤の蓋を開き犯行中等に点灯されることを妨げたものと推定するのが相当であろう。尤も被告人の兇行中の震動で開いたとも想像し得ぬでもない。(岡林弁護人論旨第三三(9)は、外部から侵入した犯人が亀三郎と格闘中の震動で開いたかもしれないし又犯人が電話線を切断した際の震動で開いたかも知れないという。)しかし配電盤の蓋が右のような震動で容易に開くということは到底考え得られないところである。犯後被告人が西野をして前記のように電灯線を切断せしめた事実と照応して考えると上記のように推定するのが相当と考える。ただ配電盤の下方には陳列台がありその上に上れば容易に配電盤に手が届く状態にあり、右陳列台上には実況見分当時人の上つた形跡は残されていなかつたのであるが(証人真楽与吉郎七―七三五)このことは直ちに被告人の開放の事実を否定するものではない。

(ロ) 証人喜田理(一〇―九七九)

右証人は中学校教員として西野清を教えたことがあり、昭和二九年夏西野が公益事業令違反の容疑で勾束され結局保護観察処分を受け帰宅を許された際、西野を迎えに出向いたこと、その際の西野の話として叫び声で店の間に行くと、腰に何か冷たいものをあてられ電話線と電灯線を切つて来いと命ぜられたということ、次いで大道への連絡を命ぜられるとともにこれを捨ててくれといわれ新聞包みの刺身庖丁を渡され両国橋の上から投げ込んだこと等の話を聞いたが右は西野の虚言とは思えない旨述べている。

(ハ) 証人石川幸男(六―六一一)

右証人は元被告人方の店員で西野とともに勤務していたことがあり、昭和二九年四月三、四日居村の八幡祭に西野を招待し同月三日西野が訪ねて来たこと、そのときの話の際事件のことをきくと西野は二度目の叫び声で二度目に出て見ると、電灯が消えていて大将が殺されていたこと、それから被告人から電線を切つてこいと言われて切つたことを話したこと、西野は口外するなといつたが自分は冗談と思つていたところその後になり電線のことで西野が逮捕されたことを新聞で知つた旨の供述がある。右証人が西野から聞いたのは前記のように昭和二九年四月三日頃であり当時は未だ被告人は本件容疑者の線上になくもとより西野の電話切断の事実についても捜査当局が何等の知識をも持たなかつた当時であることに照し(後述西野、阿部の各検察官に対する供述調書、証人近藤邦夫一五―一四五五)西野が自ら電線を切断したと語つた事実は重視されねばならない。

(ニ) 証人阿部幸市(六―五九五)

右証人は阿部守良の兄であり、昭和二八年一二月末頃弟である阿部守良とともにラジオを聞いているとき、丁度ラジオは本件につき川口某の逮捕を報じており、守良は自分が駅前の方から庖丁らしいものを預つてきたことがあると話していたこと、又同人は釈放された朝、事件のあつた朝被告人が夫婦げんかをしているのを見たといつていたことがある旨供述している。

前段の部分はことに前説明と同様事件直後の話であり、前同様重視せられるべきものである。

(ホ) 次に前記匕首の出所、経路が阿部証人の供述通りであることは、

(尚後記第三、一、(四)(二)参照)

(A) 証人佐野辰夫(五―五一五)

右佐野辰夫が昭和二七年頃徳島市新佐古町四丁目の豆腐屋快楽方の二階を借りて居住中、天井裏から二本の日本刀が出て来たのでうち一本を自己の物にして所持していたがその後他に転宅して右日本刀を折つて匕首を作ろうと考え友人辻本義武に柄に当る方へグラインダーをかけるように頼んだこと、しかし同人から充分かけないまま返還されたが、その後手を加え、柄、鞘をつけて匕首とし所持していたこと、その後昭和二八年三、四月頃ヒロポン入手の必要上右匕首を米穀通帳とともに知合の児玉フジ子に托しこれをいわゆるかたにして同人を通じ篠原保政方でヒロポン一五本を貰つたことがある旨並びにその後篠原方に右匕首の返還を求めたが手元にないということでそのままになつていること、本件刑第六号前記(2)の匕首はその柄の部分にグラインダーをかけたような跡があること、その他の形状等から自分が先に篠原方に渡した匕首であろうと思う旨供述し、

(B) 証人辻本義武(五―五二六)によれば

右佐野証人からグラインダーをかけることの依頼を受け工場で少しかけた時勝手に工場内に立入つていたことを社長にとがめられ中途で止めてこれを佐野に返したこと。右刑第六号の匕首は柄の部分にグラインダーをかけた痕路があり、その時の匕首に相違ないと思う旨の供述があり、

(C) 証人児玉フジ子(五―五三三)によれば

昭和二八年三月頃佐野辰夫に頼まれ匕首を篠原澄子に渡し同人は二階にいた篠原イクエにこれを渡しヒロポン一五本を受取つてかえり佐野に渡したこと、その匕首は長さ約二〇cm位のもので柄にほうたいを巻いてあつたように思うと述べ

(D) 証人篠原澄子の昭和二九年八月二五日付裁判官に対する証人尋問調書(一五八八)同人の同年八月二三日付検察官に対する供述調書二通(一五九九、一六〇六)によれば右篠原澄子は昭和二八年三、四月頃児玉フジ子が米の通帳と匕首を持参したのでヒロポンを渡したこと、その後同年一〇月阿部守良に渡した旨述べている。

以上阿部証人の供述の匕首の出所、その経路に照応する供述記載により右阿部証人の供述の真実なることが認められる。

(四) 被告人は昭和二九年八月二六日付同月二七日付各検察官に対する供述調書(一七六七、一七七二)において亀三郎殺害の事実、電線切断の事実、匕首の放置、自宅の懐中電灯を犯人遺留品として提出した等の事実を認めている。

(五) さらに以下の状況証拠は被告人の犯行の状況の一端を示すものである。

(イ) 犯行現場の血痕等の附着状況

(A) 犯行現場の四畳半の間南側障子の内側の分の西端親桟に下方から約一〇五糎の高さに指頭を斜外に向けた形状で血液による亀三郎の左拇指紋が存しかつ同拇指紋は同所から下方にずり落ちた形跡を示していること。

(B) 右障子の内側に飛散した亀三郎の血液が存すること。

(C) 縁側に同様多量の血液が滴下していること、且つ右血液を室内の方向に摺つたような形跡が存すること。

(D) 右拇指紋附着の親桟の西、縁側便所入口前に接近して敷居外側に被告人の血液による右母趾紋が何れも斜外に向き、東西に接近して二ヶ所、何れも趾紋がずれて重複して残されていること。

(以上証人和田福由三―三一二、六九二、一三―一一八七、和田福由作成鑑定書八八七、前記司法警察員作成の実況見分調書添付写真)

右和田証人によれば以上の状況から亀三郎は右縁側敷居附近においても刺され一旦縁側に体を出した手を障子親桟にかけていたがそのまま同所に崩折れたと推定し得る。しかして他方被告人の右母趾紋には前進意欲が認められず、重心は室内にある左足にかけられ体は東南方即ち右亀三郎の位置に重なる状態にあり、足紋の重複異動は何らか行動に出たことを示しておるので前記亀三郎の位置、血液の滴下、飛沫等の状況と前記松倉豊治作成の鑑定書に表れた亀三郎の創傷に鑑みおそらく右両者の位置で被告人が亀三郎の胸部を刺したものと推定することができる。又前記摺つた形跡は亀三郎の最後に倒れていた位置に照し右崩折れた亀三郎を被告人が室内に引きずつたか又は亀三郎自身摺るように室内に入つたことが推定せられる。

しかるに被告人の当初の供述中犯人の侵入から逃走までの状況に表れる亀三郎、被告人の位置、行動は以上の客観的事実に全く矛盾する。

即ち被告人は賊が縁側(南)から室内に侵入し亀三郎はこれと室内西北隅押入前附近からさらに室内中央部で格闘していたが被告人は亀三郎から逃げようとの合図があつたように思い、縁側から外へ出ようとしたところ縁側の手前で賊が被告人の左側をすりぬけて逃げて行つたこと。その際左腹部にひやりとした感じがしたこと。被告人は賊の後を追つて工事場裏口まで行くと、賊が裏口から八百屋町通りを西へ元町通りの方に向い逃れて行くのを見たこと。その後阿部、西野両名を使いに出した後四畳半の間に立戻ると亀三郎は室内に倒れていたと述べている(昭和二八年一一月五日付一六九三、同年同月二〇日付一六九九各司法警察員に対する供述調書同年一二月一〇日付検察官に対する供述調書一七〇八)

以上の供述と前段の状況を比較して見ると、前記推定の亀三郎が縁側附近で刺され、かつ同所に崩折れた状況に適合する亀三郎の行動は被告人の供述には認められず、又被告人の母趾紋から推定される前記状況は何れも右被告人の供述に表れる被告人の位置状況に符合しない。即ち被告人の母趾紋に前進意欲がなく且つ行動性の認められる点において被告人供述のごとく一旦賊を避けて直ちに後を追うごとく外に出たということと矛盾する。被告人は自ら容疑者として取調を受けるに至つた昭和二九年八月五日付検察官に対する供述調書(一七一八)において初めて自己の行動の説明を変え、賊が左側を通つた際冷りとした感じがし恐ろしくなつて一寸ためらい引返してすぐ電話をかけたが不通なので近所の人に来て貰うべく裏に出て行つたこと、この時前記のように新館表口から出て行く賊の姿を見た云々と訂正し爾後同旨の供述を維持している。

(ロ) 被告人の左季肋部に尖端がわずかに上左方に向い刺入した刺傷がある。(松倉豊治の検案書三二、証人藤田和己一六三三。同伊藤弘之一六四六)

右刺傷は被告人の供述によれば(前記各供述調書等)前記のごとく被告人が廊下に出ようとして後方から来た賊をさけようとした際刺されたものであるというのである。しかし右記載の刺傷の方向からしても被告人のいう賊が被告人の左横をすりぬける際に突刺した傷としては例え被告人が一旦立止つて身を引いて避けたと考えても(この場合は背後の板戸に血痕の附着する可能性が多いが附着していない。和田証人一三―一一八七)想定し難い位置、形状である。

(ハ) なお亀三郎の左掌に刃物を握つたと認められる創傷その他の創傷があること。

(前記松倉豊治の鑑定書)

これと前記被告人の受傷の事実から(被告人には尚他にも受傷がある。松倉豊治の検案書)両者は格闘し亀三郎は被告人の兇器を奪い取ろうとしたことが窺われ、被告人の創傷は一旦兇器を奪い取られて受けたものと考えられる。

(ニ) 後記被告人の寝巻に存する亀三郎の血液

(押収の寝巻第八号、佐尾山明、三村卓作成の鑑定書一九七)

(ホ) 犯行後現場に敷いてあつた夜具蒲団を逸早く取片づけてあつたこと。

(司法警察員の実況見分調書、証人村上清一、三―二六〇)右は外部からの侵入犯人の兇行としては考え難い余裕ある態度であり、むしろ犯跡隠蔽のためと考えられる。

この点についても証人三枝登志子(八―八三二)によれば蒲団は片づけてはいなかつた趣旨の供述があるが、右挙示の証拠の外、証人武内一孝の供述(五―五三二)前記証人西野、阿部の供述を通じても右認定のごとく認められるところであつて右三枝登志子の証言は採用し難い。

(ヘ) なお現場四畳半西北隅押入の板戸が割れその傍のポスターに血痕の附着していること(前記実況見分調書等)は同所でも格闘が行われたことを示しており、西野、阿部の前述供述には二人の姿が押入の方に移動したのを目撃していることと照応して考えられる。

(六) なお外部から犯人侵入の形跡のないことについては原判決の証拠第三、二、に挙示するとおりである。

(但し右第三、二のうち二、5記載の新館出入口附近から走り去つた者に関しては後述)

なお犯行現場の被告人の敷布に存した足跡についても当時現場に来合せた捜査係官の供述に相違があるが(証人和田福由三―三一二、一三―一一八七、同真楽与吉郎七―七三五)事件直後の混雑した状態から立入つた者の足跡のつく事も考えられ(右証人和田福由は現場に足跡は多かつたという一一九七)直ちに外部からの侵入犯人なりとの結論に結びつかない。

(七) その他被告人の態度には外部から侵入した犯人の兇行があつた直後の態度としては不可解で、上来認定のとおり被告人の犯行と解して見れば理解し得る態度が存する。この点は原判示証拠第三、五、ロ、以下に示すとおりである。

(但し同五ニ、ヘ、の点を除く、即ち右ニ、点わざわざ遠い市民病院に医者を迎えにやつたとの点は同病院と斉藤病院とは距離的にさして変らないし、これを以て被告人が時間をかせいだものと見ることは如何かと思われる。又同ヘ点、被告人が警察に申告せしめるに当り亀三郎の受傷の事実を秘して単に泥棒とのみ申告せしめたとの点も咄嗟の場合の申告としてことさら被告人の作為として取上げる価値に乏しい。)

(八) 被告人の事件後並びにその後の弁解等について

(A) 事件直後駈けつけた警察官に対し、又その後も他人に対して犯人は元店員をしていた米田であると、被告人から積極的に述べていることは、もとより上来説明の工作と相俟つて同様被告人の偽装工作と認められるし、右米田の服装の点についても述べており(以上原判示証拠第三、四、ハの各証拠)さらに犯後賊が新館の中を通り表の八百屋町の通りに逃走するのを見たと述べている(昭和二八年一一月二〇日付検察官に対する供述調書一六九九)が暗中咄嗟の場合、服装まで細かく弁識すること自体不可能ではないかと考えられる(証人武内一孝の供述参照五―五三三)さらに新館表出入口から逃走する人影を裏口から望見することは暗中十数米の距離があること、(前記司法警察員の実況見分調書)を思えば当時の状況から望見すること自体同様不可能ではないかと思われる、(西野、阿部等が四畳半をのぞいたのと状況が異る。)しかして被告人がこの逃走云々を述べ初めたのは本件当時新館表出入口附近を走る人影の有無が後記のごとく問題になつた後である。(証人福山文夫一五―一四七三)

(B) 現場に来合せた警察官に対し賊が遺留したものとして懐中電灯を提出しているが、右は被告人方の物と認められる。(原判示第三、三、ハの各証拠の外被告人の昭和二九年八月二七日検察官に対する供述調書一七七二)

(C) 現場にいた被告人の子佳子(昭和一八年一一月生れ当時一〇歳)は侵入した犯人を見た旨並びにその服装まで相当詳細に供述している。(証人三枝佳子六―六一六、同人の検察官に対する供述調書八―九〇三、同司法警察員に対する供述調書八―八七七)しかしこれ亦被告人の作為によるものと推定される。蓋し右のような年少者の暗示に落入りやすいことは明らかなところである。(なお後述)

二 本件犯行の計画性について。

本件犯行は先に記載のとおり被告人の亀三郎に対する嫉妬憤まん、亀三郎と黒島テル子の関係から生ずる自己の将来への不安に原因するものであり、この状況自体は既に相当早くから被告人と亀三郎黒島テル子等との間に醸成されていたことも亦同記載のとおりである。右事実は原判示証拠第三、一の各項目にかかげるところによつて明認し得る。

しかして右のような事情にあつた昭和二八年一〇月下旬、被告人は阿部守良をして匕首を持帰らしめていること並びにその後阿部をして匕首の柄に糸を巻くことを手伝わしめていること、その後犯後西野清をしてこれで電話線を切断せしめその後これを新館壁際に差押いたことは何れも先に証拠を検討した際に明白にしたところである。したがつて本件犯行の決意は前記匕首入手当時に既に存在したと見ることも必ずしも正鵠を失するものではないかもしれない。しかしもしそうとすれば殺人の犯行を計画する者がことに婦人の身として怪しまれ易い兇器たる匕首を入手するのに公然店員を使用して持帰らしめ、しかも一時にもせよ家人の目にふれやすい台所棚の上に放置しておくこと、さらに進んでは店員をして前記のように柄に糸を巻かしめるごとき何れも首肯し難い行動といわねばならない。のみならず右匕首は犯行自体には使用せず前記のように電線切断にのみ使用していると認めるときはさらに犯行の決意と匕首入手を結びつける根拠は乏しくなる。ことにさらに計画的犯行として認め難い犯行時刻の点である。本件犯行の当日たる一一月五日は亀三郎は一番の汽車(午前六時一〇分)で新野町に赴く予定であつたのである(西野証人二―七四、被告人の昭和二八年一一月五日付司法警察員に対する供述調書一六九三等)から本件犯行の午前五時頃は或は亀三郎が起床するかも知れない時刻である。計画的犯行であればかような時刻は避けるのが自然でありさらに挙げれば計画的犯行とすれば幼い佳子をその場に居合わせしめないよう措置を講ずべき筈ではないかとも考えられる。

電灯線、電話線の切断も切断自体は犯行後のことであり事前に早くから犯行後に店員をして切断せしめることを計画していたとも認め難い。(この点なお後記第三、一、(四)(ヘ)参照)又配電盤の蓋の開放も少くとも犯行前夜以前には遡らない。以上のように本件犯行を匕首入手当時から計画的のものと見ることには矛盾が多く、従つて之に比すれば後記のような疑問は残るが前述のように犯行直前に決意したものと認定するのが相当と解される。この点に関しては原判決の認定は犯罪事実に関する判示自体では犯行の決意は黒島テル子に対する旅行の招待券の分配の問題以降のことと認めているが情状の部において本件犯行の計画性をあげ物心両面の準備があつた事実として証人阿部守良の第二回公判証言を挙げており、これは右分配問題の日からさらに遡つて匕首の入手乃至は匕首の柄に糸を巻いた事実をもつて犯行の計画と為すものと認められる。もし原判決が犯行決意の後、計画的に匕首を入手したという趣旨とすれば当審は見解を異にするわけである。

最後に当審のように認定した場合しからば被告人は何故匕首を入手したのであろうかとの疑問が残される。

この点はこれを確定するに足る証拠は存しない。(或は被告人は犯行決意には到らないが当時既に亀三郎と黒島テル子との関係につき懊悩していたこと、後記第三、一(四)(チ)記載のごとき被告人の性格の迷信的な点等が匕首入手に関連するかもしれない。又入手先との知合関係については被告人方の職業、後述のように篠原方の電蓄を修理したことがあること、なお被告人が以前カフエー等を営んでいた職業関係等が考慮されるが結局において入手理由は断定し得ない。)

三 亀三郎の創傷について。

原判決によれば亀三郎の頸部頤下部の創傷をもつてその位置状況、蒲団カバー等の血痕附着状況、ことに亀三郎が格闘中発声していないこと等から被告人が横臥中の亀三郎にまず与えた創傷であると認定しているところであるが当審証人松倉豊治(五―二四六八)は、右創傷と発声の能否には特に関係がないこと、腹部(心窩部下方)の刺創により膵臓動脈から腹腔内に約一〇〇〇竓の出血があり、この出血量と前記頸部創傷による頸静脈の切破との関係からはむしろ腹部の刺創が頸部創傷に先立つと考えられると述べていること、なお被告人自身も自白調書(昭和二九年八月二六日付一七六七)において寝ている主人の腹の辺その他を突き、その後格闘の後さらに最後に咽喉を横から一突きした云々と述べているところであるから両創傷の先後は右のごとく認めるのが相当であり、頸部創傷の形状、被告人と亀三郎の身長関係から見て頸部創傷は亀三郎が倒れた後等低い姿勢の際に与えたものと認められる。

しかしもとより以上のような創傷の先後の点まで詳細に判示することは必要でないのであるからこの点の見解の相違が事実誤認を来すわけではない。(松山弁護人控訴趣旨第一、六参照)

第三控訴趣意の各個に対する判断

(以下「岡林第四」等とあるは岡林弁護人提出の控訴趣意書論旨第四を示し「岡林案」とあるは同弁護人提出の弁論案を示す)

一  西野清、阿部守良の証言の信憑性について(岡林案第四、松山第一、(二)(三))。

上来説明のとおり本件犯行の決定的証拠は西野、阿部両証人の証言なることは論ずるまでもない。従つて又両証人の証言の信憑性の如何こそ本件の結論を左右するものというも過言ではない。しかして両証人の公判廷における証言は松山弁護人の指摘にかかわらず原判示のとおり一貫性を欠くものとは解せられないところである。当審においてはさらにこれが信憑性を検討するにつき同証人等の起訴前の各調書について取調べたのであるが、これらの調書においてはその供述は甚だ動揺、矛盾を蔵するところである。そこで以下まず同人等の、これら調書につきその供述の経過を、主として事件発生当時の状況を中心として検討して見る。

(一)  西野清の起訴前の各調書の経過

同人についてはまず事件直後の取調べに係るもの三通、何れも昭和二八年一一月中のものであり、被告人に累の及ぶ事項は総て秘匿している。即ち

(1) 昭和二八年一一月五日付のものにおいては

同日朝四、五回泥棒という被告人の声で目覚め、四畳半の間に行くと亀三郎が柱にもたれて倒れており、阿部が被告人を医師につれて行き自分は大道の家族に知らせに行つたこと、自分らがかけつけたとき四畳半の南側の障子、ガラス戸とも開いていたこと、被告人は店の方で電池か何か探しており、電気がつかんと言つているので調べると電灯線、電話線とも切断されていたこと、亀三郎は一一月四日自分(西野)が新野町米田方に金の請求に行き受領せず帰つたので翌五日に所用もあるので自分で米田方へ早く寄ると言つていたとの趣旨の供述記載があり、

(2) つづく同月二六日付供述調書も取り立てた変化はなく被告人の夫婦仲のこと、被告人の声でかけつけたのは午前五時すぎと思うこと、被告人の声は始め「火事じや」と言い後に「泥棒じや」と聞えたこと、自分等がかけつけた時は被告人と子佳子は店の間で何かしていたこと、自分は大道へ知らせに行く途中自分の考で両国の派出所に立寄り泥棒が入つたから来てくれと申出たこと、家に帰つたのは午前六時頃で医師も警察の人も来ていたこと、電灯線の切断していることが分りこれを継いで点灯させたこと等の趣旨を述べ、

(3) 同月二八日付供述調書ではやや詳しく述べており、以上と異なる点は

被告人の「火事じや」という声で起き南側ガラス戸の外に出て見たが異状がないので部屋に入つたこと、すると又「泥棒」という叫び声で、阿部とともに西側ガラス戸をあけて出、四畳半の間に行つたこと、被告人と佳子は店の間電話機のそばのウインド付近で懐中電灯のようなものをいらつていたが自分が「大将けがをしているんでないんで」というと被告人は慌てて「ほうで」と言つて電池をもつて奥の部屋に入り亀三郎を照していたが急に泣き出したこと、次いで阿部や自分に対し前述の用を命じたこと、大道から自分が帰つたときは店の前に近所の新開、田中の奥さん外一人位が来ており裏には警察の人も来ていたこと、

まもなく阿部とともに市民病院の医師がきたこと、誰かが電灯調べてくれというので調べると屋根の看板の裏附近で電話線と電灯線が片線切断されていたこと、被告人が入院した後水道で顔を洗おうとしたとき阿部が新館裏口東側の方に匕首を立てかけてあるのを発見したこと等の供述がある。

事件直後の供述調書は以上の程度であり被告人の供述、現場の状況等と相俟つて警察においては犯人は外部から侵入したものとして捜査の結果川口算男を被疑者として事件を検察官に送致したが検察官は容疑不十分としてこれを釈放し爾後検察庁の手で捜査が進められその後に至り、事件当日被告人入院の後一旦修理点灯した電灯が消灯し、屋上の電灯線切断は点灯後の所為なることが判明したことから事件が進展を見、再び西野等を取調べるに至つたものである。(原審証人近藤邦夫一五―一四五五、同岡田伴二、一六―一五二五)さてかようにして約七ヶ月をおいた昭和二九年七月五日以降の西野の供述調書又は尋問調書は二七通に及んでいる。

(4) 昭和二九年七月五日付のもの

右調書も未だ従来のものと殆んど変化していない。ただ特に異なつている点は小屋から外に出たとき被告人が泥棒だから警察へ電話してくれと叫んだので阿部が大声で裏の田中さんにその旨を叫んだということ、四畳半の間を通つたときは蒲団等が足につまづいた感がしなかつたこと、大道からかえり医者が来た後被告人から電気を見てくれといわれ調べた結果電灯線の切断を知つたが電話線のことは分らなかつたこと等の供述があり、ただ被告人の落着いた態度、行動から被告人が亀三郎をやつたのではないかと思つたとの趣旨の供述が目をつく。

(5) 翌七月六日付供述調書では、

前日の訂正をするとて、最初火事じやという声で窓から頭を出してのぞいたが何もないので今度は出入口から外に出て見るとバラツク小屋から一米半位西の方に被告人が北西の方を向いて立つており、ふり向いて顔を合したと思うが別に声もかけないので部屋に入つたこと、一、二分して急に「泥棒じや」という声で又出入口からとび出して行つたことをつけ加えていること、後発見した匕首の存した場所は被告人が前記のように立つていた地点であること、被告人が亀三郎を懐中電灯で照して見て泣いたのは西部と対質の結果、同人が病院へ行つた後のように思う、ということが附加されている。

(6) 次に七月二一日付村上検察官に対する供述調書において始めて自分がかくしていたことを一口でもしやべつたらすぐ犯人があがると思いそうなれば被告人が気の毒なことになると思い、かくしていたが世の中のためになることならと思つて本当の事を申し上げますと前置きして始めて電灯線と電話線の切断の事実を供述している。その状況は次の点以外略先に掲げた公判供述に符合する。即ち異なる点は被告人から屋根に上つて電灯線と電話線を切つてくれといわれたと述べていること、匕首を渡されたことはいわず、店のペンチかニツパーを持出してまず電話線を切つたこと、その後被告人が入院のため家を出た後自分は病院へ蒲団をもつて行く途中石油スタンド附近で被告人から訊ねられ電話線丈切つたというと「早く出来るだけ根元から電灯線を屋根の上で切つておけ」と頼まれたので蒲団を届けた後ニツパーかペンチで電灯線も切断したものであると述べている。

(7) 同日付湯川検察官からの公益事業令違反並びに有線電気通信法違反事件の被疑者としての取調べに対しては電話線は切断していないと否認している。

(8) 同月二三日付検察官に対する弁解録取書も亦同様である。

(9) 同日付同被疑事件の二通の供述調書では

電灯線はペンチで切断したものであり、これを警察官に知らせて案内したこと、それからしばらくして店の箱から電線を持つて行き切断個所をつぎ合せたことを述べている。

(10) 同月二四日付同被疑事件調書において再び電話線切断を認めている。電灯線や電話線切断をかくしたのは被告人をかばうためであるとともに一方被告人は口達者なので対決されたりした場合負ける心配が強かつたためであること、被告人は自分に屋根に上り電線を出来る丈根元から切つてくれと頼んだものであること、自分は単に電線(電灯線のみを意味するごとし)の切断をたのまれたが、自分の独断で電話線をも切つたものであること、切断をたのまれた時大道へ行つて皆起してきてくれともいわれたので先ず大道へ行き、(ここでは電話線切断より前に大道へ行つたと述べている)帰つて市民病院の医者が来て後、電話線を切断し、次で電灯線を切断しかけたがニツパーではなかなか切れないので後で切ろうと思つて屋根から下りたがその時阿部が舗道に立つていたこと、それから被告人が出て行き、自分は病院に蒲団をもつて行き、かえつて阿部と新築場裏で匕首を発見したこと、ついで病院に七輪を買つて持参し、帰ると電灯はついていたと思うがペンチを持出して屋上で電灯線を切断したこと、そして屋根から降りてこのことを警察官に申告して切断場所へ案内したこと、そして電線をもつて行つて修理をしついで参考人として警察へ行つたこと、被告人から口止料をもらつたり口止めはされてはいないこと等の供述をしており、

(11) 同月二六日付村上検察官に対する供述調書では、さらに詳細に述べるとて

一一月四日夜の被告人夫婦の模様を述べ本件当日の状況に及んでいるが従来と異る点はここで始めて、自分が目が覚めたのは四畳半の方からドスンドスンという音によつてであることを述べている。

(12) 右同日付野中検察官に対する供述調書では

右に引つづき、本調書で初めて電話線は被告人から渡された匕首で、大道に出かける前に切断したこと、匕首を渡されるとともにこの事は警察の人には言われんでよと口止めされたこと、そして匕首で電話線を切断し四畳半にいた被告人に匕首を返し、次で大道からかえると被告人は電灯線もできる丈根元から切つてくれといつたがその機会がなく、被告人が入院し自分は蒲団を病院に運び、帰つて阿部とともにねまきを着かえる為小屋に行く途中匕首を発見したこと、右匕首は電話線を切つたものであること、着かえの後ペンチとニツパーを持つて行きペンチを使つて電灯線を切断したこと、その後で病院へ七輪を買つて持つて行つたこと等の趣旨を供述している。

(13) 七月二九日付並びに同月三一日付丹羽事務官に対する各供述調書(三通)では

昭和二九年三月四日右切断のことを石川幸男に話したこと警察官には電灯線電話線とも切断されていることを教えたと思う旨述べ、なお工事場の戸は大道からのかえりには閉つていたが着かえに行くときは開いていたこと、自分が開けたものでない旨、なお匕首の出所につきいろいろ留置場で考えふと思い出したのは昭和二八年一〇月末頃森という不良の親分方のおばさんがコタツ修理に来ていたが匕首を被告人が入手するとすればおそらく此所からであろうと思う旨の事を述べている。

(14) 同年八月二日付検察官に対する供述調書では再転して電話線は切つていない旨これを切つたのは阿部でないかと思う旨述べるに至つた。

(15) 八月三日付調書では同年七月五日か六日の朝被告人から口止めされたことを述べ

(16) 同日付調書において

さらに転じて電話線の切断を認め、前回否認したのは独り監房の中でどの様な重い罪を負わねばならんかと考え又親兄弟の事を考えると自然気が弱くなつて、一部否認したこと、電灯線のことは石川幸男に線を切つたと話したことがありこの方は否認しても通らぬと思つたこと、なお切断をたのまれた際被告人は匕首をかるく自分の腰にあててこれで電話線と電灯線を切つて来てくれへんでといわれたこと、その後匕首を発見して警察官に届出た後ペンチを持つて電灯線を切断したものであると述べている。

(17) 八月四日付調書において

大道から帰つて直ちに電灯線を切るべく足場から屋根へ上ろうとした時新開から「危いぞ」と言われて飛下りたこと、なお本件以後被告人は前にうつて変つてやさしくなつたこと、口止めされたこと、昭和二八年一一月一五、六日頃集金のかえりが遅くなり叱られたこと等を述べている。

(18) 同年八月五日付調書では

再び当日朝の状況を詳細にのべているが特に従来の供述との相違は以下の外は見られない。

即ち相違点は警察官に切断されている事実を申告した時電話線のことはいわなかつた旨、なお新開に見つけられたとき阿部も見ていた旨述べている点である。

尚同日付のもの他に一通、同月六日付のもの一通がある。前者は事件後の捜査官の行動について、後者は前記電線切断後警察官に申告したときの模様等をさらに述べている。

(19) 同年八月一〇日付調書

本調書においてはじめて只一つかくしたてしていた事があるとて、ドタンバタンという音に目覚め小屋の板のすき間からのぞいたこと、障子が開いていて二つの白い着物がチラチラしていたこと、それから二人が小屋を出て、四畳半の南から室内をのぞくと、障子、ガラス戸は西側が一杯開いており、被告人夫婦が向き合つて組合つている白い寝巻姿が見えたが押入の方に行つたので小屋に入つたこと、するとキヤアーという悲鳴と二、三回ドシンドシンという物音がしたので又出て見ると被告人が座敷の方から来て二人の前を通り新館風呂場焚口附近でゆつくり首を左右に動かし自分等の方も見たこと、しかし夫婦げんかと思い再び小屋に入るとまもなく若い衆さん起きてという被告人の叫び声、つづいて佳子の西野さんという声が二回したこと、その後電話線を切断するまでの状況を述べている。

(20) 同日付裁判官の西野清に対する証人尋問調書

本調書においても亦従来の供述をまとめ詳細に供述がなされているが従来表れた事実で供述されていない点、並びに異つた供述と見られる点は当日朝ドタンバタンという音で目覚め板のすき間からのぞいたとき足が見えたりねまきの白いのが見えたりしたこと、

切断をたのまれたとき被告人は匕首の峯の方で自分の腰をたたいたこと、電話線は二本捲いてある中に匕首を突き込み一本をこする様にして切つたこと、病院に蒲団を持つて行き帰つて着かえのため小屋に行く途中匕首を発見したので申告し、次で七輪を病院に持つて行き、帰宅してペンチで電灯線を切断したこと、銅線は切れたが被覆が切れず引つぱつてしごいて切つたこと、被告人から切断をたのまれたことは泥棒が入つたように見せかけるためであると思つたこと、切断することは悪いと思つたが断つてすぐ匕首でやられたらと思つたのでやむを得ず切つたこと等を述べている点である。

(21) 次に八月一八日調書

本調書において従来のこらず供述したが今一つ大事なことをかくしていたとて大道へ行くことを頼まれた際刺身庖丁を捨てることを命ぜられたこと、巻いた新聞紙から約一糎か二糎位程刃物の先が飛出しており新聞紙も何かべとべとしたものがついていたのを感じたこと、両国橋から投棄した状況について前述公判での供述と同様の状況を述べていること、この点をこれまでかくしてきたのはここまで述べずとも事件は解決すると考えたし又共犯の疑をおそれたからであること、

右刃物は店の台所の棚の上にあつた刺身庖丁であろうと思う、事件迄は刺身庖丁があつたが事件後いつのまにか見えなくなりナイフの様なもので漬物を切るようになつたこと等を述べている。

(22) 同二一日付調書において

又かくしていたことが一つあるとて、二八年一〇月頃四〇才過ぎのおばさんが電気アンマ機か電気コタツかの修理依頼に来、二三日後阿部が持参したこと、そのかえりに同人はハトロン紙包みの細長いものを持帰り、被告人に渡したこと、それが昼食時台所棚の上にありあけて見ると柄鞘付の匕首であつた旨、述べ

(23) 同月二二日付調書では

阿部が電気按摩機を届けに行つたのは藍場町の森方であり、同夜阿部に「今日の紙包は何処から持つて帰つたんなら」ときくと「新天地じや」といつたので「新天地とは何所なら」ときくと同人は「駅前に向つて左側の方じや」といつていた旨

(24) 同月二四日付裁判官に対する供述調書では

匕首に関する尋問供述が為され、阿部は紙に包んだ一尺位のものをウインドの奥の土間で椅子に腰かけていた被告人に渡したこと、同日台所棚の上で見たとき柄に針金が巻いてあつたように思うこと、事件直後顔を洗いに行く途中見つけた壁に立てかけてあつた匕首は柄の全部に黒い布を巻いてあり、阿部が持帰つたものとは違うと思つた旨述べている。

(25) 同九月三日付検察官調書によると

電灯線を切断したのはペンチとナイフを持つて行きナイフで切りこみペンチで左手で一方をはさみ、一方の手でこれを折り曲げて切断したことを述べている。

(二)  次に阿部守良の調書を検討してみる。

(1) 同人も亦西野と同様昭和二八年一一月中検察官並びに司法警察員による三通の供述調書が作成されており、これらは西野の同期間中の三通の調書と概ね照応するものである。只一一月二七日付調書で二人が小屋を出ると一間位先に被告人が寝巻のまま立つて工事場の中の方を見ており、自分達にも気付かないようであつたので又小屋に入つた旨の西野の供述調書では昭和二九年七月六日付に至つて述べられている事実が既にここで述べられている。

(2) 次いで西野の取調が再度始まつたとき同じく阿部に対する取調も始まり、翌二九年七月五日付検察官調書を初めとし三〇年一月七日付まで二五通に及んでいる。これを事件当日阿部が目覚めてから匕首発見までの事実につき上記西野の供述との対照において検討してみるに、この点については特段に疑問とする点は見当らない。ただ四畳半の間から聞えた叫声又は呼声に西野の供述と多少の喰違いはあるがかような情況下では当然生じ得べき喰違いで異とするに足らない。西野が七月二二日はじめて述べている事実、四畳半の間からの物音で目覚めたとの点は阿部も亦同日これを述べており、その外同日の調書で阿部は市民病院の看護婦が来て同人に懐中電灯を渡し外に出ると西野が足場から屋根に上ろうとしていたので電灯の修理かと思つたが点灯しなかつた旨、公判においては供述していないことを述べている。右西野の姿を見たことが事実とすればその前後の関係からすればおそらく西野が新開に注意された時であろうと思われる。次でその後被告人が入院し自分らが寝巻の着かえをした後のこと、電気屋さんらしい人に安全器の位置を聞かれて教えると、開いていた安全器の蓋をぱたんとすると点灯したこと、その一五分位後再び消灯した事実を述べている。ついで

(3) 前記七月二九日付調書で西野が匕首の入手先につき森某云々の供述をした後の同月三一日付調書で阿部は二八年九月頃あんま機を森方に持参した旨を一言述べている。

(4) 西野が始めて小屋の中で板のすき間から四畳半の方をのぞいた事実、さらに小屋の南側に立つて開放されている同室の様子をのぞき見したことを述べた同じ八月一〇日付調書で阿部も同旨を述べている。

(5) 匕首の入手の経路については

(イ) 八月一四日付調書でまず匕首の柄に巻いてあつた糸のみを示され古いラジオのダイヤル糸で被告人方にもあるものであると述べ、

(ロ) 同月二一日付調書で前記森方へ行つたとき一人のやくざ風の男が自分にこれを被告人に持帰つてくれと鞘のない匕首を新聞包みにして渡されたこと、本件当日発見した匕首は右匕首であると思われると述べ、

(ハ) 翌二二日付調書において、右森方での匕首受取の事実は嘘であつたと述べ、後の公判供述と概ね同一の篠原方からうす茶のハトロン紙包みの鞘入の匕首一本を持帰つたこと、後被告人からいわれて柄に糸を巻いたことを述べ、森方からと述べたのは被告人から匕首の事を口止されており思い切つて言えなかつたからであると述べており、阿部が森方からと言い出したのはむしろ西野の供述が暗示となつたごとくにも解される。

(ニ) ついで八月二八日付調書において匕首受取の四、五日前一人の男が訪ねてきて被告人がこの子をやる云々と言つたことが述べられている。

西野清、阿部守良の起訴前の各調書は概ね以上のような供述を経ているところである。

(三)  そこで右各調書はそれ自体記載内容に以上のような矛盾動揺が存することに照し信憑するを得ないものであるかをまず検討する。

(1) 西野清の各調書について

まず西野清の各調書を考えて見る、これらの調書に表れた供述の経過を検討してまず顕著な点は指摘のごとき供述自体の矛盾とその変化動揺である。則ち、電話線の切断を一旦供述し乍ら何故、再度に亘り否定するのか、又何故これを阿部の所為にしようとしたりしたのか、七月五日付の調書において犯人は被告人と思つたと言つていながら何故刺身庖丁投棄の事実は八月一八日迄、電線切断の事実は七月二一日迄これを秘匿して供述しなかつたのか。当日の朝被告人の姿を見かけた前後の模様も八月一〇日まで秘匿し、しかも何故一度で述べず徐々に供述しているのか、或は電灯線切断は先に認定のごとくナイフを使用しているのに拘らず当初ペンチを使用して切断したと虚偽の供述をしながら、その切断の仕方についてまで仔細に陳述したり(八月一〇日付裁判官調書)又刺身庖丁投棄の状況につき新聞紙の落下の模様等は(八月一八日付調書)むしろ創作的な印象を受ける程度に細部に亘る状況を供述しているのか。のみならずさらに石油スタンド附近で被告人から電灯線切断を早くせよと命ぜられたとの供述(七月二一日付供述調書)のごときはその後一度も述べられていないところからむしろ電灯線切断を後にしたことを合理的に潤色せんとしたもののごとくにも見られるし事件発展の順序も各調書を通じ一貫していない点があるのは何故か。思うに西野の起訴前の各調書には以上のように供述に矛盾動揺はありながらこれを総合すれば結局において先に引いた公判の供述と合致するものと断定してよいものであり、さきに挙げた各種証拠とも総合すれば起訴前後の供述を通観して受ける心証は幾度かの躊躇逡巡動揺の後徐々に真実を吐露するに至つたものであるとの真実感であつて前記のような矛盾動揺の存することも右心証を動かすものではない。公判証言自体は数回に亘る前後を通じて先に掲げた趣旨を認め得るものであつて起訴前の調書と異りむしろ一貫していると断じてよいものであり、松山弁護人の論旨の採用し得ないことは先述のとおりである。ひるがえつてこれらの矛盾動揺の存する所以については当時の西野清の年令、従来の捜査方向が一変して西野自身数ヶ月秘匿してきた電灯線、電話線切断等の事実が追及され、しかも身柄の勾束を受けるに至つたこと(証人近藤邦夫一五―一四五五)さらには同人の所為自体の重大性に鑑み以上のような年少、未経験の同人にとつて事態の発展進行が甚だしい不安焦慮を与えたことを考慮しなければならない。かかる事情を考慮におけば、電話線切断の事実は一旦は自供したが罪責に対するおそれから再度に亘り否定し、或は同僚である阿部の上にこれをかぶせようとしたことも強ち理解し得ない態度、供述ではない。その際電灯線切断について自供を翻さなかつたのは、一旦前述配電盤の閉鎖により点灯した電灯が自己の行為で消灯するに至つていること、隣人新開鶴吉に屋上に上ろうとして発見されていること、友人石川幸男に電線切断の話をしていること、等の状況事実から否認し得ないと考えたのに因ると推定することができる。又これより以上本件に重要な関連を持つと認められる刺身庖丁の投棄の事実についても、同様の事情から最後まで口外をためらつたものと認められる。調書中西野自身これが供述をためらつた事由を述べている点はそのままこれを肯定し得るところである。事件当日の朝被告人の姿を見かけた状況もその見聞がそのまま一度に述べられていないことも不安躊躇の結果と解することができる。さらに又右のような躊躇逡巡の末ようやく刺身庖丁投棄、電話線等の切断の事実を供述しはじめた以上、事案の性質上取調官の質問は詳細に亘つて行われたところであろうし又供述者である西野の側から見れば一旦供述しはじめた重要事実を係官に虚偽と解されるときは事犯の容疑自体がかえつて自己の上にかかつてくるおそれを感じるであろうことも亦見易いところである。前記細部の点にわたつてはむしろ創作的印象さえ受ける西野の供述、或は自己の行動をなるべく合理的に説明せんとする潤色とも見られる点はかような事案の性質、供述者の年令、立場から生じたものであると認められる。事件発展の時間的順序のある程度の先後はことに本件のごとき複雑な事案なることを考慮すれば特に年少の供述者としてはむしろ自然の矛盾と認め得るものである。その他松山弁護人指摘の論旨第一(二)(イ)乃至(ホ)点((ヘ)点については別論)岡林弁護人弁論案第四、六(一)末尾第四、六、(二)、(四)、(五)、第四、二の各点を検討しても上記判断を動かすものとは考えられない。(右第四、二、中被告人が亀三郎の死体を照らして泣いた点は所論のごとくその後の供述にはなく、むしろ記憶の混同と解されなくもない。)

(2) 阿部守良の各調書について、

全般を通じ阿部守良の調書には西野清のそれに比し矛盾動揺は少い。しかし後記のような矛盾、動揺の存することは否定し得ないところであり、これらの因つて来る所以についても亦先に西野清について述べたところと同様の事情が阿部の場合にも当然考慮されねばならないところである。

さすれば同人が被告人を犯人なりと迄述べながら(八月一一日付調書)上記のように八月二一日付調書に至るまで匕首入手の事実を秘し、しかも同調書ではなおその入手先、入手場所につき架空の事実を述べ、翌日これを訂正しているごとき矛盾も、同人自身同調書でこの点につき弁解しているところをその後の供述とも照し肯認し得るところである。

しかして、結局西野について述べたと同様、上記調書を最終において総合すれば後の公判の供述とも合致し徐々に真相を吐露するに至つたとの心証を得られるところである。

その他岡林弁護人指摘の矛盾乃至は疑問(岡林第二、三(7)案第四、二)も右判決を左右するものではない。

(四)  しからば次に同人等の供述は供述内容自体実験則に反するごとき矛盾が存するか又は他の客観的事実に矛盾、牴触し信憑し得ない点が存するか。

結論においては何ら実験則に反し又は客観的事実に合致しない矛盾は存しないのであるが

(イ) まず阿部、西野の供述中四畳半の間を南からのぞき込んだとき内部で亀三郎と被告人らしい二人が向い合つて動いている様子が白い寝巻の色で見分けられたというのは当時の明暗度から果して真実と認められるか(岡林第二、三、(19)案第四、四)。所論のように、この点については西野の証言、同人の検察官に対する供述調書では相当明瞭に見えた趣旨を述べている個所もあれば又背の高低もはつきりしなかつたとの趣旨のものもある。しかし同人が見た当時の明暗度、その後の事件の異常な発展、さらにこれについて尋問を受けるに至つたのは事件後優に数ヶ月も後なること等を考慮すればそのような動揺があるからとて直ちに見たこと自体虚偽なりとは断定できない。そこでさらに当時の明暗度等につき検討すると、この点は原審においても特に検証時に同時刻と考えられる時刻を選んで検証を試みているところである。(原審検証調書六三七)。即ち検証は事件発生の翌昭和二九年一二月五日午前五時二六分に行われており、それによると四畳半の間中央部の白衣姿も南側縁側外から弁識できず、廊下上に出て始めてぼんやり白色が見える程度で人影はその輪廓も見えなかつたというのである。しかし測候所に対する照会結果の回答(八八五、七一六)によれば日出時刻、月令において事件当時の方が右検証時より明るかつたものと思われ又司法警察員の実況見分調書によれば当時の天候は晴天と記載されており、原審検証調書によれば曇天で月明なく、又星影も認めなかつたと記されている。検証に立会の西野、阿部も亦現在よりもう少し明るかつたと思う旨述べているところで全般に事件当時の方が明るかつたものと推定される。尤も同人等はその際室内の人は二人というのははつきり分らなかつたが二人だと思つた旨恰も従来の供述を否定するごとき供述をしているところである。しかし当日の検証では実際見えなかつたところから年少の両人が右のような供述を為すに至つたものと考えられる。その後の公判での供述さらに当審における供述も白い人影を見た旨供述しているところである。

所論原判決挙示の証人武内一孝の証言(五―五三六)を仔細に検討しても右判断と矛盾するものとは認められない。又証人村上清一(三―二六〇)同近藤邦夫(一五―一四五五)同西本義則(五―五五九)によれば事件後徳島市警察署において明暗状況について実験した状況を述べているが、右は被告人が犯人の服装、工事場表口からの逃走等を見たというのでその実見の能否に付てのもので(その当時は西野、阿部等が四畳半内部での模様を見たと供述していたわけではない。)右実験の結果は被告人の供述には反するものであつたがその結果から推して直ちに西野、阿部等の供述を否定する状況は認められない。

結局先に述べた西野、阿部の供述に表れた程度の状況を同人等が実見したものと解して誤りないものと認められる。

(ロ) 西野がその供述のごとく大道へ使いに出る前には電話線を切断するような時間的余裕はないのではないかとの所論(岡林案第四、六(三))についてもその時間的経過は概ね所論の算出したとおり解する外はないであろう。しかし電話線切断にしかく長時間を要するとは考えられずせいぜい数分を出てないものと認められ、所論に従つても阿部が被告人から電話を頼まれてから病院に向け出発するまでの時間を七分と見ているがむしろ一、二分の出来事と解して差支えないと思われる。結局所論のように断定できない。

(ハ) 西野は刺身庖丁を投棄したというが該刺身庖丁は事件後も被告人方に依然存するのではないか(岡林第三、三(10)、同案第四、七、松山第一、五)。即ち被告人方の刺身庖丁は被告人入院中病院に持込まれ果物の皮むきに使用していたというのである。なるほど被告人方から二本の刺身庖丁が検察庁に領置された(第五号ノ二及び第六号)。しかし右二本の刺身庖丁が領置されるに至つた経緯は次のとおりである。

即ち検察官は昭和二九年八月一三日令状により被告人方を捜索した結果、刺身庖丁一本(第五号ノ二)の外出刃庖丁、菜切庖丁各一本(第五号一及び三)等を押収した。その後数日を経た同月二一日三枝皎(亀三郎の先妻の子)が検察庁において取調べを受け帰宅後水屋を調べると刺身庖丁が一本出て来たので検察庁に連絡し提出したのが先の折れた一本である。(第六号、捜索差押許可状四一、捜索調書四二、差押調書四三、押収目録四四、三枝皎の任意提出書四五、領置調書四六、証人三枝皎一四―一二九四)。証人三枝満智子(一四―一二五二)は昭和二九年一月大道から八百屋町の新館に引越してきたとき、大道の家の庖丁類も持つて行つており、それは出刃庖丁、菜切庖丁、刺身庖丁各一本で、その後の検察庁に提出したこと、これが第五号の一乃至三であり、その前から八百屋町の家に一本刺身庖丁がありそれが第六号であると思うというのである。

即ち第五号ノ一乃至三は大道の家で使用しており八百屋町に移転と同時に同所に持つてきたものであることが右満智子の証言で明白であるが同人は元々八百屋町で居住していなかつたし右証言自体からしても他の一本先の折れた第六号が元々八百屋町にあつたものかはなお検討を要する。証人郡貞子(一五―一四三八)は事件当日被告人入院後果物の皮むきに庖丁をもつてくるよう電話したところ西野か阿部が刺身庖丁を持参したので病院で使用し退院の時持帰つた。検察庁に後から提出した先の折れたものが病院で使用した分かどうかははつきりしないが病院で使つた分が先の折れていた様な記憶はない、というのである。被告人は病院で使つていたことは知らないが第六号は八百屋町に前からあつたものとは異るという、八百屋町にあつたものは磨いて水屋に納つたが誰かが先の折れた第六号と取替えたものと思うというのである。(一五―一四七八)しかし何者かが故ら取替えるごときことは到底想像し得ないところである。証人岡田花枝(七―七四八)によれば同人は元三枝方の女中をしていた者であるが右二本の刺身庖丁は何れも八百屋町の被告人方にあつたものではなく、八百屋町にあつたものは昭和二七年一月頃買入れたもので一尺位の先は折れておらず、柄に四角なマークがあつたと述べているところである。西野証人(二―七四)も亦柄に四角な焼判があつたと述べており、結局これらの証拠によれば前記第六号が従前から八百屋町の被告人方にあつたものとは認められないのである。

尤も所論のごとく(岡林案第四、七(三))検察官は西野の供述により潜水夫を使用して新町川の投棄したという地点附近を五日間に亘り捜査したが刺身庖丁は遂に発見されなかつたところである。(証人大柳忠夫九―九三八)しかし刺身庖丁が尚投棄の場所に存在するとしても発見の能否は別個の問題で右のごとく発見できなかつたからといつて直ちに投棄の事実を否定し得ない。

(ニ) さらに遡つて阿部が匕首を入手したという供述自体他の証拠に照し虚偽ではないかについて考えて見る。

まず松山弁護人は阿部自身匕首入手先であるという篠原方へそれまで行つたことがあるか否かについて供述に変化があり、阿部が一度篠原方にラジオ修理に行つたとの点も事実に反するという(論旨第一(三)(イ)(ロ))がこの点は当審証人吉田正雄(二一五八)に照し所論は肯定できない。

つぎに問題は匕首を手交したという篠原澄子の供述である(岡林案第四、五、(六))。同人の検察官に対する供述調書においては前掲記のごとく阿部に匕首を手交したことを認め、又その後の裁判官の起訴前の証人尋問調書においても同様の供述をしていたのであるが、第一審繋属後受命裁判官の証人尋問に対しては一転してこれを否定し、本件の匕首を全く覚えがないと供述するに至つている。

当審においても、亦この点につき同人の外その姉篠原イクエをも証人として取調べたが、何れも、全然関知せず、前記押収の第一号の一乃至五の匕首も見たことがない旨の供述をくりかえしているところである(当審証人篠原イクエ、二三九二)。右篠原澄子は所論のように当初の取調べに対しては姉イクエに相談して匕首を阿部に手交したと述べ(昭和二九年八月二三日付検察官に対する供述調書一五九九)、後矢野清次の命により手交したと変更し(同日付調書一六〇六)、さらに遡つて川口算男が本件容疑者として捜査されていた当時は匕首は右川口に手交したものであると述べていたもののごとくであり(証人近藤邦夫一五―一四五五)、同人の供述については一応検討の要がある。前掲記の証人辻本義武、同佐野辰夫の供述から認められる匕首の製作、児玉フジ子を通じ篠原方に渡つたこと等については、同人等の検察官に対する各供述調書(佐野一〇八二、一〇八四、一〇八八、一〇九一、辻本一一〇三、一一〇五)を検討すれば、ことに右佐野の調書には変化があるがその変化の経緯を仔細に見れば前記公判証言に表れた事実が真実なりと認められる。そしてこれとの対照において考えると右篠原澄子の起訴前の前記供述記載は、姉イクエとの関係等で変更された跡があるが真実と認められ、起訴後における原審並びに当審証言は信用し難い。

岡林弁護人所論第四、五、(三)の点も、阿部が被告人を犯人と思つていなかつたとの前提がむしろ逆である。

又同第四、五、(二)の点も特段に不合理とは断定し難く、第四、五、(五)は当審並びに原審とも見解を異にするところである。

第四、五、(八)も想像の域を出ないし阿部が元々匕首を所持していたものとするならむしろ反対に秘匿するのが通常と考えられる。

又何故電線切断に匕首を使用したか、又わざわざ阿部を取りにやる必要はなく、持参せしめる方が事を秘密裡に運ぶ所以ではないか、等の疑問も一応の疑問といい得るも結局根本的に匕首の入手、電線切断を否定するものとは考えられない。

(ホ) 又匕首に関する阿部の供述は虚偽であり従つて阿部はその柄にダイヤル糸を巻いたというその糸(第一号の三)はダイヤル糸ではないとの論旨(松山第一、三、ハ、岡林第二、四、案第四、五、(四))について。

阿部はその公判証言では被告人から言われて匕首の柄に糸を巻いたがその糸は被告人からダイヤルの古い糸はないで、と言われたので修理台の中から糸を探し出して店で被告人に渡した旨、ラジオの修理にはその糸しか使わないのでダイヤルの糸だと思う旨を述べ(第二回公判調書中特に一二九以下)第一二回公判では被告人から何か古い糸はないかといわれたのでダイヤルの古い糸を持つて行つた旨その糸は古いラジオに使つていたものである旨述べており(一一五六)当審でも異つた供述をしていない。同人の検察官に対する供述調書によると昭和二九年八月一四日付調書では始めて右第一号の三の糸を示されて、それは古いラジオのダイヤルに結びつけてある糸に非常によく似ている旨並びにこの様な糸は他に使つているのを見たことがなく、三枝の店にもこの糸と同じようなダイヤルに取付ける糸が今でもあると思う、今の店の外側の階段の下になる倉庫に中古ラジオが二十台程入れてあり、そのラジオのダイヤルにはこれと同じ糸がつけてある旨述べ、次で同年八月一六日付調書では(検察事務官に対するもの)その糸は神戸無線から仕入れており今は日興無線になつておる旨述べ、その後八月二一日に至つて始めて先述の如く匕首の入手の事実を入手先につき森某方で若い男から受取つたといい、翌二二日篠原方で受取つたと訂正し、匕首を持帰つた二、三日後被告人からダイヤルの糸の古いかたいやつがないかといわれ修理道具入の箱の中から使い古したダイヤルの長い糸を被告人に渡した云々と述べ、八月三一日付調書ではその渡した糸は先日見せて貰つた糸を間違いなく、道具箱にあつたので私はダイヤルに使つた糸と思い込んでいましたしラジオ店で糸を使うのはダイヤルの糸以外は使用しない、と述べているところであつて前後を通じて見ると阿部の供述は右糸はダイヤル糸であると断定しているところがあるがむしろ被告人からダイヤル糸の古いのを取つてくれといわれ、道具箱の中にあつたダイヤル糸と覚しきものを渡したので、ダイヤル糸に相違なかろうと信じていたという趣旨を出ず、従つてその仕入先についての陳述もそれがダイヤル糸でないとすれば矛盾を生ずることとなるがしかく重要視し得ないものである。

昭和二九年九月四日付警察庁科学捜査研究所長から検察官に発せられた右糸の鑑定結果(一〇〇一)によると右糸は麻せんいであつて、一般に常用するダイヤル絹糸とは非常に差異があり、又右糸のようなものがかつてダイヤル糸に使用されたか否かは不明なる旨記載されており、又証人後藤田真太郎(一四―一二八七)同川村利男(一〇―九八八)によれば右の糸は一般にダイヤル糸には使われていない(例外はあり得るようであるが)ことが認められ、証人西野(三―三〇一以下の内三〇九裏)も亦ダイヤル糸は黄色が三味線の糸で三枝の店で修理に使用した古い糸は見たことがない旨並びに昔は三味線の糸でなく堅い糸であつたと聞いている、と述べている。以上のような資料からすれば右糸はダイヤル糸としては常用しないと断定してよいようであるが、その結果から遡つて阿部の供述自体を虚偽とはいえず供述の経過に鑑みると本件の糸が被告人方の道具箱にあつて被告人に手渡したこと、阿部がダイヤルの古い糸と思つていたということは右の資料に矛盾しない事実である。

(ヘ) 既に犯行を終了した後において西野に対し匕首を渡して電話線の切断を命じ刺身庖丁の投棄を命ずるごときことが常識上考え得られるところであろうか、むしろ極秘のうちに敢行し得た後にわざわざ証拠を残す行為ではないか、配電盤の蓋を既に開放しているならそれで十分ではないのか(岡林第二、二、案第四、一、同六(七)松山第一、(二))へ、かかる疑問が一応西野の供述に対して生ずるであろう。しかし被告人の行動に対するかかる疑問も結局上来の認定を否定する程不合理な行動とは認められない。所論のようにわざわざ証跡を残す行為である半面、犯罪者の心理としては協力者を得ることの安堵感、その秘匿上の便も考え得るところである。一面には所論のように発覚の危険があるかも知れないが、相手は少年で自家の雇い人であるということは、右の目的には恰好の関係にあることも考うべきである。さらに又西野、阿部等は、被告人が犯後四畳半から新館裏側に出たとき被告人が自分等を見たのに何も声をかけなかつたと述べており、然りとすれば被告人は予期に反し西野、阿部にその行動を発見されたことを知り、これを両者間に秘匿する一方としてその犯行後の処理に協力さすことも容易に考え及ぶことではなかろうか。

なお松山弁護人の所論(第一(ニ)(ヘ))は、被告人が西野に対し切断を命じた時期は、既に警察署等へ連絡の後であり何時警察官の来るかわからない時期であるから、かような際に命ずることは不可解であるというが、切断にそれ程時間がかかるとは考えられないし却つて阿部の出た後を好機としたとも考えられるのである。又切断個所を命じていないのに西野がわざわざ屋上で切断することも不可解であるというが、所論のように公判では西野は切断個所は命ぜられなかつたと述べているが、検察官調書においては終始屋根に上つて切つてくれと言われたと述べており、この点は両者いずれが真実かにわかに断定し難いが、公判供述のように切断個所を指示されなかつたとしても、切断の目的の如何、室内電話機の傍に居ながら切断用具を手渡し、切断を命ぜられていることから賊の侵入を装うため屋外で切断せよとの意なることは西野としても容易に判断し得るところであるから、屋上引込口を選んだことはしかく不可解とするに当らない。さらに所論は、電灯線を切断し直ちに警察官に申告していること、切断時には既に警察官が現場に来ていることを見れば、かかる事実は真実とは受取り難いと言うのであるが、切断の時期、申告等については右西野の供述のみではなく、之を裏付ける客観的証拠の存するところであるから非難自体当らない。むしろ西野は被告人に命ぜられた偽装を果したので、外部からの侵入犯人の切断なることを逸早く申告する意図であつたとも解される。

ここに見られる西野の行動には、成人の常識的判断を超えた年少者の一種の弥次馬性冒険性が表れているものといえる。

松山弁護人所論同(ト)点も亦、当時の状況から不自然な作為とは認められない。

(ト) もし西野、阿部の供述を真実とせば、被告人は犯行を近隣に特に右西野等に聞えるように四畳半の間の障子、ガラス戸を開放していたのであろうか(岡林第二、四、案第三、八)。

しかしむしろ、兇行直後近隣からかけつけた如き場合、犯人の逃走を偽装するにあつたとも解されるところであるから、直ちに不可解の所為とは断定できない。

(チ) 阿部、西野の供述が真実とすれば、何故被告人がことさら匕首を放置したか(岡林第二、四、案第四、五(一))。この点も常識的には不可解な行動ではあるが、例え所論のように匕首に血をつけなくとも捜査を迷わしめる一方として放置することは考え得るところであり、(尤も右匕首には血液は附着していたが血液型は検出し得なかつた)(佐尾山明の鑑定書三四六)、又は一方迷信的な考方からの行為とも解されなくもないのである。(被告人の検察官に対する昭和二九年八月一六日付供述調書、一七四一、証人黒島テル子八―八五七)

(五)  所論のごとく電灯線は何かの感違いで西野が切断したと考え得る証拠がある(同案第四、六(六))。

所論証人武内一孝(五―五四六)によれば、被告人入院後電灯がついたが、これはその前自分が座敷を通つていた店員西野に電灯は何所が切れているのかと聞くと、何所かわからぬがわかればつないでもよいかと言つたのでつなげと言つたとの趣旨の供述があり、当審においても略同様に述べているところである。(五―二四四九)。しかしこの問答自体は所論にいうごとく同人が感違いから切断したという根拠にはおよそなり得るものとは考えられない。所論は西野が、被告人が電灯を修理せよといつたのを感違いして切断した或いは他人の切りかけのものを切断したのではないかというが、修理せよという言葉から感違いして切断するごときことは到底想像し得ないところであり、ことに前記被告人の修理云々の点は被告人は当初の取調に対しては一切述べておらず(既に当初から電灯線電話線の切断されていた事実は、もとより判明している。)翌年八月一六日検察官の取調(一七四二)に対して初めて「私が病院に行く前に西野か阿部に対し電線をつないで灯をつけと言つたことがあります。私は電灯もつかず電話もかからないので賊が家に入る前に切つたものと考えていたものでこの様に言つたのである。西野がこの言葉を間違えてわざわざ切断したものではないか云々」と述べているのであつて、右供述のごとく被告人が賊が予め切つたと想像したものとせば西野に対し調査をも命ずることなく直ちに線をつなげということの方がむしろ不可解とも言い得るものであり、しかもかような被告人の言葉からそれを間違えて電線を切断したというごときことは、到底想像し得ないところである。又西野が警察官到着後に切断するごときは被告人の命による行為としては矛盾も甚だしいというが(岡林第二、三(6))、この点はその後の警察官への申告等の西野の行動につきさきに説明したとおりであり、西野の切断と申告は動かし得ない事実であるから非難自体当らない。

(六)  上来説明のように西野、阿部の供述は、供述自体、さらに他の証拠に照し十分信をおくに足るものであるが、最後に西野、阿部の供述は全く仮空のものであるとの所論について附加する。

西野、阿部の供述が総て全く仮空のものであるという如きは、到底想像し得ない証拠を無視した見方であり、或は西野が電線を切断したについては外部から侵入した犯人が別に存し該犯人から命ぜられて切断したものというかも知れない。しかしこれ亦単純な想像の域を出ないし、外部侵入の犯人であれば予め電線を切断するはともかく、犯後に西野をして切断せしめたとすれば一層不合理極まる事実である。或は犯行前に切断を命じたのに犯後に西野が切断したというのであろうか。そうだとすれば犯行前犯人はわざわざ西野のみを起して命ずるというごとき不可解な行動に出たことになる。いずれにしても西野はもとより別段の怨恨とてなき被告人に重大な罪科を負わしめるような供述、ことに刺身庖丁投棄のごとき事実まで作為して真犯人を秘匿する必要があるだろうか。単に真犯人を秘匿する丈ならことさら被告人に責を負わしめるごとき供述を敢てする必要はない筈であり、さらに阿部に至つては西野と異り電線切断等被告人の犯行秘匿に協力しているような事実もないのであるから、何を好んで自ら窮地に落入るごとき仮空の事実を供述する必要があろうか。結局西野、阿部の供述をもつて虚偽仮空のものとの疑を容れる合理的な根拠はなく、かえつてこれを虚偽仮空のものと見ることは常識の許容し得ない不合理が存する。なお西野等が被告人を犯人と知りつつ起居をともにし何ら善後措置を講じなかつたことも、西野、阿部等の供述の架空なることを示すという論旨(岡林案第四、四末尾)も、亦前記のような同人等の年令、同人等の行動、立場を考えれば直ちに賛同し難いところである。

二  松山弁護人論旨第一、四、岡林弁護人論旨第二、三、(4)、弁論案第二、一、第三、七、新館出入口から侵入逃走した賊の犯行ではないかとの主張について。

この点は本件当時新館出入口が開いていたか否か、事件発生の前後同所附近を走る人影があつたこと、等に関し原審においても慎重に審理がなされており、当審においてもさらに証拠調をしたところである。まず工事場表出入口の戸の開否について検討するに、後記のとおり喰違う証拠があるが結論において原判示のごとく犯行当時は閉つていたと認めるのが真実に合致するものと思われる。まず被告人は工事場の裏から賊が表の板のすき間を通り西へ行く姿を見たと述べている(検察官に対する供述調書一―一三七等)。もともと右工事場の戸は、当審証人羽柴盧(二三七九)、前記司法警察員作成の実況見分調書添付の写真によれば、一間巾の二枚の板戸の両側二ヶ所宛を針金で括り、合せ目を又内側から針金で括つていたが本件発生当時は一方の戸の外側には砂利等を積んであつたので一方丈を開閉していたことが認められる。しかして証人西野清(二―七四、三―三〇一)は、犯行直後右戸が開いていたかどうかは判然とは記憶になく、被告人が入院し次で病院に蒲団、さらに七輪を持参した帰途にはじめて右戸が開いていたことを記憶しておるに止る。事件直後警察係員より先に相前後して現場にかけつけた近隣の石井雅次、新開鶴吉、田中佐吉等は何れも証人として右戸が閉つていたと供述している(順次四―三九八、四―四〇九、四―四三八)。石井雅次田中佐吉については当審において取調べた結果も又亦同様である(順次二一〇七、二〇九八)。

事件の報告により現場に来た両国橋派出所詰巡査武内一孝は右戸が開いているのを認めているが、同人がこれを目撃した時刻は被告人入院後で他の警官もすでに現場に到着した後である(証人武内一孝五―五三三)。又当時徳島県巡査で鑑識のため現場に来た村上清一も右開いていた戸より入つているが、その時刻は又犯後相当時間経過後である(原審証人村上清一一三―二六〇)。

ただ被告人の先妻の子で事件後西野清の報告により現場に来た三枝皎のみは自分が行つたとき工事場の戸の上側の括り目が外れ外側にのけぞるように開いていたというている(原審証人三枝皎一四―一二九四)が同人が現場へ来たのは前記隣人等の到着よりも後であるから、事件直後隣人がきたときは閉つていたことは動かし難い事実と見ねばならない。

ところがつぎに所論のように本件発生前後の時刻に右工事場前附近を走る人影を通行人が目撃したという事実がある。

即ち原審並びに当審証人辻一夫(原審一五―一四一一、当審二一七一)によれば、同人は本件発生の当日たる昭和二八年一一月五日勤務先である中央市場へ出勤すべく例日のごとく午前五時一〇分頃乃至は同一五分頃に自転車で被告人方前を西から東に約二〇米位手前まで来たとき、被告人方工事場の処から一人の男が飛出したごとく直感した。その男は急ぎ足で西に向いすぐ交叉点を南へ曲りその先の新町橋の方へ走つて行つた。そこで同証人は少しその後を追つて見たがすぐ引返したところ被告人方前あたりで奥の方から「お父さん」とか「泥棒」とかいう女の悲鳴が聞えたのがそのまま何もないので勤務先へ行つた。そのとき工事場の戸は閉つていたように思う旨述べ、かつ、その男は工事場から飛出したように直感したが工事場の前附近に立つていて走り出したのかもしれないと述べている。さらに証人酒井勝夫(一三―一二〇四)の供述記載によれば、同人はかまぼこの行商人であり、本件昭和二八年一一月五日朝は祭礼のため例日より早く仕入れに行き午前四時三五分乃至四〇分頃に自転車で仕入先を出、同四時四五分頃被告人方前を東から西に通行すべく眉山タクシー附近(被告人方手前)まできたとき前方から「火事だ」という声を聞いたように思つた。さらに進み途中自転車から片足を下ろし左側を見たが変つたことがないので錯覚かと思い自転車をふみ出したとき、斜左後方五間位の所でバタツと物音がしたのでふりかえると、黒い服の男が新築工事場の板戸の倒れた上に片足をかけさも急ぐさまに歩道を西に走り出し交叉点を南に元町の方に入つたので、その様子から不審に感じ少し後を追つたが、元町通りから通町へ曲つたか、新町橋の方へ行つたかは判らなかつたと述べているが、右原審公判直後昭和三〇年九月二日同人は検察官の取調を受け(一四八八)、これに対し公判での供述は想像を入れた誇張を加えたもので戸の倒れているのは見ていないと述べ又時間の点もあいまいに述べており、同月四日再び検察官に対して同趣旨を述べている(一四九四)外、工事場東側の被告人方店舗の東寄りの戸が一枚開いていたとも述べているところである。しかるに当審においては証人として(二一二三)再び一審の証言が真実であると供述を翻えしている。何れにしても同人が工事場出入口附近から人が走り去つたことは一貫して述べているところである。被告人も終始(前述自白の分を除き)犯人が外部から侵入したものなることを強調し、犯行直後に工事場入口のすき間から西へ逃走して行く犯人の後姿を工事場裏口(南側)から目撃したと述べているところである。一方原審証人中越明(一五―一四二五)の証言によると、同人は昭和二八年一一月五日早暁川口算男なる者と中州港に赴き船の出入に乗じ自転車を窃取しようとねらつたが目的を達せず、八百屋町方面に向い、被告人方手前の斉藤病院附近で一旦川口と分れ同証人は被告人方前を通つて交叉点の元町ロータリーを横切り藍場町の方へ行つた。その際人声に驚いて走つたことはないか等、何度も尋ねられ前に検察官に対して、「泥棒」との声にびつくりして逃げたことがあると述べたことがあるが、現在はさようなことはなかつたように思うが川口に遅れぬため新築工事場前附近人道上を藍場町の方へ走つた記憶はある旨、尤も警察で調べられた当時、ヒロポン中毒の幻想で自分が亀三郎を殺したと述べたこともある旨供述しており、川口算男の検察官に対する供述調書(一五七七)によれば、同人が右中越と前記の目的で中州港に赴いたこと、その後八百屋町方面に向い前記中越と途中で別れ同人は八百屋町を西に進行した旨述べているところであるから殊に中越が「泥棒」という声をも聞いたとすれば被告人の叫声を聞いたものと認められるので時間的にも合致するので、同人が被告人方前を通り藍場町の方へ向つたか、前記南へ新町橋の方へ行つたか相違する点もあるが、辻証人目撃の人物は中越なりと認めて不可ないように思われる。

他方酒井証人目撃の人物が同じく中越であるとすれば同証人と辻証人とは新築工事場附近で恐らく邂逅すべきが至当と思われるのに両者は全く邂逅していない点からしても、もし酒井証人の目撃が事実とすればそれは中越とは別人であろうという外はない。しかも酒井証人の公判証言では時間的にも辻証人より二、三〇分早く現場附近に達したことになるのである。しかし右酒井証人の証言の内、人影を目撃したことは別として、その際新築工事場の戸がバタンと倒れたという点の如きは先に認定の工事の戸の閉鎖されていたことと全く矛盾する供述をしていて明らかに措信し難い点があるのみならず、同人の前記検察官に対する供述調書、当審証人武内一孝(五―五三三)に照しても同人の証言には誇張の存する疑が拭いきれない。又前述目撃の時間が公判証言のごとく午前四時四五分頃であるとするなら隣人等が被告人方から「泥棒」とか「キヤー」という声を聞いたというのが少くとも午前五時以降のごとくであり、被告人の供述によれば被告人が叫んだのは犯人逃走の直後である(被告人の司法警察員に対する昭和二八年一一月二〇日付供述調書等一六九九)とすれば、この逃走した犯人を酒井証人が目撃したとするには時間的に矛盾を生ずる結果となる。要するに酒井証人の証言はそのまま信用し難いものであり、辻証人の目撃した人物は恐らく中越明であつて、もとより本件とは関連がない事実である。のみならず被告人が工事場から出て行く賊の姿を見たという前記被告人の供述も又遽かに措信し難い。

尤も右出入口の柱に人血と認められるもの一、二点が附着していた(司法警察員の実況見分調書一四八、証人和田福由三―三一二)のであるが、これ亦当時の混乱した状態からして捜査官その他の出入から附着することも考えられるところで直ちに犯人逃走の跡とは認められない。それとともに又右出入口を被告人がことさら開けたものとも認めることはできない。(新館内部に血液が落ちていないこと)

同(ホ)点、所論は右被告人が逃走者の姿を認めたという点を原審は虚偽と断定しながらそれより時間的には早い西野、阿部が被告人と被害者を目撃したとの点を措信するのは矛盾しているとなすが、両者は時間的に先後するが極めて短時間のことであり、後者の目撃の距離と前者のそれを比較するとむしろ原審の判断は相当と認められる。

三  松山弁護人論旨第一、七、岡林弁護人同第二、三、(21)、同案第三、一について。所論は被告人の犯行とすれば犯行現場各所に血痕の飛沫が認められることに鑑みても被告人の寝巻には今少し多量の血液が、ことにその両袖前部辺に附着すべき筈であるのに、被告人の寝巻に被害者の血液の附着の少いことは本件が被告人の犯行でないことを裏付けるものに外ならないというのである。押収の第八号被告人の事件当夜着用の寝巻には、所論のように亀三郎の血液の飛沫がむしろ僅少であることは、鑑定人三村卓同佐尾山明作成の鑑定書(一九七)に明らかなように、右前すその方に少量の附着があるに止り、その他背部、前部等の多量の血痕の附着は何れも被告人自身のものである。従つて一応袖口その他等に今少し血液の附着すべきが至当ではないかとの疑問が生ずる。

鑑定人松倉豊治の鑑定書(一七五)によれば、亀三郎の死因は冒頭認定のとおり出血による失血死であるが、頸部創傷も動脈でなく静脈であるため血液の迸出力は弱く、ことに心窩部下方の創傷の後であればなお弱く、心窩部下方の創傷自体からも迸出力は弱いと認められ、又亀三郎の刺傷が寝巻の上からであると認めれば一層血液の飛散は阻害されるわけである。(亀三郎の寝巻は捜査当時の手落から該寝巻が焼却されたためこれを検するに由ないところであるが、当時寝巻を着していたことは司法警察員作成の実況見分調書添付の写真からも明白である。)

もちろん総ての創傷が寝巻の上からでないことは、創傷の部位現場の状況からも窺えるのであるが、前記の外、被告人の犯行時の位置、体位関係も亦血液附着に影響あることは当然であり、さらに被告人のこれについての配慮作為が影響したことも考え得べく、所論血液の附着状況から直ちに被告人の犯行を否定することはできない。

四  被害者亀三郎の声が全然なかつたと認められること(前記西野、阿部証人の外証人田中佐吉、同石井雅次等)は、一応奇異に感じられるところである(岡林案第三、四、五)。しかして同人の頸部の創傷が発声の障害となつたとは認められない(当審証人松倉豊治、五―二四六八)のであるから、このことはむしろ所論のように外部侵入の犯人であれば例え犯人が強力で攻撃が熾烈であつたとしてもかえつて救助を求めて叫んだ筈だとも考えられるところで、むしろ相手が被告人であつたから自らこれを取押えようとしたため声を出さなかつたものである、と推定する余地が大である。

又被告人のごとき婦人の独力でよく本件のごとき創傷を与えることは不可能ではないかとの論旨(岡林案第三、六)もあるが、上来説明の犯行状況に照し、論旨は肯定するを得ない。或は、佳子の供述によれば被告人は佳子をゆり起したというが、被告人の犯行とすれば兇行中にさような余裕は存し得ないのではないかというが(岡林第二、第五、案第三、三)、その点の佳子並びに被告人の供述が真実であつたとしてもそのような余裕がないとも断定はなし得ない。又被告人が事件後長く怪しい挙措もなく、同居の先妻の子女等も今日に至るまで被告人を疑つていないことは被告人の犯行でないことを物語るものではないかというが(同第三、十一)、かような状況にあるとしても、上来述べた心証をゆるがすものとはいえない。

五  三枝佳子の供述については、細部においては多少異動があるが、事件直後の警察官の取調べ以降、原審公判廷における供述に至るまで概ね一貫して犯人を目撃したと述べているところである。然し同人は事件当時年齢一〇歳小学校四年生の少女である。智力も判断力も劣るのみならず本件のごとき早暁のしかも暗中の突発的事件にあつては見聞の確実ならざることは当然である。しかも幼少年が簡単に他の暗示に落入り易いことは、吾人の経験上も肯定し得るところである。上来説明した諸証拠に対照すれば外部侵入犯人の兇行を目撃したという佳子の証言も以上の点からこれを真実と認められず、従つて被告人の暗示にもとづく供述と認めるのが相当である。犯人の服装等についての詳細にわたる供述は、一層この感を深くする(岡林案第六参照)。

六  弁護人岡林靖の控訴趣意第一について。

所論は原判決には理由不備乃至は理由に喰ちがいがあると主張し、まず(一)原判示「被告人は亀三郎と黒島テル子との関係を自ら夙に感付き他から仄聞し心安からず密かに悶々の日を送り亀三郎に対する憤りの念を深く懐いていた」との認定は証拠がないというのである。しかし原判決挙示の該当証拠第三、一のイ並びにハ掲記の各証拠を総合すれば右判示事実はこれを肯認するに十分である。

次に所論は(二)原判示「未だ自分が亀三郎の籍に入つていないこと、さきに離別されて了つた八重子のこと、佳子のことなど思い巡ぐらし八重子と同じ運命に陥ち行く云々、かくなる上は亀三郎を殺害するに如かずと決意するに至り」との事実についても照応する証拠がなく、又佳子や自己の将来の考慮が殺意に発展するとは考えられないといい又計画的犯行なることと原判示証拠は矛盾すると為すのである。

当裁判所判示のごとく被告人が亀三郎と黒島テル子との関係に深く懊悩していたこと女鹿八重子からの手紙も亦さらに煩悶を深める種となつたことは原審も同様認定するところである。しかして本件犯行当時まで被告人が未入籍であつたことは亀三郎の戸籍謄本から明認し得るところであるから当時まで入籍しなかつた事情の如何は別として、当時右認定のような溝が生じた以上原判決が被告人が未入籍の事実をも懊悩の種の一となつたと認定したのは必ずしも不当ではない。

なお犯行の計画性の点については先に説明したとおりである。

七  岡林弁護人の論旨(第二、一、案第三、十)本件犯行には動機がないとの主張について。

しかしこの点に付いては先に犯罪事実において判示のとおりである。所論は被告人の年齢、黒島テル子の年齢、家業の状態等を考慮すれば亀三郎と黒島テル子との判示のごとき関係は動機としては成立し得ないというのである。しかし判示のごとき痴情に基づく怨恨がよく本件のごとき犯行の動機となり得ることは経験上首肯し得ないものではない。

八  同第二、(三)について。

所論は西野、阿部の供述が虚偽であること前提として、原審が挙示する証拠についてこれを批判するものである。しかし既に慎重に検討したように西野、阿部の供述を他の証拠にも照して真実と見る以上既に論旨は理由なく、これに対する判断は省略する。尤もその内一部については他の箇所において触れたところである。

九  弁護人松山一忠の論旨第一(一)、同岡林靖案第七について。

所論は被告人の自白調書には真実性がないのみならず任意性がないというのである。すなわち検察官村上善美に対する昭和二九年八月二六日付供述調書において被告人ははじめて本件につき自白をなしておるものであるが、所論はこの状況に関する右検事の証人としての原審における供述(五―一六七二)によれば、同検事は所論のごとく被告人の従来の供述中三個の矛盾点を衝きその自白を得たというが、同検事供述の矛盾点というものは実は経験上矛盾ではない。然るにこれを矛盾として自白を強要されたため虚偽の自白をしたものであり、従つて自白調書にも具体性なく非常識であるというのである。まず同自白には動機について供述がない、又右村上証人の供述によれば被告人の自白調書を簡単に止めたのは否認していた犯人が一旦自白すればくつがえすようなことをしないものであるから一応簡単な調書を作つたというが、むしろこの考え方は逆である、というのである。

なるほど村上検事の証人調書には所論のような記載がある。その三つの矛盾点として挙げるものは、一応矛盾とみれば矛盾と見られなくもないが又単なる言葉づかいの問題(所論(イ)(ロ))でもある。本件のような複雑な事案では事実の細部にまで亘つて質問することは当然であるから上記の点を捜査官が被告人の供述の矛盾点として追及することも異とするに足りないのであつて、かかる追及を受けたからといつて被告人の自白調書に任意性がないとはいえない。

又同自白調書が簡単であり動機の記載もないことは所論のとおりである。しかし記録を精査してもこれがため調書の任意性を疑わしめる根拠はない。

一〇  被告人の控訴趣意について。

所論は結局自白調書の任意性を非難するに帰するのであるがこの点については前段の説明のとおりであるから更めて判断することを省略する。」

第三本再審請求に至る経緯

一  第一次再審請求

昭和三四年三月二〇日、茂子は弁護士津田謄三を選任して高松高等裁判所に対し、右確定判決に対する再審請求をしたが、同裁判所は、同年一一月五日再審請求棄却決定をなし、これに対する異議申立に対し、昭和三六年八月二九日同裁判所は、異議申立棄却決定をなし右請求棄却決定が確定した。

1  請求理由の要旨

第二審判決は、「本件犯行の決定的証拠は、西野、阿部両証人の証言なることは論ずるまでもない。従つて又、両証人の証言の信憑性の如何こそ本件の結論を左右するというも過言ではない」として両証人の証言を決定的な支えとして茂子を有罪としている。

ところで

(一) 西野清は、昭和三三年一〇月九日徳島地方法務局安友人権擁護課長に対し、第一、二審における証言は偽証であり、事件当日三枝亀三郎と冨士茂子が格闘しているのを見たこと、電話線・電灯線を切断したこと、刺身庖丁を投棄したことはいずれもない旨を供述し、同年一一月二日徳島東警察署に右偽証を自首し、同三三年一〇月一四日「三枝事件につき私の見た事とした事」と題する手記を発表し、その中で冨士茂子に頼まれて電話線・電灯線を切断した事実のないこと及び同女に頼まれて刺身庖丁を投棄した事実はないことを明らかにし、また、同女が西野清を被告として高松地方裁判所に提起した名誉毀損に基づく謝罪広告請求事件(同裁判所昭和三三年(ワ)第二二〇号事件)において、同年一二月五日前記証言が偽証であつたから謝罪広告をせよとの請求を認諾した。

(二) 阿部守良は、昭和三三年八月一二日法務省人権擁護局斉藤調査課長に対し、第一、二審の証言は偽証であつて、事件当日亀三郎と冨士茂子が格闘しているのを見たこと、同女から頼まれて匕首を持帰つたことはいずれもないと供述し、昭和三三年六月ころ前記証言は虚偽である旨の昭和三二年一〇月三〇日付け手記を作成し、その中で冨士茂子に匕首を手交した事実のないことを明らかにし、更に、昭和三三年一一月一八日徳島東警察署に右偽証を自首した。

(三) 阿部幸市、石川幸男も、右人権擁護局斉藤調査課長に対し、それぞれ阿部守良又は西野清から匕首を手交した事実又は電灯線等を切断した等の事実について聞知したことはない旨申し出た。

(四) 昭和三四年二月五日衆議院法務委員会において、鈴木法務省人権擁護局長が、西野清、阿部守良、阿部幸市、石川幸男及び篠原澄子等の供述が確定判決後変更している旨答弁した。

以上の諸点は、第一、二審判決の際には、未だ判明していなかつた事実であつて、西野、阿部らの偽証が明らかとなれば、茂子を有罪とした決定的な根拠が消滅する。かように、茂子の無実であることが明らかな証拠が新たに発見された以上、あえて、偽証の起訴、判決をまつまでもなく、ここに再審の請求をする。

2  請求棄却決定理由の要旨

刑訴法四三九条一項は、再審請求権者を列記しているが、これにつき委任による代理を許す旨の規定はなく、弁護士といえども有罪の言渡を受けた者の委任により再審請求の代理人となることはできない。本請求は、請求権者の茂子自身がしたものではなく、委任代理人による再審請求であること、仮に弁護人としての適法な請求と解しても本件再審請求は第一審の確定判決に対してなすべきものであり、第二審判決に対してなした本件請求は法令上の方式に違反し、不適法たるを免れない。

二  第二次再審請求

昭和三四年一一月九日茂子は、徳島地方裁判所に対し、第二次再審請求をしたが、昭和三五年一二月九日同裁判所は、再審請求棄却決定をなし、これに対する即時抗告につき、昭和三六年八月二九日高松高等裁判所は抗告棄却決定を、さらに、昭和三七年六月六日最高裁判所は特別抗告棄却決定をなし、ここに第二次請求に対する請求棄却決定が確定した。

1  請求理由の要旨

第一次請求で主張した(一)ないし(四)の各事実並びに

(一) 西野清は、昭和三四年五月一二、三日ころ、偽証の事実を苦慮して自殺を決意し遺言書を作成した。

(二) 同年一〇月二四日、日本弁護士連合会人権擁護委員会は、徳島地方検察庁における西野清、阿部守良の取調べ方法に人権侵犯の事実があるとの結論を出し右両名の供述、証言は任意性に欠けるところがあり措信し難い旨を明らかにした。

(三) 冨士茂子は、同三三年一〇月三一日高松高等検察庁に対し、西野清、阿部守良両名を偽証罪により告訴したが(以下「第一次偽証事件」という。)、第一次偽証事件は徳島地方検察庁に回付され、同地方検察庁は、同三四年五月九日いずれも「犯罪の嫌疑なし」として不起訴処分にしたため、冨士茂子はこれに対し徳島検察審査会に審査の申立をしたところ(以下「第一次検審事件」という。)、同審査会は、同年一〇月二〇日右不起訴処分は不当であり右両名を偽証罪につき起訴するのを相当とする旨の議決をした。

(四) 日本弁護士連合会人権擁護委員会は、昭和三五年五月二五日同連合会長名をもつて、法務大臣、検事総長に対し、西野清、阿部守良を偽証罪として起訴するよう要望した。

かくして、西野、阿部の偽証は明白であり、茂子を犯人とする唯一の根拠が消滅したものであるから刑訴法四三五条二号、六号により再審の請求をする。

2  再審請求棄却決定理由の要旨

第一次再審請求事件の再審請求の理由(一)中の認諾調書、第二次再審請求事件の同(三)の検察審査会の議決をもつて同法四三五条二号又は四三七条(四三五条二号)所定の再審請求の理由にあたらないことが明らかであり、更に、その余の四三五条六号に基づく再審請求についても、証拠の新規性の要件は備えると認められるものの、証拠の明白性の要件を具備しない。

三  第三次再審請求

昭和三七年一〇月二三日茂子は、徳島地方裁判所に対し、第三次再審請求をした。同裁判所は、昭和三八年三月九日請求棄却決定をなし、右決定に対する即時抗告に対し、昭和三八年一二月二四日高松高等裁判所は、抗告棄却決定をなし、最高裁判所は、昭和三九年九月二九日特別抗告棄却決定をし、ここに右再審請求棄却決定が確定した。

1  請求理由の要旨

第一次再審請求事件における前記申立理由(一)(二)及び第二次再審請求事件における前記申立理由(一)、(三)のほか、

(一) 昭和三三年五月一〇日、山本光男こと松山光徳が三枝亀三郎を殺害した旨自首したこと

(二) 同月三〇日冨士茂子は、右松山を殺人罪により告発したこと

(三) 阿部守良が同三三年七月八日、第一、二審における証言が偽証である旨を徳島新聞に公表したこと

(四) 西野清が同三三年一〇月一〇日、徳島地方法務局安友課長に対し、第一、二審における証言が虚偽である旨供述したこと

(五) 第二次再審請求事件の前記理由(三)の同三四年一〇月二〇日付け徳島検察審査会の議決には、右の阿部、西野の証言を真実なりとするならば、同人らの警察に対する偽証の自首を軽犯罪法違反として起訴すべきである旨の予備的意見が記載されているが、これに対し徳島地方検察庁は、同三四年一二月二一日不起訴を維持する旨決定し、かつ、軽犯罪法違反の点についても不問に付したこと

(六) 第二次再審請求事件において、徳島地方裁判所は昭和三五年七月八日西野清を、翌九日阿部守良をそれぞれ宣誓させたうえ証人尋問したが、西野は「冨士茂子に頼まれて電話線・電灯線を切断したり、兇器の刺身庖丁を投棄したことはない。」旨、阿部は「篠原組から匕首を預かつて冨士茂子に手交したことはない。」旨、更に両証人とも、「事件直前に冨士茂子と被害者とが喧嘩しているのを目撃したことはない。」旨証言し、いずれも第一、二審における証言が偽証であつたことを告白したこと

(七) 昭和三六年二月一三日冨士茂子は、第二次再審請求事件における右阿部及び西野の証言を偽証罪として徳島地方検察庁に対し告発(以下「第二次偽証事件」という。)したところ、同地方検察庁は同年一一月二七日不起訴(起訴猶予)処分に付した。これに対し、冨士茂子は徳島検察審査会に審査の申立をし、同審査会においても西野、阿部は、第一、二審の証言は偽証である旨供述し、同審査会は同三七年一〇月二四日起訴相当の議決をしたこと

(八) 西野、阿部両名は、週刊文春昭和三七年一一月二六日号に、第一、二審における証言は偽証である旨公表したことを理由として、刑訴法四三五条二号、四三七条(四三五条二号)及び四三五条六号により再審

の請求(以下、「第三次再審請求事件」という。)をした。

2  再審請求棄却決定の要旨

第一次再審請求事件の再審請求の理由(一)中の認諾調書、第二次再審請求事件の同(三)の検察審査会の議決をもつてする刑訴法四三五条二号、四三七条(四三五条二号)に基づく請求については、第二次再審請求事件で理由がないとされているところであつて、同法四四七条二項により、同一の理由によつては更に再審の請求をすることができない場合にあたり、また、同法四三五条六号に基づくその余の請求については、第三次再審請求事件で新たに申立てられた前記申立理由の(一)(二)(七)及び(八)を除く理由は、すべて第二次再審請求事件で理由がないとされたところであつて、同法四四七条二項により、同一の理由によつて更に再審の請求をすることができない場合にあたり、右(一)(二)(七)及び(八)の各理由も、同法四三五条六号に該当しない。

四  第四次再審請求

昭和四三年一〇月一四日、茂子は、第四回目の再審請求をした。右請求は、同人が昭和四一年一一月三〇日栃木刑務所を仮出獄して以来初めてのものであつた。昭和四五年七月二〇日徳島地方裁判所は、再審請求を棄却する旨の決定をなし、これに対する即時抗告に対し、昭和四八年五月一一日高松高等裁判所は抗告棄却決定をなし、昭和四八年九月一八日最高裁判所は特別抗告棄却決定をし、ここに再審請求棄却決定が確定した。

1  請求理由の要旨

(一) 昭和四二年二月二日、大阪市西区の高砂旅館において、茂子が西野、阿部両名と会見する機会を持つた際、右両名は茂子の面前で一、二審における両名の各証言はいずれも偽証であつたことを承認し、茂子に対し陳謝した。右会見は、右両名が任意に会見し、おだやかなふん囲気の下でなされ、茂子の面前で偽証告白をしたものでその信憑性は高い。

従つて両名の偽証告白は真実に合致し、茂子が無実であることが明白になつた。

(二) 確定有罪判決は、茂子が亀三郎の頸部腹部等を目がけて突き刺し死亡せしめた旨認定し、その証拠として鑑定人松倉豊治作成の鑑定書、茂子の昭二九・八・二六付検面調書中亀三郎殺害填末の供述記載を挙示している。東邦大学教授上野正吉が右亀三郎の創傷と茂子の自白との符合関係につき鑑定したところ、茂子の自白内容には不自然な点が多く、しかもその供述による傷害方法によつては、松倉鑑定書記載の創傷は一般的にはその成傷が極めて困難である、ことが判明した。

右(一)(二)の各事実は刑訴法四三五条六号に該当する。

2  請求棄却決定理由の要旨

右(一)(二)の各理由は、いずれも「新たな証拠」には該当するが、刑訴法四三五条六号の「無罪を言い渡すべき明らかな証拠」とはいえない。

五  第五次再審請求、第六次再審請求(本請求)

1  昭和五三年一月三一日、茂子は当裁判所に対し五度目の再審請求をした。以来、当裁判所は、右請求につき事実の取調をしていたところ、請求人茂子は、昭和五四年夏頃より病に倒れ、病床に臥す身となつていた。

昭和五四年一一月八日、同人の弟姉妹である請求人ら四名は、茂子が病気重篤のため心神喪失の状況に陥つたとして、刑訴法四三九条一項四号に基き、有罪の言渡を受けた者の弟姉妹として再審の申立をなすに至つた(本請求)。

当裁判所は、茂子の情況につき職権により事実の取調を遂げた上、昭和五四年一一月一五日の証人調期日において、請求人ら四名を同条項に定める申立人適格を有する者である旨を認め、同時に、請求人らに対し、従前、茂子のなして来た訴訟行為及びこれに基き、当裁判所のなして来た事実の取調の結果を、請求人らのため援用するのか否かにつき釈明を求めると共に、当日予定されていた証拠調は、請求人らに異議がなければ、茂子の請求が同人の万一の回復の可能性を否定し得ない以上、依然として係属しているものであるから、請求人らの請求と双方の関係において行いたい旨明らかにしたが、右につき請求人らに異議がなく、ここに当日の事実の取調は、双方の請求との関係で実施した。ところが、茂子は、奇しくも同じ日の夜腎臓癌のため永眠するに至つた。昭和五四年一二月一日当裁判所は、右茂子の請求については、同人の死亡証明により手続が終了したものである旨記録上明確にすると共に、同日、弁護人、検察官に対し、夫々その旨通知した。

2  ところで、前記のとおりの当裁判所の釈明に対し、請求人らは、従前茂子のなして来た訴訟行為の全てを自らの請求のため援用する意思を明らかにした。そうすると、茂子の請求といい、請求人らの請求とはいつても帰するところ同一の確定判決における事実認定の誤まりを指摘して再審の開始を求めるものに他ならず、判断すべき具体的内容についても請求人らが茂子の再審請求理由と同一の理由に基き再審の開始を求めるものであることが明らかになつたのであるから、有罪の言渡を受けた者が死亡した場合に刑訴法四三九条一項四号所定の者に再審請求権を認めた我が国の再審請求手続それ自体の特殊性からしても、且つ訴訟経済上の観点からしても、それまで、当裁判所が茂子の請求との関係で実施して来た証拠調の結果は、全て、請求人らの申立との関係においても取調べうるものとなしうること当然の要請であると言わなければならない。

当裁判所は、昭和五四年一二月一日、決定の形式で右の理を明らかにすると共に、亡茂子の請求にかかる昭和五三年(た)第一号再審請求事件につき当裁判所が職権により取調べた証拠は、全て同一の順序で請求人らの請求との関係においてこれを取調べること、又亡茂子の請求について当裁判所がした押収物に関する押収の処分は、全て請求人らの請求との関係においてもこれを行うこととし、請求人らの請求事件につき領置する、旨明らかにした。

そして、茂子の死亡により、同人の請求が手続終了したため、暫時的に存在した請求人らの請求との間の請求の競合状態は消滅し、以来、当裁判所は、請求人らの請求につき若干の事実の取調を積み重ねて今日に至つている。

第四本再審請求理由並びに検察官の意見

以上の経緯にみられるように本請求(第六次再審請求)は、第五次請求につき当裁判所が事実の取調中に冨士茂子が死亡したため請求人らが本請求をなし、第五次請求において冨士茂子のした訴訟行為を全て援用する旨の意思を明確にした。従つて、請求人らの主張は、実質的には第五次請求につき冨士茂子のして来た主張と請求人らが自らの名においてした主張の双方を包含する関係に立つ。

ところで、本再審請求理由は、弁護人和島岩吉、同原田香留夫、同西嶋勝彦、同林伸豪ら別紙弁護人目録記載の弁護人ら共同作成の昭和五三年一月三一日付再審請求申立書、昭和五四年九月一三日付再審申立補充書、昭和五四年一一月八日付再審請求申立書、昭和五五年三月二八日付最終意見書、同年七月九日付検察官最終意見書批判書各記載のとおりであるからここにこれらを引用する。

これらに対する検察官の意見は、徳島地方検察庁検察官検事中聳、同木村昭共同作成の昭和五五年四月二八日付意見書記載のとおりであるからここにこれを引用する。

第五当裁判所の基本的態度

所論に応え、本請求に関連する重要なる諸点につき当裁判所の態度を明らかにする。

一  第五次、第六次各請求相互の関連

本請求は、亡冨士茂子による累次にわたる再審請求と、これに対する裁判所の各棄却決定を経たのち、第五回目の請求が当裁判所に対してなされて審理中のところ、同人が心神喪失の状況に陥り、そして死亡するに至り、本請求人らが刑訴法四三九条一項四号に則り、これを請求するに至つたものである。

かように有罪判決の言渡を受けた者が再審の請求をなし、右請求につき審理中にその者に同条項所定の事由が発生した場合に、同号所定の者が再審請求をするときは、従前の請求人がなして来た訴訟行為の全てを、その明示の意思により自らの主張並びに立証として援用することによつて実質的にこれを引継ぐことができるものと考えられる。このことは、当裁判所が本請求の審理の過程において決定の形式で明らかにしたところである。

二  本請求と第一次乃至第四次請求との関連

ところで、本請求(第五次請求をも含む)の以前に、既に亡茂子により四回の再審請求がなされ、いずれも棄却されている。これまでの請求は、その請求理由に相違はあるものの、いずれも確定有罪判決の決定的支柱とされた西野清、阿部守良両名の証言が同人らの偽証告白により偽証であることが明らかとなつたとする主張をその主たる理由として来たことは明白であり、又、今回の請求も、右両名の偽証告白を唯一の理由とするものではないとは言え、その有力なる支柱として主張しているものであるから、ここに本請求と刑訴法四四七条二項との関係について検討を加えておく必要がある。

刑訴法四四七条二項は、「前項の決定(棄却決定)があつたときは、何人も、同一の理由によつては、更に再審の請求をすることはできない。」と規定する。

右の注意は、結局、安易なる再審請求を防止するにあり、一度び裁判所により再審請求棄却決定があつたときは、重ねて同一理由により裁判所の判断を煩わせることを禁止するというのに尽きるものであつて、右決定の内容的確定力の効果としても、訴訟経済上の観点よりしても極く当然の規定である。

しかし、一度び棄却決定のあつた請求とその請求理由において部分的には重複するとしても、新たな請求が別個の根拠付けを伴い、新たな理由と証拠資料とに基づいて申立てられた場合においては、従前の棄却決定の内容的確定力が全てこれに及ぶと解するのは妥当とは考えられない。すなわち、右の確定力は、従前、再審請求理由として主張された事実に関し、その判断の基礎となつた証拠資料に基く当該裁判所の具体的な判断内容を確定する限度で生じる効果に過ぎないと解され、右確定力の効果をそれ以上に拡張することは法理上も事実の上でも到底妥当とは考えられない。例えば、請求人の主張する再審請求理由の一部において、従前棄却決定の判断対象となつたと同じ証人の証言が虚偽である旨の主張がなされても、それを根拠づける証拠資料が、前の請求において判断の対象とはならなかつた新たなものを多数含んでいる場合には、従前の棄却決定の内容的確定力はこれに及ばないと解される。けだし、証人の証言が果して虚偽であつたか否か等ということはそれを裏付ける証拠資料の多寡により、又その判断方法の如何により微妙に結論を左右されざるを得ないものである。かような事柄を、夫々の時点における請求人の訴訟行為と裁判所の審理方法、判断方法との双方によつて枠付けられた上での判断が示され確定したことを理由に、それ以降、別個の証拠資料に基き更に判断を求めることを一切拒否すべきだということまでを同条項が命じているものと解することは、再審制度の本旨に照らしても妥当と考えることはできない。

これを本件に即してみるのに、第一、二審が茂子有罪を宣告するにつき、その決定的証拠としたものが、西野、阿部両名の証言であることは、その理由自体からも明白であるが、右両名は、判決確定後一年を経ずして、第一、二審における証言の主要なる部分が偽証である旨告白するに至り、亡茂子は、右両名の偽証を理由に累次の再審請求をなし、いずれも棄却されて今日に至つているものである。しかし、かような場合、およそ両名の偽証を理由とする再審請求が既に棄却されている故をもつて、請求人らが右両名の偽証の事実を再審請求の理由の一部とすることはできず、又、再審請求を受けた裁判所が、その判断に際し、同人らの偽証の真否を再審請求の当否の判断対象とすることが刑訴法四四七条二項により許されないと解するのは妥当ではない。

第一に、本請求審においては、検察官の協力により、これまでの請求審(第一次ないし第四次)では判断資料とはならなかつた三枝亀三郎殺害事件に関する捜査段階における証拠資料が殆ど提出され判断資料とすることができた。これらは、三枝事件が外部犯人の犯行であるとして捜査当局が捜査し収集した証拠の殆どを包含しており、又、外部犯人説から内部犯人説へと捜査方針が転換して行く過程と夫々の時点における捜査当局の判断内容を知る上で欠くことのできない資料が数多く包含されている。これらは、同時に西野、阿部の供述の形成過程、そしてその持続と変容の過程を分析する上での不可欠の資料であり、ひいては、両名の証言に対する総体的評価の上にも何がしかの影響を与えるものと考えられる。

第二に、西野、阿部両名の捜査段階における供述調書は、第一審においては証拠として請求されず、第二審第六回公判において弁護人の同意の上取調べられたが、何故か同日の公判記録に編綴されることなく別綴りになつていることは確定記録の丁数のナンバーによつても明らかである。このためか、或いは他の何らかの理由によつてか、これまでの再審請求棄却決定の理由中にも、両名の供述調書類の全面的分析はなされてはいない。およそ、偽証告白の真否を正しく判断しようとするならば、当該証言の形成過程とその内容が詳しく検討され、さらにその変遷過程と偽証告白に至るプロセスについての総体的分析の上に立ち、その他の客観的証拠と当該供述との照応関係を厳密に検討してみて初めてこれを能くなしうるのである。両名の捜査段階における数多くの供述調書はこの作業にとつての不可欠の資料であると考えられる。

してみると、第一次ないし第四次請求審においては、両名の偽証の真否を判断する素材としての証拠資料に十全なるものがあつたとは必らずしも断言することはできない。

第三に、西野、阿部証言の本件における特殊具体的な位置づけを看過するべきではない。両名の証言は、第一、二審における公判証言を対照するだけでも動揺が多く、殊に第二審においては反対尋問に対して沈黙を守り、事実に関する供述は概して断片的画一的で具体性に乏しく、真にこれを体験した者のみがはじめて供述しうる事実の生き生きとした具体性と豊富さとに今一つ乏しいものと見ざるを得ないところ、第二審判決も両名の供述、殊に捜査段階における供述の矛盾動揺については鋭い疑問を投げかけつつも、結局、両名の証言を茂子有罪の決め手として採用したものであることが明らかである。してみると、第一、二審において、そのような証言をした者が、判決確定後一年を経ずして、単に一私人に対してするのでなく、法務省人権擁護局、警察等、公的機関に対して偽証告白或いは自首をするに至つたという本件において動かし難い事実は、尚且、同人らの証言が、果して真実なりや否やについての抜本的総合的判断が裁判所によつてなされるべきことを、有罪判決を受けた者の人権保障の観点からも、又、司法の権威と真の法的安定性の見地からも要請されているものとも考えられる。

第四に、後述のとおり、最高裁判所は、昭和五〇年、再審請求に対する審理と判断方法とに関し、従前の判例法理とは異なる新しい考え方を示した。かような判断基準と判断方法は、本件に関する第四次請求審までの間には判例法上存在しなかつたものであり、右の判例法理は、当裁判所の本件に対する審理と判断に際しても、当然、依拠すべき基準となるべきこと後述のとおりである。

而して、西野、阿部両名の第一、二審証言の真否を確定記録中の証拠と新証拠とを総合的に評価し、同人らの証言の信憑性を検討する作業は、これまで本格的にはなされてはいない。このことは、検察官が、総合評価を行つたと評価し主張する第四次請求に対する抗告審決定においても西野、阿部両名の第一、二審証言と偽証告白後の供述とを夫々孤立的にとらえて対置させた上、一応の考察をするに止まつているものと見ざるを得ないことは、右決定理由それ自体からも明白である。

してみると、西野、阿部両名の偽証を理由として第一次乃至第四次までの再審請求がなされ、いずれも棄却決定を経ているとはいえ、本請求とは、それを根拠づける証拠資料の多寡に格段の相違があり、又、その判断方法についても新しい判例法理に基き新旧証拠の総合評価によつてなされたものではないのであるから、請求人らが本請求につき主張する理由のうち右両名の偽証を理由とする部分を刑訴法四四七条二項に牴触するから判断の埓外に置くべきだとする検察官の主張は到底賛同し難い。

三  証拠の新規性

次に、証拠の新規性について考える。

刑訴法四三五条六号にいう「新たに発見した証拠」とは、要するに証拠の発見が裁判所にとつて新たなことを指称するものであるから、それが原判決以前に存在していたか、或いはその後に生ずるに至つたかは問うところではない。又、「証拠」には証拠方法と証拠資料との双方を含むと解されるから、証拠方法としては新しいものではなくとも、証拠資料としての内容に変化があつた場合にはその新規性を肯定すべきである。

「新た」であるか否かは、原判決の時点を基準にするわけであるから、本件について既に第一次乃至第四次請求審の審理に至るまでに集積された証拠資料は、この新規性の要件を一応充足している。しかし、これらの証拠は夫々の請求審において判断の対象とされ、夫々の結論において事件が終局しているのであるから、本請求審においてこれら証拠資料を判断素材としてよいか、ということが一応問題となるであろう。

しかし、前述のとおり同じ理由と同じ証拠資料をもつてする限り再度の再審請求は前の棄却決定との内容的確定力によつて許されないとしても、一部において従前の請求と重複するが別個の理由と証拠資料を伴つて主張されるときは右内容的確定力はこれに及ばないと解する場合に、新たなる請求理由の判断に際し、従前の請求審において取調べられた関係証拠は、それが証拠価値の存するものである限り、当請求審においても判断資料となし得るものと解される。

けだし、かように解さないと、請求が部分的に数次にわたりなされた場合と、周到なる準備の上で証拠が集約された上、一時に請求がなされた場合とで、判断資料に著しい広狭の差が生じる場合が予想され、ひいては事案解明についてすら影響を及ぼすこととなりかねず、権衡を失することがあり得るからであり、又、右のような弊害を無視してまで、従前提出された証拠資料を特に除外して判断しなければならないとする合理的理由を見出すことはできないからである。

これを本件に即していうならば、第一次乃至第四次請求に至るまで、亡冨士茂子、検察官の提出した各証拠、夫々の請求受理裁判所が職権により取調べた証拠は、それが証拠価値を有するものである限り、当請求審で取調べた証拠と併せて、本請求に関する判断資料としてよいものと考えられる。

四  証拠の明白性

次に、証拠の明白性について考える。

刑訴法四三五条六号にいう「明らかな証拠」とは、最高裁判所第一小法廷昭五〇・五・二〇刑集二九巻五号一七七頁以下に述べるとおり、当の証拠が有罪の確定判決について、その事実認定に対し疑問を抱かせ、ひいてはその認定を覆えすに足りる蓋然性を有することであるが、その判断の方法は、もし当の証拠が有罪の確定判決を下した裁判所の審理中に提出されていたならば、果してその事実認定につき合理的な疑いなく当該確定判決のような事実認定に到達したであろうかという観点から、当の証拠と他の証拠とを総合的に評価して判断すべきであり、しかもその判断に際しても、再審の開始のため必要な明白性の程度は、確定判決の事実認定に合理的な疑いを生ぜしめれば足りる、という意味において疑わしきは被告人の利益に、という刑事裁判の鉄則が適用されるものと解される。

ところで、一口に有罪の確定判決という中にも、当該有罪判決をした裁判所の有罪心証の強度には夫々に程度の違いというものを認めざるを得ず、いわば絶対的な確信ともいうべき段階のものから、合理的疑いをようやくにして越えたとも評価しうる段階に至るものまで、夫々相当の巾と質の相違ともいうべきものが現実には存在することを認めないわけにはいかない。そして、その有罪心証を形成した証拠構造の夫々も、積極消極の双方の証拠が入り乱れて併存し、しかも被告人が徹底して無実を主張して争い、上級審においても争われてはじめて確定した事件もあれば、被告人の任意による自白と、その真実性を裏付ける客観的補強証拠を充分に伴つた有罪事件に至るまで夫々の事件に応じて多様であるのが実務の現実である。これらは、再審制度に関し、一般的な法理論を云々することに終始し得るならば格別、夫々の裁判所において、具体的正義を実現せんとする職業意識に徹するならば、好むと好まざるとに拘わらず承認せざるを得ないわが国刑事裁判の現実なのである。

不利益再審を認めないわが国再審制度の目的は、何よりも冤罪者の救済にあると考えられ、再審請求を受理した裁判所は、新規なる証拠と旧証拠との総合評価を経た結果、確定判決の事実認定がもはや維持し難い蓋然性を生ずるに至れば速やかに再審を開始して再審公判への道を開き、然らざる請求はこれを棄却し、以て全体としての真の法的安定性と刑事司法の究極の目的である具体的正義の実現に奉仕すべきである。従つて、裁判所が、前記最高裁判所の判例法理に従い、再審請求に対する審理と判断を為すに際しても、再審制度本来の趣旨に則り、夫々の事件の証拠構造の特殊性に応じて具体的且つ妥当にこれを運用すべきものであろう。これらは、個別具体的に再審請求を受理した夫々の裁判所の叡知と合理的裁量に委ねられた事柄である。従つて、総合評価とはいつても、特段の事情も存在しないのに、再審請求受理裁判所が、濫りに確定有罪判決の心証に介入する等ということがある筈もなく、又許されるものでもないことは、極く当然のことと言わなければならない。

しかし、事案の特質と確定有罪判決の証拠構造とに照らし、右特段の事情ありと判断され得る場合には、再審請求を受けた裁判所は、新旧の証拠を総合して評価し、果して再審を開始すべき事案なりや否やを慎重に検討することを躊躇するべきではない。

これを本件に即して考えると、第一、二審判決理由を一読して明瞭に読み取れるとおり、本件においては確定有罪判決の決定的支柱とされたものが西野清、阿部守良の証言であること、しかも第二審判決においては、両証人の証言の前提となつた捜査段階における各調書中の両名の供述の矛盾と変転については相当の疑問を投げかけつつも、結局、大綱において茂子有罪は動かないとしたものであること、第一、二審判決が亀三郎殺害の兇器である旨認定した刺身庖丁は西野証人が投棄した旨指示した新町川の川ざらえをしても発見され得ず、他に茂子と本件犯行を結び付け得る確たる物証は存在しないこと、第一審において実施された検証の結果によつても、両証人が目撃したとする亀三郎茂子夫婦の格闘は、本件犯行と同時刻頃を選んでした検証ではあつたが目撃不可能との結果しか得られてはいないこと、犯行現場近くに遺留されていた匕首については、茂子が阿部を介して篠原組から授受した旨認定されてはいるものの、右匕首入手の目的等についてはこれを合理的に解明することができず、確定判決自体が茂子の「迷信的性格」などという必らずしも証拠に基いているとは言い難い不合理的な要素に帰因せしめていること、等が夫々明らかである。

しかも、西野、阿部両名は、判決が確定してのち一年を経ずして、単に一私人に対してのみならず、法務局、警察等の公的機関に対して検証告白或いは偽証罪による自首をするに至り、その後徳島検察審査会の調査に対しても同様の偽証告白をなし、同審査会は、昭和三四年一〇月二〇日右両名を偽証罪により起訴相当であるとの議決をしているのである。

右の一連の事情は、確実な物証が存在せず、西野、阿部両名の証言を決定的支柱とせざるを得なかつた第一、二審判決の有罪心証に対し、これをどのような角度から考察しようとも、少なくとも何らかの疑いを投げかけるのに充分であるということができよう。

然りとすれば、両名の偽証告白の真実性、ひいては第一、二審が有罪の心証を抱くに至つた証拠構造の総体が全面的に検討されざるを得ない特別の事情が存在するものといわなければならず、かような場合に確定有罪判決の心証形成に介入し、新旧両証拠の総合的全面的検討に着手することは、まさに再審請求を受けた裁判所の責務であると考える。

ところで第一、二審判決の理由自体からも明らかなとおり、確定判決は、主として西野、阿部両名の証言に依拠して茂子有罪の骨格的部分を認定し、さらにそれを裏付ける情況証拠として幾つかの証拠を挙示し説示するという構成をとつている。然して、請求人らの本請求理由は前記第四に引用した書面記載のとおりであるが、その主張は、一、二審の事実認定の殆どの部分にわたつており、しかも夫々に新規なる証拠が提出され取調済である。請求人らはこれらを新証拠と確定記録中の証拠(旧証拠)との総合評価により、茂子を有罪と断定するには合理的な疑いがあり、同人は無実である、というのである。そうすると、再審請求受理裁判所としても、請求人らの立証命題に即して、西野、阿部両名の証言の信憑性につき抜本的検討を迫られると同時に、右両名の証言と相まつてそれらと有機的に関連しつつ有罪の根拠とされた他の証拠の信憑性についても、新旧証拠を総合した厳密なる評価の対象とせざるを得ないこととなろう。

而して、その際に当裁判所が具体的にこれを行う方法は、先ず、旧証拠の総体、すなわち有罪認定の用に供された証拠に限らず、旧証拠中の積極証拠と消極証拠の総体を原裁判官の立場においてこれを再評価し、それらが果して客観的には如何なる程度の心証形成を可能にするものであつたかを検討する。その上で、新証拠をこれに加味した場合に、果して確定有罪判決のような認定が合理的な疑いなく維持しうるものであるか否かを総合的に検討しなければならない。右総合評価を経た結果、確定有罪判決の事実認定が、経験則、論理法則に従い合理的疑いなく是認され得るならば本請求は勿論棄却さるべく、然らざればこれを是正する道を開くのが再審請求受理裁判所の責務であること前述のとおりであり、その際、第一、二審が抱いた有罪心証の内容とその程度は、結局のところ、右各判決の証拠説示と挙示された旧証拠の実体とを克明に比較対照することによつてしかこれを窺う方法はない。そして、その際、確定有罪判決の証拠評価の合理的と考えられる部分は勿論これを引継ぐべきであるが、もし著しい経験則違背や採証法則上の看過し難い誤りがあるならば、それらを適宜是正しつつ、それでも尚、総体として確定判決のような認定が合理的な疑いなく是認しうるか否かという段階的考察方法によるべきである。

これを本件に即していうならば、先ず第一に、当裁判所は、茂子有罪の決定証拠とされた西野、阿部両名の第一、二審証言の信憑性を、夫々の供述の段階的発展に即してこれを全面的に分析検討する。同人らの偽証告白の真否については、既に、第二次、第四次請求審においても、部分的には判断されているところであるが、両名の証言の信憑性判断は、その供述の形成過程、変遷過程、そして偽証告白に至るプロセスについての総体的分析なくしては到底これを正しく判断できるものではなく、ひいては、本件の如き積極、消極両様の証拠の錯綜した事件の再審請求受理裁判所としての責務を充分に果し得るものではないからである。

その場合、両名の供述が、茂子有罪の認定根拠の殆どの部分にわたつている広範囲のものであることに鑑み、自ら分析検討すべき範囲も広範囲にならざるを得ない。しかも、両名の供述は、捜査段階、公判段階、判決確定後の段階と夫々に変化し、その分量も膨大であるが、本請求の当否の判断のためには、煩を厭わず、これらをかなり詳細に立入つて考察することが必要である。

次いで、右両名の供述に主として依拠しつつも、他の各証拠と相まつて茂子有罪の根拠とされた主要なる論点につき、夫々の証拠構造を各論的に考察する。右考察の順序は、第二審判決の証拠説示が本件事実認定の全般にわたつており、請求人らの主張も右説示する殆どの部分にわたつて展開され、新証拠も提出されていることに鑑み、これを第二審判決が証拠説示する順序に従つて行うこととしたい。次いで、旧証拠中にも存在し、新証拠にも盛られている外部犯人の証跡、本件捜査経過、について、夫々考察を加える。

かような考察方法は、それ自体範囲が膨大である上に若干の重複を生じ、煩に耐えない嫌がないわけではない。しかし、本件において、西野、阿部両名の供述は、茂子有罪の認定にとつて全体を貫く太い縦糸となつており、又、第二審判決が夫々詳細に説示するところの各論点は、右縦糸を交互に結びつける横糸の役割を果している。本請求の当否を適確に判断するためには、この太い縦糸と横糸との有機的な結びつき具合を具さに検証することによる以外適切な方法を発見することは出来なかつた。

尚、以下に挙示する各証拠のうち、丁数を表示するもの、特にコメントを加えないものは、全て旧証拠であり、( )内にその所在を明示するものはいずれも新証拠である。

第六当裁判所が取調べた証拠の範囲

以下の各証拠は、厳密には、第五次請求につき取調べた分と、第六次請求分とに区分されうる。しかし既に述べたとおり、第五次請求分も、第六次請求に関する事実取調に先立ち、同請求との関連で取調べる旨明確にしたところであるから、現在においてはこれらを区別する実益に乏しい。従つて、以後の叙述も、特に区別する実益ある場合のほかは、全て本請求(第六次請求)取調分として摘示することとする。

一  弁護人請求分

1  証人伊東三四(昭五三・一〇・二四((取調日を指す。以下同じ))、同五三・一一・二四)、同小林宏志(同五四・二・一)、同助川義寛(同五四・三・一三)、同西野清(同五四・七・一九)、同三枝佳子(同五四・七・一九)、同阿部守良(同五四・九・一三)、同松島治男(同五四・一〇・一六)、同渡辺倍夫(同五四・一〇・一六)、同真楽与吉郎(同五四・一一・一五)

2  請求人本人冨士茂子(昭五四・一〇・一六)

3  匕首刀身一振(昭和三七年証第一号の一の一・同五三年押第八号の六・同五四年押第一一〇号の六)の検証(昭五四・九・一三)

4  西野清陳述録音テープ一巻(反訳書添付、昭和五三年押第八号の一・同五四年押第一一〇号の一)、阿部守良陳述録音テープ一巻(反訳書添付、各同押号の二)、辻一夫陳述録音テープ一巻(反訳書添付、各同押号の三)、仁木マサ陳述録音テープ一巻(反訳書添付、各同押号の四)、水口仁誠陳述録音テープ一巻(反訳書添付、各同押号の五)

5  小林宏志作成の昭五二・一〇・六付鑑定書、伊東三四作成の鑑定書、助川義寛作成の同五三・一〇・一二付及び同五四・九・三付鑑定書(二通)、富澤一行作成の同五四・一〇・二付鑑定書及び同五四・一〇・三一付鑑定書補足説明書

6  小林宏志作成の昭五三・一・九付、同五三・一・三一付及び同五三・一〇・五付意見書(三通)、伊東三四作成の鑑定資料集、鑑定書中の複製写真一〇枚及び補充意見書、広島弁護士会長作成の同五二・八・一五付「事実調査方の件照会」と題する書面写、松倉豊治作成の同五二・八・三〇付「三枝亀三郎殺害死亡事件に関する回答書」と題する書面、伊多波重義作成の同五四・一〇・九付照会書、助川義寛作成の同五四・一一・五付回答書(添付の金子丑之助著「日本人体解剖学」第二巻中の四五八頁ないし四六一頁及び松倉豊治編集の「法医学」中の一三一頁の各写を含む)、金子丑之助著「日本人体解剖学」第三巻脈管学の写、西成甫監修「人体局所解剖図譜」第一巻一一九頁ないし一二七頁の写、稲木哲郎作成の「判決研究」と題する書面

7  西野清の原田香留夫に対する昭五二・八・九付聴取書、後藤登志子の徳島事件特別委員会委員長らに対する同三四・三・二一付聴取書、冨士茂子の冨士茂子事件調査特別委員会特別委員長に対する同三四・四・一四付聴取書、徳島事件調査特別委員会議事録写(添付の聴取書写二通を含む)、徳島事件特別委員会委員長ら作成の同三五・三・二七付徳島事件特別委員会第二報告書、日本弁護士連合会長作成の同三五・五・二五付勧告書謄本、林伸豪作成の同五二・一一・五付及び同五二・一二・五付検証調書(二通)、松尾敬次作成の同五四・三・九付報告書、中西一宏作成の同五四・三・一〇付報告書、徳島民報(同二八・一一・二二付、同二九・二・一二付、同二九・八・七付及び同二九・八・二七付)切り抜き写(四通)、毎日新聞(同二九・八・五付及び同二九・八・七付)切り抜き写(二通)、徳島新聞(同二九・八・一三付及び同五四・四・二五付)切り抜き写(二通)、週刊文春(同五四・五・二四号中、七七頁ないし八四頁、八七頁ないし九〇頁)、瀬戸内晴美、冨士茂子共著「恐怖の裁判」(読売新聞社発行)

二  検察官請求分

1  証人松倉豊治(昭五四・五・一七)、同三上芳雄(昭五四・六・一九)、同市川宏(同五四・一一・二)、同佐尾山明(同五四・一一・一五)

2  市川宏作成の昭五三・一〇・一一付鑑定書、三上芳雄作成の同五三・八・二二付鑑定書

3  三上芳雄作成の昭五三・一二・八付助川義寛作成の鑑定書に対する鑑定意見書、松倉豊治作成の同五四・一一・三〇付「亡冨士茂子再審請求事件に関する助川義寛氏作成の回答書についての考え方」と題する書面

4  徳島地方気象台長作成の昭和五三・七・一二付(二通)及び同五三・一一・二八付捜査関係事項回答書(三通、同五三・七・一二付(二通)に添付の捜査関係事項照会書写を含む)、佐那河内中学校長作成の同五三・九・二一付回答書(添付の捜査関係事項照会書写を含む)、神山中学校教頭作成の同五三・九・二七付回答書(添付の捜査関係事項照会書写を含む)

5  村上清一の検察官に対する昭五三・五・八付供述調書、佐尾山明の検察官に対する同五三・六・一三付及び同五四・一一・二九付供述調書(二通、同五三・六・一三付に添付の佐尾山明の日記帳写―同三三・八・一、同三三・八・二、同三三・八・一五、同三三・八・一六、同三三・八・一九、同三三・八・二〇、同三四・五・八、同三四・五・九、同三四・五・一五の部分―を含む)、小松崎盛行の検察官に対する同五三・一〇・一二付供述調書、和田福田の検察官に対する同五三・七・六付及び同五三・七・八付供述調書(二通)、櫛淵泰次の検察官に対する同五三・七・五付供述調書、真楽与吉郎の検察官に対する同五三・七・三付供述調書、武内一孝の検察官に対する同五三・七・七付供述調書、米田明實の検察官に対する同五三・一〇・一四付供述調書、久龍昌敏の検察官に対する同五三・一一・二七付供述調書、村上善美の検察官に対する同五三・五・二四付、同五三・五・二五付及び同五三・五・二六付供述調書(三通)、丹羽利幸の同五三・七・二〇付供述書

6  押収にかかる懐中電灯ケース五個(内訳 ガラス・電球・反射鏡・底ぶたのないもの 二個、ガラス・電球・反射鏡はないが、底ぶたのあるもの 一個、ガラス・電球・反射鏡・底ぶたのあるもの 二個、昭和五三年押第八号の九・同五四年押第一一〇号の九)

三  職権分

請求人本人郡貞子(昭五四・一二・一三)

四  取寄せにかかる記録その他の証拠

1  被告人冨士茂子に対する殺人被告事件の確定事件記録(上告事件記録を含む)六冊、西野清・阿部守良の司法警察職員等に対する供述調書綴(第二審記録中にあるべきもの)二冊及び訴訟費用免除申立記録一冊

2  第一次ないし第四次再審請求事件記録一一冊

3  第一審、第二審の判決及び訴訟費用免除決定並びに第一次ないし第四次再審請求に対する各決定綴一冊

4  冨士茂子に対する殺人被告事件の公判不提出記録(昭29(検)一二三一号)三冊

5  山本光男こと松山光徳に対する強盗殺人被疑事件記録(昭33(検)二一一四号)三冊

6  西野清及び阿部守良に対する偽証被疑事件記録(昭33(検)二五三八・二五三九号)七冊

7  右同人らに対する偽証被疑事件記録(昭37(検)一九五三・一九五四号)一冊

8  川口算男に対する強盗殺人被疑事件記録(昭29(検)六〇七号)六冊

9  西野清に対する公益事業令及び有線電気通信法違反少年保護事件記録一冊

10  阿部守良に対する銃砲刀剣類等所持取締法令違反少年保護事件記録一冊

11  西野清及び阿部守良に対する審査申立事件記録(徳島検審昭和三四年第一四・一五号、同三七年第五・六号の審査申立書、議決書及び供述調書綴各一)

12  冨士茂子の収容者身分帳簿一冊(栃木刑務所取寄せ)

13  冨士茂子に対するえん罪申告、関係者供述強要事件の調査書原本綴一冊(法務省人権擁護局取寄せ)

14  押収にかかる匕首刀身一振(昭和三七年〈証〉第一号の一の一・同五三年押第八号の六・同五四年押第一一〇号の六)、同懐中電灯一個(同三七年〈証〉第一号の二・同五三年押第八号の七・同五四年押第一一〇号の七)、同寝巻一枚(同五三年押第八号の七・同五四年押第一一〇号の七)

第七再審請求理由の検討

一  西野清、阿部守良の証言の信憑性

――その変遷過程の考察と偽証告白の評価――

1  当請求審における両名の証言

当請求審における事実の取調に際し西野、阿部は、証人として要旨次のとおり証言した。

(一) 西野清の証言要旨

(1) 自分は電灯線をつないで修理したのであつて、切断してはいない。事件が発生してのち、電灯がつかないのでヒユーズを調べたが異常がなく、外へ出て屋根に上つて調べてみると電灯線が切られているのを発見した。発見してすぐつないだかどうかはよく覚えていないが、ペンチでねじてつないだと思う。電話線が切れていたことは自分は知らない。

従つて、茂子に頼まれて電灯線、電話線を切断したと第一、二審で証言したのは嘘である。供述調書や証言で述べている切断の方法についても検察官のいうとおり出鱈目に答えたように思う。石川幸男に電灯線を切断したと語つたというのも嘘である。

(2) 茂子に頼まれて刺身庖丁を両国橋の上から新町川に投棄したというのも嘘である。又、そのことを阿部守良に話したことがある、といつたのも嘘である。川ざらえをしても刺身庖丁を発見できないというのを聞いたが、発見できるわけはないと思つていた。自分としては、川は深いので川ざらえして発見できなくても逃げられると思い、出まかせにそう言つたものである。

(3) 本件発生当日、四畳半の間で、亀三郎と茂子とが白い寝巻姿でもじり合い格闘していたのを目撃した、といつたのも嘘である。

(4) 阿部が匕首を持つて帰り、茂子に手渡し、その匕首を三枝方台所棚の上に置いてあるのを見た、というのも嘘である。

(5) 以上のような嘘の供述をしたのは、検察官の取調がきつく、これに耐えられなかつたためである。自分は当時一七歳だつたが、電灯線等を切つたことを理由に昭和二九年七月二一日から四〇日間以上も、身柄を拘束され、深夜にもわたつて連日の取調を受け、しつこく追及された。検察官の調書は、先方が「こうじやないか」と責められ、自分がそのとおりになるまで何度でも言われ、結局、先方の言うとおりになつたもので、その内容についてはよく覚えていない。第一、二審での証言については、たしか村上検事からだつたと思うが、「法廷で、前に言つたことと違うことを言うと偽証罪になる」と言われたので、検察官に言つたとおりのことを言わないと偽証罪になると思いそのとおり供述した。一度筋書を覚えたので忘れず大体覚えたとおり証言できた。しかし、第二審の高松高裁での証人調のときは出頭しなかつたことがある。又嘘をいうのに耐え難く、あんまり呼び出しが多いので死んだ方がましだと思つた。

(6) 事件当時の具体的情況については、今は大分記憶が薄らいでいるが、事件直後の頃、警察や検察庁での三通の調書で述べていることが正しいと思う。事件の朝、「火事じや」という声で目覚めて四畳半の間へ行つたというのが正しい。その後の検察庁で作られた調書は、検察官がこうではないかというのに合わせてそのとおりになつたものであるから嘘である。

(7) 第一、二審での証言は偽証である旨、これ以前にも告白したことがあるが、これは全て自分が真意からしたことである。昭和三四年二月早々の手記は、自分が安友課長宛に書いた手記である。徳島東警察署に自首したのも自分の判断である。昭和三四年五月の遺書は、農薬で自殺してしまうことも考え、父宛に書いたものである。昭和四二年二月二日、大阪の高砂旅館で茂子と対面して申し訳なかつたと謝罪した。阿部守良に比べても偽証を認めるのがおくれたし、第一、二審の証言のときも本当のことを言えなかつたのは、兄弟や親戚にも迷惑がかかつてはいけないと思つたからである。しかし、やつぱり本当のことを言わなければいかんと思つて告白した。

(8) 今では、検事にどういわされたとしても、自分が本当のことを言えばよかつたと思つている。嘘を言つていることには耐えられない。これまで心の休まる暇がなかつた。今度の証人調べの前に、弁護人の人から会いたいと電話がかかつて来たが、自分としては、直接、裁判所に対して自分の気持を述べようと思いこれを断わつた。とにかく、早くはつきりさせて欲しい。

(二) 阿部守良の証言要旨

(1) 事件当時の情況については、今は余り記憶してはいない。今はつきり言えることは、人声で目が覚めて、それで部屋を出て行くときに亀三郎が柱にもたれるようにして倒れていたということ、懐中電灯をもつて寺島本町の暗いところを西へ向つて走つたということ、医大の解剖に立会いに行つたこと、それから警察の取調を受けたこと、だけである。自分は、事件直後に徳島市警の東署で取調を受けたが、そこで述べたことが正しいと思う。

(2) 第一、二審の法廷で証言したことは事実に反している。自分は当時一六歳であつたが、昭和二九年八月一〇日逮捕されて以後身柄を拘束された。その頃は田舎の山の中から出て来た許りで何も分らなかつた。検察官から何回も聞かれているうちに、それに合うように言わないと家に帰してくれないし、早く帰りたかつた。そのうち、検察官が自分に何を言つて欲しいかが段々分つて来て、何回もきかれているうちに検事の言つたことが頭に入つて来て、空想的にしやべつたのが文章になつたと思う。それが自分の検面調書であり、検察官の考えるとおりの内容であつて、自分の真意ではない。取調べられているうち「検察庁でしやべつたことを訂正したりすると偽証罪になる」といわれ、本当にそうだと思つた。だから、第一、二審での法廷でも、調書に書いているのと同じ内容のことをしやべつたと思う。従つて、法廷でしやべつたことも嘘のことが多い。

(3) 自分は、亀三郎と茂子とがもじり合つて格闘しているところなど見てはいない。

事件発生当日、顔を洗つているとき、匕首が壁に立てかけられてあるのを発見し、近くに居た警察官におしえた。その匕首はこれまで見たこともないものだつたし、その匕首にさわつたこともない。どうしてそこにあるのか不思議だつた。それ以前にその匕首のことなど何も知らない。篠原組も知らないし家に行つたこともないので知らない。森会か名前はよく分らないが、あんま器の修理に持つて行つたことがあるだけである。だから、匕首を茂子に渡したこともないし、匕首にダイヤル糸を巻いたこともない。身内の者に匕首のことをしやべつたこともない。

(4) 偽証したことを告白するに至つたのは、良心にとがめを感じ、茂子に対して申し訳ないと思つてしたことである。昭和三三年に手記に書いた。内容はよく覚えていないが、そこに書いたことは当時の自分のそのままの心境である。大阪の高砂旅館で、西野、茂子の三人で面会したが、そのとき述べた言葉は自分の卒直な気持だつた。法務省の人権擁護局や法務局の安友課長に述べたことも本当の気持である。茂子に対しては、本当に申し訳ないことをしたと思つている。これまで非常に苦しんだ。

(三) その評価

西野、阿部両名が、本請求審の事実取調に応じて、証人として供述した内容の要旨は以上のとおりである。右両名の各供述は、当請求審において取調べた西野の昭五二・八・九付弁護人に対する陳述録音テープ、阿部の昭五二・八・八付弁護人に対する陳述録音テープの各内容とも同旨である。

両名の供述は、本件直後の具体的状況については多分に記憶の不鮮明な部分が多く、記憶がないと、答えることが多い。しかし右両名ともに、時日の経過に伴い、記憶のうすれているところはその旨述べて「記憶がない」と答えて供述をさけており、事件当時の状況については事件直後に徳島市警の取調に応じて述べた内容が正しいと述べ、事件発生後四半世紀を経た今日、明確に述べうる点についてのみ供述しようとする態度が顕著であつた。両名の供述態度は真摯であり、特に自分達の茂子に対する第一、二審での証言が偽証である旨述べる部分は明確であり且つ卒直であつて、そのことにより自らの長年にわたる良心の負い目を拭い去ろうとする態度であるかに見受けられた。

右の当請求審証言中において、西野、阿部両名が、第一、二審証言中偽証である旨明確に認めた四点、すなわち(一)茂子と亀三郎が四畳半の間で格闘しているのを目撃したと供述したのは嘘である(西野、阿部)、(二)茂子に頼まれて、三枝方屋根に上り、電灯線電話線を切断した、と供述したのは嘘である(西野)、(三)篠原組より匕首を受取り茂子に渡したと供述したのは嘘である(阿部)、(四)茂子に頼まれ、本件兇器である刺身庖丁を両国橋上から新町川に投棄した旨供述したのは嘘である(西野)、の四点は、第一、二審が茂子をして亀三郎殺害の真犯人である旨認定した証拠構造の中でも最大の論拠となつたものであり、その根拠である両名の証言が全て偽証であつたことになると、第一、二審判決の認定基礎が根本から動揺して来ざるをえない重大性を持ち、第一、二審判決の事実認定を根本的に検討することを迫る内容を持つものということができる。

2  両名に対する捜査段階の取調経過

両名の捜査段階における供述の考察に先立ち、両名の取調経過を概観する。両名の各少年保護事件記録、第一、二審確定記録に徴すると、次のことが夫々明らかである。

(一) 西野の捜査段階における取調過程

西野清は、本件発生当時、三枝電機店の一七歳の住込店員であつたが、事件直後ともいうべき、昭和二八年一一月中に、徳島市警(二通)、徳島地検(一通)により参考人として取調を受け、合計三通の調書を作成されていた。

ところが、外部犯人説に従つたそれまでの捜査が行詰まり、内部犯人説を有力に唱える徳島地検により捜査方針が転換され、これに伴い、同人は、昭和二九年七月五日から徳島地検により集中的な取調を受けることとなり以後、同年九月二四日に至るまで、合計二八通にわたる検察官面前調書、検察事務官面前調書、二通の刑訴法二二七条に基く裁判官による証人尋問調書を作成されている。

特に、西野清は、昭和二九年七月二一日、電気及びガスに関する臨時措置に関する法律(公益事業令)違反及び有線電気通信法違反(即ち、本件の発生した昭和二八年一一月五日午前五時過ぎ頃、三枝亀三郎方屋上において、同人方に架設中の電話線一本を切断して有線電気通信を妨害し、又、電灯線を切断して電気の供給使用を妨害したという同人が茂子を被告人とする亀三郎殺害事件の証人として供述した内容それ自体に関する嫌疑)を理由として逮捕状を執行され、昭和二九年七月二三日徳島地方裁判所裁判官高木積夫は同人を刑訴法六〇条一項二、三号の理由により接見禁止決定付で勾留し(勾留場所徳島刑務所)、同年七月三一日同裁判所裁判官白井守夫により右勾留は、昭和二九年八月一一日まで勾留期間延長され、勾留期間満了日の同年八月一一日、右事件は、徳島地検より少年事件として徳島家庭裁判所に対して事件送致され、同年八月一二日徳島家庭裁判所裁判官白井美則は、同人を右事件について審判を行うために必要であるとして徳島少年鑑別所に収容する旨の観護措置決定をなし、同年八月二五日同裁判所裁判官高木積夫は、同人に対し観護措置更新決定をなし、同年九月三日、同裁判官は、審判のうえ西野清に対し、罪となるべき事実として、西野は、茂子に依頼され、三枝方の電灯線、電話線を切断したこと、並びにそれらの行為を以て、「亀三郎殺害の犯行は、外部者の行為なる如く犯人を偽装し、因て右茂子の殺人被疑事件に関する証憑を湮滅したものである」旨の事実を認定した上、同人を保護観察処分に付する旨の決定をした。

右のとおり、西野清は、昭和二九年七月二一日から同年九月三日に至るまで、身柄を拘束され、専ら自らの前記被疑事件に関する被疑者として、或いは、茂子を被疑者とする亀三郎殺害事件の参考人として検察官等による集中的な取調を受け、供述調書を作成されたのである。

(二) 阿部守良の取調経過

阿部も、事件直後ともいうべき昭和二八年一一月中に、徳島市警、徳島地検により参考人として取調を受け、三通の供述調書を作成された。同人が、当請求審証言中において、基本的に正しいと述べるのは、この三通の調書を指している。

ところが、同人は、前記のとおりの捜査方針の転換に伴い、昭和二九年七月六日から同年九月一〇日に至るまで、徳島地検による集中的な取調を受け、合計二五通の検察官、検察事務官による調書、三通の裁判官による証人尋問調書を作成されている。

しかも、同人は、当時一六歳の少年であつたが、昭和二九年八月一一日深夜(午前零時一五分)、銃砲刀剣類等所持取締令違反(すなわち、同人が事件発生直後である昭和二八年一一月五日午前六時三〇分ころ、三枝亀三郎方において匕首一振を所持していたという嫌疑)により逮捕状により逮捕され、昭和二九年八月一二日徳島地方裁判所裁判官白井守夫は、同人を刑訴法六〇条一項二、三号の理由ありとして勾留し(勾留場所徳島刑務所)、同年八月二一日同裁判官は、同月三一日まで勾留期間を延長し、勾留期間満了日の同年八月三一日徳島地検は、少年事件として、右事件を徳島家庭裁判所に事件送致し、同年九月一日徳島家庭裁判所裁判官村上博己は、同人を徳島少年鑑別所に送致する観護措置決定をなし、同年九月六日、同裁判所裁判官高木積夫は審判のうえ同人に対し不処分の決定をした。右各調書の大半は、右身柄拘束期間中の供述調書である。

3  両名の捜査段階における供述の考察

そこで、西野、阿部の捜査段階における供述を考察する。考察の要点は、両名が第一、二審公判で証言し、第一、二審が茂子有罪の主たる根拠とした

(一) 両名が亀三郎と茂子の格闘を目撃したこと

(二) 西野による電話線、電灯線の切断

(三) 西野による兇器である刺身庖丁の新町川への投棄

(四) 阿部による匕首の入手

の四点を中心に行う。

供述の摘示は、特に全容を紹介する形をとるもの以外は全て、当裁判所の要約によるものである。尚、便宜のため、西野の調書には〈1〉、〈2〉………の順に日付に従つて番号を付し、阿部の調書には〈一〉、〈二〉………の番号を付すこととする。

(一) 事件直後の昭和二八年一一月中における両名の供述

この時期、西野、阿部は夫々三通の供述調書を作成されている。

(1) 西野の調書

〈1〉昭二八・一一・五員(取調官巡査部長宮崎順一)(取調場所徳島市警)(以下同じ)

今朝五時頃、阿部と共に小屋で寝ていたところ、茂子が「泥棒じや」と四、五回叫んでいるので目を覚まし、阿部と二人で主人夫婦の寝んでいる四畳半の間へ行くと、主人が北側の炊事場に近い柱にもたれて倒れており胸部に血が付き死んでいた。阿部が負傷している奥さん(茂子)を斉藤病院に連れて行き、自分はすぐ自転車で両国橋巡査派出所に事件のことを届けると共に、その足で徳島市大道四丁目の三枝方家族に知らせ、午前六時頃八百屋町の三枝商会に帰つた。自分は昨日亀三郎の命令で取引先の那賀郡新野町の米田菓子店の息子のところへ金の取立に行つたが支払つてくれず、その由を伝えると主人は翌五日に所用もあるので朝早く米田のところへ寄つてみるといつていた。自分と阿部が寝ていた小屋から四畳半の間に入つたとき、障子、ガラス戸は開いたままであつた。前の出入口は開いていなかつた。茂子は店の方で電池か何かを探していたが、電気がつかんといつているので電気をひねつたがつかず、よく見てみると隣の新開時計店と三枝方の四配電線の片方を切つてあつたので、それをつないで部屋を明るくした。電話線は二ケ共切断してあつた。自分達が部屋に飛び込んだ時は犯人は居なかつたので犯人については全然心当りがない、等。

〈2〉昭二八・一一・二六検(検事浜健治郎)(徳島地検)

自らの生立ちと三枝電機商会に勤める経緯、茂子方の家族構成、亀三郎と茂子の間についてはこれといつていうこともないが、九月下旬頃、建築中の建物の金の支払いについて夫婦喧嘩したことがあるが、その他別に変つたところはない。茂子が強くて世間でいう嬶天下のように見えた。茂子の声でかけつけたのは午前五時過ぎと思うが、はじめ「火事じや」という声がして、後から「泥棒じや」との声がして四畳半の間へ阿部と共にかけつけた。茂子と佳子は店の方で何かしており、茂子は自分を見てすぐ大道の方へ知らしてくれというのですぐ知らせに行つたが、その途中、自分の考えで両国橋派出所に立寄り、巡査に「泥棒が入つたから来てくれ」といつた。大道の家族に知らせて八百屋町の家に帰つたのは午前六時頃だと思う。帰つてみると店には医者、警察官が来ていて亀三郎が死んだのが分つた。その時分頃部屋の中が暗いので電灯がつかないと茂子がいうので泥棒がもしかしたら電灯線を切つてはいないかと思い調べたところ、果して一つだけ切つており継いで部屋の中を明るくした。自分の考えでは、私以外の奥さんや警察の人等は電灯線の切られていたことを知つていたと思うこと、等。

〈3〉昭二八・一一・二八員(福山文夫)(市警)

右〈1〉〈2〉の調書とほゞ同旨の事柄が詳しく記載されている。詳しくなつた点を拾つてみると、

阿部と二人で一一月四日午後一〇時一〇分頃小屋で眠つた。五日の朝五時一〇分か二〇分頃茂子の「火事じや」という声で目を覚まし、枕元の南側ガラス戸を開け外にあつた樽の上に立つて店の屋根の方を見ると、何の異常もないので又小屋の中へ戻つた。すると又茂子の声で今度は「泥棒」という叫び声がしたので阿部と共に西側ガラス戸を開け三枝方家族の寝ている四畳半の間に行つた。部屋の中は電気が消え真つ暗であつたが、よく見ると亀三郎が柱にもたれるようにして倒れていた。茂子と佳子は店の方で懐中電灯のような物を探していたが、阿部が茂子に「大将ケガをしているんでないで」と尋ねると、茂子はあわてて「ほうで」といつて電池を持つて奥の部屋に入り、亀三郎の側へ行つて懐中電灯で照していたが急に泣き出し非常にあわてた様子であつた。それから茂子は自分や阿部に夫々前に述べたとおりの用事を言いつけ、自分と阿部は夫々その用を足した。自分が店に帰つて来たときは店の前に隣の新開、田中の奥さん外一名位が立話をしており警察の人も来ていた。自分が帰つたときは阿部は未だ帰つておらず、自分のすぐあとから大道の先妻の子供達が相次いでかけつけて来た。間もなく阿部と一緒に市民病院の医師が来た。誰かが電灯がつかないので調べてくれというので自分が元のスイツチの所から線を伝つて順に調べていくと、丁度、店の屋根の看板の裏付近で電話線と電灯線片線が切断されているのを発見した。医師の診断で亀三郎が死んでいることが分り茂子も負傷していたので斎藤病院へ入院した。その後、水道で顔を洗おうとしたら阿部が新館裏口東側のコンクリート壁にもたせかけてあつた匕首一振を発見し警察官が持つて帰つた。以上のとおり、自分は茂子の叫び声で目を覚まし飛び起きた時には賊は既に逃走していたので自分は全然知らないこと、等。

(2) 阿部の調書

〈一〉昭二八・一一・五巡(藤岡正太郎)(市警)

一一月四日夜一〇時頃、西野と二人で小屋で寝たが、五日午前五時過ぎ、三枝佳子が大声で「西野さん」と二、三回呼んだので二人は目を覚まし、続いて茂子が大声で「若い衆さん来てくれ」と叫ぶので飛び起き四畳半の間へ行つた。室内は電灯が消えて真つ暗だつたが、亀三郎は寝たままで何も言わなかつたので死んでいたと思う。茂子から市民病院へ行つて医者を呼んでくれ、といわれ自転車で市民病院へ行き医者を頼んで来た。店へ帰ると斎藤病院の医者も来ており、茂子も手当のため斎藤病院へ行つた。店内は電灯線、電話線が切断され真暗であり電話も通じなかつた。自分が起きたときは犯人は逃げてしまつていたので誰がやつたのか全然知らない。茂子は「米田が多分やつたのだろう」といつていた。茂子と亀三郎との夫婦仲はかなり円満ではあるが、茂子は後妻でその子は佳子一人であり嬶天下で喧しい方であること、等。

〈二〉昭二八・一一・二六検(浜健次郎)(地検)

一一月五日午前五時過ぎ頃と思うが奥さんの声で「火事じや」とか「泥棒じや」とか言う声がして、又、「西野さん」と言う声もして目が覚め西野と二人で店の方に行つた。行つてみると主人の亀三郎が仰向けに倒れて血が飛んで悶絶しているようだつた。奥さんと佳子は電話か何かかけているようでその他には誰も居らず自分が見た範囲では誰も来たり逃げたりしたのは見ていない。奥さんに言われ市民病院に行つて医師をつれて来た。主人と奥さんの間柄は別に申上げることもないが店の新築のことで良く争いをしていたように思う。奥さんは嬶天下の様であつた。亀三郎は殺された一一月五日の朝一番の汽車で新野町の米田という人を尋ねて集金に行くといつていた。奥さんが西野に「米田がやつたのではないか」といつていたが自分は別に深くは考えなかつた、等。

〈三〉昭二八・一一・二七員(巡査部長近藤国夫)(市警)

〈一〉〈二〉調書と大差はないが、詳しく犯行直後の状況が述べられている。特徴的な点を要約列記すると、

一一月四日夜、茂子は風邪を引いたといつて夕食後すぐ寝床に入つていた。西野と二人で小屋で寝たが翌五日朝、茂子が「泥棒」と二、三回続けて言うので起きて外に出て、小屋と新築工事場の裏に続いている工具を置く小屋との間の通路に立つてみると茂子が寝巻のまま立つて工事場の中の方を見ていた。そのとき茂子は何も言わず自分達が外に出たのにも気付いていないようであつたが、自分も西野も何にも言わずそのまま又、部屋に入つた。自分が茂子に声をかけなかつたのは変だがその時の茂子の態度は何もあわてたようでもなし、「泥棒」といがつたが逃げたのかな位の気持で部屋に入つた。それからすぐ四畳半の間から茂子が「西野さん」「若衆さん」と呼ぶので四畳半の部屋へ行つたら亀三郎が倒れていた。自分も西野も真暗の中を手探りで行くと、茂子は自分に探険ランプをつけて渡し市民病院に行くように言つた。ランプの明りで時計を見ると五時三〇分だつた。医師を連れて帰ると店に電気がついていない。暗かつたので医師について来た看護婦にランプを渡した。西野がどこか電灯線が切れているやら分らないと言つて屋根に上り、電灯線の切断箇所を発見して修理したので店に灯がついたが、その間に運悪く停電になつた。茂子が斎藤病院に行き、自分が西野と共に服を着替えてから水道で顔を洗つているうちにヒヨイと見ると匕首を発見し傍に居た警察の人に伝えた。今日になつても誰が主人を殺し、茂子にあの様な傷を負わせたのか全く自分には分らない、等。

(3) まとめ

この段階においては、捜査は徳島市警が中心となり、現場に遺留されていた匕首や懐中電灯を手がかりとして犯人は外部から侵入した者であるとの線で捜査が進められていた時期にあたる。西野、阿部の両名は、本件犯行現場である三枝方四畳半の間のすぐ裏にある小屋で寝ていた住込店員として本件に関する参考人の立場で取調を受けたものである。

右の事件直後ともいうべき昭和二八年一一月中における両名の各供述調書の内容を検討してみると少なくとも次のことが明らかである。

(イ) 右両名のこの段階における各供述調書中には、両名が犯人は茂子ではないかと疑つているような供述内容は一切含まれていない。両名は、後述するように、その後、一一月下旬ころ、茂子より口止めされた旨述べるに至るのであるが、両名の一一月二六日付、二七日付の供述調書の内容を見ても殊更に茂子をかばつているかに見える供述も含まれてはいないし、又殊更に外部犯人の侵入、逃走を強調する趣旨の供述も含まれてはいない。

(ロ) 西野は、電灯線、電話線を切断したのではなく、逆に電灯線の切断されているのを発見しこれを修理した旨供述し(〈1〉〈2〉〈3〉調書)、西野が電灯線を修理して点灯した旨の阿部の供述(〈三〉調書)に符号している。

(ハ) 両名共に犯人には全然心当りがない旨述べる点においても共通している。

(ニ) 本件発生後半年以上経過した後である昭和二九年七月以降、両名が次々と供述し始めた、茂子と亀三郎の格闘の目撃、電灯線電話線の切断、兇器たる刺身庖丁の投棄、匕首入手などに関する供述内容は一切含まれてはいない。

しかし、犯人は外部より侵入した者であるとの想定に基く徳島市警、徳島地検の捜査は、警察が一旦は川口算男を三枝亀三郎殺害の真犯人であるとして送検したが、嫌疑不十分として不起訴処分となつて後、昭和二九年七月、徳島地検により内部犯人説(すなわち茂子犯人説)に基く捜査が進められるに至り、ここに再び西野、阿部は取調を受けることとなつた(以上、村上善美検事作成「冨士茂子に対する偽装殺人被疑事件捜査の経過」一偽1)。

以下、西野逮捕(昭和二九年七月二一日)阿部逮捕(昭和二九年八月一〇日深夜、厳密には八月一一日午前零時一五分)、茂子起訴(昭和二九年九月二日)を大きな区分として、夫々の段階における両名の供述の推移を考察してみることとしたい。

(二) 西野逮捕(昭和二九年七月二一日)に至るまでの両名の供述

(1) 西野の調書

〈4〉昭二九・七・五検(検察官村上善美)(地検)

事実経過としては従前の〈1〉乃至〈3〉の調書とほゞ同様の供述をしている。

即ち、茂子の「火事じや」という声で目覚め、さらに「泥棒じや」という声で部屋を出て行くと茂子から「泥棒だから警察へ電話してくれ」と言われ阿部が裏手の田中方へ「泥棒だから警察へ電話してくれるで」と叫んだこと、茂子から言われて阿部は市民病院へ自分は大道へ知らせに行つたこと、大道から帰つて茂子から電気を見てくれと言われたのでヒユーズを調べたが異常なく、屋根に上つて調べると電灯線の屋内引込口附近の所が一本だけ切られている事が判つたが電話線の切られていることは判らなかつたこと、等である。

しかし、次のようなことから茂子が犯人ではないかと事件直後に思つた旨の供述がある。すなわち、

茂子は火事じやと最初言つていたのに一分位して泥棒じやと一回いがつただけでそれ以上連絡せず、泥棒だから警察へ電話してくれと一回言つたが電話線を切られたとも何とも言わないし懐中電灯のケースに電池を入れている際電話が通じんとも何とも言わず、電気がつかんとか故障かどうか見てくれとも言わず、見たところ悠々として電池をはめ込み私や阿部に一緒に来てくれとも言わず、懐中電灯で亀三郎を照らして泣き出したものの夫にすがりついて泣きわめくということもなく、泣くのもこんなひどい目に合わされてとか、残酷なやり方だとか言わず、只、声を発して泣いていただけで、それも見出してから三分も経たないうちに阿部や自分に医者を呼んで来てくれといつたり、こんな前後の事情から私は茂子がやつたのではないかと思つてぴいんと頭に響き急におそろしくなつた。このことは、茂子が電池をつめているのを見たとき同じ事情から茂子が主人をやつたのではないかと思つたので恐ろしくて、主人の所へ行つて見る勇気がなかつた。両国橋派出所へ届けたとき「三枝に泥棒が入つたからすぐ来てくれ」といい「主人がやられている」とは言わなかつたが、これはもしかすると茂子が主人をやつたのではないかと思つていたので正直に話すと迷惑がかかると思い単に泥棒が入つたから云々とだけ言つたものである。茂子が懐中電灯の用意をするのを見ている時、警察へ電話しなかつたわけは、その当時既に茂子が主人をやつたのではないかという気持が頭にぴいんと響いていたので恐しくなりそこまで気がつかなかつたし、茂子に対し、どうして主人がやられたのですかと尋ねもようしなかつた、等。

〈5〉昭二九・七・六検(村上)(同)

昨日述べたことの訂正をする、として

最初火事じやという声で窓から頭を出して覗いてみたが何も見えないので、今度は出入口から出て外を見渡して見ると、バラツクとの境から一メートル位西の方に茂子らしい人が北西の方に向いて立つており、自分は茂子が何をしとるんか不思議に思い声もかけずに見ていると、ふり向いて顔を合わしたと思うが茂子は声もかけず何事もなかつたように部屋に入つたこと、一、二分位して自分達も部屋に入つて座つていると、急に「泥棒じや」というので又出入口から飛び出して行つたこと、それからあとは前日のとおりであること、後で発見された匕首は、茂子が前記のように立つていた地点にあり、匕首には血が着いている様子もなく、地面にも血がしたつた形跡もなく、この点非常に不思議に思うこと、若しや茂子が置いたものではないかと推察したこと、茂子が亀三郎を懐中電灯で照らして見て泣いたのは阿部が病院へ行つて後のことである様に思う、阿部と対質尋問の結果そう思うので訂正する、等。

(2) 阿部の調書

〈四〉昭二九・七・六検(村上)(同)

前記〈一〉乃至〈三〉で述べる事実経過と大略同旨の事実に加えて、本件直後、同人が茂子が怪しいと思つていた事情が次のように述べられている。

「泥棒」という茂子の声で西野と二人で外に出てみると、新築中のコンクリート壁より一尺位南側のところに茂子が立つていたが、茂子は自分らの方にふり向いたのに一言も声をかけず、おかしいな、茂子は壁に向かつたまま立つているので変に思つたがそのまま小屋に入つたところ、又、茂子が「若衆さん来てくれ」といがつたので、どうも茂子のやり方はおかしいなと思い乍ら飛び出した。四畳半の間に行つたとき、亀三郎が倒れていたが、茂子が少し時間を置いて泥棒だとか、若衆さん来てくれ、とか言つたり壁に向かつて立つていたり、自分らの方を見ながら言葉もかけなかつたり、やることが変なので、これは夫婦喧嘩をして奥さんが夫を殺したのかどうかしたのではないか、とはつと頭にひらめいたので、私は急におそろしくなつて電灯をつけてみる勇気もなかつた。四畳半の間を通つたとき蒲団を前の晩敷いてあつたのに何もつまずかず、すつすと歩けたので蒲団はどこかに片付けていたのではないかと思う。茂子に頼まれ、市民病院へ行き、看護婦に「泥棒が入つたけんすぐ来てくれ」と頼んだが、ひよつとすると奥さんが主人をやつたのではないかと思つたので「主人が倒れている」とは言わなかつた。茂子が懐中電灯を持つて四畳半の間へ行き亀三郎の身体を照したり、そこで茂子が泣いたりしたことは絶対にない。もしそのことを西野が述べているとしたらそれは自分が出かけたあとのことだと思う。市民病院の医師が帰つて間もなく誰に言われたかどうかは知らないが、西野が電灯線を調べて来るといつて屋根に上り、切断箇所を発見して修理したといつており電気がついた。しかし一寸の間で又停電になつてしまつた。匕首を発見したとき、茂子がそのすぐ西側に立つていたので自分は茂子が匕首をそこへ置いたのではないかと発見したとき思つた。茂子は事件があつてからのち、私に、何回でも探しに来てもよいが私の方からは犯人は出んぞ、と言つていたこと、等。

〈五〉昭二九・七・六事(検察事務官丹羽利幸)(同)

三枝方は毎日午後九時頃就寝する習慣があり、寝るときは消灯していたので、夜中や寝入りばなに電線を切られても感付かないし、工事中の階段のところからすぐ屋根に出られるので切るのは簡単で、もしも茂子が切つたとしても家族の状況からして簡単に出来たと思うこと、等。

(3) まとめ

この時期は、高松高検市川検事長の指示により川口算男の起訴が見合わされ、尚、川口算男、中越明らに対する継続捜査を行うと共に他に真犯人があるかも知れない事にも留意して両面捜査を行うことになり、これを受けて徳島地検に村上善美検事を中心とする特別捜査班が内部犯人の疑いを持つて基礎捜査を開始した時期である(村上善美検事作成「冨士茂子に対する擬装殺人被疑事件捜査の経過」一偽1)。

この段階における西野、阿部両名の供述は

(イ) 基本的な事実経過に関しては昭和二八年一一月中の供述(前記〈1〉乃至〈3〉調書、〈一〉乃至〈三〉調書)と大差はない。

(ロ) しかし、この段階において西野、阿部共に、事件直後に見た茂子の行動に不審な点があり、その頃から茂子が犯人ではないかと思つていた旨述べ、夫々がそう思うに至つた理由について種々述べている。例えば、西野は〈4〉調書において、茂子の行動をまとめた上「これら前後の事情から私は茂子がやつたのではないかと思つてぴいんと頭に響きおそろしくなり」と述べ、阿部〈四〉調書も、「………やる事が変なのでこれは夫婦喧嘩をして奥さんが夫を殺したかどうかしたのではないかとはつと頭にひらめいたので………私は急におそろしくなり………」と供述している。

(ハ) 両名が、夫々茂子が犯人ではないかと「頭にぴいんと来」たとか、「はつと頭にひらめいた」原因として述べる事実は、いずれもそれ自体として茂子が怪しいと疑わせるに足りるものとは考えられず、茂子の行動に対して或る一定の疑惑をもつて見た場合にはじめてそのようにも受取れる余地がある、という程度のものに過ぎないことが、右各調書の内容からも明らかである。

(ニ) 右両名が、右各調書中で述べているように、事件直後の段階において茂子が犯人ではないかと思つていたのであれば、事件直後の取調の際に何らかの形でそのことを述べるなり態度に表わすのが通常と考えられる。前記(一)で見た各供述調書の内容とは対照的である。

(ホ) 右の各供述調書中の両名の供述は、例えば「若しや奥さんが置いたのではないかと推察致しました」(西野〈5〉調書)、「もし奥さんが切つたとしても家族の状況からして容易に出来たと思います」(阿部〈五〉調書)など、当時の捜査の焦点が茂子犯人説に定まつていて、捜査官の取調の目的が茂子への疑惑を裏付ける供述の獲得にあつたことを窺わせると共に、一六、七歳の少年の供述としては余りにも捜査官的発想に片寄り過ぎていることを否定し得ず、右供述調書を読むだけでも、両名の供述をそのまま録取したものかどうか多分に疑問を生じさせる箇所が随所に存在するといえる。

(三) 西野逮捕(昭二九・七・二一午後九時四五分)前後から阿部逮捕(昭二九・八・一一午前零時一五分)頃に至るまでの両名の供述

(1) 西野の調書

〈6〉昭二九・七・二一検(村上)(地検)

自分はこれまで隠していたことがある。そのことを一口でもしやべればすぐ犯人が挙がると思い、そうなると茂子に気の毒なことになると思つたのでこれまで隠していたが、世の中のためになる事ならと思つて今日は本当のことを申し上げる。

茂子は阿部に懐中電灯を渡して市民病院に行かせたあと、茂子は自分に屋根に上つて電灯線と電話線を切つてくれと頼んだ。自分は以前に述べたように亀三郎をやつたのは奥さんではないかと疑つていたが、このときはいよいよ茂子が亀三郎をやつたのに間違いないと思つた。仕方なく修理台のところからニツパーであつたかペンチであつたか、とにかく一丁もつて外へ出た。そして屋根へ上り電話線の内一本をニツパーかペンチで切つた。そのとき電話線と電灯線を切つてくれと頼まれていたものの、電灯は又あとで要るかもしれないと思い、気が進まなかつたので電灯線は後で適当な時に切ることにした。この電灯線は看板の裏手にあるので後で切断しても表側や裏側から人に見つけられるおそれが殆どないと思つたので切るのをやめた。電話線は看板のすぐ上にあつて暗い内に切つておかなくては人に見付けられるおそれがあると思つたのですぐ電話線だけ切つた。それから下へ降りて店土間の修理台の上にニツパーかペンチを置いたが、茂子が大道へ行つてくれ、と頼むので大道の家族に知らせに行つたが、その途中両国橋派出所へ「泥棒が入つたけん」と届けた。このとき自分が人殺しとか、主人が大怪我をしているとか言わなかつたのは自分はこのとき奥さんが主人をやつたのではないかと思つていたので出来るだけ奥さんが捕まらん様にして上げたいと思つて単に「泥棒が入つたけん」とだけ届けた次第である。午前六時過ぎであつたか茂子が斎藤病院へ入院のため出かける後から蒲団を持つて茂子のあとを追いかけて三枝方東方の石油スタンドの前を通つて、そのすぐ東にある板塀の中間まで来たとき、茂子から両方共切つたか、といわれ、電話線だけ切つた、というと、茂子に、早く出来るだけ根元から電灯線を屋根の上で切つておけ、と頼まれたので店に帰つてニツパーかペンチで電灯線二本のうち一本を切つたこと、等。

〈7〉昭二九・七・二一検(湯川和夫)(同)

一、本日村上検事に申し上げた事のうち電話線を切つた事は間違いであるが、電線を切つた事は間違いない。

二、電線を切つたのは奥さんに頼まれて午前六時過頃と思うが工事場の足場から上つて電線をペンチで切つたのに間違いない。

〈8〉昭二九・七・二三検(弁録)(村上)(同)

第二の事実につき、昨年一一月五日午前五時過頃奥さんの茂子に屋根の上の線を切つてくれと頼まれて午前六時過頃屋根に上り電灯線二本の内一本を屋内への引込線の近くで確かペンチで切つた。但し第一の電話線は切つていない。他に弁解することはない。

〈9〉昭二九・七・二三検(村上)(同)

昨年一一月五日朝、屋根上で電灯線を切つたことは間違いない。奥さんに頼まれてペンチで切つた。その後夜がすつかり明けてから警察官に電灯線が切れているといつて知らせると、どこか、というので案内して切つた場所へ連れて行き示した。私が持つていたペンチでつぎ合わそうとすると警察官にそんな事をしたらいかんといつて止められた。その警察官は切口を証拠に採つたようだつた。それからしばらくして、私は電灯用電線とペンチを持つて屋根に上り、切れている電灯線の両端の被覆をペンチではぎ、持つて行つた電線も同様にして両方の先端を相互にねじ合わしてつぎ合わせたこと、等。

〈10〉昭二九・七・二三検(村上)(同)

電線一本(但し領置番号は明示されていない)を示され、

両端近くの線を互いにねじ合わして結んだ格好が自分が結び合わした時の物に間違いないと思うので自分がつぎ合わせた電線だと思う、旨。

〈11〉昭二九・七・二四検(村上)(同)

茂子に頼まれて電灯線と電話線を切断したことは間違いない。最近までこのことを隠して来たのは、私がしやべると奥さんが犯人として直ちに逮捕されると思うと気の毒でたまらなかつたのと、茂子は口達者であるので対決されたり法廷で証人に立たされた場合、私の方が口では負けるという心配が非常に強かつたため仕方なく隠して来たものである。茂子は自分に屋根に上つて電線を出来るだけ根元から切つてくれと頼んだものであるが、自分の独断で電話線を切つたものである。切つた時期は大道へ行つて帰つてから電話線を自分の判断でニツパーで切断した。次で電灯線を切断しかけたがニツパーではなかなか切れないので又機会があれば切ろうと思つて降りたとき阿部が舗道に立つていたのでまずいことをしたと思つた。この電話線を切つたのは、両国橋派出所を出たのが五時半頃、そこから大道の家まで四、五分、その家に居たのが二、三分、そこから店まで帰るのが七分乃至一〇分、表で新開さん等と話したりして屋根に上るまでが三分位だつたから余計見積つても五時五二、三分迄には電話線を切断したと思う。それから茂子が斎藤病院へ入院するのに自分は病院へ蒲団を持つて行き、帰つてから阿部と新築工事場裏側の東端から西へ三尺位の所に刃先を上にして斜めにもたせかけるように置いてある匕首を発見した。そのときその附近に茂子が立つていてしかもその後自分や阿部に向き直つたのに何も言わなかつたことを思い出し、妙じやなー、この匕首は茂子が強盗が逃げしなに落して行つた様に見せかけるために置いたものではなかろうかとちらつと思つた。それから七輪を買つて病院に持参し、帰ると電気がついていたと思う。そこで自分は奥さんに頼まれているのに切るのが遅くなつたと思い修理台の上に置いてあつたペンチ一丁を取出し屋根に上つて電灯線の引込口の根元近くを切断した。それから屋根を降り、そのことを警察官に申告し切断現場へ案内した。そのとき自分は切断に使用したペンチを持つたままであつたが警察官は別に怪しまなかつた。それから電線を持つて行つて修理をし、それから参考人として警察へ行つた。自分は今まで奥さんから口止料をもらつたり口止めされたりした事はないこと、等。

〈12〉昭二九・七・二六検(村上)(同)

自分の経歴や一身上のこと、三枝方に住込店員として勤めて来たこと等に加うるに、本当の事を言えば奥さんに気の毒なことになり一年間もお世話になつた身としては心苦しいが何時までも隠していては世間に申し訳ないので正直に申上げる心算に数日前からなつているので、事件当日の情況を判つている限り全て話す、奥さんが気の毒なことになるというのは茂子に頼まれて屋根上の電灯線、電話線を切断したことをいうのである、として、本件犯行の前日の三枝方の状況を詳しく供述している。

そして、一一月五日午前五時一〇分か少し過ぎた頃と思うが四畳半の間辺りからどすんどすんという足踏みする様な足音が二、三回聞えたので目覚めた。それから奥さんの声で大声でいがる(叫ぶ)のが聞こえたので火事ではないかと思つて飛び起きたが何もなかつたので蒲団に座つていると、茂子の声で「泥棒じや」という声がしたので外へ出てみると、茂子が新館コンクリート壁の近くで立つていたので、どうしてそんな所に立つていたのか不思議に思つた。茂子は自分らには何も言わないので又、小屋に戻つていると一、二分して茂子が「泥棒じや」といがつたので外へ出ると茂子が「泥棒じやけん警察へ電話してくれ」というので阿部が大声で裏手の田中畳店へ「田中さん、泥棒じやけん警察へ電話してくれるで」といがつた。茂子が立つていた付近は多数の板切れ等があり足元に注意しなければ歩けない所であり、茂子の姿を発見した時までその足音を聞いてはおらず、従つて茂子はしのび足でそこまで歩いて行つたものと思う。茂子の立つていた所に風呂の窓があるが茂子の身長ではその窓からビル一階の内部を見透すことはできないので茂子がその窓から内部を見て泥棒の逃走を確かめていたとは思われない。四畳半の間に至るガラス戸、障子はいずれも東の方に引寄せられ西の方が開いていた。四畳半の間に上ると主人が倒れており、蒲団は踏んだ覚えがないので後で思うと夜具は片付けていたのではないかと思う。四畳半から店土間に降りると茂子と佳子が立つていて懐中電灯に電池をつめていた。茂子は阿部に対し電池を渡して市民病院へ行つてくれと言い阿部は出かけたこと、等。

〈13〉昭二九・七・二六検(副検事野中勇)(同)

これまで述べたとおり、電灯線と電話線を切つた事は間違いない。しかし、これまで電話線はニツパーで切り電灯線はペンチで切断したと言つていたが、実はそうではなく電話線は茂子から渡された匕首で切つた。電灯線はこれまで言つたとおりペンチで切つた。自分が電話線を切つたのは茂子に頼まれて大道へ出かける直前だつた。阿部が市民病院へ出かけた後、自分が店のウインドのところに立つていると、茂子は自分に「これで線を切つてくれ」と申して自分に抜身の匕首一振を手渡し、「この事は警察の人には言われんでよ」と口止めの言葉を言つた。自分はこのことから主人を切つたのは茂子でありその犯行を隠す為に私に電線を切る様に命じたものであると直感した。そこでその匕首で電話線を切断し、四畳半の間にいた茂子に匕首を返し、「茂子は有難う」と言つて匕首を受取つた。それから自分は大道へ行き、ついでに自分の判断で派出所に届け、又八百屋町の店に帰ると、隣人二、三人が立話をしており、斎藤病院の医師が来た。茂子に大道へ知らせて来たことを話すと、一言お礼を言つたあと「電灯線も切つてくれ。出来るだけ根元から切つてくれ」と言つたが、隣りの新開に尋ねられたり、医師が来たり阿部が帰つて来たりして機会がなく、そのうち茂子が斎藤病院へ行き自分は蒲団を持つて行つた。それから帰つて阿部と共に寝巻を脱いで学生服に着替えるため部屋に戻ろうとする際、新築中の家の風呂場になつているすぐ外側のコンクリート壁のところへ匕首が抜身のまま刃先を上にして立てかけてあるのを見かけたが、それは茂子が自分に電話線を切つてくれといつて渡した匕首で、おそらく茂子がそこへ持つて来たものだろうと思う。その匕首の柄には布を巻きその上を細紐でしばつてあり、只今示された物に間違いない。洋服に着替えてから自分は店の修理台の道具置場からペンチ、ニツパーを一ケ宛持つて屋根に上り、電灯線を切つた。このときはペンチだけを使いニツパーは使わなかつた様に思う。それから満智子に頼まれ七輪を買つて斎藤病院へ持つて行つた。今年の七月五日に検察庁で取調べを受けた翌六日午前八時ころ、三枝方に立寄り阿部と話していると茂子が出て来て「検察庁でどんな事を尋ねられる」というので自分が「川口や中越の事で尋ねられている」と偽りを言うと、茂子は「一年間も同じ釜の飯を喰つたのだから今更前の事は言いはすまいね」と口止めしたこと、等。

〈14〉昭二九・七・二九事(丹羽)(同)

本年三月四日友人の石川幸男方へ遊びに行つた時、自分は石川に思い切つて、「実はわしはえらい事を奥さんに頼まれておるんじや、それは奥さんから頼まれて線を切らされたわ」と打明け、すると奥さんがおかしいなあとお互いに話し合つたこと、等。

〈15〉昭二九・七・三一事(丹羽)(同)

奥さんに頼まれて電話線、電灯線を切つた事は間違いない、電話線は匕首で、電灯線はペンチで切つたように思う。電灯線を切つて下へ降りて来たところ警察官が二人いたので電線が切られている旨告げ一緒に行つて切れている場所を教えた。自分がつなごうとすると警察官が「つないだらいかん、証拠になるから置いとけ」といい、ペンチを貸せ、というので持つていたペンチを貸した。大道から帰つたとき工事場の前を通つたが、そのとき工事場板塀出入口の戸が確か締つていたように思う。その後阿部と二人で着替えに行くときは開いていたと思う。右の戸は外から開けることはできず中からでないと開けられない。自分は開けていないので警察官か阿部が開けたのではないかと考える。匕首は茂子が何処からか入手したものでないかと思う。留置場にいる間いろいろ考えたが事件前の一〇月末頃か中頃、藍場町の森という不良の親分のおばさんが三枝方に来て風呂敷包みを茂子に渡し親しそうに話をしていた。二、三日して阿部が茂子から藍場町の森さん方を詳しく道を教えてもらつたりして風呂敷包みを持つて行くのを見た。そのときのおばさんはその後もう一回位三枝方に来たように思う。自分は茂子が匕首を入手するとすれば恐らくここから手に入つたものと思うこと、等。

〈16〉昭二九・七・三一事(丹羽)(同)

〈14〉調書のとおり石川方へ行つたとき茂子に頼まれて電線を切つた話をしたときの模様について。

〈17〉昭二九・八・二検(湯川)(同)

自分はこれまで電話線を切つたと述べていることがあるが電話線は絶対に切つてはいない。しかし電灯線を奥さんに頼まれて切つた事は間違いない。電話線を切つたと言つたことは申し訳ないが一本切つても二本切つても同じだと思つて言つた。自分は電話線を切つたのは阿部ではないかと思う。それは阿部が医者を呼びに行つた時間が非常に長かつたのでその間に十分電話線を切る余裕があつた。昨年一一月二〇日頃、店へ帰るのが遅かつたことで茂子に叱られたことがある。その晩か翌日の晩であつたか阿部と二人で話し合い、大将が死んだときはいろいろとやらせておいてひどいと話し合つた。このことから考えて阿部も何か一役買つていると思う。電灯線は自分が切つたとすれば電話線は奥さんか阿部の何れかが切つた事になるが、奥さんは重傷を受けているので屋根へ上つて電話線を切ることはできないので阿部が切つたというより仕方がないことになること、等。

〈18〉昭二九・八・三検(検事藤掛義孝)(同)

七月五日か六日の日、雨傘を返しに三枝電機店へ行つたとき、茂子から「まさか昔のことは今更言えんじやろうなあ」と言われた。昨年一一月五日事件がありその後二、三回警察に呼ばれて調べを受けたが、確か二回目の日であつたか私が警察に呼ばれて行く朝、奥さんは私に向つて「こないだの事は警察へ行つても絶対に言われんでよ」といつたこと、等。

〈19〉昭二九・八・三検(藤掛)(同)

昨日の取調で電話線は切つていないと述べたが、実は電話線も電灯線も自分が切つた。少しでも罪が軽くなるようにと思つて電話線は切つていないと述べた。なぜ電話線だけ否認して電灯線は認めたかと言えば、既に電灯線については石川幸男に話してあるので電灯線を切つた事は今更否認しても通らんと思つたからである。しかし、いかに否認しても信じてくれそうにないし、この事件について一生懸命になつている係官の人々に対して心苦しくなつたので一切有りのままを申し上げ犯人を検挙して事件を解決して貰おうという気になつた。

阿部が病院へ出かけたあと、茂子が匕首の峯を自分の腰に軽く打ちつけ、「これで電話線と電灯線を切つてくれ」と言われ、その匕首で電話線を切つた。電話線だけ切つて電灯線を切らなかつたのは電灯線を切つてしまえば下で明かりがいる様なとき困るだろうと思い、電灯線だけは夜が明けて明るくなつてから切ろうと思つたからである。電灯線を切つたのは、大道へ行つて帰り、茂子が斎藤病院へ行き自分も蒲団を持つて行き、又、七輪を買い、匕首を発見して警察の人に話したあと屋根に上りペンチで捻じ切つたものである。電灯線を切つてすぐ下に降り警察の人に電灯線が切られているといつて案内して見せた。自分は奥さんから重大なことを頼まれてやつたのであるから主人を殺したのは茂子に間違いないと信じていた。事件から相当日も経つており、その上あんな重大なことをさせられているのに何一つ御礼らしい物も貰つていないので今更本当の事を言うについて茂子に申し訳ないという気持は更々ない、等。

〈20〉昭二九・八・四検(藤掛)(同)

昨日述べたとおり電話線電灯線を切つたことは間違いない。こんなことがあつてから茂子は前と打つて変つて優しくなり叱らなくなつた。事件後三日連続で調べられたように思うが、その二日目の日の朝、警察へ行くとき「警察へ行つてもこの間のことは決して言われんでよ」と口止めされた。昭和二八年一一月一五、六日頃帰りが遅くなつたとき茂子に叱られ、更に、「あの事件が片附いたらあんた方にもそれ相当な事をしようと考えている」と言つた。電話線を匕首で、電灯線を切つたのはペンチで切つた事に間違いない。自分は、ペンチで電線を力一杯はさんで握りしめ、二、三回最後にねじる様にすると中の銅線が切れたような手応えがしたのでペンチを外して電線を手でさわつて見るとまだ被覆が切れてなかつたのでもう一度ペンチではさんで二、三回後ろへ引く様にして被覆を切つたことを覚えている。大道から帰り電灯線を切るため寝巻のままで店と工事現場の間の足場から屋根が見える位の高さ迄上つたが、新開のおじさんから、危いぞ、と言われ降りたことを覚えている、等。

〈21〉昭二九・八・五検(湯川)(同)

事件当日の朝のことを詳細に述べている。大要は、これまでと同旨であるが、要約すると、

午前五時ころ「火事じや」という声で目が覚めた、茂子に命じられ電話線と電灯線を切つた。茂子から渡された匕首で電話線を切り、電灯線は後でいるかも知れないと思つて切らなかつた。茂子に匕首を渡し大道へ行つた。その途中、両国橋派出所へ行き「泥棒が入つた」とだけ言い主人が怪我をしたとは言わなかつた。これは別に考えがあつて言わなかつたのではなく泥棒が入つたと言えば来てくれると思いそれだけ言つた。大道から帰り、電灯線を切ろうと思い修理台上のペンチを持つて表へ出、屋根へ上ろうとすると阿部にその姿を見られ、隣りの新開にも「危いぞ」と言われたので上るのをやめた。六時三〇分ころになつて、電灯線を〈20〉調書で述べたようにして切つた。本年四月三日三繩町の石川幸男方に行つたとき、石川に、奥さんに頼まれて電話線と電灯線を切つたといつた。石川はびつくりしていた。以上のことは本当に間違いない、等。

〈22〉昭二九・八・五検(藤掛)(同)

事件の後における徳島市警の捜査官の行動について。茂子の退院後、近藤、福山らの刑事が殆ど毎日のように店に来ていたこと、等。

〈23〉昭二九・八・六検(村上)(同)

電灯線を切断して警察官に申告した場所はこれまで述べていた所と異なり、店土間に入り奥四畳半近くの所で何かを探していた警察官に申告したこと、等。

(2) 阿部の調書

〈六〉昭二九・七・二二検(村上)(徳島地検)

前回述べたことや違つていたことについて述べる。昭和二八年一一月五日朝、自分が西野と共に眠つていると、奥四畳半の間辺りから、どしんどしんと足踏みしているような音が耳に入り目が覚めた。この音がやむと茂子と佳子が一緒位に二、三言いがつた。火事ではないかと思い裏側のガラス戸を開け外を見回し、出入口から出てみると茂子が寝巻のままコンクリート壁に向かつて立つていた。そして私共の方を向いて何も言わず、不思議に思つて二人は再び小屋に入つた。すると一、二分して四畳半の間から茂子が大声で「若衆さん来て」といがつたがその一寸前佳子が「西野さん西野さん」といがつた。四畳半の間に行くと二枚のガラス戸、障子二枚は東側が開いていた。そして前に述べた経緯で市民病院へ行つた。医師と看護婦を連れて帰ると店の外の舗道上に西野が寝巻姿で立つていた。西野はそれから建築中のコンクリートの足場を支えているナル木から足を柱にかけて登りかけていた。西野は上つてから二、三分位して降りて来た。西野は屋根の上の電灯線の修理でもしに上つたのかと思つたが、店の中を覗いてみると真暗のままだつたので何しに上つたのか不思議に思つた。医師が帰り茂子が入院して西野と自分の二人は服に着替えに行き匕首を発見したことは前回のとおりである。二人が服を着替えてから西野はどこへ行つたのか判らないが、店土間入口に立つていると入つて来た男が安全機はどこかと尋ねるので案内すると開いていたスイツチの蓋を閉じると点灯した。この時、四畳半の間には冨士淳一、三枝満智子の二人が立つていた。電機屋が帰つて約一五分位して急についていた電気が又消えてしまつた。ところが消えて二、三分して西野が表入口から店土間に入つて来た。それから警察に出頭し、昼過ぎに店に帰り、冨士淳一に言われて亀三郎の解剖に立会つた。自分は点灯してから一五分位して電気が消え、間もなく西野が表外側より店土間に入つて来たことと、その後電灯線が切断されていたことから事件後二、三日して西野が屋上で電灯線を切つたのではないかと時々思うようになつたこと、等。

〈七〉昭二九・七・二二検(村上)(同)

事件のあつた昭和二八年一二月頃、茂子が警察の人にお世話になつたので電気スタンドでもあげねばいかんといつていた。幼稚園の保母をしている三枝登志子から近藤部長刑事の娘がその幼稚園に来ているので、その娘さんに渡すよう電気スタンド一台を持つて行き登志子に渡した、等。

〈八〉昭二九・七・二九検(村上)(同)

昭和二八年一一月二〇日乃至三〇日までの頃、西野が帰るのが遅くなつたとき、茂子は西野と自分に「居ようと思えば居てくれてもよいがやめようと思えばやめてもいい」などと言つた。その晩、西野と自分はやめようと相談したが結局、居ることになつたこと、等。

〈九〉昭二九・七・三一検(藤掛)(同)

昭和二八年九月頃、自分は藍場町の森会へ電気あんま器を持つて行つた。森会の六〇歳位のおばあさんからあんま器の修理を頼まれていた。修理代は貰つていない。貰つていないところからすると、主人や奥さんは森会の人と前から長く知合つているのではないかと思う、等。

〈一〇〉昭二九・八・三検(村上)(同)

茂子に言われ服を着替えに行つたが、それは前述の配電会社の人が開閉器を閉じてから後のことである。着替えに行くとき未だ点灯していたかどうか覚えていない。着替えるため新築中のコンクリートと建物の南側に沿つて歩き、顔を洗つているとき匕首を発見して警察官に知らせた。昭和二九年一月新築中の三階建建物に移転して間もなく、茂子は自分が発見した匕首は、「犯人がうまいこと行く様に一つのまじないとして置いた物じやないか」と自分に話したことがあること、等。

〈一一〉昭二九・八・三検(藤掛)(同)

事件の日の朝、市民病院の医師と看護婦を連れて帰ると西野が寝巻き姿のまま工事場の一番店の方に寄つた角の足場に飛びついて登つて行くのを見た。別に怪しいという気はしなかつた。医師が帰り茂子が入院して間もなく一人の男が入つて来て開閉器が何処にあるかと聞き、教えると開閉器を閉め、電灯が灯いた。間もなく急に消えたが点灯したときも消えたときも西野の姿は見ていないし、店内に居なかつた事は先ず間違いない、等。

(3) まとめ

この段階は、西野に対して逮捕、勾留がなされ、身柄拘束状態で電話線電灯線切断に関する取調が集中的になされた時期である。西野の逮捕理由は、電話線電灯線切断による公益事業令等違反であり、従つて同人は自ら被疑者として取調べられつつ、同時にその供述が亀三郎殺害事件の茂子犯人説に対する参考人的立場をも兼ねるという二面の立場を有していた。阿部は在宅のまま右西野供述の裏付捜査の対象として取調を受けた。

(イ) 昭和二九年七月二一日付の検面調書において西野は、茂子に依頼され三枝方屋根上の電話線電灯線を切断した旨供述した(〈6〉調書)。同人は昭和二八年一一月中の取調に際しては、電灯線を修理した旨供述していたものであり(〈1〉〈2〉〈3〉調書)、この段階において、従前とは全く逆の供述をするに至つたわけである。

(ロ) この段階における西野供述は、その変転動揺の著しいこと第二審判決も指摘するとおりである。

先ず〈6〉調書において、大道へ行く前にニツパーかペンチで電話線を切り、大道から帰つてからニツパーかペンチで電灯線を切つたと供述したが、同じ日の〈7〉調書では電話線は切つてはいないと変わり、二日後の弁解録取書においても同様の弁解をなし、その翌日(七月二四日)に至ると電話線も電灯線も自分が切つた、その時期は何れも大道から帰つてからである、と変り、切断方法も電話線はニツパーで電灯線はペンチで、と変転する(〈11〉調書)。ところが、七月二六日に至ると、電話線は茂子から渡された匕首で切断、電灯線はこれまで通りペンチで切つた、切断時期についても電話線は大道へ行く前、という風に元に戻つている(〈13〉調書)。ところが、八月二日には再び電話線を切つてはいない、電話線は阿部が切つたと思う(〈17〉調書)と述べたが、翌八月三日には再転して電話線も電灯線も自分が切つたと述べ(〈19〉調書)それ以後も同旨の調書が作成されている(〈20〉〈21〉調書)。

(ハ) 阿部のこの時期における供述は、西野の電灯線切断の供述を補強する供述が多い。例えば「事件後二、三日して西野が屋上で電灯線を切つたのではないかと思うようになつた」(〈六〉調書)、「開閉器を閉めると電灯がつき間もなく急に消えたが点灯したときも消えたときも西野の姿は見ていないし、店内に居なかつた事は先ず間違いない」(〈二〉調書)等の供述は、捜査官の想定していた四国配電会社の係員による点灯後の切断、に符合するものとして作成されたことは明らかである(前記村上検事作成「捜査の経過」)(一偽1)。

(四) 阿部逮捕(昭和二九年八月一一日午前零時一五分)前後から茂子起訴(昭和二九年九月二日)に至るまでの両名の供述

(1) 西野の調書

〈24〉昭二九・八・一〇検(藤掛)(徳島地検)

これまで申し上げたことについて只一つ隠し立てをしていたことがある。只今からそのことについて見た侭を正直に申し上げる。その前に何故このことを今日迄言わなかつたかというと、これを言うと、三枝の奥さんの嫌疑が一層深くなり私としては甚だ言いづらかつたからであり、もう一つにはこの点は私の口からではなく阿部の口から先に聞いて欲しかつたからである。

事件のあつた朝、これ迄茂子の「火事じや」という声で目を覚ましたと言つて来たがこれは事実ではない。私はその朝、店の四畳半から聞えるドタンバタンという物音で目が覚めた。余りに激しいので小屋の板の隙間から覗いて見たがよく見えず、四畳半の内側の障子が開いていたので見ると、二つの白い着物がちらちらしているのが見えた。阿部と二人で小屋を出て、四畳半の間と小屋の間の通路のところで店の座敷の中を覗き込んだ。外のガラス戸も内側の障子も東の方に一杯に開いていた。うす暗がりの中でも中の様子がかなりはつきり見えた。すると、部屋の真中辺りで大将が店の方から便所の方へ向つて立ち、大将と向い合つて奥さんが立つているのが見えた。二人とも白つぽい寝巻姿だつた。奥さんの方は後姿しか見えなかつたが、頭の髪や背格好から見てそれが奥さんであることは絶対に間違いない。二人は腕を組合つて前後左右に動いていた。ドスンドスンという足音はしていたが二人の声は聞こえなかつた。阿部と二人で見ていたが、組み合つた侭二人が座敷の押入の方に動いて見えなくなつたので阿部と小屋へ戻つた。大したこともさそうなのでもう一度寝直そうと思い横になりかけた時、突然茂子の声で甲高い「キヤーツ」という悲鳴が聞えた。それから二、三回ドスンドスンという音がしてから物音が全く聞こえなくなつた。この叫び声でびつくりして阿部と共に小屋から出てみると茂子が工事中の建物風呂場ふきんで立止つているのに出会つたこと、等。

〈25〉昭二九・八・一〇証人尋問調書(裁判官高木積夫)(徳島地裁)

裁判官

二八年一一月五日の朝亀三郎の殺されたのを知つているか。

はい知つています。朝、奥さんがいがつたので目を覚ましました。私は火事だというのを一回聞きました。

……………

それでどうしたのか。

外へ出て水道の所へ行つたとき奥さんが新築中の工事現場の所に行きましたが、奥さんは何も言わないので私の寝ているところへ又帰り、蒲団の上に座つていますと四畳半の方より「泥棒」という声が聞こえました。………それで水道の傍へ出ると奥さんが泥棒が入つたので警察へ電話してくれ、と部屋の中から言われました。

……………

茂子から電話線及び電灯線を切つてくれと頼まれたのか。

そうです。阿部君が医者へ行つたあとです。

どういう風に頼まれたのか。

私が立つていますと、私の方へ奥さんが寄つて来て………急に腰を叩くので見ると「ドス」を持つていました。

「ドス」の長さはどの位か。

五寸位の長さで抜身のままでした。

……………

それでどうしたのか。

それで電話線と電灯線を切つてくれと頼まれました。

渡されたときの感じはどうですか。

それは全然わかりません。夢中で受取りました。

……………

何故頼まれたのか。

それははつきりわかりません。

刃物で電話線、電灯線を切ると感電するとか危いとか感じなかつたか。

この位のことであれば命に別条はないと思つていました。

検察官

最初火事だという奥さんの声を聞いて外へ出たのか。阿部君も一緒か。

そうです。私一人で外へ出ました。どこにも火事が起つていないので又帰つて来ました。

……………

小屋へ入つて「泥棒」ときいたのはどうか。

奥さんの声でした。四畳半の間の方からきこえました。

二人で出て四畳半へ入つて行つたのか。

そうです。四畳半の室を通り抜けて店へ行きました。

そのとき蒲団を踏んだのか。

畳の上であつたと思います。靴をさげて素足で通りました。寝巻のままでありました。

……………

奥さんから電話線、電灯線を切つてくれと頼まれたとき阿部はいなかつたのか。

いませんでした。

……………

電話線はどのような線か。

二本巻いた銅線で縁に布を巻いてあります。

それをどのようにして切つたのか。

二本よつてあるのをその間に匕首を突き刺して、一本だけをしごくように切りました。

……………

電灯線を一緒に切らなかつたのか。

後で要ると思いましたし、暗かつたので、医者が来て困ると思つたからです。明るくなつてから切ろうという心算でした。

電話線を切つて降りてどうしたのか。

四畳半へ匕首を渡しに行きました。

……………

(大道へ行く途中)どこかへ寄つたのか。

両国の派出所へ寄りました。警察へ寄つた方が良いと思つたので、泥棒が入つたので来てくれといいました。

何故そのようなことをいうのか。電話線を切つていながら自分で泥棒が入つたと届けたのは実際泥棒が入つたと信じていたのか。

泥棒が入つたとは思いませんでしたが、只寄つてみただけです。

それは何故か。

泥棒が入つたと先に言つたので嘘をついたわけです。奥さんの真似をしたのです。

奥さんをかばう気持ではないのか。

それはありません。

店に泥棒が入つたとは信じていなかつたのか。

充分入つたかどうか分りませんでした。

そのときの気持はよくわからないのか。

わかりません。

それから大道へ行つたのか。

そうです。

……………

(大道へ行つて帰り、ペンチを取つて電話線を切つたときの足場を上ろうとすると新開から「危いぞ」といわれて止め、茂子が入院し、蒲団を病院へ持つて行つた旨答える。)

……………

それからどうしたのか。

店から新築の工事場を通つて小屋へ阿部君と二人で行つて着物を着替えました。その途中で「ドス」を見つけられました。

どこにあつたのか。

私らが一番最初に出て来た時、奥さんの立つていた足元位の所にありました。

どの様な状態であつたのか。

刃が上になつていて、工事現場の壁に立てかけてありました。

誰が発見したのか。

阿部君です。

……………

その時の感じでは、自分が電話線を切つた匕首とは思わなかつたか。

よく似ていると思いました。長さがよく似ているとは思いましたが、柄の方はよく分りません。

……………

服を着替えてどうしたのか。

七輪を買つて………斎藤病院へ………持つて行つて帰つて、ウインドの上に置いてあつたペンチを持つて、工事場の中より上つて工事場の二階の中より店の屋根裏の電灯線の所に上りました。

どの辺の電灯線か。

室内の引込線の中へ入つている碍管のすぐ傍です。その一本を切りました。

どういう風に切つたのか。

すぐに挾んで力を入れて切りましたが、十分切れていないでねじましたら銅線のみが切れて、被覆は切れていなかつたので、又ペンチではさんで引つぱつて手元へしごく様にして切りますと一、二回で切れてしまいました。

……………

電灯線を切つてどうしたのか。

………すぐ下におりました。店の土間へ入つて行きますと、背広を着た警察の人がいましたので線が切れていると嘘をいい、警察の人と上つて行つて、私がすぐつなごうとしました。引つぱり出したらつなげるからつなごうとしますと叱られました。

つなごうとしたときペンチは持つて行つたのか。

ポケツトへ持つて行きました。

警察官にペンチを貸せといわれたので渡すと証拠になるからといつて切られた線を切つたのか。

それは分りませんが、警察の人が切りました。それから店の前にいると一寸来てくれ、というので警察へ調べられに行つたのです。

……………

奥さんからこれで電話線、電灯線を切つてくれと匕首を渡されたとき、どの様な感じがしたか。

私の考えでは、泥棒が入つたとしても、外から入る様に見せかけるために自分に切らせるのではないかと思います。

奥さんにいわれて電話線を切ることは悪いとは思わなかつたのか。

悪いとは思うが止むをえないと思いました。

止むを得ないとはどういう意味か。

もし断つて匕首ですぐにやられたらと思つたので止むを得ず切りました。

店をやめたのはいつか。

今年の三月一日です。

(昭和二九年四月三日か四日、石川幸男方で同人に話したこと、茂子に口止めされたこと、等を述べる。)

裁判官

火事、泥棒といわれて四畳半へ行つたとき、店先でガタガタいつていたのか。

ガチヤガチヤという音で、電池をいれる様な音です。

奥さんはどこにいたのか。

電話傍で電池を置いてある所です。

検察官

事件の朝、奥さんの火事だ、という声で起きたのは間違いないのか。

違うのです。

するとその朝どういうことで目を覚ましたのか。

ドタンバタンという音で目をさましたのです。

目をさましてどうしたのか。

隣りを見ますと阿部君も目がさめていたが、節穴(板の隙間)から店の方をのぞいていました。

どの様なことが見えたのか。

人間が何かおつて喧嘩しよるのではないかと思つたのです。

その時人影ははつきり見えたのか。

足が見えたり寝巻の白いのがみえたりした程度です。

白い着物は二つみませんでしたか。

それははつきりみていません。

それからどうしたのか。

あまり大きい音がするので西側の出入口より阿部君と一緒に出ました。

何のために小屋を出たのか。

喧嘩みたいなことをしているので見に行きました。

二人が出てどの辺まで行きましたか。

店の四畳半の便所の附近まで行きました。

その時、店の土間の一番外側のガラス戸はしまつていたか。

あいていました。

どつち側にあいていたのか。

東の方へ一杯にあいていました。

内側の障子はどうか。

あいていました。東側に一杯あいていました。

その時、まだ相当に暗かつたのですか。

外では、四、五メートルの先が見える程度でうす暗かつたです。

座敷の中をのぞいて見たのか。

のぞいてみました。

何かみえたのか。

大将が自分と正面の位置に向き合いに立つていました。大将と向い合いに立つていた人があります。

大将の立つていた位置は座敷のどの辺か。

座敷の略真中です。

大将の向いに立つていた人はどんな格好の人か。

暗くてはつきり分りませんが、寝巻を着ていたように思います。

その人の頭の髪の毛はどの様であつたか。

奥様の様にパーマネントをかけていました。

その人の背の高さはどの位か。

三枝の奥さんと同じ位の高さです。

その人は白い寝巻を着ていたのか。

そのように思います。

大将とその人はどの様な格好で立つていたのか。

組合つているような格好でした。

組みついていたままか。

うごいていました。激しく動いていました。

その時、組みついていた人は誰だと思いますか。

奥さんではないかと思いました。

それからどうしたのか。

見ていると二人が柱にかくれて見えなくなりました。

……………

壁にかくれて見えなくなつてどうしたのか。

夫婦喧嘩だと思つて大したことはないと思つたので、阿部君と二人で小屋に入りました。

それからどうしたのか。

入つて来て蒲団の上に座つていると奥さんの声が「ギアーツ」という相当かん高く一回だけ聞こえました。

それからどうしたのか。

あまりおかしいので阿部君と二人で出て行きました。

……………

これまでに、大将と奥さんが夫婦喧嘩するのを小屋からのぞいたり近くで見たことはあるのか。

私が三枝方へ入つてから二、三回あります。

時間は大体いつ頃、ドタンバタンという音がきこえるのが多かつたのか。

大体夜の一〇時過ぎであり、朝も七時位の時一回ありました。

先に、火事だという声をきいて起きたというのと、現在述べたのと変つているのだがその理由はどうか。はつきりしたことを言いたくなかつたのか。

知つている人がもう一人あるから、その人より言うてくれると思つていたが、やはり本当のことをいつておいた方がよいと思つたからです。

こういう夫婦喧嘩の現場を見たり、その後奥さんより頼まれて電話線を切つたりしていることからみて、犯人が誰であるかということを始めからよく知つていたか。

その朝から奥さんではないのかなと分つていました。

夫婦喧嘩の現場は阿部君もよく知つているか。

知つています。

……………

〈26〉昭二九・八・一七事(丹羽)(地検)

昨年の一一月五日のことについては前回述べたとおりであるが一つ訂正しておく。物音を聞いて阿部と一緒に見に行くとき、確か南の窓を開けて外に出て主人の寝ているところまで行つたと思う。そして二人がもつれ合つていて、いつもの夫婦喧嘩と思い引返して元の窓から小屋まで入つたと思う。前回は出入口から出たといつたが記憶違いと思う。この事件の五日前に主人と茂子とは大きな口喧嘩をしたことがある。大将が遊ぶのが原因だつたと思う。その翌日、茂子は大道へ行つて帰つて来ず大将が呼びに行つてくれというので阿部と二人で替る替る行つて呼んで来た。茂子が帰つて来て二、三日して今度の事件が起きたこと、等。

〈27〉昭二九・八・一八検(藤掛)(同)

今一つ大事な事を隠していたので正直に申上げる。実は私が奥さんに頼まれ匕首で電話線を切断して、奥さんに「切つて来ました」と言つて匕首を渡したとき、奥さんは「有難う」といつて、更に、「これをどこかえ放つて来て頂戴、それから大道へ行つて皆を起こして来てくれ」といい、新聞紙にくるくる巻いた長い物を私に渡した。私はそれを手に持ち自転車にまたがつて寝巻のふところに入れるとき、これは刃物だということが分つた。そのとき新聞紙から約一センチか二センチ位刃物の先が飛出していた、新聞紙も何かべとべとしたものがついていたのを感じた。それが血であるかどうかは分らないが、大体その前に夫婦喧嘩をしていることや、私に電話線を切らせた事から考えてそれが血であろうと思つていた。自転車で両国通りに出て両国橋の真中辺で自転車を停め、西側の橋の手すりの下の方に足をかけて両手をハンドルから離し、右手にふところからその刃物の端をつかんで取出し、右手を左から右へ水平に振つてその刃物を川の中へ放り込んだ。新聞紙の上には何もくくつてはいなかつたので、宙で新聞紙と刃物が別れ、新聞紙はヒラヒラと落ちて行つた。新聞紙が水中に落込んで川下へ流れて行くのを見ながら自転車を引返して両国橋派出所へ行つた。どうしてこの事を隠していたかというと、こんな事までいわなくとも事件は解決つくと思つていたし、又、こんな事をいうと私がいよいよ共犯者の様に疑われて罪が深くなると思つていたからである。

この私の放つた刃物は、あの当時店の台所の棚の上に置いてあつた刺身庖丁ではないかと考えている。

私が放つた位置の近くの川底を探して頂けば、きつとこの刃物が出て来ると思う。私もこれを探すのに協力させて頂きたいと思う、等。

〈28〉昭二九・八・二〇証人尋問調書(裁判官白井守夫)(徳島地裁)(一偽2)

茂子に頼まれ新聞紙に包まれた刃物を両国橋から川へ投げ棄てたことの詳細。〈27〉とほゞ同旨。

〈29〉昭二九・八・二一検(村上)(徳島地検)

私はこれまで隠していたことが一つあるが最後に申上げる。

昨年の九月か一〇月頃の午前に四〇過ぎのおばさんが三枝の店に来て茂子に、持つて来た電気マツサージ器か電気コタツの様な物を修理してくれと依頼していた。それからその日か、二、三日してか茂子から地図を書いてもらつて阿部が修理した物を持つて行き、午前一一時前後に帰つて来たが、そのとき阿部は茶色のハトロン紙様の物で巻いた細長い物を茂子に渡していた。昼過ぎ、私は炊事場南側の棚の上にそれが置いてあつたので何だろうと思いこつそり開けて見た。すると抜いてはみなかつたが匕首だつた。何でこんな物を手に入れたのか不思議に思つたが、奥さんが来て妙な顔をしてどこかえしまつた。奥さんは右匕首様の物で亀三郎さんを突き刺したか、それとも突き刺したのは私が新町川へ投げ棄てた刺身庖丁かの何れかであると思う。もし匕首様の物で突き刺したものでなければ、奥さんは強盗が入つて亀三郎を殺したように見せかけるため新館の裏壁に自分で立て掛けたか登志子に立て掛けさせたのではないかと思う、等。

〈30〉昭二九・八・二二検(藤掛)(同)

昨年の一〇月頃、店の台所の棚の上に、ハトロン紙様のもので包んであつた匕首を見たが、その匕首はその日阿部が藍場町の森さんの家へ電気あんま器を届けに行き、その帰りに持つて帰つたことが分つていた。阿部がそれを持つて店の内へ入つて来るのを見た。その晩、阿部に「今日の紙包はどこから持つて帰つたんなら」と聞くと、阿部は「新天地じや」というので、「新天地とはどこなら」と聞くと、阿部は「駅前に向つて左側の方じや」といつていた、等。

〈31〉昭二九・八・二四証人尋問調書(裁判官村上博己)(徳島地裁)

裁判官

昨年一一月五日三枝亀三郎が殺された前、店員の阿部守良が、どこからか匕首を店へ持つて来たことがあるか。

あります。

そのときの模様はどうか。

それは、昨年一〇月末頃の朝の一〇時すぎ頃、阿部君が、使いから自転車に乗つて、店の間の方から入つて来て………紙に包んだ約一尺位のものをウインドの奥の土間のところで椅子に腰をかけていた奥さんに渡したのを見ました。

……………

奥さんはそれを受取つてどういつていたか。

「ありがとう」といつて受取つていました。

証人はそれをどこで見ていたか。

店の奥の修理台のところで見ていました。

証人はそのときそれを何だと思つたのか。

………その日の昼頃、四畳半の部屋の隣の炊事場の棚に置いてあるのをごはんを食べる食台をとりに行つた際に、何だろうと思つて広げてみますと、それが桐の木の無地の鞘に入つた二寸位いの柄の茶色がかつたドスのようなものでありました。

証人はそれを抜いてみたか。

抜いてみませんでした。

……………

阿部に対し、そのドスのようなものをどこから持つて来たか聞いたことがあるか。

あります。店員が寝泊りしている裏の小屋で、その日の夜九時過ぎ頃に「今日持つて来たものはどこから持つて来たか」と聞くと、「駅前から左へ行つた新天地から持つて戻つた」といいました。

……………

〈32〉昭二九・八・二五検(藤掛)(徳島地検)

私は昨年の一一月五日当時のことを静かに振返つてみておりましたら、これ迄に述べていないことを一つ思い出した。それは事件後、奥さんが退院して一〇日位経つた日の朝九時頃のことである。

奥さんは私に、事件のあつた朝警察に呼ばれて調べを受けたことについて、警察ではどんな事を尋ねたかを尋ね、私は何も言わなかつた、と返事をした。すると、奥さんは私に、お前が電灯線や電話線を切つた事を警察で言えばお前も罪になり、四、五年も刑務所へ行かねばならんから電線切つたことは言われんでよ、と低い声で私に話したことがある。私はこの話を聞いて、四、五年も刑務所へ行かねばならんような罪になるとは考えていなかつたので、奥さんのこの話を聞いてえらいことをしたと思つた。その後暫くして私が警察へ三日間続けて呼ばれたことがある。その二日目の朝、食事が済んで立ちかけたとき、奥さんが私にこの間のことは警察に行つても言われんでよ、といつた。これは最近のことであるが、本年七月六、七日頃に傘を返しに三枝の店へ行つたとき、奥さんから検察庁でどんなことを聞かれたんで、と心配そうに聞かれ、私は川口や中越の事について聞かれたと嘘を言つた。すると奥さんは、今更昔のことは言えへんじやろうなあ、といつたが私はええと返事をした。

このように度々奥さんから昔のことは言うなといわれていたが検察庁で調べを受けている間に辛棒できなくなりとうとう電話線や電灯線を切つたことを述べたのである。私がこの電線のことさえ言えばこの事件は当然片付くものと思つていたので、事件の朝、私が阿部と一緒に便所の傍から主人と奥さんがもみ合つているのを見た事や、奥さんに頼まれて大道へ行く途中刃物を両国橋から投げたことや、又、事件前に阿部が新天地の方から匕首を持つて帰つて奥さんに渡したことは言わなかつたのであるが、次々と疑いのある点について追求されたので次々と真実のことを申し述べたものである。この事件について私の知つていることはこれで一切申し述べてしまつたのである、等。

〈33〉昭二九・九・一検(村上)(同)(西野、阿部、茂子三人の対質調書)(不1)

参考人阿部守良は、

私はこれまで述べた通り昨年一〇月下旬頃奥さんの冨士茂子さんから頼まれて新天地の篠原方へ行つて後に名前を知つた篠原澄子さんから紙包みの匕首一振を受取りこれを持帰つて奥さんに渡しました。

此の時被疑者に対し弁解をもとめたところ、同被疑者は、

私は頼んだ事もないし受取つた事もありません。

此の時、阿部は、

私は、右の通り依頼されたり奥さんに渡したりしたことは絶対に間違いありません。

私が渡した匕首を奥さんが何処へ置いたのか、その時は気付きませんでしたが、その日、夕食の準備に食器を取りに炊事場に入つたところ、同室北側の棚上に右匕首が置いてあつたので私は中味を見ようと思つてこつそり開けて見ると、少し刃が見えたので急いでもと通り包んだのであります。今思うと此の匕首は亀三郎さんが殺された事につき何か関係があろうと思います。

尚、此の匕首は、亀三郎さんの殺されてしばらく経つた後、新築中の西側建物裏壁に立掛けてあつたのを最初に私が発見した次第です。

問 西野君、君は此の匕首に心当りはないか。

此の時、西野清は、

昨年一〇月下旬頃の夕方、私が炊事場へ食器を取りに行つたところ、北側棚上に細長い紙包みが置いてあつたので何だろうと開けて見ると鞘付きであつたと思いますが、匕首一振が入つておりました。

此の匕首は、阿部君も今述べた通り、裏壁に立掛けてあつた匕首と同じ物ではないかと思います。その理由は、右匕首以外の匕首を主人方で見た事はないからです。

此の時、被疑者冨士に対し、阿部、西野は右様に述べているがどうかと尋ねたところ、被疑者冨士は、

私は阿部に匕首を取りに行かした事はありません。

次いで、被疑者冨士は、阿部に対し、

問 貴方が篠原から匕首を受取つて私に渡したというのは私が大道へ行く前ですか、後ですか。

此の時、検察官は、被疑者に対し、

只今の質問は、匕首を取りに行かしたり、阿部から受取つたりしたことは間違いないのに、只日時だけが違つているから尋ねている様に思われるがどうか。

此の時被疑者は黙して答えず。

阿部守良 〈指印〉

西野清 〈指印〉

右の通り録取して読み聞かしたところ、参考人阿部守良、同西野清は誤りのない旨申立て、署名左示指印したが、被疑者冨士茂子黙秘の上たゞ署名を拒否した。

(2) 阿部の調書

〈一二〉昭二九・八・一〇検(藤掛)(徳島地検)

私はこれまで何回も取調を受けたが、一つだけ隠して申上げなかつたことがある。

それは事件があつた一一月五日の朝、私はドタンバタンという店の座敷の方からの音で目が覚め、西野と二人で小屋を出、こつそりと店の座敷の便所の前附近に来た。裏のガラス戸は全部開いており、内側の障子も開いていた。二人が座敷の中を覗き込んだところ、丁度、主人が私らの方を向いて立つており、主人と向い合つて背が主人よりも低い人で白い寝巻を着ている人が立つて、二人が互にいがみ合つているのを見た。約二分程見ていたが夫婦喧嘩で大したことはないと思つて二人は小屋に戻つた。それから間もなく「若衆さん来て」と茂子のいがる声がしたので小屋を出てみると、奥さんは私らの目の前辺りの所まで来ており、ゆつくりと工事現場の表の方に歩いていた。

こんな事を今迄申上げなかつたのは、これを言うと奥さんの疑いが非常に強くなり申し訳ないと思つて隠していた。事件後、私が警察へ呼ばれて行くとき、奥さんは私に「あんた、あのとき座敷でドタンバタンしていたのを見とつたで」と尋ねるので、私は「それは見た様に思う」と答えたところ、奥さんは「ほうで、はつきりせん事は警察で尋ねられても言わん方がええでよ」といつた。

とにかく、あの事件の朝、大将と白い着物を着た奥さんらしい人とが座敷でいがみ合つているのをこの目で見ていることは絶対に間違いありません、等。

〈一三〉昭二九・八・一一裁(裁判官松田熊次郎)(徳島簡裁)

裁判官

昭和二八年一一月五日朝は何時頃起きたか。

その朝、ふと朝五時頃目を覚ますと、店の方で誰かがどたんばたんと大きな音を立てて争いをしているような音がきこえたので………五時頃目を覚ましました。

それで証人は店の間へ見に行つたのか。

やかましい音がきこえたので、私は………西野君と二人で、小屋の南側にある窓を開けて見ましたところ、何も変つた事がないので、西側にある出入口から外へ出て、店舗の裏手の便所の南ふきんへ来ました時、座敷の障子も、廊下にあるガラス戸も皆東の方へ開けてあり、座敷の中で主人が南西に向き、それに向い合つて、白い着物を着た主人より二、三寸背の低い人と主人が争つているようであつて、そのとき電灯がついていなかつたので、判然解りませんでしたが、多分、主人と奥さんが夫婦喧嘩でもしているものと思つて小屋へ帰つて来ました。

その後何か変つたことはなかつたか。

私らが小屋へ引返して間もなく、奥さんの声で「泥棒じや」という声がきこえたので、出入口まで出て行きましたところ、………風呂場の前で奥さんが立つて居り、私の顔を見ましたが、何もいわなかつたので妙に思いましたが、再び小屋に引返し………ました。

(以上、従前の供述調書と同旨)

主人夫婦が喧嘩しているのを見なかつたか。

先程申した以外、その日は喧嘩しているのを見たことはありません。

それより前に夫婦喧嘩しているのを見た事がないか。

口論しているのは時々見ましたが、つかみ合いとか、暴力争いをしているのは見た事はありません。

……………

三枝夫婦が喧嘩をしておつたと思つた際、外に誰か居らなかつたか。

その時は夫婦ぎりでした。

……………

事件当日、三枝の主人と奥さんらしい人が座敷で喧嘩をしているのを見た事は間違いないか。

主人と白い着物を着た奥さんらしい人とが座敷でいがみ合いをしているのを見た事は絶対に間違いありません。

検察官

喧嘩しているのを何分位見ておつたか。

約二分位見ておりました。

証人が立つていた所から喧嘩をしていた主人の所までどの位離れていたか。

約二間位離れておりました。

……………

二人の声や足音はきこえなかつたか。

声は全然きいておりませんが、足音がバタバタするのは少しきこえていた様に思います。

二人は組ついていたか、又は殴り合つていたか。

組ついては居らなかつたが、二人は殴り合つていたように見えました。

主人の顔ははつきり見えたか。

はつきり見えませんでしたが、格好から主人であると思いました。

主人の前に向い合つて立つていた人が奥さんと思つたか。

そう思いました。

なぜそう思つたか。

背が低いし、寝巻らしいものを着ていたのでそう思いました。

……………

これまでに夫婦喧嘩をしている事をどうして言わなかつたのか。

奥さんから、はつきりせん事はいわんでよいと口止めされていたので申しませんでした。そのような事をいえば、奥さんが疑われては困ると思つて申しませんでした。

なぜその事を最近になつていうようになつたのか。

短刀を持つていた疑いで逮捕されたのでどうせその事はいわねばならんと思つていう気になりました。

……………

〈一四〉昭二九・八・一四検(藤掛)(徳島地検)

匕首の柄に巻きつけてある糸を示され

この糸は古いラジオのダイヤルに結び付けてある糸に非常によく似ている。三枝の店にもこの糸と同じようなダイヤルに取付ける糸が今でもあると思うこと、等。

〈一五〉昭二九・八・一六事(丹羽)(同)

証拠物である布切は今でも三枝方店舗階段下にあると思う。一昨日示された糸は、確か前に使用していたダイヤル糸だと思う、等。

〈一六〉昭二九・八・一七検(藤掛)(同)

昨年一一月四日夜、亀三郎と茂子は小声で口論していた。主人が「金はどこにあるんじや」と荒々しく言い、茂子はこれに対し「金ならその鞄の中に入つている」と枕元の鞄を指し乍ら怒つたように言つているのを見た。事件のあつた朝、私は一番先に店の表戸を開けたが、私が戸締をしてから主人がそこから出たようには思われない、等。

〈一七〉昭二九・八・一七検(湯川)(同)

本年の三月頃、奥さんが市警の近藤刑事部長に電気スタンドを一つ贈つたことがあること。

〈一八〉昭二九・八・一八検(藤掛)(同)

昨年一一月中旬過ぎ頃、主人が殺されてから半月たつた頃、西野が店に帰るのが遅くなり奥さんに叱られた。その晩二人で、あんなに叱られるんだつたら、いつそのことやめようかと話し合つたことがある。そのときどちらからともなく主人を殺したのは奥さんに間違いないなあー、こんなことは他人に話さん方がええなあーと話し合つたのを覚えている。それから西野が突然「台所で使つている刺身庖丁を事件後見たか」と尋ね、見てないと答えると、西野は「その刺身庖丁のことをわしは知つているんじや」と言つたのをはつきり覚えている。何でも西野はその刺身庖丁を奥さんに頼まれてどこかへ持つて行つた様に話をしていた様に思う。このことは西野から聞いていたので判つていたが、自分は西野が検察庁で話をしていないのに自分から先に言えば西野に気の毒だと思つて進んで言わなかつた、等。

〈一九〉昭二九・八・一九検(藤掛)(同)

本日は、三枝方で使つていた刺身庖丁について知つていることを申し上げる。昨年の四月当時、奥の台所の間にさびたナギタンを置いてあり漬物を切つていた。去年の七月頃今迄使つていた古いナギタンがどこかえ行つて見当らなくなり、その代り買つて間もない新しい刺身庖丁が台所の棚の上に置いてあつた。その刺身庖丁は刃の長さ約二〇センチ、柄の長さ約一〇センチ位で現在店で使つている刺身庖丁より少し刃が短かかつた様に思う。この庖丁の柄にマークがついていたのを覚えている。柄の真中辺に長さ約四センチ、横巾約二センチの楕円形の焼き板が刻まれてあり、中に製造会社の名前が小さい字で焼きこまれてあり、その左右に大きな字で何か書いてあつた様に思う。自分が庖丁を最後に使つたのは去年の一〇月末頃である。事件があつて四、五日目位に、これ迄いつも台所の棚の上に置いてあつたこの刺身庖丁が失くなつているのに気付いた。自分は一一月の中頃過ぎ、西野から西野が庖丁をどこかへ持つて行つた話を聞いていたので、あの事件にこの刺身庖丁が使われたのではないかという事や、この刺身庖丁の行方については西野がよく判つているという事は前から薄々判つていた。しかし自分からこんな事を言うと西野に迷惑がかかつてはいかんと思つて言わなかつた、等。

〈二〇〉昭二九・八・二〇裁(裁判官白井守夫)(徳島地裁)(一偽2)

〈一九〉調書で述べた刺身庖丁に関する供述と同旨を証人として証言したもの。

〈二一〉昭二九・八・二一検(藤掛)(徳島地検)

自分はこの事件に関して今日迄大切なことを隠していた。昨年の九月頃、奥さんにいいつけられ、藍場町の森会へ修理の出来た電気あんま器を持つて行つたことがある。そのとき森会のおばさんがあんま器の試験をしているとき、外から一人の若い男が入つて来て私に「これを三枝の奥さんに持つて帰つてくれ」と新聞紙に包んだ長い物を出した。その時振つた感じでそれは匕首だと判つた。それを渡してくれた男は一見してヤクザ風の男で背は普通、顔はやや丸顔、ひげ面の男で色は黒く年は三〇歳位だつた。この匕首を「これを森会で頼まれました」と言つて奥さんに渡したら、奥さんは「中を開けて見たで」と尋ねるので「見ていない」と答え、奥さんはそれを持つて奥の座敷へ行つてしまつた。去年の一一月五日の事件のとき、新築の風呂場の裏の壁に匕首をもたせかけているのを見た瞬間、私はその匕首は自分が持つて帰つた匕首ではないかと考えた。柄の長さや刃の巾等がよく似ていた。去年の一一月末ころ、西野と二人でやめる相談をした頃のこと、自分と奥さんが二人きりで座敷にいたとき、奥さんは、「あなた方二人は店をやめると言うておるが、実は阿部さん貴方には店に居て貰いたいんや。前に藍場町から持つて帰つてもらつたことも警察に言つて貰いたくないんじや」と言つたこと、等。

〈二二〉昭二九・八・二二検(藤掛)(同)

昨日匕首の件について述べたが、藍場町の森さんの家へあんま器を届けに行つたとき、外から若い男が入つて来てこれを三枝の奥さんに渡してくれと言つて匕首を渡されたといつたが、これは自分が嘘を述べたものである。三枝の奥さんから匕首の点は固く口止めされていたので、どうしても思い切つて正直に言えなかつたのである。

本日は思い切つて自分が匕首を受取つた時の詳細を述べる。昨年の一〇月末頃、奥さんから藍場町の森さんの家へあんま器の修理ができたので届けて頂戴、その帰りに駅前の新天地の篠原という家へ行つてくれ、三枝から来たと言えば品物を渡してくれるからそれを受取つて帰つてくれ、と言われた。そこで森さん方へ行つたあと、新天地の駅前西側の通路入口で家の前に立つていた若い男に篠原の家を尋ねて篠原の家へ行き、「三枝から来ましたけど」というと、色の白いやや背の高い三〇歳位の女の人が、一寸そこで待つていて下さい、といい乍ら表口から入つた正面にある階段を上つて行き、間もなく降りて来てハトロン紙に巻いてある長さ約一尺足らずの物を渡して、これを奥さんに持つて帰つてくれ、と言つたのでそれを店に持つて帰つて奥さんに渡した。奥さんは私に開けて見なかつたかと尋ねたので自分は、見ません、というとそのまま奥へ持つて行つた。その日の夕方、台所の食器を取りに行つたとき、ハトロン紙に包んだ物が台所の棚の上に置いてあつたのでこつそりと開いてみると、中には鞘に入つた匕首一振があることが判つた、等。

〈二三〉昭二九・八・二四裁(裁判官村上博己)(徳島地裁)(一偽2)

前記〈二二〉と同旨の供述を証人として証言したもの。

〈二四〉昭二九・八・二八検(藤掛)(徳島地裁)

篠原という新天地の家へ行つて匕首を受取り奥さんに渡したことは前に述べたとおりであるが、この匕首に関係があると思われる自分の知つている一切の事を何もかも申し上げてしまいたい。

実は、自分が匕首を受取りに行く四、五日前のこと、昼食を終り店にいると、「今日は」と言つて二二、三歳位の男が店に入つて来た。奥さんは奥の座敷のすぐ前辺りで何か小声で話していた。そして二人が私の傍へやつて来て、奥さんが私を指してその男に「この子をやりますから頼みます」と言うと、その男は自分を見て「この子ですなあー」と言つて店を出て行つた。その男はYシヤツ姿で中肉中背であつたように思う。それから四、五日して新天地の篠原へ行つて匕首を持つて帰るとき、四、五日前に若い男が奥さんと話していたのはこの匕首の事であつたんだなあーと初めて判つた。匕首を持つて帰つて二、三日して奥さんからダイヤル糸の古いものがあれば探してくれ、と言われ、修理箱の中からダイヤルの古い糸を見つけ出し奥さんに渡した。しばらくして奥さんが台所の前の方に立つて「阿部さん一寸来て」というので奥さんの方を見ると奥さんが台所の前で抜身の匕首を片手に持つた侭立つていた。その柄から下に自分が渡したダイヤル糸がたれ下つていた。奥さんの傍へ行くと、奥さんは私に「これをもつと固く巻いて」と言うので奥さんから匕首を受取つて台所の中に入つた。その匕首を見ると、柄には紺色の布が巻付けてありその上から自分が渡したダイヤルの糸で奥さんが柄の端の方から巻きかけていたので自分がさらにきちんと巻いて奥さんに渡した。糸の最後の結びは奥さんがしていると思う。今更申し難いが、事件の朝、工事場裏の壁に立てかけてあつた匕首を見つけたとき、これは自分が糸を巻いてやつた匕首に相違ないということは判つていた。初めは、その匕首は絶対に見たことがないと隠していたが、実は今述べたように私が自分自身で糸を巻いた匕首であつたのである、等。

〈二五〉昭二九・八・二八検(藤掛)(同)

匕首の糸の巻き方を実際に巻いて説明している。

〈二六〉昭二九・八・二八検(藤掛)(同)(不1)

懐中電灯のこと、奥さんはこの懐中電灯は泥棒が置いて帰つたと言つているそうだが自分は嘘だと思う、等。

〈二七〉昭二九・八・三一事(丹羽)(同)

〈二四〉調書と同旨の経緯で匕首に糸を巻いたこと、その糸は道具箱にあつたので私はダイヤル糸と思いこんでいたしラジオ店で糸を使うのはダイヤルの糸以外には使用しないこと、今回の事件は茂子が犯人である事は間違いなく、郡貞子も或は事情を知つているのではないかと思うこと、等。

〈二八〉昭二九・八・三一事(丹羽)(同)

今述べた糸と同種のものが今も道具箱にあるかもしれないし、布切も佳子の部屋にあるかも判らない、生地は郡貞子方にあると思うこと、等。

〈二九〉昭二九・九・一検(村上)(同)(三人の対質調書)

前記西野〈33〉調書と同一。

(3) まとめ

西野は昭和二九年七月二一日逮捕され、同年九月三日釈放され、阿部は同年八月一〇日深夜逮捕(正確には八月一一日午前零時一五分逮捕状執行)され同年九月六日釈放された。この段階における両名の供述調書は二人がいずれも身柄拘束中に作成されたものであり、両名の第一、二審証言の骨格がこの期間中に形成されたものであることは、右の各調書と公判証言の内容との符合関係を検証することによつても、両名の当審請求審における証言によつても明らかである。

(イ) 西野は、昭和二九年八月一〇日、「只一つ隠して来たことがある」として茂子と亀三郎が四畳半の間で格闘するのを目撃したと供述し(〈24〉調書)、同じ日、阿部も「一つだけ隠して申し上げなかつたことがある」として同様の供述(〈一二〉調書)をするに至つた。さらに同年八月一八日、西野は、「今一つ大事な事を隠していたので正直に申し上げる」として、茂子に依頼され、血のついた刺身庖丁様の物を両国橋上から新町川に投棄した旨供述し(〈27〉調書)、さらに、同年八月二一日「これまで隠していたことが一つあるので最後に申し上げる」として阿部が匕首様の物を外から持つて帰つて茂子に渡すのを見たと供述(〈29〉調書)し、同じ日、阿部は、「今日迄大切なことを隠していた」として、森会の若い男から匕首を預り茂子に渡したと供述し(〈二一〉調書)、翌二二日に至り、前の日に言つたことは嘘で、実は、新天地の篠原組から匕首を受取り茂子に渡したと供述を訂正する(〈二二〉調書)。

右の三点、即ち、亀三郎夫婦の格闘の目撃、西野による刺身庖丁の投棄、阿部を介しての篠原組よりの匕首の入手、の三点は、既に3の(三)で見た西野による電灯線電話線の切断と共に茂子有罪の主要なる根拠となつたものであるが、両名の供述に至る過程が右のようなものであつたことは、両名の供述の信憑性を計る場合に注目されてよいと思われる。

(ロ) 右に加うるに、西野と阿部の供述は、相互に補完し合い、符合し合い乍ら発展している。例えば、阿部が匕首の入手について供述した八月二一日に、西野は、「阿部が匕首を持つて帰り茂子に渡すのを見た」と供述し(〈29〉調書)てこれを裏付け、西野が刺身庖丁の投棄につき供述した八月一八日に、阿部は、西野が刺身庖丁をどこかへ持つて行つた様な話をしていたのを聞いた、と述べて(〈一八〉調書)これを補完している。

別々の人間が全く同じ時期に同じ内容の事柄を思い出すことが通常あり得ない以上、このことは、両名に対する捜査官側の強い誘導或いは強制を窺わせるものと考えられる。

(ハ) 両名がこの段階で述べた前記の主要なる三点は、いずれもそれ自体として茂子犯人の決定的資料となるものであるが、両名がどうしてこの段階までそれを隠していたのかが極めて疑問である。西野は、「奥さんに対する配慮」を供述調書中では強調しているが、同人は既に、電灯線電話線切断を供述した段階で茂子が犯人だと思う旨述べているのであり、又、八月三日付検面調書(〈19〉調書)では「今更本当の事を言うについて茂子に申し訳ないという気持は更々ない」と述べているのであるからそれ自体矛盾しているというほかはない。

その他、この段階における供述と他の証拠との関係については、後に各論点毎に詳細に検討されなければならない。

(五) 茂子起訴(昭和二九年九月二日)後の両名の供述

(1) 西野の調書

〈34〉昭二九・九・三検(村上)(徳島地検)

私が茂子に頼まれて電話線電灯線を切つたり、刺身庖丁様のものを両国橋から新町川へ投げ込んだりしたことや、その他亀三郎が殺された当時の前後の模様について述べたことは、次に述べる点を除いては間違いない。

次に述べるというのは、これまで述べたうち只一つ気にかかる事があるのでその点をつけ加えておきたいからである。

このつけ加えておきたい点は、自分が奥さんに頼まれてのち、電灯線を切つたのはペンチで切つたようにこれまで述べて来たが、実は電線を切ろうと思つて修理道具を置いてあるところからペンチ一ケとナイフ一丁を取出し、はいていたズボンの左ポケツトに入れ、屋根に上り、電灯線を左手に持ち、すぐその前に左ポケツトからナイフを取出し、ナイフを右手に持つて電灯線の被覆を切るため力を入れて押しつけるようにし、一、二回切り込み、そこからぐるつと被覆線全体を切廻すためナイフを廻した、そして中の銅線にナイフで切り込んだが、簡単に切れなかつたので今度はペンチを取出して切り込んだ所より少し離れたところで電線をペンチではさんでつかみ、銅線を何回も折曲げるようにこねくり回したら銅線が折れたように思う。この電線を切るときのやり方はナイフとペンチを両方使つた記憶は明確であるので本日述べたことが一番正しいという記憶があるのでこの点附け加える。自分は、今日家裁で保護観察処分になつたばかりで自由な身であり、今日述べたことは誰からも圧迫やこう言えといわれたりして述べたものではなく自分の本心から述べた正しいことである。尚、裁判官に対してや検察庁で、これまでペンチだけで電灯線を切つた様に述べたのは、ペンチとナイフの両方を持つて屋根に上つたので、ペンチだけで切る方が早い筈だからペンチで切つたのではなかろうかと考えてその様に述べたものだが、よく当時の記憶を辿つてみると今日のが正しいと思うので申し添えた次第である、等。

〈35〉昭二九・九・二四検(村上)(同)

三枝方で当時建築中のコンクリート造り三階建工事場の表側中央辺の囲いの一部の様になつている板戸を自分は事件の朝開けたことはない。自分と阿部が四畳半の間を通つたとき、これまで自分は半長の靴を持つて歩いた様に述べたと思うが、それは間違いで当時は殆ど無意識状態でこの部屋を通つたので、どうも靴を脱いで上つた様な記憶がないのと、奥さんにいわれて、電話線を切るため表歩道に出た当時、自分が半長ゴム靴をはいていることに気付いた記憶があるので、自分はこの靴をはいたまゝ、廊下や四畳半の間を通つたように思う。それで同室にあつた蒲団をこの土足で踏んで通つたのではないかと思う。阿部もズツク靴をはいて土足で部屋を通つたものと思う、等。

(2) 阿部の調書

〈三〇〉昭二九・九・一〇検(藤掛)(徳島地検)

九月六日に出所して、家族から新聞に書いてあつたことは本当かと聞かれ、検察庁で述べているとおり話した。釈放されて既に四日になるので大分落着いているが、前に検察庁で何回も話したことは全部が事実あつたことであり、決して嘘は言つていないから今更訂正する点はない。奥さんから口止めされた事も前に言つたとおりであり、刺身庖丁のことを西野から聞いたことも、奥さんに頼まれて道具箱の中にあつたダイヤル糸で匕首の柄を巻いた事も前に述べているとおりである、今度、公判廷に証人として呼出されたときには、一切ありのままを述べるつもりである、等。

〈三一〉昭二九・九・一〇検(藤掛)(同)

昨年の夏、大阪の松下電機の招待で奥さんが富士五湖巡りをした留守の間のこと、店へちよいちよい遊びに来ていた四〇一寸過ぎの女の人が店へ来ていた。昼間はちよいちよい外出していたが、夜、店をしめてから主人と二人で店でビールを飲んでいるのを見た。この女の人はその晩は座敷で一緒に寝てその翌日も夕方迄店に居た。この女の人の名前は判らないが、今度の事件でこの女の人も検察庁で調べを受けており、そのとき廊下で会つた、等。

〈三二〉昭二九・一〇・九検(村上)(同)

昨年一一月五日朝、茂子に呼ばれて四畳半の間に上つたとき、自分はズツク靴を手に持つて店土間に降りたのではなく、ズツク靴を履いたまゝ上つて行き店土間に降りた様に思う。それは、もしズツク靴を手に持つて上つたとすると、おそらく足裏に血がついて何か感じた筈だし、蒲団を踏んだ感じがある筈だが、その様な感じがした様に思わないから、ズツク靴を履いていたためこれらの感じがしなかつたためだろうと思われるからである、等。

〈三三〉昭三〇・一・七検(村上)(同)

これまで述べたことは間違いないが、今迄述べなかつた事で思い出した事があるので申し添える。昭和二八年夏頃、亀三郎から徳島市寺島本町西二丁目の篠原方に電蓄の修理を頼まれたので行つて来てくれと言われ篠原方へ行つた。電蓄の故障箇所が分らなかつたので器械を持つて帰り、主人に修理してもらつて篠原方へすえつけて帰つた。右篠原というのは自分がこれまで法廷その他で述べた匕首を貰いに行つた篠原保政さんの事である、等。

(3) まとめ

茂子は昭和二九年九月二日起訴され、西野は同月三日、阿部は同月六日、夫々家裁において審判を受けた上釈放された。この段階の調書は、両名が釈放されて以後のものである。

(イ) 西野は、釈放された日の九月三日、〈34〉調書において電灯線切断の方法につき、従前と異なり、ナイフとペンチを用い、それも極めて特異な方法で切断した旨詳細に供述している。同人はその二日前の九月一日、検察官村上善美が実施した検証期日においてペンチで電灯線を切断した旨述べ、その実演までしている状況が右検証調書(一三二九丁)中の写真により明らかである。同人の電線切断の方法に関する供述は元々変転極まりないものであること右に見たとおりであるが、九月三日の段階における突然の変化は甚だ不可解というほかはない。ところで、確定記録中の科捜研警察庁技官大久保柔彦作成の鑑定書(三三三丁)によると、電灯線電話線は、いずれもナイフ状工具により切込を与えたのち繰返し曲げを与えて切断したものでペンチ又はペンチ状工具を使用したものではない、と鑑定されており、同鑑定書の作成日付は昭和二九年九月一一日付であるが、同年八月三〇日に鑑定終了した旨記載されているのである。右の事情を勘案すると、〈34〉調書における西野供述は、右大久保鑑定の結果に符合させるため捜査官によつて誘導強制された結果としか考えられない。

(ロ) 西野〈35〉調書、阿部〈三二〉調書は、この段階において捜査官が、敷布上の足跡を、西野阿部が靴のまま四畳半の間に上つて出来たものではないかと追及していることを物語つている。

(ハ) 阿部〈三〇〉調書によると、同人が証人として公判廷で検面調書どおり証言する旨表明する調書までとられている。

(ニ) この段階においては、茂子犯人の骨格が出来上り、検察官は、茂子の犯行動機の裏付け捜査をしていた時期であるが、阿部〈三一〉調書はこれに照応するものである。その内容は亀三郎の女性関係についてのものであるが、これまでにその種供述はなく、異常だといわなければならない。

(六) 捜査段階における両名の供述の特徴とその評価

西野清、阿部守良の捜査段階における供述調書を個別的に検討してみた結果、最小限、次のことを指摘することができる。

(1) 先ず、両名の供述調書数は、西野において三五通、阿部において三三通にのぼつており、しかも同一事項について何通もの調書が繰返し作成されていることが特徴的である。特に、西野の電線切断に関しては、〈6〉調書から〈23〉調書に至るまで繰返し作成され、取調主体も村上、藤掛両検事、湯川次席検事、丹羽事務官と交替し、幾度も同じ事が同人に対して問い掛けられ、調書化されたことが明らかであり、阿部に関しても同様である。

(2) さらに、その供述内容の変転動揺が極めて著しいことである。例えば、西野は、七月二一日、同じ日に村上検事に対しては電話線の切断を認めたが、湯川検事に対しては否認し、一日の間に供述が変転しているし、八月一〇日、検察官に対しては従前の供述を覆えし、「火事じや」という声で目覚めたのではなく、ドタンバタンという物音で目覚めたと供述(〈24〉調書)するに至つたが、同じ日に実施された裁判官の証人尋問においては、高木裁判官の問いに対し、「『火事だ』という奥さんのいがり声で目を覚ました」、と当初供述していながら、その直後、検察官の「事件の朝、奥さんの火事だという声で起きたのは間違いないのか」との問いに対し、「違うのです」「ドタンバタンという音で目をさましたのです」と前の供述をあつさりと訂正している(〈25〉調書)。阿部についても、例えば八月二一日「今日迄大切なことを隠していた」と前置きして、藍場町の森会から匕首を預かり茂子に渡した、と供述(〈二一〉調書)したが、翌日になつて、昨日述べたことは嘘である、と訂正している。こうした供述の変転動揺はその他の点についても数多く見られるが、詳細は各論に譲る。

(3) 両名共に、もしそれが真実であれば、直ちに茂子が犯人であることに疑いもない事実を、夫々、「隠していたことが只一つある」という形で次々に供述している。事件発生後七ヶ月以上も経ており、しかも事件直後の捜査に対してその形跡すら述べていない事柄を、両名がどうしてその時まで隠していたのか、隠すことの内心の重圧と負担とにどう耐えたのか、それ程にして隠すことの利益は何だつたのか、どうして一度に全てを供述しないのか、これらの疑問に答える内容は右供述調書中には存在していない。

(4) 西野と阿部の供述は時期的にも内容的にも相互に符合しつつ補完し合う関係に立つている。例えば、電灯線切断を西野が認めると、阿部は「点灯したときも消えたときも西野が居なかったことは先ず間違いない」(〈一一〉調書)とこれを裏付けるし、匕首について、阿部が、篠原組よりの入手を供述すれば、西野は同じ日、その目撃者として供述している(〈30〉調書)。

刺身庖丁の場合も同様である。この場合は、阿部が西野から「奥さんに頼まれ刺身庖丁をどこかへ持つていつた」と言うのを聞いたという伝聞供述であるが、かように、西野、阿部両名の供述は、交互に一方が実行者、他方がその目撃者となるか、或いは、一方の供述を他方が聞いた、という形で、互いに符合しつつ補完し合い、相互に互いの供述を支え合い、その信憑性を増幅し合う関係に立つていることが明らかである。

(5) 西野、阿部は、いずれも少年であつたが、西野は昭和二九年七月二一日から九月三日までの四五日間、阿部は、八月一一日から九月六日までの二七日間、夫々身柄拘束の上取調を受けた。両名の身柄拘束の根拠となつた被疑事実の質、両名の少年としての非行性の度合、を考慮すると、極めて過酷な拘束期間であると考えられるが、この身柄拘束の状態下において、前記の供述調書が次々と作成されたのである。

特に、阿部の逮捕、勾留事実は、本件犯行のあつた朝、阿部が発見した匕首を所持していたというものであるが、第四次請求の抗告審である高松高裁もその理由中(昭四八・五・一一付決定)において「阿部に対する逮捕、勾留は全く不当である。何となれば、阿部は、事件の日、新築中の家の裏でコンクリートの外壁にもたせかけてあつた匕首を発見し警察官に告げただけで、匕首所持の事実は、全然ないからである。」と指摘している。

両名は、自らの被疑事実について取調べられるというよりも、茂子を被疑者とする殺人事件の参考人として取調べられるために身柄を拘束された、といつた方が適切であり、このことは、阿部において特に顕著である。

両名に対する捜査は、かような長期の身柄拘束を利用し、その間数多くの供述調書が作成されたのである。

(6) 右の各供述調書の中には、本来、例外的に運用されるべき筈の刑訴法二二七条による裁判官の証人尋問がフルに活用されている。

特に、茂子の有罪を根拠づける前記四点の供述については、例外なく右証人尋問が活用され調書が作成されている。

以上の西野、阿部に対する昭和二九年七月五日以降の取調により、つい一ヶ月前には、篠原組から川口算男に渡つたと断定され、川口を亀三郎殺害の犯人として起訴すべきだとまでほゞ固まつていた重要物証の匕首は、篠原組から阿部を介して茂子が入手したこととなり、捜査の当初、外部犯人の仕業と考えられていた電話線、電灯線の切断は、茂子と西野の合作であることになり、兇器は、茂子の依頼により西野が捨てたこととなり、敷布上の足跡は、西野や阿部が靴のまま上つた可能性があるので外部犯人のものではなく、四畳半の間に遺留されていた懐中電灯は、茂子方のものであるということになつた。

事件発生後、昭和二九年六月末に至るまで、外部犯人説の線で進められて来た捜査は、昭和二九年七月以降、西野、阿部両名の供述を強力な媒介として、茂子犯人説の方向に切り換えられ、昭和二九年九月二日、茂子が起訴されるに至つたのである。

4 両名の第一、二審における証言

両名の第一、二審における証言の概略を考察する。考察の対象は主として、前記の四点、すなわち

(一) 格闘の目撃

(二) 電話線、電灯線の切断

(三) 刺身庖丁の投棄

(四) 匕首の入手

の四点を中心に、両名の証言の内容と推移を考察する。

(一) 西野清の第一、二審における証言

〈1〉 第一審二回公判(昭二九・一〇・二二)証言

(格闘の目撃)

村上検察官

その翌日証人はどんな事で目が覚めたか。(八〇丁表)

物音で目が覚めました。

何処の物音か。

四畳半の間から聞えたように思います。

どんな物音か。

バタンバタンという物音でした。(八〇丁裏)

……………

証人は目を覚ましてからどうしたか。

私は目を覚ましてから物音を大将と奥さんの夫婦喧嘩だと思い小屋の節穴から覗いて見ました。しかしよく見えなかつたので小屋から外へ出て行きました。

藤掛検察官

……………

阿部も一緒に覗いたのか。(八一丁表)

そうです。

節穴から覗いたとき何か見えたか。

ただ暗いだけで何も見えませんでした。

その節穴から覗くと四畳半の間全体が見えるのか。

全部ではなく右半分位が見えます。

……………

証人は節穴から何分位覗いていたか。

二、三分覗いていましたが見えないのでやめました。

覗いている間も物音はしていたか。

バタンバタンいつていました。

人声は聞こえなかつたか。

聞えませんでした。

それから証人らはどうしたか。

私と阿部は小屋の南端の窓から外へ出て行きました。

何の為に出て行つたのか。

あまりバタンバタンいうのでどうしたのかと思つて出て行つたのです。

外へ出てからどうしたのか。

水道の横を通り便所の傍まで行きました。

その時の外部の明るさはどの程度であつたか。

一間半位の距離にいる人なら判る程度でした。

もう夜が明けかけていたのか。

明けかけていたように思いますがはつきりしません。

便所の傍まで行つてからどうしたか。

便所の傍で小屋にもたれ、阿部と並んで見ました。

何が見えたか。

四畳半の間の中に向うからこちらを向いて一人が立ちそれに向い合つてもう一人が立つている人間の格好が見えました。

その人の格好ははつきり見えたか。

はつきりとは見えませんでした。

その人の服装はどうであつたか。

はつきり判りませんでした。

服装は黒かつたか白かつたか。

白かつたように思いますがはつきりしません。

向い合つて立つている二人の中どちらが背が高かつたか。

こちらを向いている人の方が高かつたと思います。

……………

その人が立つていたのは四畳半の間のどの辺か。

丁度真中辺であります。

その人に向き合つて立つていた人の背はどうか。

向い合つている人より大分低いように思いました。

背の高い人は誰だと思つたか。

大将だと思いました。

何故大将だと思つたか。

背格好も似ていたしこんな所に他所の人が入つて来る筈はないと思いました。

その人の顔形が見えたか。

はつきり見えませんでした。

その人に向い合つている人は誰だと思つたか。

奥さんだと思いました。

何故そう思つたのか。

背格好から見てそう思いました。

その人の頭髪が見えたか。

充分見えませんでした。

証人らはそこで何分位立つて見ていたか。

約二分間位です。

その間二人の人は向い合つて立つていただけか。

そうではなく組合つてもみ合つていました。そして動いて便所の陰に入つて見えなくなりました。

その二人以外に部屋の中には誰も見えなかつたか。

誰も見えませんでした。

証人らが見ている間に人声は聞えなかつたか。

聞えませんでした。

足音はどうか。

足音は聞えました。

二人は相当激しくもみ合つていたか。

足音が大分酷かつたから激しくもみ合つていたと思います。

証人が見ている時裏の硝子戸はどうなつていたか。

東端に一杯開いておりました。

廊下と四畳半の間との間の障子はどうか。

それも東端に一杯開いておりました。

……………

二人の姿が見えなくなつてからどうしたか。

南端の窓から小屋に帰りました。

……………

亀三郎夫婦の仲は日頃どうであつたか。(一一二丁裏から)

大将が飲んで帰つた時によく喧嘩をしていました。

証人は亀三郎夫婦が喧嘩をしているのをよく見たり聞いたりしたか。

二回位喧嘩をしているのを聞いた事があります。

それは何時頃のことか。

日はいつであつたか忘れましたが、一回午後一〇時頃にしているのを聞きました。喧嘩をしていると両方の声が高くなるのでよく判ります。

この事件までに証人は亀三郎夫婦が喧嘩をしているのを小屋の節穴から覗いた事があるか。

覗いた事はありますが障子が閉つているので判りませんでした。

(電話線電灯線の切断)

藤掛検察官

証人はそれからどうしたか。(八九丁表)

私は阿部と一緒に表戸を開けてから店の土間の前の方に置いてある自転車の傍に立つて道路の方を向いていました。すると、私の右腰に何か当るような感じがしたので手を持つて行くと切れ物のような感じでした。それで振り向いて見ると、奥さんが立つており、これで電灯線と電話線を切つてくれ、といつて何か切れ物のような物を渡されました。その時は何か判りませんでしたが、それを持つて外へ出てからそれが匕首であることが判りました。

被告人が電灯線と電話線を切れといつたとき、証人はどう感じたか。

別に何とも感じませんでした。

証人は何故切るのかと尋ねたか。

尋ねませんでした。

証人は何故、こんな事を被告人が自分にさせるのかという事を考えなかつたか。

その時は何も考えませんでした。

証人はそれからどうしたか。

店から外へ出て、店の西端の新築工事現場の足場が店の前に突き出ているのを昇り、店の屋根へ上りました。

その時懐中電灯を持つて行つたか。

持つて行きました。

……………

屋根へ上つてからどうしたか。(九一丁表)

電話線を調べ、持つていた匕首で切りました。

電話線はどこにあつたのか。

店の東隣の新開という家の方へ寄つた所の東の端にありました。電話線は黒い被覆線を二本より合わせたものでしたのでその間に匕首を差しこんで、一本の線を二、三回鋸で挽くようにしましたが切れませんでしたので、今度はその線を両手で持つてねじ切りました。

……………

その際、電灯線を切らなかつたのか。(九一丁裏)

そうです。電灯線は匕首等では切れないのでもう一度上つて切るつもりでした。

電話線を切つてからどうしたか。

下へおりて行き、店へ入つて四畳半の間へ行きました。その時、奥さんは大将の傍へ座つていましたので、私は線を切つて来ましたといつて匕首を奥さんに渡しました。

……………

証人が電話線を切つておりて来た時は大分明るくなつていたか。(九二丁表)

そうです。大分明るくなつていました。

線を切つて来たといつて匕首を渡した時、被告人はどういつたか。

ありがとうといつただけです。

(大道の家族に知らせに行き、その途中で両国橋で切れ物を投棄した旨述べる。)

……………

証人は帰つてから被告人に大道へ行つて来たという報告したか。(九六丁表)

報告したと思います。私が帰つたとき、奥さんは四畳半の間に一人いたように思います。

警察の人はいなかつたか。

見えませんでした。

帰つてから証人はどうしたか。

私は店の修理台の中にあつたペンチを持つて電灯線を切るために外に出ました。………そして、電灯線を切ろうと思つて先に電話線を切る時に昇つた足場を昇りかけると、後からお隣りの新開さんのお爺さんらしい人が危いぞ、と声をかけたので昇るのをやめて下におりました。

(間もなく、阿部が帰り、それから来ていた医師も帰り、茂子が入院するので斎藤病院へ蒲団を持つて行き、さらに七輪を買つて病院へ持つて行き、店に帰つて着替をしに行く途中、阿部と匕首を発見し警察の人に渡したあと着替をした旨供述)

……………

それからどうしたか。(九九丁表)

匕首を警察の人に渡して後、小屋へ行つて服を着替え、顔を洗つて工事現場を通り、店の方へ行きました。そして先に持つていたペンチを又持つて新築工事現場へ入つて行きました。

村上検察官

着替をしたのち、店へ行つたのはペンチを取りに行つた訳か。

そうでもありません。

ともかく証人はペンチを持つて外へ出たのか。

そうです。ペンチと修理台の段の上に載せてあつた被覆を剥ぐナイフを持つて外へ出て新築工事現場へ入りました。そして、工事場の一番西端の元町食堂の傍にある階段を昇つて、新築中の家の二階に上り、二階の窓から目の方にある店の屋根の上へ出て、新開方の方から来ている電灯線の引込線の所へ行きました。

それからどうしたか。

そして、引込線の碍子と壁の中に入つている碍管の中間の二尺位の電灯線が、しやがんだら丁度手に持てる位の所にあつたので、その線を一本右手で握り、左手でもつていたナイフで線の被覆を切り込むようにして切り、ここで両手でペンチを持つてその切込んだ所をはさんで折り曲げてその電灯線を切りました。

何故電灯線を切つたか。

それは先に奥さんに切つてくれといわれていたからです。

切りに行くのが大分遅れているようだがどうか。

別に訳もありませんが他の用事で走り廻つていたからです。

電灯線を切つてからどうしたか。

前に上つて行つた所を通つて下におり、店へ入つてそこにいた警察の私服の人に電線が切れとるでよ、と知らせました。

何故、自分で切つて警察の人に切れている事を知らせたのか。

切つて仕舞つたので知らせてもよいと思つたのです。

証人がペンチを取りに店に入つたとき、店の電灯はついていたか。

どうであつたかはつきりしません。

……………

警察の人に知らせてからどうしたか。(一〇一丁表)

警察の人は、どこが切れとんなあーというので案内して又屋根の上へ上り、ここだと言つて切れている所を教えました。警察の人はそれを見て黙つていたので、私はもうよいのかと思つて、その切れた線を継ごうとしました。

何故継ごうとしたのか。

晩が来たら又電線が要ると思つたからです。

証人が線を継ごうとすると、警察の人は何かいつたか。

私が線を継ごうとして、手に持ちかけると、警察の人は、証拠になるから置いとけ、そのペンチを貸せ、というので持つていたペンチを渡しておいて屋根からおり店に帰りました。

……………

証人はその電灯線を継がなかつたのか。(一〇一丁裏)

その日、警察で調べを受け、帰つてから継ぎました。

どのようにして継いだか。

店にあつた一尺ちよつとの電線を切れている線の両端につなぎ合わせペンチで捻じて継ぎました。

……………

藤掛検察官

被告人が証人に対し、電話線とか電灯線を切つてくれといつたり、切れ物を捨ててくれと頼んだりしたのは何の為だと思つたか。(一〇三丁表)

電話線とか、電灯線を切つて来いといつたのは、犯人が外から入つたようにする為だと思いました。そう思つたのは、その日の昼頃になつてからです。切れ物のような物を放つてくれといわれたのは、何の為か判りませんでした。

……………

証人は電灯線か電話線を切つてはいけないということを知つていたか。(一〇三丁裏)

電線を切つたら悪いことは判つていました。

すると、被告人から切つてくれといわれたとき、証人としては内心いやだと思つたのか。

暗い時屋根へ上らなければならないのでいやだと思いました。

被告人に対しいやだとはいえなかつたのか。

その時、奥さんに切れ物を突き付けられていたので恐ろしくていやとはいえなかつたのです。

若しいやだといえば、被告人に突き刺されると思つたのか。

そこまでは考えてませんでしたが、私としては線を切るようなことはしたくありませんでした。

(刺身庖丁の投棄)

藤掛検察官

それからどうしたか。(九二丁裏)

それから私は、奥さんから、大道へ行つて皆起して来てくれ、といわれたので行きました。

……………

被告人からは大道へ行つて来てくれといわれただけであつたか。(九二丁裏)

大道へ行つて来てくれといわれた時に、何か新聞紙で巻いたものをどこかへ放つて来てくれ、といわれたので、それを受取り、自転車で大道の方へ行きました。

新聞紙で包んだものというのはどんなものか。

一尺位の長さの平べたいものです。

紐でくくつてあつたか。

くくつてありません。

証人には、それが、何であるか外へ出てからも判らなかつたか。

外へ出て、自転車に乗る時、それを持上げた折、新聞紙に包んである端から切れ物の先のようなものがちよつと出ているのが見えました。私は、それをその侭寝巻の懐に突込んで自転車に乗りました。

それが何かということは判らなかつたか。

判りませんでした。

切れ物のようであつたというが柄は付いていたか。

柄のようなものが付いていました。

その切れ物のようなものの先はとがつていたか。

どうであつたか気がつきませんでした。

それを包んである新聞紙が湿つているという感じはしなかつたか。

そんな感じはありませんでした。

証人はそれからどうしたか。

自転車に乗つて八百屋町から両国通りを通り、両国橋まで行つた時、奥さんが放つてくれといつたのを思い出し、両国橋の真中辺から新町橋の方へ向いてその新聞紙に包んだものを川の中へ放り込みました。

自転車に乗つた侭放つたのか。

そうです。自転車に乗つたまま片足を橋の欄干にのせ、右手で放りました。

自転車は進行方向に向けていたのか。

そうです。阿波南支店の方を向いていました。

どのようにして放つたのか。

右手で力一杯という程でなく放りました。ところが、それがおちる途中、巻いてあつた新聞紙が放れて、切れ物と思われる物がちやぶんと先に落ち、新聞紙は後からひらひらと落ちました。

その切れ物らしいものの長さはどの位か。

柄も入れて一尺位のものと思います。

……………

被告人は、その切れ物を何の為に捨てさせようとしたのか証人には判らなかつたのか。(一〇二丁裏)

私もおかしいなあーとは思いましたが、何の為か判りませんでした。

……………

証人が両国橋から捨てた切れ物はどうしたものだと思つたか。(一〇三丁表)

何とも考えませんでした。

後から考えたこともないか。

後から考えると、大将が倒れていたし、あの刃物で大将を突き刺したのかいなあと思います。

その時は何も考えなかつたのか。

その日から薄々とは今いつたように考えていました。

……………

この事件が起る前に三枝方の炊事場には庖丁を置いてあつた事を知つているか。(一〇五丁裏)

知つております。

その当時三枝方では店で炊事をしていたか。

店の方では炊事はしておらず食事は大道の家から運んでいました。

すると、店の方では庖丁は全然使つていなかつたのか。

そうです。漬物を切る位でした。

三枝方にはどんな庖丁があつたか。

刺身庖丁と出刃庖丁がありました。

その刺身庖丁というのは新しいものか。

新しいのではなく中位の古さのものでした。

その刺身庖丁は何時から三枝方にあつたか。

何時からあつたか判りません。

その事件の当時にはあつたのか。

ありました。

その刺身庖丁を証人は使つたことがあるか。

使つたかどうか記憶がありません。

この事件の前頃にその刺身庖丁が三枝方の炊事場にあつたことは間違いないか。

間違いありません。

その刺身庖丁の長さはどの位か。

柄も入れて一尺位であつたと思います。

柄には何か印が入つていたか。

四角い焼判を押してあつたように思います。

証人はその庖丁をこの事件のあつた日以後三枝方の炊事場で見た事があるか。

この事件後は、炊事場の庖丁掛けには掛つていなかつたように思います。

……………

証人が被告人に頼まれて両国橋から捨てた切れ物と今いつた刺身庖丁とは長さとか手に持つた感じ等から同じものだと思うか又は別のものと思うか。(一〇六丁裏)

長さは大体同じであつたと思いますが他の点は判りません。

両国橋から捨てた切れ物はその形から見て刺身庖丁だとは思わなかつたか。

大体、刺身庖丁のようなものだと思いました。

この事件後、三枝方の刺身庖丁が無くなつている事について、証人はどう思つたか。

おかしいなあーとは思いましたが別に深くは考えませんでした。

証人は、阿部と、刺身庖丁が無くなつているという事について話し合つたことがあるか。

あります。昨年一一月一五、六日頃裏の小屋で話合いました。

その時阿部とどんな話をしたか。

裏の小屋で阿部と寝ながら話をしたのですが、その内容ははつきり記憶しません。

証人は、阿部に対し、被告人に頼まれて切れ物を両国橋から川の中へ放り込んだという事を話したのではないか。

はつきり記憶がありませんが、そんな話をしたような気もします。

阿部以外の者に、被告人から頼まれて、切れ物を放つたという事を話した事はないか。

ありません。

……………

村上検察官

証人は三枝方の庖丁を使つた事はないのか。(一一四丁裏)

私自身は使つたことがありませんが、奥さんが漬物を切るのに使つていたのは知つています。

証人が両国橋から捨てた切れ物と三枝方にあつた刺身庖丁とは同じ刃物ではなかつたか。

はつきりとは判りませんが、私が両国橋から捨てた切れ物が刺身庖丁ではなかつたかと思います。

(匕首の入手)

藤掛検察官

証人は、この事件の前に三枝方で紙に包んだ匕首を見た事があるか。(一〇九丁表)

見たことがあります。昨年一〇月末頃、炊事場の棚の上に置いてあるのを見ました。

……………

その匕首はどんな物に包んであつたか。(一〇九丁裏)

見えないように、その匕首の上にハトロン紙を被せてありましたので、その紙を除けて見ると、鞘と柄が見えました。それでそのものが匕首だと判つたのです。

手に取つて見たか。

手には取りませんでした。見ただけで又元のとおり置いておきました。

その匕首の鞘と柄はどんなものか。

鞘は白い桐の木であり、柄は焦げ茶色の木であつたと思います。

何か巻いてあつたか。

鞘には何も巻いてありませんが柄には針金で二ヶ所巻いてありました。

……………

証人がその匕首を見た前日か前々日に阿部がハトロン紙に包んだ匕首のようなものをどこかから持つて帰つたのを証人は知らないか。(一一〇丁裏)

私が炊事場で匕首を見た日の朝九時頃、阿部が何か持つて入つたのは見ましたが、それが何であるかは判りませんでした。

その後、炊事場で匕首を見た時、証人は、これは今朝阿部が持つて帰つたものだと思つたか。

被せてあつた紙が同じであつたのでそう思いました。

証人はその後、その匕首の事について阿部に尋ねたことがあるか。

その匕首を見た日の晩、小屋で、阿部にあれはどこから持つて来たのかと聞きました。すると、阿部は、駅前から左の方へ入つた所から持つて帰つたということでした。それからは何も聞きませんでした。

(その他)

藤掛検察官

証人は、最初警察の人に取調べられたとき被告人に頼まれて電灯線や電話線を切つたこととか切れ物を両国橋から捨てたことをいわなかつたのか。(一〇八丁表)

いいませんでした。

何故いわなかつたのか。

こんな事をしやべつて私が疑われ、取調べられたら困ると思つたのです。

その後取調べられたときにも言わなかつたのか。

いいませんでした。

その時は何故いわなかつたのか。

日時は忘れましたが朝、私が店におりますと、奥さんから、この間の事をいうたらいかん、いうとお前も懲役五年位になるといわれました。

それは警察へ行く前のことか。

その日の前でした。

何故、懲役に五年も行くといつたのか。

私が電線を切つたからだと思います。

被告人にそういわれたので、証人は警察で何もいわなかつたのか。

そうです。私は奥さんのいつた事を信じ恐かつたので何もいわなかつたのです。

その後にも被告人から何かいわれなかつたか。

店にいる間にはそれだけでした。

証人は店を辞めてから、奥さんに会つたことがあるか。

今年の七月六日と思いますが、三枝の店へ雨傘か何かを返しに行つた時、奥さんが検察庁へ行つて何を聞かれたんで、と尋ねましたので、川口という人の事じやと答えますと、奥さんは昔の事は今更いえへんだろうなといいました。

被告人がそういつた言葉は、はつきり証人の耳に残つているのか。

はつきり記憶しています。

被告人のいつた昔のことというのは何か。

電線を切つた事等であると思います。

〈2〉 第一審三回公判(昭二九・一一・一五)証言

(電話線電灯線の切断)

村上検察官

証人はこの電線を知つているか。(三〇一丁表)

(後に証拠調を請求すべき電線(長さ約五〇センチメートル一本)を示す)

見覚えがあります。この事件の時、私が切つた電線を私がつないだ際に使用した電線です。

……………

藤掛検察官

証人が電灯線を切断して後、警察の人に電灯線が切れているといつてその現場へ案内したのは、証人からそういつたのか、又は先方から案内してくれ、といわれたのか。(三〇九丁表)

私から先にいいました。

その案内をしたときの証人の服装はどうか。

洋服を着ていました。

その時証人は何か持つていたか。

ペンチを持つていました。

ナイフはどうか。

ナイフは持つていませんでした。

〈3〉 第一審証人尋問調書(検証期日における)(昭二九・一二・五)中の供述

(格闘の目撃)

村上検察官の問に対し

一、この事件のあった当時、私と阿部守良は裏の小屋で寝起きしていました。

一、この事件のあつた朝、私は四畳半の間から聞えて来るバタンバタンという物音に目を覚ましましたが横を見ると阿部も目を覚ましていました。

一、私は目を覚ましてからバタンバタンという物音を大将と奥さんの夫婦喧嘩だと思い、小屋の北側の板壁の隙間から四畳半の間の方を覗いて見ましたが、真暗で何も見えませんでした。それで私と阿部は小屋の南側の硝子戸を開けて外へ出て、小屋に沿つて西側へ回り、小屋の西側を通つて四畳半の間の西南側にある便所の側まで行き、小屋にもたれて私が東側、阿部が西側に二人並んで四畳半の間を見ました。その時の状況は、先に法廷で証言したとおりです。そして、大将と奥さんの姿が見えなくなつたので、私と阿部は小屋の南側の先に出て来たところから小屋に帰りました。

(電話線電灯線の切断)

村上検察官の問に対し

一、私は阿部が出て行つて後、土間の出入口に近い方に置いてある自転車の傍に立つて道路の方を向いていましたが、その時、奥さんが、私の横腹に匕首を突き付けて、電話線と電灯線を切つてくれ、といつたのであります。

一、電話線、電灯線を切るべく屋根へ上つたこと、切つた状況については前に証言したとおりです。

一、私は電話線を切つてから屋根から下りて来て奥の四畳半の間の入口で匕首を奥さんに渡しました。

一、私が帰つた時には表には誰もいませんでした。私は………店の中に入り、土間の東側の窓の上にあつた修理台の棚に置いてあつたペンチを持ち外に出ました。ペンチを取りに入つたのは、奥さんにいわれていた電灯線を切るためでした。………私は屋根に上ろうと思い、新館の足場へ上りかけますと、新開さんに危いぞといがられたのでやめて店の中に入り、ペンチを陳列台の上に置いて外に出ました。………

(刺身庖丁の投棄)

村上検察官の問に対し

一、すると奥さんは、(匕首を)受取つてからその場で、新聞紙を巻いた物を放つて来てくれといつて私に渡し、大道の人たちも起して来てくれといいました。それで、私は自転車に乗つて大道へ行きました。大道へ行く途中、両国橋から新聞紙に包んだ物を放りこんだことは前に証言したとおり間違いありません。

〈4〉 第一審一一回公判(昭三〇・六・二七)証言

(格闘の目撃)

弁護人

小屋で暫くラジオを聞いて後寝てからどうしたか。(一〇二一丁表)

私は眠つておりますと、ドタンバタンという音がして目が覚めました。

その物音は戸を叩くような音ではなかつたか。

そんな音ではありません。

では、戸をがたがた揺るような音ではなかつたか。

そんな音でもありません。その音は人間が板とか畳の上を強く歩いた時に出るような音でした。

証人は、その音を畳の上を歩く音と思つたか、板の上を歩く音と思つたか、又は、他の何かの上を歩く物音だと思つたか。

それは見えないのではつきりしません。

証人は、その音を聞いてからどうしたか。

私は起きて何かと思つて、小屋の北側の板壁の節穴から、四畳半の間の方を覗いて見ましたが何も見えませんでした。

全然見えなかつたか。

判りませんでした。

証人は何故節穴から覗いて見たのか。

それまでにも四畳半の方で喧しくいい出すとよく覗くのでその時も覗いたのです。

その時はどう思つて覗いたのか。

何をしよるんかと思つて覗いたのです。

誰が何をしよると思つたのか。

そこまで深い考えはありませんでしたが、ドタンバタンいう音がしたので何かいなと思つて覗いたのです。

亀三郎と被告人が夫婦喧嘩をしているのではないかと思つて覗いたのではないか。

(証人は答えない)

裁判長

四畳半の間にはその時、誰と誰がいたのか。

大将と奥さんです。

するとその二人がどうしていると思つて覗いたのか。

不断、大将夫婦はちよいちよい喧嘩をするので、その時もそうではないかと思つて覗いたのです。

弁護人

証人は、人が歩いているような物音だというたが、それを何故夫婦喧嘩ではないかと思つたのか。

私はそう思つたのです。

これまでにも亀三郎夫婦は夜明頃に夫婦喧嘩をすることがあつたのか。

これまでは、大てい起きている中とか寝る前にしていました。

節穴から覗いた時、何も見えなかつたのは暗くて見えなかつたのか、又は、他に障害があつて見えなかつたのか。

暗くて見えなかつたのです。

証人が覗いて見たとき四畳半の間との間の硝子戸とか障子は開いていたか、又は閉つていたか。

暗かつたので判りませんでした。

硝子戸とか障子が閉つていると、暗くなくても四畳半の間は見えないのか。

見えません。

証人は覗いても何も見えなかつたので、今度は南側の窓から外へ出たのか。

そうです。

証人が節穴から覗いた時、阿部も一緒に覗いたか。

どうかはつきり覚えていません。

証人は南側の窓から外へ出る時、阿部に何か声をかけたか。

声はかけませんでした。

阿部も何もいわなかつたか。

何もいいませんでした。

南側の窓からは誰が先に出たか。

私が先であつたと思います。

南側の窓の硝子戸はすぐ開いたか。

多少がたがた言いましたが直ぐ開きました。

証人は、何故、出入口でない南側の窓から出たのか。

見に行くのに気付かれぬようにと思つて南側から出たのです。

誰に気付かれぬようにと思つたのか。

奥さんと大将にです。

阿部も一緒に南側の窓から出て行つたのか。

一緒でした。

その時、寝巻の侭裸足で出たのか。

そうです。

急いで出て行つたのか。

ゆつくり出て行きました。

南側の窓から外へ出てどうしたか。

小屋に沿つて歩いて、小屋の西側の出入口の前にある水道の傍を通り、四畳半の間と小屋との間の通路を通り、便所の真裏まで行つて四畳半の間を見ました。

何が見えたか。

その時には、白いものが四畳半の間の中にある位しか見えませんでした。

すると、その時、硝子戸とか障子は開いていたのか。

開いていました。

前夜、証人らが閉めたと思う障子とか硝子戸が開いている事について証人はおかしいと思わなかつたか。

別に何も考えませんでした。

四畳半の間の中に白いものが見えてからどうしたか。

私にはその白いものが不断大将や奥さんの着ている寝巻のように思えました。

何故そう思つたのか。

私はそう思つたのです。

その白いものは動いていたか。

動いていました。

証人はその白いものを人だと思つたのか。

人だと思いました。

何人だと思つたのか。

奥さんと大将の二人だと思いました。

二人の人影がはつきり見えたのか。

はつきりは見えません。しかし、四畳半には奥さんと大将が寝ているので、私はその白いものを奥さんと大将だと思つたのです。

証人は、前に、こんな時刻に外から人が入つて来るとは思えないので、大将と奥さんだと思つたと述べているがそのとおりか。

そのとおりです。

証人は、何故、人が外から入つて来ないと思つたのか。

こんなに早く人は来ないと思つたのです。

泥棒が入つているとは思わなかつたか。

そうは考えませんでした。

四畳半の間の中に見えた白いものが大将と奥さんだと思つた理由は、今いつた以外にはないか。

現在記憶しているのはそれだけです。

証人の見た白いものが二人だという区別がはつきりついたか。

白いものが二つ離れておりました。

証人は前にその白いものは向き合つており、一方は高く、一方は低かつたと述べているが、向い合つていたとすれば証人の見た位置からでは二つの白いものはひつついて見え、高いとか低いという区別はつかないのではないか。

白いものが二つ斜めに離れて向い合つていたのを左の方から私が見たと記憶しております。

裁判長

背が高いとか低いとかいう事が見えたか。

高いとか低いという事まではつきりしませんでした。

弁護人

二つの白いものが離れた時にも高いとか低いという区別ははつきりしなかつたのか。

私が見た時に、二つの白いものに高い低いの差があつたようにも思いますがはつきりしません。

証人はそれを見てどう思つたのか。

又、夫婦喧嘩をしていると思いました。

部屋の障子とか硝子戸を開け放して喧嘩をしている事について、証人は、おかしいとは思わなかつたか。

別に何とも思いませんでした。

証人は、四畳半の間の中を二分間も見ていたというが、その間二つの白いものは声を出さなかつたか。

出しませんでした。

証人がそれまでに見た事のある亀三郎夫婦の夫婦喧嘩も黙つてしていたのか。

大きな声を出す時もあり、黙つてしている時もありました。

証人は、何回位亀三郎らの夫婦喧嘩を見たか。

四、五回見たと思います。

証人は前に検察官の亀三郎夫婦がよく喧嘩をしているのを見たり聞いたりした事があるかとの尋問に対し、二回位喧嘩をしているのを見た事がある、喧嘩をすると双方の声が高くなるのでよく判ると答えているがどうか。

前にどういつたか忘れましたが、黙つて喧嘩をしている事もありました。

この事件のあつた朝も黙つて喧嘩をしていたのか。

私はそう思いました。

(電話線電灯線の切断)

弁護人

阿部が病院へ行つて後、証人は被告人から匕首を突き付けられて、電灯線と電話線を切るように言われ、この匕首を渡されたというがその匕首はそれまでにも見た事があるものか。(一〇三七丁表)

そうです。その前にも一度見た事があるものです。

何時頃、どこで見たと思うのか。

日時は忘れましたが、事件の起る前に四畳半の間の隣室の台所の棚の上に置いてあつた匕首と同じようなものと思います。

何故同じようなものと思うか。

一寸見たところで刃の長さが似ていたように思います。

それ以外には同じものだと思う根拠はないのか。

それ以外には今記憶がありません。

被告人に突き付けられた匕首について現在どのような記憶があるか。

柄に何か固いようなものを巻いてありました。それが何かは気が付きませんでした。

証人は前にその事について検察官の尋問に対し、何を巻いてあつたか記憶しないと答えたところ、更に検察官から布切か針金のようなものを巻いてあつたのではないかと問われ、布切を巻いてあつたと答えているが証人は匕首の柄に布切れを巻いてあるのを注意して見たのか。

それは、検察官から針金か布切かと問われたので、針金のような固いもので巻いてなかつたから布切れで巻いてあつたと思うと述べたのです。しかし、布切れで巻いてあつたかどうかもはつきりしません。

証人は、その匕首の柄を見たのか、又は握つただけか。

握つただけで見ませんでした。

その匕首を被告人から受取つて、どこかへ置いた事はないか。

電話線を切る時に屋根の上に置いた事がありますが、暗かつたので見ませんでした。

証人は、被告人から電話線と電灯線を切れといわれただけでどこの線を切れとはいわれなかつたか。

どこの線を切れとはいわれませんでした。

それに証人は何故屋根へ上つて行つたのか。

下では切るといつても切る所はないので屋根へ上りました。

証人はどこに引込線があるか判つていたのか。

道路の電柱から引込んでいるのですが、それが家のどこから引込まれているか判りませんでした。

証人はそれまでに電灯線とか電話線を屋根の上へ上つて切つたことがあるのか。

ありません。この時が初めてです。

電話線は室内でも切れるのではないか。

室内では切れないと思いました。(一〇三〇丁表)

……………

証人が屋根へ上つた頃には店には誰が来ていたか。(一〇三〇丁表)

誰も来ていませんでした。

証人は屋根へ上つてどちらを切ろうとしたのか。

電灯線と電話線の両方を切ろうと思つて屋根へ上りました。そして先ず、電話線の引込線が判つたのでそれを切りました。それから電灯線を切ろうと思つてそこから少し下の方にある電灯線の引込の所へ行きましたが、あまり線が太かつたので刃物は当てずに線を見ただけで切るのを止めました。そして前に上つた足場を渡つて下りました。

証人が屋根へ上つた時は未だ暗かつたか。

薄暗かつたです。

すると電話線とか電灯線の引込がどんな状態になつていたか肉眼で見えなかつたのか。

そうです。それで懐中電灯で照らしました。

屋根から降りてからどうしたか。

屋根から下りて店へ入り四畳半の間にいた奥さんの所へ行つて、切つて来ましたといつて、匕首を奥さんに返しました。

電話線と電灯線も両方切つたといつたか。

両方切つたとも、片方切つたともいわず、ただ切つて来ましたといいました。

屋根へ上る時持つて行つた懐中電灯は自分で深して持つて行つたのか。

そうではなく、奥さんから匕首と一緒に渡されたものです。

その懐中電灯というのは、店の商品であつたか。

新しいものであつたので商品だと思います。(一〇四〇丁表)

……………

弁護人

証人が電話線を切つたとき、電話線は手でもんで折り曲げられる位弛んでいたか。(一〇四一丁表)

そんなには弛んでいませんでした。しかし捻じ曲げてある所を捻じ戻すと、少し弛むので弛めて切りました。

証人が屋根から下りた時、阿部は未だ帰つていなかつたか。

帰つていませんでした。

証人は被告人に匕首を渡してからどうしたのか。

奥さんにいわれて大道へ行きました。

証人が大道へ行くまでに誰か人が来なかつたか。

誰も来なかつたと思います。

証人らが店の間へ行つてから何故電灯を点けなかつたのか。

電灯を点けるという気が付かなかつたのです。

(大道へ行つて帰り、被告人が病院へ行くのに蒲団をもつて行き、又、七輪を買つて病院へ持つて行き、匕首を発見し、服を着替えてのち)

弁護人

それから、証人は更に電線を切りに行つているがそれは服を着替えてのちか。(一〇五一丁表)

そうです。

今度はどこから上つたのか。

新館の階段を上り、新館から屋根へ出ました。

前には足場から上つたのに今度は何故新館から上つたのか。

新館の方が上り易いからです。

前には何故足場から上つたのか。

暗かつたからです。

電灯線を切りに上つた時は、人が多勢いたと思うが怪しまれるとは考えなかつたのか。

何とも考えませんでした。

電灯線を切つてから下へ下りて店へ帰つたのか。

そうです。

店へ帰つてから警察官に電灯線や電話線が切れていることを告げたのか。

そうです。

ペンチはどうしたか。

服のポケツトへ入れて持つていました。

証人が電話線等が切れているといつたのに対し、警察官は何といつたか。

何もいいません。私が現場へ案内しました。

自分が切つて自分が案内したのだが、そんな事をして怪しまれるとは思わなかつたのか。

そんな事は考えませんでした。

証人はそれから警察へ行つたのか。

それから暫くして警察へ行きました。(一〇五二丁表)

……………

弁護人

証人は警察での取調の際、電灯線電話線を切つた事や、刃物を放つた事等はいわなかつたのか。(一〇五二丁裏)

いいませんでした。

それは証人が被告人からそんな事をいうと証人自身が疑われ懲役五年位になるといわれていたからか。

そうです。

被告人がそんな事をいつたのは何時か。

何時か忘れました。

証人が最初にこの事件について検察庁で取調べられたのは何時か。

それも何時か覚えていません。

(刺身庖丁の投棄)

弁護人

被告人から大道へ行くようにいわれた際、これをどこかへ捨てて来いといわれて新聞紙包みを渡されたのか。(一〇四一丁裏)

そうです。四畳半の間の所で渡されました。

その時証人は靴を履いていたか。

半長靴を履いていました。

その新聞紙を渡されてからどうしたか。

私の着ていた寝巻の懐に入れました。

証人はその時、寝巻の上からどんな(帯)紐をしていたか。

ズボンのバンドで締めていました。

証人は不断、大道の方へ行くのにどこを通るのか。

新町橋と両国橋を半々位に通つています。

証人は新聞紙包をどこへ捨てて来いといわれたか。

どこへともいいませんでした。それで私は、両国橋の上から新町川の中へ投げ込みました。

どんな風に投げ込んだか。

右手で握つて、それを前へ振るようにして放り込みました。

自転車に乗つた侭、片足を橋の手摺に掛けて放り込んだとか、放り込むと落ちる途中新聞紙で巻いてあるのが取れて、中のものが先に落ち込んだというような事は前にいつたとおりか。

そうです。

両国橋の上から放ろうという事はどこで考えたか。

両国橋へ行つてから考えました。

その新聞紙包は何だと思つたか。

持つた時の感じとか、包の長さから考えて、刃物だと思いました。

それ以外に刃物だと考えられる事はないか。

ありません。

包んである新聞紙は破れていなかつたか。

どうであつたか気が付きませんでした。

証人は前に自転車に乗るとき新聞紙の端から切れ物の尖のようなものが出ているのを見たと証言しているがどうか。

そんな事がありましたのでそういいました。

本当に切れ物の尖が出ていたのか。

出ているのを見ました。

その尖を見たから刃物だと思つたのか。

それと長さと持つた感じから刃物だと思つたのです。

どんな刃物だと思つたか。

深くは考えません。ただ切れ物だと思つただけです。

証人は、前に両国橋から捨てた刃物は刺身庖丁だと思つたとも述べているがどうか。

それは後になつて、三枝方の刺身庖丁がなくなつているからそうではないかと考えたのです。

証人は本当に被告人から刃物を預つたのか。

今いつたように刃物を預つた事は間違いありません。

その刃物は何に使つたものだと思つたか。

何に使つたか判りませんでした。

普通捨ててくれと頼まれた場合人に知れないようにそつと捨てると思うが証人は先にいつたようにさつと放り込んだのか。

そうです。それが何か判らなかつたからです。

証人が刃物を捨てて来いといわれたのは、その日朝起きてから普通でない色々のできごとがあつた上での事であるが、何か考えなかつたのか。

おかしいとは思いました。

裁判長

それまでの経過から見て夫婦喧嘩の末、亀三郎を刺したのではないかと、被告人の事を何とか考えなかつたか。

(証人は答えない)

弁護人

証人は、川へ投げ込んだ新聞紙包みがちやぶんという音がして水に落ち込むまで見ていたのか。

刃物がちやぶんと落ち込む音は聞きました。新聞紙がひらひらするのは見ましたが、川へ落ちるまでは見ていませんでした。

その時はまだ暗かつたので遠方の方の水面は見えましたが、刃物の落ちこんだ両国橋の下附近水面は見えませんでした。

その時川の水は満ちていたか干いていたか。

判りませんでした。(一〇四四丁裏)

〈5〉 第一審一二回公判(昭三〇・八・四)証言

(格闘の目撃)

藤掛検察官

この事件のあつた朝、証人と阿部が四畳半の間の内部を覗いた時白いものが二つ見えたというのは間違いないか。(一一三三丁表)

間違いありません。

白いものが、二つだというのは何故判つたのか。

白いものが二つ離れており多少高低もあつたので二つというのが判りました。

その白いものは前後左右に激しく動いていなかつたか。

動いていました。

それはゆつくり動いていたか、激しく動いていたか。

一寸見ただけですからはつきり判りませんでしたが相当激しく動いていました。

証人は、その白いもの二つを何と思つたか。

奥さんと大将だと思いました。

何故そう思つたか。

白く見えたものが二つとも寝巻だと思つたからです。

それ以外に白いものの高さとか格好から見て被告人と亀三郎だと考えたのではないか。

白いものに高低のある事は判りましたが格好までは判りませんでした。(一一三三丁裏)

……………

弁護人

証人は四畳半の間で二つの白いものが激しく動いているのを見たか。(一一三八丁表)

一寸の間見ただけでありますが、大分あつちこつち動いていたので激しく動いていたといえると思います。

あつちこつち動いていたというと相当広範囲に動いていたのか。

白いものがふわふわと前後左右に動いていた程度でした。

白いもの全体が動いていたのか、又は白いものの或る部分だけが揺れていたのか。

白いもの全体が前後左右に動いていました。

(電話線電灯線の切断)

藤掛検察官

証人が被告人から匕首を渡されて電線を切つて来いといわれた時、どの辺を切つて来いということはいわれなかつたのか。(一一三七丁裏)

その点は現在記憶がありません。

できるだけ根元の方から切つて来いという話はなかつたのか。

その点については、前に検察官に対して述べた調書のとおり間違いないと思いますから今は憶えておりません。

すると、前に検察官に対して今のようにいつているとすればそのとおりか。

検察官の取調を受けた時には記憶が新しかつたのでそのとおり間違いないと思います。

……………

弁護人

被告人から電線を切れといわれた時どこを切れといわれた記憶があるか。(一一四〇丁裏)

どうであつたか今はつきりした記憶がありません。

被告人は屋根へ上つて電線を切れとはいわなかつたが、証人自身の考えで屋根へ上つたという事は間違いないか。

その点もどうであつたかはつきりしません。

(刺身庖丁の投棄)

藤掛検察官

証人が被告人から捨てて来てくれといわれて受取つた新聞紙に包んだものはどの位の長さのものか。(一一三六丁表)

一尺位でした。

それを持つた時、柄はあるように感じたのか。

柄はあつたように思います。

それを見た時証人はこれは刃物だと思つたのか。

奥さんから受取つた時には新聞紙で包んであつたので刃物かどうか判りませんでしたが、それを持つて自転車に乗るとき先の方が少し新聞紙から出ていたのでそれを見て刃物だと思いました。

その時この刃物は一体どうしたものかと考えなかつたのか。

おかしいとは思いました。

何のために、これを捨てるのか、これはどうしたものであろうかという事は考えなかつたのか。

(証人は答えない)

その前に四畳半の間を通る時亀三郎の倒れているのを見ており、更に被告人から電線を切るように頼まれたりした後の事であるが、この刃物はどうしたものかと考えなかつたのか。

(証人は答えない)

証人は、この法廷で証言する前に裁判官の証人尋問を受けたことがあるか。

あります。

その際、この刃物はどうしたものかと思つたかという検察官の尋問に対し、証人は「奥さんがこの刃物で亀三郎を刺したので、それを隠すためにこれを放つて来いといつたのだと思つた」と述べているがどうか。

その時にはそれが正しいと思つたのでそのように言いました。

その点について、前回公判廷において、裁判官の尋問があつた時、何故そのように述べなかつたのか。

裁判官の証人尋問の時には記憶も新しかつたのでそのように言つたのですが、今は記憶がはつきりしないのです。

新聞紙包の刃物がべとべと湿つたような感じはしなかつたか。

どうであつたかはつきり憶えておりません。

新聞紙に包んだ刃物は出刃庖丁か短刀か刺身庖丁かどういう刃物だと思つたか。

細長かつたので、刺身庖丁のように思いました。(一一三七丁表)

〈6〉 第二審証人尋問調書(検証期日における)(昭三一・八・二九)中の供述

(電話線電灯線の切断)

裁判長

(刺身庖丁を)捨てに行く前に屋根へ上つて電話線や電灯線を切つたことがあるか。

切つたことがあります。(二〇六四丁表)

何で切つたのか。

電話線はドスで切り、電灯線はペンチで切りました。

どちらを先に切つたのか。

電話線を先に切りました。

電話線を切つた刃物はどうしたか。

直ぐ奥さんに渡しました。

(刺身庖丁の投棄)

裁判長

証人は、事件当日の早朝、茂子に頼まれて新聞紙に包んだものを川へ捨てるため両国橋へ行つたことがあるか。(二〇六二丁裏)

あります。

どのようにして捨てたか。

検証現場で説明したように両国橋の西側欄干の中程のところまで自転車で乗りつけ、自転車に乗つたままで右足を欄干の下の横桟にかけ、左手でハンドルを持ち右手で包の一方を握り腕を体の左側の方から半円を描くように水平に振つて西側の川へ向つて放り投げました。

包紙の新聞紙は二頁大のものであつたか、四頁大のものであつたか。

どちらであつたか覚えません。

新聞紙で包んだままで紐で括つてはなかつたか。

紐でくくつてはいませんでした。

中には何か包んであつたか。

包紙の端から刃物の先が出ていたので刃物だと思いました。

先はどの位出ていたか。

ほんの少しだけ出ていました。

川へ放る折、先の出ている方を持つて投げたか、それともその反対の方を持つて投げたか。

どちらを持つて投げたか覚えません。

両国橋まではどの様にして持つて行つたか。

寝巻のふところへ入れて行きました。

ふところへ入れて行つた折、先が腹にささる様なことはなかつたか。

その様なことはありませんでした。

茂子から受取つた時に直ぐそれが刃物だと判つたか。

暗かつたので受取つた直ぐには判りませんでした。(二〇六四丁表)

……………

裁判長

茂子から新聞紙包みを頼まれたのはいつか。(二〇六四丁表)

奥さんにドスを戻してから直ぐ後でした。

新聞紙に包んだものが電話線を切つた刃物だとは思わなかつたか。

電話線を切つたドスではなかつた様に思いました。

川へ投げたとき新聞紙にくるまつたままで川へ落ちたか。

新聞紙と中味とが離れて別々に落ちました。

どちらが先に落ちたか。

中身の方が先に落ちました。

何か音がしたか。

ポチヤンという音が聞えました。

合田裁判官

新聞紙と中味は何時離れたか。

水平に投げたのですが、まつすぐに西へ水平に飛んでから下方へ落ちはじめる時に離れました。(二〇六五丁表)

〈7〉 第二審三回公判(昭三一・一一・一四)証言

(格闘の目撃)

弁護人

昭和二八年一一月四日より前に亀三郎と茂子が喧嘩しているのを何度位見たことがありますか。(二二四二丁裏)

数は忘れましたが見たことはあります。

一回でしたか。

一回ではありません。

それでは二回ですか。

判りません。

その喧嘩というのはどんなものでしたか。つかみ合いをしていましたか、口喧嘩でしたか。

とにかく翌る日、仕事に出たときの二人の物の言い方で前に喧嘩したなということが思われました。

すると、証人は、二人が喧嘩しているのを見たことはないのですか。

見たことはありませんが大声で言い合つているのを聞きました。

言い合つている声はどちらが大きかつたか。

それは女の方が大きかつたです。

亀三郎の声はどうか。

聞いたか聞かなかつたか覚えません。

言い争つているのを聞いたのは、どんな時刻からだつたですか。

寝る前とか時には夜おそくでした。

そのおそいというのは何時頃か。

私達がふとんに入つて寝ているときだから時間は判りません。

昭和二八年一一月五日の事件のあつた朝、証人はどうして眼がさめましたか。

ドタンバタンという物音で眼がさめました。

眼がさめてからもその音はまだ聞えていましたか。

聞えていたように思います。

それはどんな音でしたか。

ドタンバタンという音でした。

それは体が何かに突当るような音でしたか。

私はたぶん足音だと思いました。

体が押入の戸に当る音を聞かなかつたか。

判然覚えません。(二二四四丁表)

……………

物音で眼をさましてから証人はどうしましたか。

小屋の節穴から四畳半の間の方を覗いてみました。

何か見えましたか。

暗くて家が見える位で何も見えませんでした。

その節穴から覗いて見たのはたしかですか。

覗いて見たことに間違いありません。

それからどうしましたか。

節穴から見えないので南側の窓をあけてそこから外へ出て見に行きました。

どこへ見に行つたか。

裏へ見に行きました。(二二四五丁表)

……………

弁護人

何故、西側の戸を開けなかつたのか。(二二四五丁裏)

西側の戸も一寸堅くてあけると音がするので、夫婦喧嘩を見に行くのに見付かつては困ると思つて南から出たのです。

阿部も出たのか。

出ました。(二二四五丁裏)

……………

南へ出てどちらへ廻つて行つたか。(二二四六丁表)

西側へ廻つて行きました。

小屋の南側には石が沢山置いてあつて、歩けなかつたのではないか。

南側には一つ踏台の石があつて、他の石はそれにくつつけて置いてあつたので歩けました。

……………

小屋の北側へ行つてどの辺から四畳半を見たのか。(二二四六丁表)

小屋の西北隅から一寸入つたところから小屋にひつついて見ました。

阿部はどうか。

阿部も見ました。

阿部はどこにいましたか。

私のうしろから見ていました。

……………

小屋の北側の西北隅から見て四畳半の中が見えましたか。

それは見えました。

どこまで見えましたか。

どこまでつて、暗くて向うの端までは見えませんでしたが何か白つぽい感じのものが見えました。

もう少し見えたものを判然言つて下さい。

私はその程度のものしか覚えていません。

白つぽい感じのものは何個位ありましたか。

二つぐらいあつたように思います。

それはどの辺に見えましたか。

四畳半の中央辺に見えました。

顔とか頭とかいつたものは見えませんでしたか。

顔は見えなかつたと思います。

どの位の時間、見ていましたか。

一分か二分位でなかつたかと思います。

その見ている間に四畳半で何か声はしなかつたですか。

声はなかつたように思います。

足音はどうですか。

覚えていません。

そこで見ていて誰が何をしていると思つたですか。

奥さんと大将が喧嘩をしよるんかいなアと思いました。

声がないのを変に思わなかつたですか。

別に変にも思いませんでした。

時刻が夜明けに近いのにそんな喧嘩をするのを変に思わなかつたか。

いつやるか判らんので変には思いませんでした。(二二四八丁表)

……………

弁護人

事件のあつた朝、小屋の隅のところから四畳半の部屋を見たとき、硝子障子は開いていましたか。(二二六二丁裏)

開いていたと思います。

前の晩四畳半の部屋を通つて小屋に寝に行くとき硝子障子をしめましたか。

しめたかどうか覚えません。

朝、硝子障子が開いているのを見て不思議に思わなかつたですか。

別に不思議には思いませんでした。

白いものが二つ見え、それが大将と奥さんだと思つたといいましたが、どうしてそう思つたのですか。

さつきにも述べたとおり四畳半には大将と奥さんの二人しか寝ていなかつたからです。

他から人が入つているとは思いませんでしたか。

考えませんでした。

形か何かで大将と奥さんだという区別がついたのですか、それとも何気なしにそう思つたのですか。

その点判然しません。

徳島の裁判所では、そんな時間に外から人が来ているとは思わないから大将と奥さんだと思つたと言つているのですが、どうですか。

そつちの方が合つていると思います。

そんな時間に人が来ていなかつたということは判然しているのか。

前に言つてあると思うんですが、とにかく僕の目に他の人が見えなかつたからそう言つたのだと思います。

どうして、人が来ていなかつたとそれだけで言えるのか。

(答えない)(二二六四丁表)

(電話線電灯線の切断)

弁護人

再び小屋へ入つてから後のことを話して下さい―再び小屋へ入つてから又外へ出たのでしよう。(二二五一丁表)

はあ。

どういうわけで又外へ出たのですか。

とにかく奥さんが叫んだからだと思います。

どこから呼んだのですか。

それは判りません。

何と呼んだのですか。

西野さんとか、阿部さんとか呼んだように思うのですが、どちらだつたか覚えません。

……………

そう呼ばれたのは、小屋へ入つて何をしていた時ですか。(二二五一丁裏)

忘れました。

証人は呼ばれたので又外へ出ましたか。

出ました。

出てからどうしましたか。

外へ出たらさつき言つたように、「泥棒が入つたから警察へ電話してくれるよう裏の田中さんに頼んでくれるで」と奥さんにいわれたのです。

……………

電話を頼めといわれたとき、店に電話のあることを考えなかつたのですか。(二二五二丁裏)

判りません。

……………

電話を頼んでからどうしましたか。(二二五三丁表)

四畳半を通つて店の方へ行きました。

店へ行つて何をしましたか。

奥さんが何かガチヤガチヤいわせていたので、そこへ行つたら奥さんが病院へ行つてくれと阿部君にいつていました。

それはどんな言葉だつたですか。

どんな言葉だつたか判然覚えません。

君には何といいましたか。

私には電灯線を切れといいました。

電話線はどうですか。

電灯線と電話線を切れといわれました。

どういう理由で切れとはいいませんでしたか。

何故切れとはいいませんでした。

前に何故切る気になつたかと問われたのに対し、茂子から匕首をつきつけられて怖ろしかつたからだと答えていますが、そんなことがあつたのですか。

そんなことを言つたか覚えません。

その折に証人は断わればよかつたではありませんか。

使われる身としたらそうも出来ませんでした。

それで切つたのですね。

表の方の足場から上つて、電話線を切りました。

降りて来てどうしましたか。

奥さんが四畳半に座つていたのでそこへ行つて、切つて来たといつて奥さんに匕首を渡しました。

何故電話線だけ切つて来たと言わなかつたのですか。

後で切つたら同じことだと思つたからです。

どうして電灯線をその時切らなかつたのか。

匕首では電話線がやつと切れた位だから電灯線は切れないと思つて止めたのです。

ペンチで切ればよいではないか。

後でペンチを持つて行つて切つて来ました。

何故復命する前に切らなかつたのか。

………(沈黙)前の調書の方が合つていると思います。

他に用事もないのにそのとき直ぐ切ればよいのではないか。

………(沈黙)。

どうして匕首を茂子に戻したのか。

預つたのだから戻さないかんと思つて戻しただけです。(二二五五丁表)

……………

弁護人

茂子から電灯線の切る場所を聞いたか。(二二六五丁表)

聞きませんでした。

何故屋根の上に上つて切つたのか。

店から外へ出たら屋根の上に見えたので切つたのです。

電線がある場所は前から知つていたのか。

知つていました。

電話線の方はどうか。

覚えていません。

電話線の方を先に切つたのだね。

そうです。

どのようにして切つたか、匕首の先の方で切つたのか。

鋸で切るように刃で引いて切りました。

電話線を切るのなら受話機の所の線を切ればよいのではないか、その時の気持を言つて下さい。

何の考えもありませんでした。

裁判長

茂子から屋根の上へ上つて切つて来いとは言われなかつたのか。

言われませんでした。

それであれば何回も屋根の上へ上つたのだから何らか自分で判断したのではないか。

覚えていません。(二二六六丁表)

(刺身庖丁の投棄)

弁護人

大道に使いに出る折、茂子からどう言われましたか。(二二五六丁表)

大道へ行つて皆起して来てくれ、そしてこれを放つて来てくれと言つて新聞紙に包んだものを渡されました。

その新聞紙に包んだものをどうしましたか。

大道へ行く途中、両国橋から検証の折にしたようにして新町川へ捨てました。

それから両国橋の派出所へ届けたのですね。

そうです。

その他、大道へ行くまでに寄道したところはありませんか。

ありません。

包を受取る時に、茂子から何処へ捨てるように言われなかつたですか。

何処へ捨てるようにとは言われませんでした。

何故川へ捨てたのか。

何処でも良いからと思つたので川へ捨てたもので別に理由はありません。

大道へ行つてどう言いましたか。

泥棒が入つて大将が殺されたから直ぐ来てくれと言いました。

派出所へはどうして泥棒が入つたとだけ届けたのですか。

奥さんが泥棒が入つたと警察へ電話してくれるように頼んでくれと言つていましたのでそれだけ届けたのです。

亀三郎が刺されたことも届ければよいではありませんか。

忘れていました。

亀三郎が怪我していたかどうか見なかつたと言つているのに、どうして亀三郎が刺されたということを知つていたのですか。

前の調書にその点は書いてあると思います。

裁判長

大道へ行く前に亀三郎が怪我していたかどうか知らなかつたのか。

(考えて答えない)

弁護人

大道へ行つたり、派出所へ行つたりした時に、証人は、泥棒が入つたと思つていたのですか。

さつきも言つたように奥さんから裏の所で聞いたように言つただけです。

泥棒が入つたと思つていたのですか。

思つていなかつたように思います。

大道でまで泥棒が入つたように言つたのは、奥さんをかばう心算だつたのか。

判りません。

泥棒が入つたと言つたのは、夫婦喧嘩だからと思つていたからか。

(答えない)(二二五九丁表)

(匕首の入手)

弁護人

前に証人は、匕首は一〇月の末頃の午前一一時頃に、ハトロン紙に包んだものを阿部が持つて帰つたので、その日の昼食の時に無断で開いてみたら匕首が入つていた、そしてそれを包み終つた時に茂子が来てそれを持つていつたと述べていますが、どうですか。(二二五五丁表)

本当だからそう言つたのです。

阿部はそれを持つて帰つたのは午後三時過ぎだと言つているのですがどうですか。

私は私が言つたとおりだと思います。

(その他)

弁護人

証人は事件の当日である昭和二八年一一月五日に警察で調べられましたか。(二二六〇丁表)

調べられました。

その後二回警察で調べられましたか。

二回かどうか忘れましたが調べられたことはあります。

検事にも調べられましたか。

何か知りませんが検察庁へも行つたことがあるように思います。

最初警察で調べられた折、四畳半で見たことを述べたのを覚えていますか。

覚えていません。

電線を切つたことをその折述べましたか。

警察へは言わなかつたと思います。

その時は未だ口止めされてはいなかつたでしよう。

はい。

口止めされていないのに何故本当のことを言わなかつたのですか。

言えなかつたのです。

どうして言えなかつたのですか。

未だ、その時は職についていたからです。

亀三郎は雇主ではありませんか。雇主が殺されているのであれば、本当の犯人を見つけるために本当のことをいうべきではありませんか。

(答えない)

匕首のことは詳しく聞かれたでしよう。

よく覚えていません。

証人は、この殺人事件の犯人と疑われたことはありませんか。

私の記憶ではそんなことはありません。

証人は、前に茂子が亀三郎を殺したものと思つていたと述べていますが、そう思つていたのですか。

その時は、そう思つていました。

人殺しと一緒に住んでいて怖ろしくなかつたですか。

別に何もそんなことは思いませんでした。

証人は証拠を握つていたのではありませんか。証拠を握られている人と一緒に居て、身に危険を感じなかつたのですか。

何とも思いませんでした。

人殺しをそのままにしておくことが悪いとは思いませんでしたか。証人はそれをそのままにして平気で居れるような人間ですか。

(答えない)

警察が一生懸命犯人を捜していたのを知つていましたか。

知つていました。

それに何故、こつそりとでも警察へ知らせなかつたのですか。

(答えない)

先生や親などに相談したことがありますか。

当時にはありません。(二二六二丁裏)

……………

松山弁護人

両国橋の派出所へ届けたのはどうしてか。(二二六六丁表)

何もわけはありません。私がとつさに思いついて届けたのです。

茂子から届けるようには言われなかつたか。

言われませんでした。

警察や検察庁で調べられた折、電線のことを話さなかつたのは、その後茂子からそんなことを言つたらお前も懲役何ぼじやといわれたからか。

そうです。

その後、そのことを言い出したのは、もう懲役に行かなくてもよいと誰かから聞いたような特別の事情でもあつたのか。

(答えない)

裁判長

最初、警察で調べられたのは事件直後だつたのか。

そうです。

その時分に何故詳しいことを言わなかつたのか。それを後になつて言い出したのには何かわけがあろう。あれば、そのわけを言つて貰いたい。

(答えない)

〈8〉 第二審九回公判(昭三二・九・三)証言

(格闘の目撃)

岡林弁護人

二九年一一月五日の早朝、徳島地方裁判所が行つた検証に証人は立会しましたか。(二六二〇丁裏)

立会しました。

その折証人は室内の人が二人だということは判然判らなかつたが二人のように自分達が思つたのだと説明した記憶はありませんか。

覚えておりません。

(電話線電灯線の切断)

岡林弁護人

証人は昭和二八年一一月五日朝切れているということを警察に話し、警察官を案内したのは電話線だけでしたか、それとも電灯線もであつたですか。(二六一七丁表)

ちよつとはそれを覚えていないのですが………。

電話線が切れていること、その時証人は知らなかつたのではありませんか。

それは知つておりました。

電話線の切られていることには気付かなかつたと二九年七月五日の調べで述べていますがどうですか。

それは矢張り前に述べている方が正しいと思います。

前に言つたといつても何回も述べているのですが………現在の記憶ではどうですか。

(考えて答えない)

二九年八月五日湯川検事の調べで電灯線が切れていますと言つて警官を案内し電話線のことは言わなかつたと述べていますがどうですか。

思い出せません。

石川幸男には言葉では電線を切つたと話したのですか。

電線と言つたと思います。

証人は電灯線は切つたが電話線は切らないと言つたあとで、それは、嘘だつた、実は電灯線も電話線も切つたと言い直し、更に再び電話線は切らないと否認している。そして何故そう言いかえたかの理由として電灯線のことは石川にも話してあるから否認しても否認出来ないと思つたが電話線のことは言つていないので言い逃れができると思つたからだとと二九年八月三日の藤掛検事の調べに述べていますがどうですか。

………(沈黙)。

石川には電灯線を切つたとだけ話したのではありませんか。

(考え、黙して答えない)

二九年八月二日湯川検事に電話線は阿部が切つたのではないかと思うと述べたことがありますか。

そういうことは言つていないように思います。(二六一八丁裏)

……………

松山弁護人

三枝の家から斎藤病院に行く途中にスタンドがありその東に板囲いがありますね。(二六二二丁表)

はい、あります。

あの板囲いの附近で茂子と話したことはありませんか。

記憶しません。

あの附近で奥さんから両方とも切つたかと言われ、電話線だけ切つたと答えたことはあ りませんか。

………(沈黙)。

電話線だけ切つたと話したら、早よう電灯線も屋根へ上つて根元から切つてくれと奥さんから言われたことはなかつたですか。

場所は忘れましたが、そういう話はしたように思います。

村上検事の二九年七月二一日の調書によるとそうなつているのだが、そういうことはあつたのですね。

………(沈黙)。

村上検事に調べられた同じ日に湯川検事にも調べられたのですね。

記憶しません。

村上検事には、電話線も切つたし、また後で電灯線も切つたと述べたが、あれは間違いだつたと言直しているがどうしてですか。何か特別に湯川検事から呼ばれたのですか、それとも証人の方から調べ直しを求めたのですか。

覚えていません。

その翌々日の調べにおいては、矢張り電灯線は切つていないと述べ、電話線は切つたとか切らないとか言つたりしているが、どうしてこのように供述がぐらついているのか、何かそれにわけがあるのか。

………(沈黙)。(二六二三丁裏)

……………

検察官

奥さんの茂子から頼まれて証人が電話線と電灯線の両方を切つたことに間違いはないのですか。(二六二五丁表)

間違いはありません。

ナイフで切り込みを入れてペンチで切つたのですか。

そうです。

合田裁判官

電灯線と電話線はどちらを先に切つたのか。

電話線を先に切りました。

どのようにして切つたか。

匕首のようなもので切り込みをつけてからペンチで切りました。

電灯線はどうか。

電灯線は庖丁で切り込みをつけてペンチで切りました。

庖丁というとどんなものか。

ナイフです。

そのナイフというのはどのようなナイフか。

普通の鉛筆を削るときに使うナイフです。

それは何処にあつたか。

店の道具箱かウインドの上にあつたと思います。

使つてからそのナイフはどうしたか。

元あつた所へ戻したと思います。

二十九年検察庁で調べられたとき、そのナイフのことについて聞かれたか。

記憶にありません。

屋根の上へはその日の朝何度上つたか。

三回ぐらい上つたと思います。

どんな用で上つたのか。

一回目は電話線を切つたときに上り、二回目は電灯線を切るときに上り、その次に警察の人を案内して上りました。

その他にその朝屋根へ上つたことはないか。

それだけしか覚えておりません。

証人は修繕はしなかつたのか。

修繕した記憶はありません。

警官を案内した折、直ぐ証人が接ごうとして警官に止められるようなことはなかつたか。

………(沈黙)。

証人は自分で線を持つて来て修繕したのではないのか。

覚えていません。

一回目に屋根の上へ上るとき近所の人から危いぞと言われたことがあるか。

新開のおぢさんからそう言われました。

屋根の上に上つているのを阿部に見られたことはないか。

私の記憶では、阿部に見られたことはないように思います。(二六二七丁表)

……………

合田裁判官

電灯線を切つたナイフはどうして店においてあつたのか。(二六二八丁裏)

線の皮をむくのに使つていたのです。

電線の皮をむくのに匕首を使つたことはないか。

ありません。

二九年に勾留もされていろいろ調べられているが最初から一口のことを言わずに隠していたと思われる節があるね。

それはあります。

何故初めから本当のことを言わなかつたのか………。今考えてその時の気持をどう思うか。

(考えて答えない)

(刺身庖丁の投棄)

岡林弁護人

庖丁を捨てたことについて被告人の茂子から口止めされたことがありますか。(二六一九丁表)

一、二回あつたように思います。

それは何時頃、どういう機会にどんな風にいつて口止めされましたか。

忘れました。

庖丁のことを一番最後まで言わなかつたのはどうしてですか。

別にどうといつて私が意図したことはありません。

それ以前にも庖丁のことを言つたことがありますか。

ありません。

庖丁のことについては証人がはじめて捨てたと言つた時より何日前から調べられていましたか。

覚えません。

庖丁のことを尋ねられるより前に三枝方の庖丁を持つて来てありましたか。

それより前から持つて来てあつたのか、調べる時に持つて来たのか判りませんが庖丁は持つて来てあつたように思います。(二六一九丁裏)

(匕首の入手)

岡林弁護人

匕首についてですが、亀三郎が殺されてから匕首について阿部と二人で話し合つたことがありますか。(二六一九丁裏)

記憶しません。

証人は、阿部があの匕首を持つて帰つた晩かその翌朝、阿部が駅前から持つて帰つたと言つたと公判で述べていますが、そういう事実はあつたのですか。

それはありました。

それなら、どうして検事に対し、あれは森会のおばさんが大きな荷物を持つて来ていたからそのおばさんが持つて来たのではないかと思うと述べたのですか。

(答えない)

……………

松山弁護人

岡林弁護人からも聞かれた匕首の件だが、あれは森会の方から入つたのではないかと、証人の方から丹羽事務官に申し述べているが、そう言つた記憶はありますか。(二六二三丁裏)

覚えていません。

匕首のことで新天地から阿部が持つて帰つたことを知つていると大分後になつてから述べているが、具体的に新天地の何処というようなことは判つていたのですか。

覚えません。

(二) 阿部守良の第一、二審における証言

〈一〉第一審二回公判(昭二九・一〇・二二)証言

(格闘の目撃)

村上検察官

証人は、昭和二八年一一月五日の朝三枝亀三郎が殺された事を知つているか。

私は主人が倒れているのを見て知つております。(一一七丁表)

どんな事からそれを見たのか。

その日、私と西野は小屋で寝ていましたがバタンバタンという物音に目を覚まし、それから四畳半の間を通る時に人が倒れているのを見ました。

藤掛検察官

バタンバタンというのはどんな音か。

何か暴れているような相当大きな音でした。その音で私と西野は目を覚ましたのです。

四畳半の間で物音がすると小屋にいて聞えるか。

聞えます。

……………

藤掛検察官

証人は目を覚ましてのち西野と話はしなかつたか。(一一八丁表)

目を覚ますと西野がどしたんぞといいながら、南側の窓から外へ出ましたので、私も後から出て行きました。そして西側の出入口の前を通り、四畳半の間と小屋との間の通路の所まで出て行き西の方から四畳半の間の方を覗きました。

その位置からは四畳半の間の全体が見えるのか。

部屋の隅の所には半坪位の便所がありますのでその蔭になつて全部は見えませんが大部分は見えます。

四畳半の間の戸等はどうなつているのか。

廊下の南側は透明硝子の戸が入つており、廊下と四畳半の間との間は障子が入つておりますが、私らが覗いた時には、それが両方とも東の方へ一杯に開いていました。

証人らがそのようにして見に行つた時の外の明るさはどうであつたか。

一間位離れても立つている人が誰であるか判る程度でした。

部屋の中の明るさはどうであつたか。

外より大分暗かつたようですが人影は判りました。

四畳半の間の中には人影が見えたか。

私が見た時、部屋の中には、こちらを向いて主人が立ちそれに対し寝巻を着ているので奥さんだと思われる人が向き合つて立つていました。その外には人影はありませんでした。

向き合つて立つていたのは部屋のどの辺か。

部屋の真中より少し東寄りの所でした。

立つている姿が全部見えたか。

全部見えました。

どんな着物を着ていたか。

こちら側の人は白つぽいように見える寝巻を着ていました。

部屋の中に立つている人の顔形が見えたか。

こちら側に向いている背の高い人は顔形で主人だと思いました。

それに対している人は誰だと思つたか。

前の人より背が大分低く白つぽい寝巻を着ていましたが、私は奥さんだと思いました。

証人が見ていた位置と部屋の中で二人が立つていた位置との距離はどの位か。

一間位でした。

その二人はずつと立つていただけか。

立つていただけではなく、二人はもぢかいながら、少し動いていました。

証人らはどの位の間見ていたか。

一、二分間見ていました。

どうして見るのを止めたのか。

私は、主人が夫婦喧嘩をしているのだと思つたので見るのをやめて、小屋へ帰り、寝かけました。

すると泥棒という普通より大きい声が二、三回続いて聞えました。(一二〇丁表)

……………

(刺身庖丁の投棄)

藤掛検察官

この事件の前三枝方にはどんな庖丁があつたか。(一三〇丁裏)

炊事場に刺身庖丁を置いてありました。その外、私が入りたての頃には出刃庖丁もありました。

事件の起る一ヶ月位前からはどんな庖丁を置いてあつたか。

刺身庖丁だけでありました。

証人はその刺身庖丁を使つた事があるか。

あります。

その刺身庖丁の長さはどの位か。

大体、刃渡り二五センチメートルで全体の長さは三〇センチメートルか三五センチメートルであつたと思います。

それは新しいものか。

そう光つている方ではありませんでした。

先端が折れていたか。

折れてはいません。

柄に何か印が入つていたか。

印は付いていたと思いますが、どんなものであつたか憶えていません。

その刺身庖丁をこの事件の後、三枝方の炊事場で見た事があるか。

見た事がありません。

その刺身庖丁が無くなつている事は、何時判つたか。

その日から二、三日して、私が炊事場へ電灯のスイツチを入れに行つた時に刺身庖丁の見えない事に気がつきました。

……………

そのことについて西野と話し合つたことはないか。

一一月二〇日頃であつたと思いますが、裏の小屋で、西野から事件後刺身庖丁を見たかといわれたので、私は見ていないと答えると、西野はそれを捨てたとか何とか言つていました。

西野はどういつたか。

捨てたとか何とか言つていましたがはつきりどういつたかは記憶していません。

(匕首の入手)

藤掛検察官

証人が顔を洗つている時に見付けた匕首はそれまでに証人が見たことがある匕首か、又は全然見た事のない匕首か。(一二五丁裏)

見たことのある匕首です。

何処で見たか。

事件の前に、炊事場の棚に置いてあるのを見ました。

工事場の壁に立てかけてあつた匕首はどんなものか。

鞘はなく柄には布を巻いて糸で括つてありました。

どんな色の布で巻いてあつたか。

布の色は紺色で糸は白かつたと思います。

その匕首は、前に証人が三枝方の炊事場の棚で見たものと同じであつたか。

同じものです。

村上検察官

炊事場の棚の上に置いてあつた匕首は何処から持つて来たものか。

徳島駅前新天地の篠原という家から昨年一〇月末頃、私が持つて帰つたものです。

どんな事からそれを持つて帰つたのか。

藍場町の森という家からあんま器の修理を頼まれていたが、その修理ができ上つたのでそれを森方へ届けに行く時、奥さんから帰りに新天地の篠原方へ行つて、三枝といつたら渡してくれるものがあるから貰つて来てくれといわれました。それで、私は出掛けましたが、森の家が判らないので、一度、店へ帰り、聞き直して又出掛かけてあんま器を森方へ届けそれから駅前の方から新天地へ行きました。

篠原の家は直ぐ判つたか。

新天地の入口で聞くと直ぐ判りました。

篠原方には入口が二つあつたか一つあつたか。

入口が二つありました。それで東側の入口から入りますと女の人が出て来ましたので、三枝ですがといいますと、それだけで判つたらしく、その人は二階へ上りましたが、今度は、西側の入口の方からこつちへ来てくれといいましたのでそこへ行きますと渡してくれました。

女の人というのはどんな人か。

眉の毛の吊り上つた人ですが年は三十位でした。

西側の入口には何か目印でもあるのか。

入つた処に棚を吊つてありました。

その女の人から何を渡されたのか。

茶色の紙に巻いて紙紐で括つてある長さ一尺位の細長いものです。それを受取つて私は店へ帰りました。

帰つてからどうしたか。

持つて帰つて、店の電話機を置いてある処で奥さんにそれを渡しました。すると、奥さんは、へいとか何とかいつてそれを受取り、四畳半の間の方へ持つて行きました。

証人が炊事場の棚で匕首を見たというのはその日か。

そうです。その日の夕方です。夕食の食器を取りに行つた時、棚の上に私が持つて帰つたものを置いてあつたので、開けて見ますと匕首であつたので直ぐ元の処へ置いておきました。

その匕首が、この事件後、壁に立てかけてあつたという匕首と同じものか。

そうです。

証人は、その後、篠原方で証人に匕首を渡してくれた女の人を見たことがあるか。

検察庁で一度会いました。その後篠原の家の方へ調べに行つた時にも会いました。

篠原方へ調べに行つた時には、検察官や、裁判官も一緒であつたか。

一緒でした。

その時会つた女の人に匕首を貰つた事は間違いないか。

間違いありません。

その女の人は篠原澄子という名前だが、証人は篠原澄子から匕首を受取つた事は間違いないのか。

間違いありません。

藤掛検察官

証人が篠原方から匕首を持つて帰つた時、西野は店にいたか。

おりました。

西野からその匕首の事について開かれた事があるか。

炊事場の棚の上に置いてあるのは何処から持つて帰つたのかと聞かれたので、私は駅前の新天地から持つて帰つたと答えました。

新天地の篠原方から持つて帰つたとはいわなかつたのか。

篠原方とはいいませんでした。

篠原方から持つて帰つた日以後、その匕首を見た事はないか。

それから二、三日して奥さんに頼まれてその匕首の柄に糸を巻いたことがあります。

証人が何をしているとき、被告人にそれを頼まれたのか。

私が店でラヂオの修理をしているとき、炊事場にいた奥さんから呼ばれたので、上つて行きますと、奥さんは匕首を持つて、この柄に布を巻きその上に糸を巻きかけておりましたが、私にこの糸をもう少し固く巻いてといいましたのでそれを巻きました。

その柄に巻いてあつた布の色は何色か。

紺色でありました。

巻いてからどうしたか。

奥さんに渡しました。奥さんがそれをどうしたかは判りません。

匕首の柄を巻いた布は何の糸か。

ラヂオのダイヤルの糸だと思います。

何故そう思うのか。

ラヂオの修理にはその糸しか使いませんし、その日奥さんからダイヤルの古い糸ないでといわれたので修理台の中から糸を探し出し、店で奥さんに渡してあつたので、その糸だと思うのです。

その糸は新らしい糸か。

新しいものではなく、よれて黒くなつた古い糸です。

証人が炊事場で被告人に呼ばれたのはその糸を渡して後の事か。

そうです。私が奥さんに糸を渡し、奥さんが糸を持つて四畳半の間に入つて行つてから暫くして呼ばれたのです。

そのようなでき事のあつたのは大体何時頃か。

匕首を持つて帰つた翌日か翌々日であります。

そのように証人が柄を巻いた匕首と、この事件後新築の家の壁に立てかけてあつた匕首とは同じものか。

そうです。

どんなところから同じだと判つたか。

匕首の形とか柄を巻いた布の色とか糸とかその巻き方等で判りました。

〈二〉第一審七回公判(昭三〇・二・一八)証言

(匕首の入手)

藤掛検察官

証人は、昭和二八年一一月五日以前に徳島駅前の新天地の篠原方から匕首を受取つて来た事があるか。(七五四丁)

受取つて来た事は間違いありません。

証人はそのときまで篠原方へ行つた事はなかつたのか。

それより前一度ラジオの修理に行つた事があります。

それは何時頃か。

昭和二八年夏頃です。

それは主人の亀三郎にいわれて行つたのか。

そうです。

ラジオは篠原方で修理したのか。

私が篠原方へ行きましたが先方では修理ができなかつたので、店へ持つて帰り主人に修理して貰い持つて行つて据え付けました。

すると持つて帰つたときと持つて行つた時と二回行つた訳か。

そうです。

その時のラジオの修理代はどうしたか。

どうしたか私は知りません。

そのような事があつたとすれば、証人としては、被告人にいわれて篠原方へ行つた時には篠原の家をよく判つていた訳か。

大体判つていました。

証人が匕首を持つて行く前に三枝方に見たこともない若い男が来て被告人と何か話をしているのを見なかつたか。

そんな事がありました。私が匕首を取りに行く一週間位前のことです。

時刻は何時頃であつたか。

昼過頃であつたと思います。

証人はその男の姿を見たか。

見ました。

その男は何処で奥さんと話をしていたか。

店から四畳半の間への上り口で話していました。

その男の人相とか服装を記憶しているか。

それは記憶していません。

その男の年令はどの位か。

二十五、六歳でした。

その男と被告人はどんな話をしていたか。

話の内容は聞いておりませんが暫く話していました。

その男が店から帰る時何かあつたか。

奥さんが私を指してこの子をやるからとその男にいつていました。

その男も証人の方を見ていたか。

見ておりました。

被告人がこの方をやるからといつた時証人はどう思つたか。

その時には別に何とも思いませんでした。

その翌日か翌々日、証人はそれまで行つたこともない得意先へ行けと言われたことはないか。

私は毎日方々へ行つていたのではつきり記憶しません。

そのような事があつて後、証人は篠原方へ行つたか。

そうです。

篠原方へ行けといわれた時、証人はどう思つたか。

前に店へ来ていた若い男は篠原の若い者かなと思いました。

証人が篠原方へ行つた時、その若い男はいなかつたか。

おりませんでした。

証人は、最初その若い男を見た時、その服装等からしてどんな商売をしている人だと思つたか。

そんな事は考えませんでした。

何も感じなかつたか。

普通の仕事をしている人のように思いました。

普通の仕事といつても色々あるがどんな仕事か。

何か重労働をやつている人だと思いました。

証人が前に被告人から固い糸を取つてくれといわれ、ダイヤルの糸を渡したのは何時か。

匕首を持つて帰つた翌日か翌々日の昼頃であります。

何処でその糸を渡したか。

四畳半の間の上り口で渡しました。

その時、被告人は何か持つていたか。

どうであつたか記憶しません。

糸を渡してからどうしたか。

奥さんは、糸を受取ると、その侭奥へ入つて行きました。それから暫くすると、阿部さんと呼んだので行つて見ますと、台所で奥さんが匕首を持ち、その柄に紺色の布切を巻き、その上を私の渡した糸で巻こうとしていましたが、私が行くと巻いてくれというので巻きました。

その紺色の布切というのは新しいものか。

そう新しい布切ではありませんでした。

その当時、三枝方に娘の佳子の玩具があつたか。

ありました。玩具は玄関の間の方にラジオの空箱に入れて置いてありました。

どんな玩具があつたか。

人形のようなものでした。

人形の着物の端切のようなものはなかつたか。

布切もありましたがどんなものがあつたかはつきり記憶していません。

証人が被告人に渡した糸は、店の道具箱に入つていたのか。

そうです。道具箱に入つていたダイヤルの古い糸です。

どんな糸であつたか。

古い木綿糸のような白糸です。

古いラジオにはそんな糸を使つているのか。

そうです。

新らしいラジオにはどんな糸を使つているのか。

茶色い糸を使つています。(七五八丁表)

〈三〉第一審一二回公判(昭三〇・八・四)証言

(格闘の目撃)

弁護人

それから夜中にどんなでき事があつたか。(一一四五丁裏)

夜中には何もありませんでしたが、夜明頃四畳半の間の方でドタンバタンという物音がして目が覚めました。

証人は西野に起されたのか。

自分で目が覚めました。私が起きたときには西野も起きていました。

それからどうしたか。

西野が小屋の南側の硝子戸を開けて出て行つたので、私も後から出て行きました。

その前に何かしたのではないか。

記憶していません。

何故南側の窓から出て行つたのか。

南枕にして寝ていたので南側の硝子戸を開けたのではないかと思います。

証人らは裸足で出て行つたのか。

そうです。靴は西側の土間に置いてありました。

外へ出てからどうしたか。

西野が先になり私が後に続いて小屋の西側を廻り、四畳半の間の西南隅にある便所の所へ行き四畳半の間を覗きました。

何が見えたか。

白いものが二つ重なつて動いているのが見えました。

その二つの白いものには高低があつたか。

少し高低がありました。

その二つの白いものは相当激しく動いていたか。

激しいという程は動いていませんでした。

声は出していなかつたか。

何もいつていませんでした。

ドタンバタンという物音はどうか。

それもしていませんでした。

二つの白いものは静かに動いていたのか。

動いているのが判る程度に動いていました。

それを見て証人らはどうしたか。

私等はその侭小屋へ引返しました。

証人は西野と何か話をしなかつたか。

何も話しませんでした。

それを見て証人はどう思つたか。

主人と奥さんが夫婦喧嘩をしているのだと思いました。

証人らが覗いた時、四畳半の間の内部が見えたのであるから、仕切りの障子も硝子戸も開いていた訳だが証人は不思議に思わなかつたか。

おかしいとは思いましたが深くは考えませんでした。

夫婦喧嘩をするのに硝子戸まで開けてするのはおかしいと思つたか。

そんな事までは考えません。

(刺身庖丁の投棄)

弁護人

証人の知つている間に三枝の店には刺身庖丁が幾つあつたか。(一一五八丁表)

刺身庖丁は一本です。その他に短い庖丁が一本ありました。

その刺身庖丁は新しかつたか古かつたか。

ずつと古いものではありませんでした。

この事件の後、三枝方で刺身庖丁を見たか。

事件後見たことはありません。

その刺身庖丁は、事件前にはあつたが事件後にはなかつたとはつきりいえるのか。

事件の前日にあつたのを見てはおりませんが、昭和二八年一〇月の国民体育大会があつた時に私は刺身庖丁で漬物を切つた記憶があります。

(匕首の入手)

弁護人

証人が新館の風呂場に立てかけてある匕首を発見した時も寝巻の侭であつたか。(一一五三丁裏)

匕首を発見したのは顔を洗つている時でしたが、寝巻を着換えて後に顔を洗つたと思いますので着替えをしていました。西野も一緒でした。

証人は匕首を手に取つて見たか。

手には取りませんでした。

その匕首には鞘はあつたか。

鞘はありませんでした。

匕首の刃には血が付いていたか。

血は付いておりませんでした。

匕首の柄はどうなつていたか。

何か布切を巻き更にその上に布切れを留めるために糸を巻いてあるのが見えました。

徳島駅前新天地の篠原というのは前から知つていたのか。

一度、電蓄の修理に行つたことがあるので知つていましたが、家がどの辺にあるかはつきり憶えていませんでした。

篠原方へ電蓄の修理に行つたのはいつ頃か。

いつ頃行つたか記憶しません。

前記証人は、篠原の家へ行つたのは昭和二八年八月頃だといつているが、このことは検察庁でもそのとおり述べてあつたのか。

検察庁でもそういつてあつたと思います。

証人は本件第二回公判で篠原の家が判らなかつたので新天地の入口で尋ねたと述べているが、その時には、昭和二八年八月に行つたことは忘れていたのか。

前に行つた事はあつてもはつきり道順を知らなかつたのです。

修理したのはラジオか電蓄か。

電蓄です。篠原の家では修理できなかつたので内部だけ持つて帰り、主人に修理して貰いました。

篠原方から電蓄の内部を持つて帰つて修理した事を店の者は知つているのか。

一々人に話さないので知らないと思います。

証人はそれ以外に新天地へ行つたことはないか。

ありません。

亀三郎の用事で新天地へ行つたことはないか。

記憶がありません。

亀三郎自身が新天地へ出入した事はないか。

それは知りません。

亀三郎の知合が新天地にいるという事を聞いていないか。

それも知りません。

証人が被告人に頼まれて篠原方へ行き匕首を受取つて帰る時それが匕首である事は判つていたか。

ハトロン紙に包んで括つてあつたので何かはつきり判りませんでした。

それが匕首だという事を判つたのは何時か。

その日の夕方頃判りました。夕方頃それを炊事場の棚の上に置いてあるのを見て、包んである紙を開けて見ました。

その匕首と、事件のあつた朝、新館の風呂場の所で見つけた匕首とは同じものか。

同じものでした。

同じものだとはつきりいえるか。

いえます。

証人がその匕首をはつきりと見たのは何時か。

奥さんに頼まれて匕首の柄に糸を巻いたときに見ました。

証人がその匕首を炊事場の棚の上で見た時匕首には鞘があつたか。

鞘があつたかどうか記憶しません。

柄はどうなつていたか。

ぼろの布切れで巻いてありました。

鞘があつたかどうか判りそうなものだがどうか。

鞘のことは憶えていません。

その後に証人は被告人に頼まれて匕首の柄に糸を巻いたのか。

奥さんが何か糸はないかというのでダイヤルの古い糸を持つて行つて奥さんに渡し、店の間へ帰つてラジオの修理をしていると、奥さんが阿部さんもつと強く巻いてといつたので匕首を受取つて柄に糸を巻きました。

そのダイヤル糸は普通のダイヤルに使つていた糸か。

古いラジオに使つていました。

どの位の長さの糸か。

もつれていたので長さは判りませんでした。

証人が匕首を受取つた時鞘は付いていたか。

鞘はありませんでした。

柄はどうなつていたか。

柄には篠原から持つて帰つた日に見た時、巻いてあつた布切れを巻いてあり、その上に私が渡したダイヤルの糸を巻いていました。

その布切れは千切れていたのか。

千切れてはいませんが古い布切れで色は紺色でした。私は奥さんに言われたとおり糸を巻いて奥さんに渡しました。

証人の渡したダイヤル糸は全部巻いたか。

私は全部巻き終つて端を括らずに奥さんに渡し、奥さんが括りました。

括つてから渡さないと糸がもどけるのではないか。

古い糸ですからもどけませんでした。

括つて後、糸の切端はどうしたか。

どうしたか判りません。

証人はその後それと同じようなダイヤル糸を店で見たことがありますか。

古いラジオ等に使つてあるものを見たことがあります。

店の修理箱等にそのような糸を入れてあるのを見たことがあるか。

古い糸であるのでその糸をラジオの修理には使いませんが、修理箱には入つていました。

篠原方から持つて帰つた匕首と風呂場の壁に立てかけてあつた匕首とが同じだというが何か特徴があるのか。

柄に巻いた布切れと糸で判りました。(一一五八丁表)

……………

弁護人

証人が前に篠原方へ匕首を取りに行く一週間程前、三枝の店へ二十五、六歳の今まで見たことの無い若い男が来ていたのを見た、その人は普通の人ではなく重労働をするような人だと述べているが間違いないか。(一一六四丁表)

間違いありません。その人の仕事着を見て判りました。

その人は店へ何か買いに来た人ではないか。

何も買わなかつたので品物を買いに来た人ではないと思いました。

裁判長

その人は何の用で来たのか。

私が応待したのではないので何の用で来たか私には判りませんでした。

証人はその人を怪しいと思つたのか。

後から考えてみてあの人は怪しい人だと思うようになりました。

弁護人

証人がそう思つたのは何時頃どんな事からか。

その人が来た時、奥さんが私を指してこの人をやるから、といつたのを聞き、おかしいと思つていましたところが、その後、ラジオの修理等に行けといわれたこともないのであの人はお客ではなかつたのかと思いました。そして一週間位して匕首を取りに行かされたので、ずつと後になつて考えるとこの人をやるといつたのは匕首を取りに行く事であつたかと考えた訳であります。

証人が篠原方へ行つた時、前に三枝方へ来た二十五、六歳の重労働者風の男がいたか。

おりませんでした。

すると証人が篠原へ行つた事と、その若い男とは結び付きがないのではないか。

結び付きがあるかどうか判りませんが、私は今いつたように思いました。

証人がそう思うようになつたのは検察庁で取調を受けてからではないか。

取調中にそう思つたのです。

若い男と匕首のことを結び付けたのは証人の考えからか。

その点ははつきり憶えていません。(一一六五丁裏)

〈四〉第二審四回公判(昭三一・一二・一四)証言

(格闘の目撃)

弁護人

便所の裏側から四畳半を覗いた折に西野と証人はどのような位置関係にありましたか。(二三〇〇丁裏)

西野が東側、私が西側でみていたと思います。

見ている所から四畳半までどの位の距離があつたですか。

一間以上あいておりました。

四畳半と小屋との間は五尺位だと思うのですがどうですか。

………。

何か見えましたか。

まあ、白つぽいものが見えました。

昭和二九年八月八日白井判事の問に対し、亀三郎と茂子が問答しているのを見に行つたとき、こちら側に立つているのが奥さんであつたといつているのですがどうですか。

判然覚えません。

(匕首の入手)

弁護人

他に記憶していることはありませんか。(二二九一丁表)

顔を洗いに行つたとき、匕首を見つけたことは覚えています。

小屋へ帰るとき何処から入りましたか。

新館の工事場の入口から入つて行きました。

着替えてから顔を洗つたのですか。

そうです。

顔は西野と一緒に洗いましたか。

西野と一緒に洗つたと思います。

その顔を洗つている時に電灯が消えたように思うと前に述べているのですがどうですか。

今、記憶にありません。

その時に、電灯が消えたのであれば、西野は電灯線を切ることが出来ない筈ですが………。

………(沈黙)。

前の供述は記憶に従つてしましたか。(二二九一丁裏)

記憶によつて述べました。

匕首を見つけたのが小屋へ帰るときであつたか、顔を洗つている時であつたかについてどうですか。

顔を洗つているときに見つけました。

その匕首は、事件の一週間位前に篠原澄子から証人が受取つて来たものですか。

日の記憶はありませんが、篠原から受け取つて来たものです。

それは被告人からの命令で受け取つて来たのですか。

そうです。

どういうふうな命令でしたか。

「篠原さんへ行つたら三枝といつたら渡してくれるものがあるから貰つて来て」といわれました。

受け取つて帰つた時刻は何時頃でしたか。

今、記憶にありません。

今までは、それは午後だつたといつているのですがどうですか。

判然しません。

受け取つて帰つて来た時、西野は居りましたか。

記憶にありません。

亀三郎はどうでしたか。

記憶にありません。

店にも居らなかつたのですか。

どうだつたか記憶にありません。

篠原へ行つてそう言つたとき、澄子の応待の模様は既に連絡がついていたようなものでしたか。

判然、覚えんのですが………。

事件になつて、被告人が起訴されてから後、若し被告人が犯人なら篠原方の者又はその知合の者から何か連絡があるなと考えたことはありませんか。

今、覚えていません。

警察官が篠原澄子方に何か関係者がいるように思つて調べていたようなことを知りませんか。

記憶にありません。

受け取りに行くより前に篠原方へ行つたことはありませんか。

一度ラジオを直しに行つたことがあると思います。

それは一度でしたか。

一度かどうかとにかく行つたことがありました。

受け取りに行く折、篠原方へ行く道を聞いたのではありませんか。

道を聞いて行きました。

行つたことがあるのにどうして道を聞いたのですか。

家が判らなかつたからです。(二二九四丁表)

……………

弁護人

匕首を篠原方へ取りに行く一週間前くらいの日に、二十五、六歳の重労働者風の男が店へ来て被告人と話していたようなことがあつたのですか。

今、記憶にありません。

前にはそう述べているのですがどうですか。

今、記憶にないのですが………。

思い出せませんか。

大体は思い出せるのですが………。

どのくらい思い出せるのですか。

そういうことを言つたことがあつたなあ、と思える位です。

そういう事があつたということについてはどうですか。

今、覚えません。

原審の第七回公判で証人として調べられた折、匕首を取りに行く一週間前位に二十五、六歳位の男が来て茂子と話をしており、その男が帰る折に茂子がこの子をやるからと言つていたと述べているがどうですか。

………(沈黙)。

裁判長

その事を思い出せないか。

………(沈黙)大体思い出せます。

弁護人

そういう事があつたのですか。

あつたと思います。

その時より前にその男を見たことはありませんか。

見たことありません。

見れば判りますか。

それはどうとも言えません。

それから店にその男を見たことはありませんか。

ありません。

その男は自転車で来ていましたか、歩いて来ていましたか。

どちらだつたか記憶しません。

被告人方から篠原方まで歩いて何分位で行けるか。

まあー五分か七分です。

その位だつたらこの子をやるなどと言わないで直接受け渡しすると思われるのだが、自分で取りに行かなかつたことについてどう思うか。

今考えるのでは先方の方に何か事情があつたのではないかと思います。

この事については、昭和三〇年二月一八日の公判で初めて言つているのですが、それまで警察その他で八回調べられているのに、一度も述べていないのですが、言わなかつたのですかそれとも証人が言つたのに書かれなかつたのですか。

今から考えてみると、そういう事があつたということが心の中にあつたのですが、そのことが事件と関係があるように思わなかつたので言わなかつたのです。

この事件で、証拠はその匕首だけではありませんか。

それはそうです………。

そうとすれば、匕首に関する男のことは重要な関係人と思われた筈ではありませんか。

(答えない)

警察や検察庁でも匕首は偽装と思つていたのではないかと思われるのですが、それにしても、その匕首の出所を知ることは重要な事柄ですから………。

(答えない)

匕首の柄に糸を巻いたのは事実ですか。

はい。

その糸が被告人の家の箱か何かに入つていたラジオに使う糸だつたということも本当ですか。

本当です。

糸を巻いてくれと言われたときの状況を一寸述べて下さい。

状況といつても何ですが、もつときつく巻いてくれと言われたことが記憶にあります。

そういわれたのは四畳半の部屋でしたか。

四畳半だつたか台所だつたか忘れましたが、とにかく座敷でありました。

西野や亀三郎はその時居つたか。

どちらも居りませんでした。

その柄に巻いた糸が被告人の家にあつたものだということについて、何か証拠を出して貰いたいと警察などから頼まれたことはありませんか。

………(沈黙)。

旧いラジオにそういう糸がないかとたずねられていましたね。

………(沈黙)。

あなたはその糸があつたことを証する何らの証拠も形跡もよう出さなかつたですね。

………(沈黙)。

あなたが糸を巻いてわずかに九ヶ月後というのにその糸はもうどこにもなかつたのですか。

………(沈黙)。

裁判長

どうだ、捜してみたのか。

捜しました。

巻いた糸は何処にあつたのか。

ゴミ箱にありました。

それはラジオに使つてある糸か。

ダイヤルの糸のようでしたからそう思いました。

弁護人

その箱は証人が捜した時にあつたのですか。

新館へ整理して移つた後でしたからその箱はありませんでした。

その箱はゴミ箱ではなくて他の箱ではありませんでしたか。

修理する部品やその他のものを入れる箱でした。

裁判長

誰からその糸を捜してくれといわれたか。

検察庁で言われました。

糸も箱も捜した時には無かつたのか。

箱はありませんでした。糸も同種のものはありましたが、同じものはありませんでした。

弁護人

血も何もついていない匕首を置いたのはあなた自身でありませんか。

私は置きません。

顔を洗いに行つて疑われたら困ると思つて置いたのではありませんか。

裁判長

答えは。

僕が置いたものではないという確信があります。(二二九九丁裏)

……………

弁護人

二八年一一月の事件より前に篠原の家へラジオの修繕に行つたというがそれは何時頃でしたか。(二三〇一丁裏)

二八年の夏頃だつたと思います。

それはラジオの修理だつたか。

はい。

電蓄ではなかつたか。

電蓄でした。

……………

弁護人

篠原方で電蓄のどこを修理しましたか。(二三〇二丁表)

それは記憶していません。

その電蓄は修理のため三枝方へ持つて帰つたのですか。

持つて帰りました。

その折篠原へ行くのには自転車でしたか。

記憶はしませんが多分自転車だつたと思います。

何日位かかつて修理しましたか。

記憶しません。

何日位して持つて行きましたか。

記憶しません。

その電蓄は篠原の誰から預つて帰つたですか。

誰といつては憶えませんが女の人であつたように思います。

その折は篠原の家は知つていたのですか。

知りませんでした。

聞いて行つたのですか。

そうです。

誰に聞きましたか。

誰だつたか覚えません。

何といつて聞きましたか。

新天地は知つていましたからそこへ行つて篠原の家は何処かいなアと聞きました。

修理ができて持つて行つた折はどうですか。

聞かずに行きました。

奥さんから何か取つて来てくれといわれて行つた時はどうですか。

また、たずねました。

先へ行つたことがあるのにどうしてたずねるのですか。

家が判らなかつたからです。

どうして判らなかつたのですか。

僕の考えでは同じ家へ行くのでも何度もたずねることがあります。

あの辺に篠原の家と間違うような家があるのですか。

そんな家はありません。(二三〇二丁裏)

……………

合田裁判官

検察庁で匕首の件で調べられた折、篠原澄子と一緒に調べられたことがあるか。

ありません。

対質があつたのではないか。

一度ありました。

その時に、篠原という人が匕首を渡したようなことはないと言つたのではなかつたか。

記憶ありません。

相手がそう言つているのに、証人が貰つたと言つたことはないか。

ありません。一緒に調べられたことはありますが、これは、ほんの一寸の間で、この人に渡したとか渡さないとかいつたような記憶はありません。

裁判長

二人の言うことに喰違いがあるから一緒に調べられたのではないか。

今考えるのでは聞かれたのは、匕首を貰つたのはこの人からであつたか、ということだつたように思います。

顔に記憶があるかと聞かれたのか。

そうだつたと思います。

証人はその顔に記憶があつたのか。

ありました。このひとから渡して貰いましたと言つたように思います。

相手の女の人は何といつたか。

記憶にないのですが………。

その女の人の名前は知つているか。

名前は知りません。

何歳位の人だつたか。

まあー三〇歳位と思いました。(二三〇五丁裏)

……………

被告人

篠原へ修理に行つたことはないのですかと私がたずねたとき、どうして修理に行つたことがあると返事してくれなかつたのですか。何故絶対に知らぬと言つたのですか。(二三〇九丁表)

それを言うと匕首を取りに行つたということも出てくると思つたから、私としては自分の勤めている三枝の家をつつむために言わなかつたのですが………。

合田裁判官

茂子から篠原へ修理に行つたことがあるかと何回もたずねられたことがあるのか。

あります。

何故知らぬと言つたのか。

私としては三枝へ勤めているので、それをいうと匕首のことまで言わねばならなくなると思つたから言わなかつたのです。

裁判長

自分でその匕首を持つた関係で恐怖があつたのか。

ありました。

茂子からそれを聞かれたとき証人は犯人が泥棒だと思つていたか、それとも茂子だと思つていたか。

泥棒だと思つていました。

それなら答えてもよいのではないか。

事件には何らかの関係があると思つていましたから、そういうことをいうと不利益になると思つていたのです。

弁護人

匕首がそこにあり刺身庖丁も置いてあつたので犯人は奥さんだと思つていたと前に言つているのですがどうですか。

はじめの中は犯人が奥さんだとは思つていませんでした。

被告人を犯人だと思い出してからそこで平気で勤めておれましたね。

いや、奥さんから、あんた達やめるんならやめてよと事件直後にいわれて、西野と相談したこともあり、又、親戚の藤野順一さんが来て半日位そのことで話したこともありました。

裁判長

何時ころから犯人が奥さんだと思つたのか。

外部から犯人が上らぬということになつてから考えてみて気がついたのです。

そういうことに気がついてからもどうして勤めていたのか。

………(沈黙)。

〈五〉第二審八回公判(昭三二・七・三〇)証言

(格闘の目撃)

岡林弁護人

一一月四日事件の前夜九時半頃、亀三郎夫婦が喧嘩をしていた、と八月一七日の調書に述べているがどうですか。(二五九一丁表)

覚えません。

喧嘩していた事実はあつたのですか。

どんなことで争つていたのかは覚えませんが、口論していた事実はありました。

その後そのことを公判でも言つていないのに何故そのようなことをその時言つたのか。

(答えない)

……………

昭和二九年一二月五日徳島地裁がこの事件で現場検証を行つたときに証人は立会しましたね。(二五九二丁裏)

立会しました。

その折、四畳半の間にいたという人はあなたの居つた所から見えなかつたのではありませんか。

見えなかつたと思います。

その折、証人が裁判長に説明した言葉を覚えていますか。

覚えていません。

二人であるということは判らなかつたが、そう思つたのだと調書に説明しているがどうですか。

記憶にありません。

二八年一一月五日の朝、実際に二人であるということは見えたのですか。

見えたと思います。

その二人が亀三郎と茂子だということは判りましたか。

………(沈黙)判りません。

この四畳半で争つているのを見たということは八月一一日まで言つていないが、何故もう少し早く言わなかつたのですか。

どうして言わなかつたのか判りません。

それまでに一一回も調書を取られているのに何故そのことを言わなかつたのですか。

(答えない)

八月三日までの調書には、四畳半の部屋の中を見る機会があつたことさえも言つていないが、それまでに何故そのことを言わなかつたのか、本当に見ていたのであれば、それまでに言つていると思われるのですが………。

今は判りません。(二五九四丁表)

(電話線電灯線の切断)

岡林弁護人

七月二二日、八月三日、八月一一日の各調書に西野が電線を切るために屋根へ上り、それから下りるのを見たと述べているがどうですか。(二五九二丁表)

今記憶にありませんが、調書に書いているのなら、その通りであると思います。

すると、西野と一緒に顔を洗つているときに電気が消えたといつたのは、西野が上つて電線を切つたためではないということになるね。

判りません。

(刺身庖丁の投棄)

合田裁判官

三枝の家で刺身庖丁を使うようなことがあつたか。(二五九七丁裏)

漬物を切るようなことを私達店員がやつていましたので使つたことはあります。

始終使つていたか。

私達が店へ入つた当時は、女中が居なかつたので交替で始終使つていましたが、事件前は余りやつていませんでした。

台所へは始終入つていたか。

食事のとき食器などを取りに行つていたので入つておりました。

食器などは茂子が出していたのではないか。

茂子が出してくれることもあり自分らで出してくることもありました。

事件後に刺身庖丁がなくなつているのに気付いたと原審で述べているが、それは何時頃のことであつたか。

何時だつたか忘れました。

どういう機会に庖丁がなくなつていることが判つたか。

今は覚えませんが、現在の記憶では漬物か何かを切るときにそれがなくなつていたと思います。

(匕首の入手)

松山弁護人

本件の捜査時代に問題になつている例の匕首を森会から持つて来たものだと述べたことがありますか。(二五八六丁表)

あります。

何故そんなことを述べたのですか。

その時の事情は判然覚えませんが、篠原という所を出さないために森会を知つていたのでそれを言つたと思います。

その折、森会から預つたときの模様を詳しく述べていますが、それは作り事を言つたのですか。

そうです。

その時、匕首を持つて来た若い衆の人相なども詳しく述べているようですがどうですか。

どのように述べたのか今は覚えません。

篠原保政という人は知つていたのですね。

ラジオを修理しに行つたことがあるので知つていました。

その篠原の家から匕首を貰つて来たのですか。

そうです。

何か篠原の名を出すと都合の悪い事情でもあつたのですか。

ありました。

どんな事情があつたのですか。

詳しくは言えませんが主人の茂子をかばうために篠原のことを出さなかつたのです。

どうして篠原のことを隠すと茂子をかばうことになるのですか。

理由といつては別にありません。それを出さないと主人をかばえると思つたから言わなかつたのです。

この事件に関し今まで隠していた大切なことを申し上げますといつてそれを述べているのですが、矢張りかばう心算だつたのですか。

そうです。(二五八七丁裏)

……………

森会であんま器の試験をしているときに外から若い人が入つて来てこれを奥さんに持つて帰つてくれといつて新聞に包んだ長い物を渡されたとその若い人の人相年令など詳しく述べているのですが、どうですか。(二五八八丁表)

詳しいことは忘れましたが矢張り篠原のことを隠すために作つて言つたものだと思います。

藍場町といつていたのを何時篠原といいかえたのですか。

判然覚えません。

直ぐ翌日ではありませんでしたか。

忘れました。

森会の話をしたのは八月の二一日になつていますが、その折、証人は少年鑑別所に入つていたのですか。

忘れました。

岡林弁護人

証人は匕首を持つていた疑いで逮捕されたことがありますか。

はい、あります。(二五八九丁)

……………

証人が匕首を持つていた疑いのかかつて来た原因は何だつたのですか。(二五八九丁)

それは判りません。

西野があなたが匕首を持つて帰つて来たと述べたからではないですか。

覚えません。

七月三一日の調書で、西野は森会から茂子が匕首を手に入れたと言つているが、検事にそのことについて聞かれなかつたですか。

どうであつたか忘れました。

証人は八月一〇日に逮捕され、二一日まで匕首のことを言つていませんが、匕首の件で逮捕されたのだから毎日そのことについて聞かれたのではありませんか。

匕首のほかにもいろいろ聞かれました。

何故一〇日間も過ぎるまで匕首のことを言わなかつたのですか。

今は覚えません。

逮捕された翌日徳島の松田裁判官から尋問を受けたことがありますか。

覚えません。

調書によると、八月一一日に夫婦の争つている状況を見た、そこには亀三郎と茂子以外に人は居らなかつたと述べているがどうですか。

そういうことを言つたかどうか今は忘れました。

そのように茂子が犯人だということを言つていながら、茂子をかばうために篠原のことを隠し森会からと言つたというが、おかしいのではないか。

どうであつたか、現在では判りません。

松山弁護人の問に対し、誰から貰つたか判らぬように言えば、茂子がかばえると思つたと述べたが、茂子が匕首を受取つたといえば何も茂子をかばえないのではありませんか。

その時、僕は、そういえばかばえると思つたから言つたのです。(二五九一丁表)

……………

裁判長

匕首を森会から貰つて来たといわないと茂子をかばうことにならないと思つたのか。(二五九四丁裏)

………(沈黙)。

実際は篠原から貰つて来たのだが、それを言うと出所を明らかにして茂子に不利だと思つたのか。

はい。

当時、茂子と篠原との間に何か匕首のことについて関連があると判つていたのか。

………(沈黙)。

茂子から頼まれ篠原から匕首を貰つて帰つたことは間違いないのか。

それは間違いありません。

合田裁判官

篠原のことを隠せば茂子が有利になる、と言つたが、何故それを隠せば有利になるのか。

森会へ行つてそこで外から人が持つて来たといえば誰が持つて来たか判らないと思つていつたのです。

篠原のことを隠しても匕首を茂子が受取つていることが判れば結果は同じではないか。

その時は誰から貰つたのか判らなければよいと思つていたのです。

翌日直ぐ篠原から貰つて帰つたと言い直したのはどうしてか。

匕首の出所とか誰のものかが判らなくても逮捕されるということが判つたので本当のことを言つたように思います。

森会のことは証人から言い出したのかそれとも検察官から聞かれたのか。

覚えません。

岡林弁護人

証人が森会から匕首を持つて帰つたと言つたので警察が森会に確かめたところ、森会がそのような事実はないと言つて非常に立腹したので篠原から貰つて来たと言い直したのではありませんか。

判りません。

茂子に篠原のことは知らぬと答えたのはどうしてですか。

私としては、勤め先の三枝を包むために、篠原へラジオ修理に行つたといつたら、匕首のことも判ると思つたので、それを言わなかつたのだと思います。

茂子との間に匕首の話があつて、篠原のことを話すのに何が悪いのですか。

………(沈黙)。

(三) 両名の証言の特徴とその評価

(1) 第一審において、検察官は、本件に関する重要な供述証拠については、当初から全て証人申請をなし、直接、証人により立証する方法を採用した。西野に対する検察官の主尋問は二回、三回公判において、阿部に対するそれは二回公判において夫々行われたが、弁護人の反対尋問は西野につき一一回公判以降、阿部については一二回公判に行われている。第一審弁護人は、弁論要旨の中で、西野、阿部の供述調書類が開示されないため、両名に対する有効適切な反対尋問がなし得なかつた旨意見を述べている。西野、阿部両名の膨大な供述調書類は、第一審においては遂に提出されることなく、一審判決は両名の供述調書類を見ることなくなされた。そして、右供述調書類は第二審六回公判において弁護人の同意の上取調べられるに至つた。右の訴訟進行の経緯からして、一審弁護人は、両名の供述調書類の内容を全然知らず、又、二審弁護人は途中からその内容を知つた上、弁護に当つたものと合理的に推測することができる。このことは、一審と二審における弁護人の反対尋問の内容と両名のそれに対する証言内容を比較対照することによつても一目瞭然である。

(2) 両名は、一審検察官の主尋問に対し、大筋において捜査段階における裁判官の証人尋問調書に盛られている内容に沿う証言をした。しかし、期日を異にし、半年以上も経過した公判における弁護人の反対尋問に対しては、主尋問に対して答えたと同様の供述を繰返すか、或いは、「記憶にありません」と答えるか、或いは、沈黙して答えないことが目立つ。この傾向は、第二審における裁判官、弁護人の尋問に対し特に顕著である。

例えば、西野についてみると

第一審一一回公判

弁護人

証人が刃物を捨てて来いといわれたのは、その日朝起きてから普通でない色々の出来事があつた上での事であるが何か考えなかつたのか。(一〇四四丁表)

おかしいとは思いました。

裁判長

それまでの経過から見て夫婦喧嘩の末、亀三郎を刺したのではないかと被告人の事を何とか考えなかつたか。

(証人は答えない)

弁護人

誰が何をしよると思つたのか。(一〇二二丁表)

そこまで深い考えはありませんでしたがドタンバタンという音がしたので何かいなと思つて覗いたのです。

亀三郎と被告人が夫婦喧嘩をしているのではないかと思つて覗いたのではないのか。

(証人は答えない)

第二審三回公判

弁護人

徳島の裁判所では、そんな時間に外から人が来ているとは思わないから大将と奥さんだと思つたと言つているのですがどうですか。(二二六三丁裏)

そつちの方が合つていると思います。

そんな時間に人が来ていなかつたということは判然しているのか。

前に言つてあると思うんですが、とにかく僕の目に他の人が見えなかつたからそう言つたのだと思います。

どうして人が来ていなかつたとそれだけで言えるのか。

(答えない)

弁護人

電話線を切るのなら受話機の所の線を切ればよいのではないか、その時の気持を言つて下さい。(二二六五丁裏)

何の考えもありませんでした。

裁判長

茂子から屋根の上へ上つて切つて来いと言われなかつたのか。

言われませんでした。

それであれば何回も屋根の上へ上つたのだから何らか自分で判断したのではないか。

覚えていません。

裁判長

大道へ行く前に亀三郎が怪我していたかどうか知らなかつたのか。(二二五八丁表)

(考えて答えない)

岡林弁護人

大道へ行つたり派出所へ行つたりした時に証人は泥棒が入つたと思つていたのですか。

さつきも言つたように、奥さんから裏の所で聞いたように言つただけです。

泥棒が入つたと思つていたのですか。

思つていなかつたように思います。

大道でまで泥棒が入つたように言つたのは奥さんをかばう心算だつたのか。

判りません。

泥棒が入つたと言つたのは夫婦喧嘩だからと思つていたからか。

(答えない)

夫婦喧嘩だと思つたのはどうしてか。

奥さんと大将と二人しか寝ていないと思つていたからです。

他の人が来ているとは思わなかつたか。

(答えない)

と言う様なものであり、阿部についてもほゞ同様であることは、前掲記の各公判証言より明らかに認められるところである。

かように、検察官の主尋問に対しては捜査段階の供述調書類の筋書に従つて供述し、反対尋問に対しては、従前の供述を反覆するか、矛盾を指摘されると、「記憶にありません」、或いは、沈黙を守る、ということの顕著な両名の第一、二審証言は、それ自体、反対尋問による厳密な吟味を経た証言であるとは一概に言い切ることはできないものがある。

(3) 西野の供述は、公判段階における証言内容を比較吟味するだけでも矛盾動揺が多い。

例えば、格闘目撃に関する供述を見ると

第一審二回公判「背格好も似ていたし、こんな所に他所の人が入つて来る筈がないと思つていました(八三丁表)」「背格好からそう思いました」

第一審一一回公判

「裁判長

背が高いとか低いとかいうことが見えたか。(一〇二六丁裏)

高いとか低いとかいう事までははつきりしませんでした。」

第一審一二回公判

「白いものが二つに離れており多少高低もあつたので二つという事が判りました。(一一三三丁表)」

第二審三回公判

「何か白つぽい感じのものが見えました。」「二つ位あつたように思います。」「私はその程度のものしか見ていません。(二二四七丁表)」

というものであり、第二審三回公判において格闘目撃に関する尋問に対し、答えることなく沈黙した状況は既に見たとおりである。

右の公判証言の動揺に加うるに、西野が捜査段階における昭二九・八・一〇裁(〈25〉調書)においては

「検察官

その人の頭の髪の毛はどの様であつたか。

奥様のようにパーマネントをかけていました。」

とまで供述していたことを考えると同人の供述には、その基本的部分に動揺があることが明らかである。

電灯線切断の方法についても

第一審二回公判

「左手でもつていたナイフで線の被覆を切り込むようにして切り、ここで両手でペンチを持つてその切込んだ所をはさんで折り曲げてその電灯線を切りました。(一〇〇丁表)」

第二審三回公判

「後でペンチを持つて行つて切つて来ました。(二二五五丁表)」

と変化している。

阿部の公判証言についても同様のことが指摘され得るが、詳細は各論の分析に譲る。しかし、阿部は第二審四回公判において、

「弁護人

匕首がそこにあり刺身庖丁も置いてあつたので犯人は奥さんだと思つていたと前に言つているのですがどうですか。(二三一〇丁表)

はじめの中は犯人が奥さんだとは思つていませんでした。」

「裁判長

何時頃から犯人が奥さんだと思つたのか。(二三一一丁表)

外部から犯人が上らぬということになつてから考えてみて気がついたのです。

そういうことに気がついてからもどうして勤めていたのか。

………(沈黙)。」

というように、格闘目撃に関する検面調書や第一審証言を根底から否定する証言をしていたことが留意されなければならない。

西野、阿部両名の公判証言それ自体の矛盾動揺は以上に留まるものではない。しかも捜査段階の供述と比較対照することによつて、その矛盾はさらに著しくなるのであるが、詳細は、各論において個別的に検討することとしたい。

(4) 両名の公判証言は、それ自体、経験則上首肯し難い内容を数多く含んでいることが特徴的である。例えば、

両名共に茂子と亀三郎の格闘を目撃したが大したことはないと思い小屋に戻つた、と証言するが、認定された事実は、茂子と亀三郎とが刺身庖丁を奪い合い、亀三郎が胸、腹、咽喉等、身体に数ヶ所の創を負い失血死するに至つたというものであり、実況見分調書に見られる血液の散乱状態からも窺うことのできる犯行の規模からして、到底同人らが述べるような「大したことないと思つたので」というものであつたとは考えることはできない。

又、両名共に、四畳半の間に至るガラス戸、障子が開いていたことについて、「何とも思いませんでした」と述べるが、季節は一一月であり、早朝の午前五時過のことであるから、誰が開けたのか、という疑問と、夫婦喧嘩をするのにわざわざ戸を開放するのか、といつた疑問を生じるのが通常であろう。両名の証言は、これらに何ら答えるところがない。

さらに、西野は、両国橋派出所へも大道の家族へも「泥棒が入つた」と届け、阿部も、市民病院へ「泥棒が入つたから来てくれ」と述べている。茂子と亀三郎との格闘を目撃した筈の彼らが、どうして「泥棒」と第三者に申告したのであろうか。

西野は、茂子に電話線、電灯線を切断するように依頼された折、「別に何とも感じませんでした」「屋根の上の線を切れとは特に言われませんでした」と述べる。ではどうして西野は暗闇の中を危険な屋根上に上つて線を切つたのか、その時どのように感じたのか、同人は黙して語つていない。

西野は、茂子の依頼のうち電話線だけを切り、電灯線は後で切ることにし、大道へ出かけ、その途中で刺身庖丁を新町川に投棄し、そのすぐ後で両国橋派出所に「泥棒が入つた」と届けた旨述べる。これから電灯線の切断をしなくてはならず、直前には兇器を川へ投棄した西野が、どうして自らの判断で警察官に申告する気になつたのか、電灯線を首尾よく切断し終えるためには、警察官の到着は遅い程良い筈である。

西野は、どうして電灯線を切断してすぐ、警察官に申告する気になつたのか。自分の切断した事実の発覚が早まるかもしれないのに。又、西野は、多勢の警察官や近隣の人達が来ている頃、どうして電灯線を切る気になつたのか。

西野と阿部は、茂子が亀三郎と格闘し殺害するのを目撃して後も、平然と三枝方に起居し住込店員として働き続けていたことになるが、怖ろしいとは思わなかつたのだろうか。

(5) 人間の記憶にも法則性が存在する。忘却の速度には個人差があるが、相当の期間保持され得た記憶は人間の脳裡に比較的深く刻まれたと言つてよい。しかし、それとて時間の推移に従い変容の過程を辿る。只、相当期間持続され得た記憶程、忘却の速度はのろくなる。

昭和二八年一一月五日に事件が発生し、西野、阿部は夫婦の格闘を目撃し、西野は、電線を切断したり、兇器を川へ投げ込んだりし、阿部はそれ以前に匕首を三枝方に運んだりする異常な体験をしていた筈である。しかも、両名は、事件発生当時から茂子を犯人だと考えていたが、昭和二八年一一月中の徳島市警、徳島地検の取調べに対し、平然と、捜査官に格別怪しまれることなく茂子をかばい、隠し通したというのである。その間、両名の心中には、諸々の葛藤があつた筈であるが、昭和二九年七、八月に至るまで、茂子のため隠し、自己のうちに秘めていた事実の認識は、ある程度の固定性を有し、根底からの動揺は少なくなると考えられ、その相当の期間持ちこたえた記憶は、その後も幾分変容しつつも残存する筈である。

ところで、西野、阿部の公判証言は、検察官の尋問に対しては、比較的淀みなく答えるものの、裁判官や弁護人の尋問に対しては、「記憶にない」「判然しません」「調書の方があつていると思います」、或いは、黙して答えない、ことがしばしばである。これら公判証言は、記憶の持続、変容、忘却という特質を考慮しても奇異なものがあるというほかはなく、既に、見た捜査段階における供述の形成過程をも合わせ考慮したとき、彼らは、自らの体験に基くものではない事実を、検察官に強制され、或は誘導された結果これに迎合して証言しているものではないかと疑うに足りる諸徴表を偽証告白をまつまでもなく、既に備えていたものということができる。

5 偽証告白に至る経過とその内容

(一) 両名が偽証告白に至る経緯

(1) 第一次乃至第四次再審請求事件記録中の証拠によると次の事情を認めることができる。

昭和三三年五月一二日茂子は上告取下をし、ここに第二審判決は確定するに至つたが、同月一〇日静岡県下沼津警察署裾野警部派出所に山本光男と称する青年(本名松山光徳)が、今から六年前、徳島市でラジオ商を殺害したのは自分である旨自首した。右の事実は、新聞に報道されたため広く世人の注意を呼んでいたところ、茂子の義理の甥渡辺倍夫、斎藤記者、津田謄三弁護士らは、同年六月、釈放後実家の徳島県名西郡神領村で農業手伝をしていた阿部守良を訪問し、三回目に面会した同年七月八日、阿部は同人らと同郡神山町の桜屋旅館で面会した際、第一、二審証言は偽証である旨告白し「真実を述べる」との書出しで始まる便せん七枚に及ぶ手記を右渡辺らに交付するに至つた。同じ日、阿部の実兄阿部幸市も第一審法廷において、「昭和二八年一二月中頃弟の守良から庖丁を預つて来たこと、事件の朝、夫婦喧嘩しているのを見た、というのを聞いた」と証言したが、これは検察官に迫られるまま証言したもので虚偽であり、偽証であつた旨告白した。既に同年七月四日、石川幸男も渡辺倍夫に対し、西野から電線を切つた旨聞いた、との証言は検察官に迫られ、已むなくした虚偽のものであり、偽証である旨告白していた。

渡辺倍夫は、同年七、八月、法務省人権擁護局、徳島地方法務局に対し、調査の申立をなし、ここにそれら機関による調査が開始された。

西野は、その以前、第二審係属中の昭和三二年六月ころ、家出をして大阪に赴き、睡眠薬を服用して自殺を企てるに至つた。第一、二審公判において虚偽の証言をしたことを苦にした上でのことである(二再審八四〇丁以下及び後掲昭三四・二・一付手記)。その後、第二審九回公判で証言し、阪和工業で働いていたが、昭和三三年八月、再び大阪へ行つていたところ同月末、徳島に帰つて、その頃、阿部守良が既に偽証告白したことを聞いた。右調査に対し、西野は当初、偽証を否定していたが、同年一〇月九日初めて偽証告白するに至り、同年一一月には、西野、阿部共に、第一、二審公判で偽証したことを理由に徳島東警察署に自首するに至り、両名に対する偽証被疑事件につき徳島地検により捜査が行われたが(第一次偽証被疑事件)、昭和三四年五月九日徳島地検は、両名に対し「犯罪の嫌疑なし」としていずれも不起訴処分にした。茂子は右の不起訴処分に対し、同年五月一三日徳島検察審査会に対して審査の申立をしたところ、同年一〇月一〇日同審査会は、起訴相当の議決をした。さらに、日本弁護士連合会人権擁護委員会特別委員会も、本件について調査をなし、昭和三五年五月二五日日弁連会長岡辨良は、「茂子には真犯人の疑いがなく、取調べに当つた検事が何れも西野、阿部の虚偽の申立を過信し、強制誘導、精神的拷問に終始した事実は充分之を認め得られる」とし、冨士茂子の人権を侵犯した事実につき、法務大臣、検事総長に対し、「一、阿部守良、西野清の証言は偽証として起訴されたい。一、冨士茂子担当取調検察官村上善美、同藤掛義孝に対しては断固たる処置をとられたい」との勧告をなした。ところで、第一次、第二次再審請求はいずれも棄却されたが、昭和三六年二月一三日弁護士津田謄三は、西野、阿部両名の第二次再審請求事件における証言が虚偽であるとして告発したが(第二次偽証被疑事件)、徳島地検は、昭和三六年一一月二七日両名に対し起訴猶予処分をなし、昭和三七年五月二六日同弁護士は右不起訴処分に対して徳島検察審査会に対して審査の申立をなし(第二次検察審査会事件)、昭和三七年一〇月二四日、同審査会は、両名を起訴相当とする議決をした。

以上のほか、第一次ないし第四次再審請求の過程で、西野、阿部は何れも証言をし、偽証告白をし、或いは、西野は、徳島地検の捜査に対して、偽証告白を撤回するなどして今日に至つている。そこで、両名につき、その夫々の偽証告白に至る経緯について概観する。

(2) 西野清の場合

〈1〉昭三三・九・一法(法務事務官安友竹一)(法務省、以下同)

偽証の否定。阿部は証言を翻したそうであるが自分は変らない。

〈2〉昭三三・九・八法(安友)

偽証の否定。

〈3〉昭三三・九・一五法(安友)

偽証の否定。

〈4〉昭三三・一〇・九法(安友)

偽証告白。第一、二審証言は検察官に迎合してしたもので偽証である旨供述。

〈5〉昭三三・一〇・一〇法(安友)

偽証告白。

〈6〉昭三三・一一・二員(椿本増一)(自首調書)(一偽1)

第一、二審での証言は偽証であつたとして徳島東署に自首。

〈7〉昭三三・一二・五認諾調書(一再審)

同日高松地方裁判所で名誉毀損による謝罪広告を求めた茂子の請求に対し、第二審での証言は虚偽であることを認めて請求を認諾。

〈8〉昭三四・一・一九法(安友)

偽証告白。

〈9〉昭三四・一・三〇法(安友)

偽証告白。

〈10〉昭三四・二・一付手記「三枝事件につき私の見た事とした事」(一再審)

この頃、西野が安友課長に手紙で送つたものである。

その全文を掲げる(原文のまま)。

「三枝事件に付き私の見た事とした事

昭和二十八年十一月五日未明五時頃「火事じや」といゆ声を聞き私は目がさめました。その時阿部君も目をさましておりました、南側の窓を明けて外を見ましたが何も見えませんので中にはいつて来てふとんのところまで来た時今度は「ドロ棒」という声がきこえました、それで二人が何事であるかと外に出た時奥さんの声えで裏の田中さんに頼んでドロ棒が入つたから警察に電話をしてくれる様に云つてくれるでと申しますので阿部君がその事を云いました。そして二人で店の方で暗くて見えなかつたが電池を入れて居る様なガチガチという音が聞えましたので店に出て行つて見ますと奥さんが電池を入れて居りましたその時奥さんは阿部さん市民病院に行つて来てと云いますので表戸を二人で開けて自転車を出して病院に行きました。今度は私に大道え行つて皆んなをおこして来れるでと申しますので私も自転車を出して大道に向いました両国橋まで来た時これは警察に連絡せねばならないと思い両国橋派出所にドロ棒が入つて困つて居るという事をしらせ大道に行きその事を云つて八百屋町に帰つて来ました。しばらくして阿部君が医者をつれて来ました。その時四畳半の部屋から電気がつかないから見てくれと申しますので電球のスイツチから線をしらべて見ますと屋根裏で電灯線一本電話線一本切断してあるを発見しましたそれですぐに降りて来て警察官にその事を伝えました、するとどこが切れて居るかと現場に来ましたのでそれを見せました、それで降りて来て線の切を持つて来てつなぎました。それから病院にいつたり七輪を買いに行つたりしました。それから警察によばれて行きましたこれが朝の内容です。それが二十九年七月二十一日に検察庁で呼出がありまして行つたら始めから事件の事をきかれましたので今書きましたことを云いますとそれはウソの証言であると云つて受付てくれません何回も何回もくりかえしておんなじ事を云いましても始終これは、まちがつて居ると申しまして取上げてくれず、お前が電灯線を切つて居るのを見た証人が五人もいると云いますので私はその人達をここえつれて来てくれる様頼みますと証人を呼ぶとお前の罪が重くなるそれよりもこれを認ればすぐに帰れるので早くこれに捺印をおせお前がだまつて居ても罪に成るんだからといつて机をたたき検察官及び事務官がかわりに来てスルドクいわれまして、たまりかねて夜の九時頃であつたと思いますがではそのようにしておいて下さいと申しますと、しばらくして逮捕状を出されました生れて始めての逮捕状を見たときはどの様な事を書いてあるものかわかりませんでした、その時は年令十七歳の時でしたその夜は刑務所に収容される身と成りました、何にも身におぼえのない事になぜ捺印をおさねばならないのでしようかいろいろと考えますと一晩中寝る事も出来ませんでしたその次の日も朝食もとらず又検察庁につれていかれました。その日は検察庁検事正に呼ばれて行きますと昨日の調書はまちがいがないかと正されまして私はそのようなことはしておりませんと答えますとそれでは帰つてよろしいと申しますのでするとその日は検事が来て検事正の前でとんでもない事をいつてくれたものだといつて二十一日の様にいわれました、お前は昨日の指印だけで偽証罪が十年ぐらいに成ると云つておこるのであります。それより後は精神的にもつかれて参りました早く出たい家に帰りたいという気持でしたので検事の云う通りに指印をおして調書を作つたので有ります、すると二十九年九月三日に家庭裁判所に送られて保護観察に成つて始めて家に帰りましたそれから第二回公判より証人として二、三回出た様に思います。一年あまりで公判は終り実刑十三年にきまりました。

それより高松に裁判が変りそこでも第二回に呼び出しがありましたそれで次の二回目の呼出しが来た時にウソの証言が気に成り藤掛検事に公判で証言した事が正しいという書面をおいて私は死ぬべく大阪に行つたのであります。なぜこのような書面を残したかと申しますと家にはきづか付ず世間の人よりもいやな目で見られない為にこの様な書面を残したので有ります、私が小松島に行つて薬局に行き睡眠薬を買入れて船に乗り大阪に向い飲みましたが少なかつたためか失敗に終つたので有りますそれから大阪で仕事をさがして働いて居りました次の公判には出て行きました。

昨年八月に徳島に帰りますと阿部君は告白して居ると云う事を聞かされたので有りますが家に帰るとすぐ新聞社が来て君の証言はときかれた時に、今迄のはすぐに出たのであります。あの時でもせめて四五日冷却期間が有りましたらこれまでおくれてはおらなかつたと思います。後は一日も早く偽証問題にけりを付けて明るい生活をしたいと考えます。以上で終ります。

昭和三十四年二月一日作製

西野清」

〈11〉昭三四・二・七法(安友)

偽証告白。

〈12〉昭三四・四・七検(南館陸夫)(一偽1)

第一次偽証被疑事件の被疑者として検察官による取調が開始された。偽証告白の撤回。

〈13〉昭三四・四・八検(丸尾芳郎)(一偽1)

偽証の否定。

〈14〉昭三四・四・一二弁聴(一再審)

偽証告白。

〈15〉昭三四・四・一三検(南館)(一偽1)

偽証告白の撤回。

〈16〉昭三四・五・六検(丸尾)(一偽1)

偽証告白の撤回。

〈17〉昭三四・五・九弁聴(一再審)

偽証告白。

〈18〉昭三四・五・一一弁聴(一再審)

偽証告白。

〈19〉昭三四・五・一一付遺書(一再審)

昭和三四年五月一二日、西野は渡辺倍夫と共に上京する際、農薬のホリドールと左の遺書を持参していた。以下にその全文を掲げる(原文のまま)。

「遺書

私は三枝事件で二十九年以来今日までいやな毎日が続いておりました、それで私自身人間がある程度悪るく成つたのでありました。

これはお父さんお母さんもわかつてくれる事と在じますが私が生れてより現在まで大変な御心配と御苦労をかけた事はここであらためてお礼申し上げます、まことに有難度う御座居ました、私にももう少し勇気があればこの様に苦しい立場におい込まれて居なかつた事と存じます、いかに検事の調べが「キツイ」とはいえこれまで「ウソ」の証言をしなくてもよかつた物と思つて居ります。

しかし私は生れ付き気の弱い所がありましてとんでもない所で意地をはる悪いくせがあります、これは自分でもわかつておりますが、それをどうすることもできないのでまことにはずかしい次第ですがお許し下さいます様にお願い致します。すでに新聞でも大体の事は御承知と思いますが今後検事に調べて裁判所の証言は正しいと云う調書が三通ぐらい出来て居るはずですので、これは全く「ウソ」の証言ですので阿部君始め渡辺様皆様にお伝え下さいます様にそれと私記の原本はお父さん手許において下さい今後の場合でも大阪より帰つてすぐに証言のちがいを発表しなかつたのが大きな原因に成つて居ります。

それと石川君始め二、三人の人が証言をくつがえしたのでこの様な証言が生れたのであります。

世間の人々は西野と云うやつは勝手なやつだと云われるかもしれませんが皆んな気にしないで下さい一番悪いのは事件のあつた朝に来た警察の人と四国配電の坂尾、新開おじさんがある程度ちがつた証言をしているから私の証言があわないのです。

正しい証言は法ム局で云つた事と渡辺さん所え行つて居る私記が正しいのです。今まで御迷惑のかけつぱなしですがこれでもうしかられることもなく又喜んでもらう事も出来ない事はまことに残念ですがこれ以上御心配かけることは出来ませんので何一つお父さんお母さんに良い事も出来ず残念でなりませんがこれ以上生きていることはお父さん始め家中の人に心配と御迷惑をかける事は私自身たまらないのです。

四月五日までは一日も早く事件を解決して一生懸命に働き皆さんに安心してもらわなければならないと思いましたがそれも出来なくなりました。

これで終ります皆様によろしくお伝え下さいますようにお願い致します。皆様の御幸福をお祈り致します。

清拝

お父さん

お母さん え」

〈20〉昭三四・五・二三弁聴(一再審)

偽証告白。

〈21〉昭三四・五・二三弁聴(一再審)

偽証告白。

〈22〉昭三四・五・二四弁聴(一再審)

答島節美に茂子が怪しい、と言つたことはない。

〈23〉昭三四・九・二(一検審)

偽証告白。

〈24〉昭三四・九・二三(一検審)

偽証告白。

〈25〉昭三五・七・八証言(二再審)

第二次再審請求事件における証言。偽証告白。

〈26〉昭三六・一一・一〇検(山田十雄)

第二次偽証被疑事件の被疑者として取調べられたもの。

偽証告白の撤回。

〈27〉昭三七・八・二一(二検審)

偽証告白。

〈28〉昭三八・二・一検(佐藤直)(二偽)

調書中、最初は偽証告白で始まり、途中で偽証を否定し、最終的には偽証告白を撤回。

〈29〉昭三八・二・二検(佐藤)(二偽)

偽証告白の撤回。

〈30〉昭四二・二・二録音テープ(四再審)

高砂旅館で阿部と共に茂子と対面し対話した内容。偽証告白。

〈31〉昭四五・二・二八証言(四再審)

第四次再審請求事件における証言。偽証告白。

〈32〉昭五二・八・九録音テープ(当請求審)

偽証告白。

〈33〉昭五四・七・一九証言

第五次再審請求審で証言。偽証告白。

西野の偽証告白に至る過程の特徴は、阿部安良より遅れていること、人権擁護局の調査に対し、当初偽証を否定していたが、昭和三三年一〇月九日はじめて第一、二審証言は偽証であつた旨告白し、以後、一貫してこれを維持していること、日弁連、検察審査会、第二次、第四次再審裁判所に対しては、いずれも、偽証告白を一貫していること、偽証被疑事件による検察庁の取調に対しては偽証告白を撤回していること、しかも、全く同じ時期において、日弁連の調査と検察官の取調とでは、全く対立する供述をしていること(例えば〈14〉と〈15〉の如き)が特徴的である。

(3) 阿部守良の場合

〈1〉昭三三・七・八公表の手記(一再審)

偽証告白。その全容は次のとおりである。

「真実をのべる

私は三枝事件について大変にあやまちをおかしてしまつた。私はなぜ真実をのべなかつたのであろうかしかしあの時自分は真実だけ言つてそれで済んだでしようか毎日取調に対してあれだけのことで二十日間も行けたでしようか私はただ「たいほ」された事に恐怖感というものでしようかただただ出所一番前ていにおきました。だれでも出ることが一番でしようが私にはそれ以上に感じた。

私は取しらべ中最初に少し云いすぎがあつたと思い最初から云いなおしたく思つて前供じゆつを取り消した。

しかしあまりにも検察側がひどく取上げてくれずその日は一日修つた明日またその事を言つたのですがそれも取上げてくれなかつたそして私は前に言つた事にうら付る事後へと言つてしまつた。その内に自分の知つている事だけでは言えなくなつてしまつた、しかし私が言うこと全てが検事が知つているというのも自分が言わなくても検事はしらべていると言うたとえば、Xの事は何々々であると検事は言う私はこれに対しイエスかノーかどちらか言えばそれで話しはおわるそして調書を書く私はただそれに指印するだけこれ言うと出してやると言つて私はXのように言つたそして自分自身どうすることも出来なくなる

こんな事くり返す内毎日同じこと言つたり聞いたりするその内自分の知らなかつたことでも頭にうかぶそしてテープレコードにふきこむその時も検事が多ぜいいるので私は知らないことでも調書に書いたことを言つてしまつた。私は何度か言いなおし取消したい事がありました。ぎしよう罰を知つたので、それにおいても一度口に出したことは取消せないと言われた私は苦しんだ、しかしもうどうにもならない事と思い自分の言つたことを押し通して来たが、しかし今になつてどうしてこんことになつたかとふしぎなくらいです。

西野も多分そうであると思う

しかし自分の知つている事だけで、二十何日間押通す事ができたでしようか、私はその後自分の言つたことを取消す方法を考えた。しかし人にはいえず自分自身で苦しんだもう言えば「ぎしよう罰」になるしかし、自分の良心にこれは長くはつづかない事だけは知つていた。高裁の「しん審」でもおわれば言うつもりでいたがしかし西野も大阪でいる事だし色々考えた。しかし西野も正しいことは早くと思うにちがいない。西野もぼくの正しい事には賛成するだろうと思つて明日は明日と思いつつ自分達の青年で演劇がはじまつた、どうしても東京へ全国大会に行くとみんながん張つている。自分がやめれば後やる人がいないみんなの思うことは実限にもつて行きたいと思い伸す事にした。

しかしこれだけ書くのにも苦しんだしかし正しい事はと思い書くと心は落付いた。

私の知つている事全て

今記憶にのこつている事全部は物音に目をさめた、そして奥さんよりどろぼうが入つたからうらの田中さんへ警察へ電話してと言われたのですぐいつた。そして店え出て行つてすぐ病院へ行つた「市民病院」そして帰つたすると外の医者が来ていたので市病院の人は帰つたその後はかお洗いに行く時であつたかあろうていた時か「あいくち」を見つけてすぐけいさつえいつた、かんたんですが今の記おくはこれだけです。演劇がすまないうちにいつはりがわかれば私はこれを持つて行くつもりです。

私は自分自身事件のことについてわからないことは事件後なぜ電灯線が切られたかわからない。そして実際はん人はだれか奥さんか又外部かわからない。私の今書いたことはよう点のようですが最初警察で言つたことがみんなです。

世間の皆さんこんな私をよくよく正視して下さつた事は今うれしく思つています。

なき事をいうのではありませんが田舎育ちの私には最初「けいさつ」へ行つた時言いたいこともできぬ位ふるえました。それで一応は終つたのですが事件が解決せず検察庁にまわつてあんな事になつたのです。

検察庁は内部を取りしらべ私も初めはけいさつの通り言つていました。しかし検察庁は西野、私と「たいほ」するにいたつたその「たいほ」も私ら年少者を「たいほ」の意見も言わず刑務所へつれて行かれ、刑務所でなぜ「たいほ」されたかと聞かれても私は返事も出来ませんでしたそして私は二、三日何もたべず、たべられなかつたのです。

そして連日の取調につかれてしまいました。しかし私はいうまいと思いました。当時私はこの意志を通すことができなかつたのです。

その時私は急に父母にあいたく、家の人が来ても合わしてもくれずこんな結果になつたのです。茂子さんにも深く深くおわびします。しかしいくらおわびしても許してくれんでしようしかし私の言いたい事は一応言わしてもらうつもりです。当時私は十六才でしたが今思えばなぜあの時もつと世間を知り年もすぎていればあんな結果はまねかなかつたでしよう今ただ毎日苦しむばかりです。

十月三十日

神領 阿部守良」

〈2〉昭三三・八・一二法(法務省人権擁護局調査課長斎藤巌)(法務省、以下同)

偽証告白。

〈3〉昭三三・九・八法(安友竹一)

偽証告白。

〈4〉昭三三・一〇・四法(安友)

偽証告白。

〈5〉昭三三・一一・一八員(堺昭治)(自首調査)(一偽1)

徳島東警察署に対し、第一、二審で偽証をしたことを理由に自首。

〈6〉昭三四・二・二法(安友)

偽証告白。

〈7〉昭三四・四・九検(丸尾芳郎)(一偽3)

第一次偽証被疑事件の被疑者として検察官により取調。

偽証告白。

〈8〉昭三四・四・一二弁聴(一再審)

偽証告白。

〈9〉昭三四・四・一三検(丸尾)(一偽3)

〈10〉昭三四・四・一五検(南館陸奥夫)(一偽3)

〈11〉昭三四・四・一六検(南館)(一偽3)

〈12〉同検(丸尾)(一偽3)

〈13〉同検(丸尾)(一偽3)

以上〈10〉乃至〈13〉でいずれも偽証告白を維持。

〈14〉昭三四・五・二三弁聴(一再審)

偽証告白。

〈15〉昭三四・九・二三(一検審)

偽証告白。

〈16〉昭三五・七・九証言(二再審)

第二次再審請求事件で証言。偽証告白。

〈17〉昭三六・一〇・一八検(山田十雄)(二偽)

第二次偽証被疑事件の被疑者として検察官により取調。第一、二審で証言した内容が偽証。第二次再審請求審でした証言は偽証ではない。

〈18〉昭三七・八・二八(二検審)

偽証告白。

〈19〉昭四二・二・二録音テープ(四再審)

高砂旅館で西野と共に茂子と対面し、対話したもの。

偽証告白。

〈20〉昭四五・二・二八証言(四再審)

第四次再審請求審で証言。偽証告白。

〈21〉昭五二・八・八録音テープ(当請求審)

〈22〉昭五四・九・一三証言(当請求審)

以上いずれも偽証告白。

阿部は、昭和三三年七月八日偽証の告白をして以来、検察官の取調に対しても基本的に偽証告白を維持し、他の機関に対しては勿論一貫して偽証の告白をしている。

(二) 両名の偽証告白の内容

両名が夫々の機関に述べている内容は、膨大な量にわたるが細かい部分については、若干喰違つている部分がある。これらについては各論において触れる。しかし、大筋においては、前記両名の手記に盛られている内容のほか、当請求審における夫々の証言と大略同旨であると認めることができる。

6 西野清、阿部守良の第一、二審証言の総体的評価

三枝亀三郎殺害事件が発生してのち、既に四分の一世紀以上の歳月を経た今日に至るまでの長い歴史のプリズムを通して両名の供述の推移を具さに見て来た結果は以上のとおりである。両名の証言の形成過程、その内容、その推移、そして偽証告白に至る過程の夫々について次のようなことが少くとも指摘され得るであろう。

(一) 本件発生当時、両名は一七歳、一六歳の少年であつたが、いずれも事件現場である三枝方四畳半の間のすぐ近くの小屋に起臥していた住込店員として徳島市警、同地検により参考人として取調を受けた。両名のその当時の供述調書を仔細に検討しても、両名が事件直後の時点において、茂子が犯人ではあるまいか、と考えている旨の供述は一切なく、又、殊更に茂子をかばつているかに見える供述も発見することはできない。

ところが外部犯人説に立脚した捜査が行き詰まり、昭和二九年七月、犯人は三枝家の内部にあるとの想定に立脚した徳島地検を中心とする捜査が展開されるに至り、西野は、同年七月二一日、阿部は同年八月一一日深夜、逮捕、勾留されるに及び、両名は、その身柄拘束中にもしそれが真実であるならば優に茂子を犯人と断定するに足る供述を次々とし始めた。両名の身柄拘束中に両名がなした茂子犯人を根拠づける供述の到達点は、

(1) 茂子と亀三郎が本件発生当時、四畳半の間で格闘しているのを見たとする両名の供述

(2) 茂子に依頼され、西野が、本件発生後、三枝方屋根上の電話線、電灯線を切断したとする西野の供述並びにそれを補完する阿部の供述

(3) 茂子に依頼され、西野が兇器らしき血のついた刺身庖丁を両国橋から川へ投棄した旨の西野供述と、これを補完する阿部供述

(4) 茂子に依頼され、阿部が、篠原組から匕首を預つて茂子に渡し、その後、右匕首にダイヤル糸を巻いたとする阿部供述と、これを補完する西野供述

の四点であつた。

そして、右の各供述は、両名が未成年の少年であり、それまで非行歴を有しない者であつたことをも考慮すると余りにも過酷というほかない長期の身柄拘束期間中に調書化されたものである。

しかし、右の大量の検面調書、検察事務官面前調書、裁判官による証人尋問調書は、それぞれに矛盾し、動揺変転し、その内容については経験則上容認し難い部分を数多く包含している。これらは、両名が自らの記憶を辿り、幾度かの躊躇逡巡を経たのち徐々に真実を吐露するに至つたものと見るには余りにも不合理不自然な態様のものであつて、むしろ、捜査する側の、その時々の必要性に応じて適宜変更され訂正されて来た作文的供述の類と見られることは既に詳細にみて来たとおりである。

(二) こうして公判段階に移行したが、検察官は、捜査段階における西野、阿部らの供述調書類を開示することなく、大部分は直接証人により立証する方針をとつた。このため、弁護人の反対尋問権の行使は、必らずしも容易でなかつたことが推察され、第二審で右調書が取調べられて以降、俄然、弁護人の反対尋問権の行使が活発となり、両名がしばしば沈黙に陥つている状況は前記のとおりである。

審理を終えた第二審は、その判決理由中において、西野、阿部の供述に対し、次のように鋭い疑問を投げかけている。即ち「まず西野清の各調書を考えて見る、これらの調書に表れた供述の経過を検討してまず顕著な点は指摘のごとき供述自体の矛盾とその変化動揺である。即ち、電話線の切断を一旦供述し乍ら何故再度に亘り否定するのか、又何故これを阿部の所為にしようとしたりしたのか、七月五日付の調書において犯人は被告人と思つたと言つていながら何故刺身庖丁投棄の事実は八月一八日迄、電線切断の事実は七月二一日迄これを秘匿して供述しなかつたのか。当日の朝被告人の姿を見かけた前後の模様も八月一〇日まで秘匿し、しかも何故一度で述べず徐々に供述しているのか、或は電灯線切断は先に認定のごとくナイフを使用しているのに拘らず当初ペンチを使用して切断したと虚偽の供述をしながら、その切断の仕方についてまで仔細に陳述したり(八月一〇日付裁判官調書)又刺身庖丁投棄の状況につき新聞紙の落下の模様等は(八月一八日付調書)むしろ創作的な印象を受ける程度に、細部に亘る状況を供述しているのか、のみならずさらに石油スタンド附近で被告人から電灯線切断を早くせよと命ぜられたとの供述(七月二一日付調書)のごときはその後一度も述べられていないところからむしろ電灯線切断を後にしたことを合理的に潤色せんとしたもののごとくにも見られるし事件発展の順序も各調書を通し一貫していない点があるのは何故か」(同判決第三の一の(一)の(1))と。そして第二審は、これらの矛盾を指摘しながらも、尚、西野証言を信用しうる根拠につき、「思うに西野の起訴前の各調書には以上のように供述に矛盾動揺はありながらこれを綜合すれば結局において先に引いた公判の供述と合致するものと断定してよいものであり、さきに挙げた各種証拠とも綜合すれば起訴前後の供述を通観して受ける心証は幾度かの躊躇逡巡動揺の後徐々に真実を吐露するに至つたものであるとの真実感であつて前記のような矛盾動揺の存することも右心証を動かすものではない、」と説示するのである。

又、阿部供述については「全般を通じ阿部守良の調書には西野清のそれに比し矛盾動揺は少い。しかし後記のような矛盾、動揺の存することは否定し得ないところであり、これらの因つて来る所以についても亦先に西野清について述べたところと同様の事情が阿部の場合にも当然考慮されねばならないところである。」(同判決第三の一の(一)の(2))とし、「さすれば同人が被告人を犯人なりと迄述べながら(八月一一日付調書)上記のように八月二一日付調書に至るまで匕首入手の事実を秘し、しかも同調書ではなおその入手先、入手場所につき架空の事実を述べ、翌日これを訂正しているごとき矛盾も、同人自身同調書でこの点につき弁解しているところをその後の供述とも照し肯認し得るところである。」と説示する。

(三) しかし、両名は、第二審が疑問を投げながらも「結論においては何ら実験則に反し又は客観的事実に合致しない矛盾は存しない。」と断定した昭和三二年一二月二一日の判決言渡から一年も経過しないうちに、法務省人権擁護局の調査に対し、第一、二審の証言、検察官に対する供述調書の主要なる部分は、全て虚偽である旨の告白をなすに至つたのである。即ち、阿部においては昭和三三年八月一二日、西野においては同年一〇月九日偽証告白をなし、以後、阿部においては今日に至るまで一貫して、西野においては、偽証被疑事件(第一次、第二次)における検察官の取調に際しては、偽証告白を撤回する旨の調書を作成されてはいるものの、その他の機関(裁判所、日弁連、法務省人権擁護局、警察、検察審査会)に対しては一貫して偽証告白を維持し続けて今日に至つている。

両名の偽証告白は、今日においても続き、当請求審においても、両名は、前記四点に関する第一、二審証言は偽証であることを明らかにした。両名が、第一、二審において、真実ありのままを証言したものであれば、両名の現在におけるかような行動は、到底合理的に説明することは不可能であろう。本請求審(第五次、第六次請求)の証人調期日において、両名は、夫々、表現は異るとはいえ、弁護人らの事前面接の要請も拒否し、雑念なく、現時点でのありのままの記憶に従つて証言するものである旨を強調している。彼らが、真実、偽証をしていないのであれば、彼らが、現時点において裁判所にまで出頭し、偽証の告白を為す動機となりうるものは、彼らにとつて何も存在しない筈である。

(四) この点に関し、これまでの分析からして、当裁判所の事態の推移についての評価は大略次のようなものである。

両名は、本件発生の頃、何れも徳島県下の郡部それも山間部から徳島市内へ働きに出て来た器械好きの一六、七歳の少年であつた。突然、自分達の雇主が何者かにより惨殺されるという事件に遭遇し、その家に同居していたことから、事件直後、警察や検察庁で事情を聴取され、思いつくままを語つていた。ところが、昭和二九年七月、徳島地検により、内部犯人説に焦点を定めた捜査が開始された。内部犯人とは殺された雇主の内妻冨士茂子のことであつた。その頃から、両名は、俄然、捜査機関の側からは重要参考人と目されるに至つた。犯人内部説を裏付け得る者は、三枝家の内部に居る者でなければならなかつたからである。事件発生当時、八百屋町の三枝家に住んでいた者は、殺された亀三郎、犯人と目される茂子、娘の佳子、そして西野と阿部の五名であつた。検察官からみて、茂子犯人の供述をなしうる者は両名の他にはなかつた。二人に対し、過酷ともいうほかない身柄拘束が行われ、厳しい取調がなされたのも、犯人内部説を根拠付ける証拠がそれだけ脆弱であつたことを逆に証明している。

彼らは、長期の身柄拘束と検察官の取調に疲労し、畏怖し、そしてこれに迎合した。捜査段階で述べたことを覆えすと偽証罪で懲役になるという威嚇は、田舎出の少年にとつて、公判段階では、調書に書かれたとおりに証言することを至上命令とするに充分であつた。彼らの公判証言における苦悩と良心的葛藤は、夫々の証言記録の一問一答の中に、そして数多くの沈黙の中に、何よりも雄弁に表現されている。

判決が確定して後、二人は良心の痛みに懊悩した。偽証告白に至る道筋と、それに至る時間の長短は、亀三郎殺害事件の推移に関する周囲の情勢と、夫々にとつての良心の苛責と偽証告白することへの勇気との激しく相克し合う混沌の過程であつたのに相違ない。

両名の供述の推移とその時々の行動を素直に見たとき、右以外の理解は、今日においてはもはや合理的に成立ち得ない。西野が、何故、遺書を書いてまで自殺を企てるに至つたのか、二人が何故、あのような長い手記を書く気になつたのか。これらは、彼らの置かれた立場と行動を右のように理解することによつて初めて、彼らと共通の弱さを持つた人間的立場に立つ者として、彼らの全てを淀みなく理解することができる。

(五) してみると、西野、阿部両名の第一、二審における証言は、まさに両名が当請求審において述べているように、内部犯人説に立脚する捜査を主導し、両名を取調べた検察官の強引ともいうべき取調に迎合した虚偽の供述調書に基き、法廷においても、それをそのまま踏襲したものに過ぎないものであつて、到底体験した真実の表白というには程遠いものであるといわなければならない。

しかし、当裁判所は、あえてこの段階において直ちに両名の証言が偽証である旨断定することはしない。既に、これまでの請求審において、主として両名の供述の推移と偽証告白とだけからこれを偽証であるとする再審請求が、いずれも棄却されて今日に至つている。

両名の証言の真実性は、本件に関する新旧証拠の総体に対する総合的評価の過程で、さらに客観的に位置づけられ検証されなければならない。

二 各論―西野清、阿部守良両名の証言と相まつて確定有罪判決の根拠となつた証拠及び確定記録中のその他の証拠(旧証拠)と新証拠との総合的検討

西野、阿部両名の第一、二審証言の信憑性については以上に見たとおりであるが、次に、右両名の証言と相まつて茂子有罪の根拠とされた証拠(積極証拠)及び確定記録中のその他の証拠(消極証拠)(以上、旧証拠)と新証拠との総合的評価の上に立ち、確定判決が有罪の根拠とした証拠構造が個別的に検討されなければならない。

ところで、前掲記の判決理由に明らかなとおり、第一審判決は、認定の用に供した証拠を羅列し、若干のメモを附してその心証を吐露するに止まるが、第二審判決は、個別的に夫々詳細な証拠説示をし、その心証のよつて来たる理由を説明している。

そこで当裁判所が新旧証拠に基きこれらを検討するに際しても、第二審判決の証拠説示する順序に従い、最初に、主として西野、阿部両名の証言によつて認定された、(一)茂子と亀三郎の格闘の目撃、(二)西野による電話線電灯線の切断、(三)西野による刺身庖丁の投棄、(四)阿部を介しての茂子による匕首の入手、の四点について検討し(第二審判決理由第二の一(一)乃至(四))、次いで、茂子の自白の真実性について(同第二の一(四))、さらに同判決が、その理由第二の一(五)(イ)以下において、「被告人の犯行の状況の一端を示すものである」として説示する情況証拠につき、順次、個別的に検討を加え、最後に、茂子が本件犯行に至つたとする動機について、考察することにしたい。

1 西野、阿部両名の格闘目撃供述の信憑性―特に犯行当時の明暗度について

(一) 第一、二審判決の証拠説示

第一、二審判決とも、本件発生時刻頃、三枝方奥四畳半の間で茂子と亀三郎の格闘が行われたものと認定し、その証拠として西野、阿部両名の証言を挙げている。而して第二審判決によつて認定された内容は、「翌一一月五日午前五時すぎ頃両名は四畳半の間の方から聞えるドタン、バタンという音に目ざめ、小屋内北側板のすき間から四畳半の間の方を覗いたが何も見えなかつたので小屋を出、小屋の西側を廻つて四畳半の間の南側から同間をのぞいたこと、同室の南二枚の障子、その南廊下をへだてた二枚の硝子戸は何れも東に開放され(即ち西側が開いており)室内中央部に亀三郎と覚しい背丈の者が西南に向き、これと向い合つて被告人と覚しい背丈の者が格闘しているごとく動いているさまが暗中にうす白くぼんやりと見え二分位してその影は同室西北隅押入の方に移動し縁側西端の便所の陰になり見えなくなったので夫婦げんかと考え、両名は小屋の中へ這入つたこと。」というものである。

しかし、西野、阿部両名の証言するような内容の認知が、本件犯行当時の明暗度から果して得られるものであるか、につき第一、二審においても争われた。

そして、両名の証言するように亀三郎と茂子とが部屋内に相対峙していたとする白い影が見えるかどうかにつき、第一審は、「昭和二九年一二月五日早朝の検証の結果によると、同日は暗くて内部は全然見えないのであるが、徳島測候所長よりの回答書により窺われる通り、月齢、天候、日出時間等を考慮するときは、本件犯行当日の同時刻頃はより明るかつたのであつて、従つて右各証言はこれを信用していいわけである。証人武内一孝の第五回公判の証言によるも、部屋内は白黒を判別できる程度の明るさであつたものと認められる」としており、第二審は、「西野の証言、同人の検面調書では相当明瞭に見えたと述べたり、背の高低もはつきりしないといつたりしているが、同人が見た当時の明暗度、その後の事件の異常な発展、さらにはこれにつき尋問を受けたのが事件後数ヶ月も後であること等を考慮すると、右のような動揺があるからとて直ちに見たこと自体虚偽なりとは断定できない」とし、次いで、「当時の明暗度等については、原審において同時刻を選んで昭和二九年一二月五日午前五時二六分に行われた検証の結果によると、四畳半の間中央部の白衣姿も南側縁側外から弁識できず、廊下上に出て始めてぼんやり白色が見える程度で人影はその輪郭も見えなかつたというのである。しかし、測候所に対する照会によると、日出時刻、月齢において事件当時の方が右検証時より明るかつたと思われ、実況見分調書によると当時の天候は晴天で、検証時は曇天で月明なく、又、星影も認めず、検証に立会した西野、阿部も現在よりはもう少し明るかつたと思う、と述べているので全般に事件当時の方が明るかつたものと推定される」として「結局、西野、阿部が供述した程度の状況を同人らが実見したものと解して誤りないものと認められる」と断定した。

第一、二審の判決理由にみられる特徴は、いずれも、第一審が本件犯行と同時刻頃を選んで実施した検証の結果によると、四畳半の間の白衣姿は人影は勿論のこと、その輪郭も見えなかつたものであることを明瞭に認定していることである。その上で、日の出、月齢等において、検証時よりも事件当時の方がより明るかつたと「思われ」、又、判示するような事情から全般に事件当時の方が明るかつたものと「推定」した上、西野、阿部両証人の供述を信用する根拠にしていることである。

そして、そのような思考或いは推定の合理性については、格段の説明はなされてはいない。

(二) 旧証拠の評価―西野、阿部の目撃供述

(1) 旧証拠のうち、第一審が昭和二九年一二月五日五時一〇分から五時一七分まで本件犯行現場で実施した検証の結果は、次のようなものであつた。即ち、「立会人である西野、阿部が立つていたと指示する地点より四畳半の間内部や右指示地点の明暗度を検するため、室内燈や三枝方の外燈を消燈した後、藤掛検察官をして上衣を脱し白ワイシヤツ姿となつて四畳半の間内に立たしめ、前記指示地点よりこれを見たところ、室内は全く暗黒であつて室内中央部電燈の直下に立つた時にはその人影又は白いものを認めることができない。右地点より南により廊下内側の敷居より約一尺の地点に立つた時には白ワイシヤツの白色が幻の如く暗に浮んで見えるが人影の輪郭又は顔形等を認め得ず、更に南進して廊下内側の敷居上に立つた時何か白いものを着ている人影を認めたが顔形までは判らない。」(六五七丁)というものであつた。

右検証の結果を重視する限り、西野、阿部両名の格闘目撃に関する供述は、容易には措信し難い要素を含むものとして批判的検討の対象となるべきであつたと考えられる。

さらに旧証拠の中でも、証人武内一孝巡査は、第一審五回公判において、「犯行現場には午前五時三〇分頃着いた。店内は真暗闇であり手さぐりの状態で中へ入つて行つた。部屋の中は相当暗く人が何人いるか判る明るさではない。人の顔形は判らなかつた。白いものがかすかに判る程度だつた」(五三八丁裏)趣旨の証言をしており、同じく証人森本恒男巡査も、第一審五回公判において「私は武内と一緒に現場に参りましたが、途中電池を取りに引返したので少し遅れて現場に着きました。家の中は真暗でしたので、すぐ電池をつけました」(五五六丁表)との証言をしている。

そこで、旧証拠の中で、右のような各証拠を排斥し、第一、二審判決が認定の根拠とした西野、阿部の目撃供述の信憑性についてさらに検討を加える。

(2) 西野、阿部の目撃供述

(イ) 捜査段階の供述

西野と阿部が、それまでの供述に付け加えて、「只一つ隠していたことがある」として本件犯行時刻頃「ドタンバタンという物音で目を覚まし………四畳半の間の南側から同間を覗くと、茂子と亀三郎が喧嘩しているのを見た」旨述べ始めたのは、いずれも昭二九・八・一〇付検面調書においてである。

ところで、前に詳細に見て来たとおり、西野、阿部は、既にこの頃までに「茂子が犯人ではないかと思う」旨の検面調書を何通も作成されているのであるから、何故、右の事実を八月一〇日まで隠しておく必要があつたのか、右目撃の供述内容からすると茂子が犯人であることが疑う余地がないが、それまでの事件直後或いは昭和二九年七月以降の取調において、そのことを殊更に隠したり茂子をかばつたりする供述のないのは何故か、一六、七歳の少年がかような重大な目撃内容を隠すわけであるから何らかの不自然な気配が生ずる筈であるが、それまでの取調の過程で捜査機関に怪しまれ追及されなかつたのか、しかも両名共に事件後も三枝方住込店員として茂子と共に生活していたのであるが、主人殺しの妻と同居することの恐怖と不安とにどのように耐えていたのか、等、経験則上考えられる目撃者の心理と行動からは著しく異つた諸点につき、先ず疑問を抱かざるを得ない。

しかも、西野は、昭二九・八・一〇検面調書を作成されてのち、同日高木裁判官により刑訴法二二七条による証人尋問を実施されたが、同日検察官に対して「ドタンバタンという物音で目を覚まし……格闘を目撃した」と供述した直後であるのに、裁判官による尋問に対しては「火事じや、という人声で目を覚ました」と以前の供述に戻り、その後、検察官の補充尋問に対して一転して「ドタンバタンという物音で目を覚ました」と供述を変更するに至るなど、同じ時期における同一人の人間行動としては著しく理解困難な諸点が存在するといわざるを得ない。

そして、捜査段階における調書中の西野の目撃内容は、

昭二九・八・一〇検(〈24〉調書)

「部屋の真中辺りで大将が店の方から便所の方へ向かつて立ち、大将と向い合つて奥さんが立つていたのを見た」「二人とも白つぽい寝巻姿だつた」「奥さんの方は後姿しか見えなかつたが、頭の髪や背格好から見て、それが奥さんであることは絶対に間違いない」「二人は腕を組み合つて前後左右に動いていた」

昭二九・八・一〇裁(〈25〉調書)

「大将が自分と正面の位置に向き合いに立つていました、大将と向かい合いに立つていた人があります」「暗くてはつきりは分りませんが寝巻を着ていたように思います」「奥様の様にパーマネントをかけていました」「(背の高さは)三枝の奥さんと同じ位の高さです」「組合つているような格好でした」「動いていました。激しく動いていました」「奥さんではないかと思いました」

というものであり、

阿部の目撃内容は、

昭二九・八・一〇検(〈一二〉調書)

「丁度、主人が私らの方を向いて立つており、主人と向い合つて背が主人よりも低い人で白い寝巻を着ている人が立つて、二人が互いにいがみ合つているのを見た」

昭二九・八・一一裁(〈一三〉調書)

「座敷の中で主人が南西に向き、それに向い合つて白い着物を着た主人より二、三寸背の低い人と主人が争つているようであつて、そのとき電灯がついていなかつたので判然解りませんでしたが、多分、主人と奥さんが夫婦喧嘩でもしているものと思つて小屋へ帰つて来ました」「はつきり見えませんでしたが、格好から主人であると思いました」「組ついてはおらなかつたが二人は殴り合つていたように見えました」「背が低いし、寝巻らしいものを着ていたのでそう(奥さんだと)思いました」

というものである。

(ロ) 公判での証言

西野の公判段階における目撃証言を検討すると、

第一審二回公判

「四畳半の間の中に向こうからこちらを向いて一人が立ち、それに向い合つてもう一人が立つている人間の格好が見えました」「(その人の格好は)はつきりとは見えませんでした」「(その人の服装は)はつきり判りませんでした」「白かつたように思いますがはつきりしません」「(背の高い人は)大将だと思いました」「背格好も似ていたしこんな所に他所の人が入つて来る筈がないと思いました」「(その人の顔形は)はつきり見えませんでした」「(向い合つている人は)奥さんだと思いました」「背格好からそう思いました」「(頭髪は)充分見えませんでした」「(二人は)組合つてもみ合つていました。そして動いて便所の陰に入つて見えなくなりました」

第一審一一回公判

「私にはその白いものが不断、大将や奥さんの着ている寝巻のように思えました」「(その白いものは)動いていました」「(その白いものは)人だと思いました」「奥さんと大将の二人だと思いました」「(二人の人影は)はつきり見えません。しかし四畳半には奥さんと大将が寝ているので私はその白いものを奥さんと大将だと思つたのです」「(背が)高いとか低いとか言うことまでははつきりしませんでした」

第一審一二回公判

「白いものが二つ離れており、多少高低もあつたので二つというのが判りました」「一寸見ただけですからはつきり判りませんでしたが相当激しく動いていました」「(二つの白いものは)奥さんと大将だと思いました」「白く見えたものが二つとも寝巻だと思つたからです」「白いものに高低のある事は判りましたが格好までは判りませんでした」「白いものがふわふわと前後左右に動いていた程度でした」

というものである。

阿部の公判証言を見ると

第一審二回公判

「私が見たとき、部屋の中には、こちらを向いて主人が立ち、それに対し、寝巻を着ているので奥さんだと思われる人が向き合つて立つていました。その外には人影はありませんでした」「こちら側の人は白つぽいように見える寝巻を着ていました」「こちら側に向いている背の高い人は顔形で主人だと思いました」「前の人より背が大分低く白つぽい寝巻を着ていましたが私は奥さんだと思いました」「立つていただけでなく、二人はもぢかいながら少し動いていました」

第一審一二回公判

「白いものが二つ重つて動いているのが見えました」「(その二つは)少し高低がありました」

というものである。

両名の公判証言は、捜査段階の供述に比して大分後退していることが明らかである。しかし、西野は、第一審二回公判において、「(頭髪は)充分見えなかつた」と述べつつも、「背格好」「向き」「位置」「動き」「人数」が判つた旨供述し、阿部も、第一審二回公判において、「人影」「向き」「背格好」「動き」「人数」が判つた旨供述している。しかし、両名は、控訴審たる第二審においては弁護人の尋問に対して答えないことが多く、阿部に至つては第二審四回公判において「はじめのうちは犯人が奥さんだとは思つていませんでした」と述べ、間接的にではあれ、格闘を目撃したこと自体を明白に否定する供述を行うに至つていることが注目されなければならない。

してみると西野、阿部両名の供述は、その供述の形成過程が不自然であり、捜査段階における供述の変化、公判段階と捜査段階の供述の相違が共に著しく、実際にこれを体験した者の供述として見るには看過し難い重大な矛盾動揺を包蔵するものということができる。かような両名の供述を全面的に信頼し、前記検証結果、武内、森本証言を排斥した第一、二審判決は、旧証拠それ自体の評価からしても疑問を含むものであつたということができるであろう。

他方で、西野、阿部両名は、偽証告白の中で、「火事じや」「泥棒」という叫び声で小屋から出て行つた旨述べ、格闘目撃供述の虚偽であることを当請求審においても証言しているところである。

(三) 犯行当時の明暗度に関する鑑定

伊東三四作成の鑑定書、補充意見書は、西野、阿部両名が、仮にその供述している場所から、本件犯行当時、三枝方奥四畳半の間を覗いたものとしても、本件犯行当時の明暗度からして、その供述しているような認知が得られるものかどうかを科学的に検証しようとしたものである。

(1) そこで先ず伊東鑑定の意味するところを検討しなければならない。

右鑑定書、昭五四・一一・二七付補充意見書、証人伊東三四の証言、同人作成の鑑定資料集を総合すると、同鑑定人が採用した手法と鑑定結果は次のようなものであることが明らかである。

(イ) 照度測定の条件設定

照度測定は、徳島市八万町中津山四番一六の地に事件発生現場と近似した仮設小屋を設定し、日の出時間との関係などを考慮してなされた。事件発生現場は既にないので、市街地の夜間照明の影響の少ない右場所を選び、仮設小屋は旧三枝方四畳半の間とそれに付属する玄関、台所、廊下を再現した仮設建造物であつた。照度測定は、昭和五三年一月八日、同年三月七日の二回にわたり行われた。

夫々の自然条件を本件発生日のそれと対比すると次のとおりである。

昭五三・一・八 同三・七  昭二八・一一・五

(事件発生日)

日の出 七時〇八分  六時二四分 六時二四分

月の出 五時四二分  四時四九分 四時五三分

月齢  二八・四   二七・五  二八・一

天候  曇り一時小雨 晴れ    晴れ

右の照度測定の犯行現場の再現性については、本件犯行現場が周囲が建物に囲まれており、室内においては夜間照明の影響は殆どないと考えられること、三月七日の測定は日の出時刻も同一で天候も同じく晴れであり、月齢や月の出も、むしろ測定時の方が月は少し高く、月の面積も少し大きく、これらの点では測定時の方がより明るいと考えられる条件下にあつた。天空の広がりについては、本件犯行現場の方がむしろ谷間にあつて、照度は測定時の方が高いと考えられ、市街地全体の夜間照明は、昭和二八年に比して昭和五三年の方がはるかに高く、これらのトータライズされたものが地上を再照明している点も測定時の方が事件当時よりは高く、これらの点は測定時の方がより明るい条件を備えていると考えられる。

右照度測定は、確定記録中の実況見分調書、検証調書によつて認められる周囲の建物の状況に合わせて現場の状況を再現した上で行つたものであるが、仮設小屋の総合反射率は二五%であつて犯行現場よりかなり高い。

(ロ) 照度測定

伊東鑑定人が右鑑定に使用した照度測定器は、光電子増倍管を使用した東芝光電照度測定装置(LV―IA型)であり、その測定範囲は、約10-4ルクスから105ルクスであり、雰点調整、校正装置がついている。電源は色温度二・八五四Kの白熱電球を使用した。測定の結果は、照度計の変化が立ち上がりを示すのは、日の出前一時間を過ぎた頃からであり、それまでは日照の影響はないこと、事件発生時刻とされる五時一〇分(日の出前一時間一四分)における照度は、測定範囲の最下限が10-4ルクスである照度計の機能では測定できない程暗い0.25×10-4ルクス未満であると推定する。

(ハ) 認知実験

視力一・〇の観察者について、約三〇分間暗順応させた後、西野、阿部の目撃距離に相当する三二五センチメートルの距離にある被観察者を対象として、白熱電球の電圧変化方式により10-4ルクスからほゞ人の姿が認知できるまでの照明水準を設定して認知実験を行つた。

その結果

(a) 10-4ルクスでは全く見えない。

(b) 室内で何かが動いているのが見えるためには、少くとも1.8×10-4ルクスの照度が必要である。

(c) 室内に居る人間の背丈、身体つきを見分けるためには、1.8×10-3ルクスの照度が必要である。

ことが判明した。

右の認知実験に用いた白衣の反射率は八五%であり、茂子の着ていた寝巻の反射率は四〇乃至五〇%であり、又、本件犯行現場の背景は障子であるが、障子の反射率は五〇%で寝巻の反射率と等しく、これに反して認知実験では黒背景で白衣を見るというものであるから、右着衣と背景の点からは認知実験の方が見やすい。

観察者視力は一・〇であり、通常視力一・二と比べても、照度が10-3ルクス以下のレベルにおいては、数一〇センチメートル近づかなければ全く見えなくなるというのであるからこの点の影響はない。

(ニ) 本件犯行を目撃したとする西野、阿部供述について

(a) 照度測定の結果によると、本件発生時刻五時一〇分(日の出前一時間一四分)における室内照度は、10-4ルクス未満と推定され、一方、認知実験の結果によると、この照度水準のもとでは、着衣と背景の如何にかかわらず人の姿の認知は不可能である。

(b) 西野の検察官に対する供述調書のうち「大将と向い合つて奥さんが立つているのが見えた」「二とも白つぽい寝巻き姿であつた」「頭の髪や背格好から見て奥さんである事は絶対に間違いない」「二人は互いに腕を組み合つて前後左右に動いていた」等の供述(昭二九・八・一〇検、〈24〉調書)、同日徳島地裁における証人調べでの「奥様のようにパーマネントをかけていた」などの供述(昭二九・八・一〇裁、〈25〉調書)に対応する認知は、推定される照度水準では成立たない。

(c) 西野の公判段階における本件犯行の目撃状況に関する供述についてみると、第一審二回公判における証言は、「(頭髪は)充分見えなかつた」など若干後退しているが、「向き」「位置」「背格好」が判つたとする内容があり、前述と同じ理由でこれらの内容の認知が成立つことは考えられない。さらに、「二人以外に誰も見えなかつた」という証言に至つては、ほとんど真暗闇の中に人が何人いたかを断定しているわけで取上げるに値しない証言である。第一審一一回公判における弁護人の尋問に答えて「白いものが四畳半の間の中にあるぐらいしか見えなかつた」「(その白いものは)動いていた」等と、又、裁判官の尋問に答え「背が高いとか低いとかいうことまでははつきりしなかつた」などと大巾に後退しているが、これらの証言内容に対応する認知すら推定される照度水準のもとでは成立ちえない。

(d) 阿部の捜査段階、公判段階における証言も西野と同じ理由でその供述するような内容の認知は、推定される照度のもとでは成立たない。

(e) 第一審が現場検証した昭和二九年一二月五日は、日の出時刻六時五一分、月の出時刻一三時〇二分、曇天、であり、室内への目撃検証が行われた時刻は、五時一〇分から一七分までの間(日の出前一時間四一分から一時間三四分までの間)であつたとされている。

本鑑定による照度測定によると、曇天の場合の地上の照度水準は、晴天の場合より日の出前一時間あたりまではむしろ高い可能性があることを示している。第一審判決は理由第三の六のロにおいて、「………検証の結果によれば、同日は暗くて、内部は全然見えないのであるが………月齢、天候、日の出時間等を考慮するときは、本件犯行当日の同時刻頃はより明るかつたのであつて、従つて右各証言はこれを信用していいわけである」と述べているが、全然見えなかつた検証結果からこのような立論をすることはできない。それどころか、本鑑定に際しての照度測定からは、むしろ本件発生時の方が検証時よりもより暗かつた可能性さえ考えられ、判決理由にあるような断定は論理的にも事実の上でも成り立たない。

(f) 武内巡査が本件発生当日、現場に到着したとされる五時三〇分という時刻は、照度測定の結果によれば、日の出の影響があらわれていないかあらわれ始めているかの境目にあたる時刻であり、その照度水準は、未だ本件発生時刻のそれと大差はない。従つて、「現場の部屋の中は相当に暗く、白いものがかすかにわかる程度だつた」「人の顔形はわからなかつた」「人が何人いたかわかるような明るさでなかつた」という武内証言の内容は、ありのままの体験であると理解できる。なお「白いものがかすかにわかる」という内容も、現場の部屋の中に入つて西野、阿部両証人よりも接近した距離での観察であつてみれば充分ありうると考えられる。

(2) 右の伊東鑑定に対し、検察官申請の市川宏証人は、我国眼科学会の権威として、伊東鑑定に対する鑑定を試み、「伊東鑑定書に対する鑑定」と題する書面を提出し、当請求審において証言した。

右市川鑑定書及び同人の証言によると、伊東鑑定の採用した実験方法、測定の精度、認知実験の妥当性については十分なる配慮が払われており、これらの試験結果をもとに鑑定項目別に行つている鑑定内容の結論を変更せしめる程の問題点は見出せず、又、現在における照明学のレベルにおいて伊東鑑定に優る方法をもつて同鑑定人が行つたような鑑定が現実に可能であるか否かについては否定的に答えつつ、伊東鑑定に対する幾つかの疑問点を指摘するものであるが、同証人自らが実験を行い、伊東鑑定の結果にこれを対置するものではない。

ところで、伊東鑑定の本来の目的は、日照前(日の出前)という低照度下において、果して西野、阿部両名が供述しているような視覚による認知が得られるか否かを、照明学、視知覚心理学の立場から一つの科学的試論を述べるというのに尽きるのであり、当裁判所が同人を証人として尋問した目的もそこにあるわけである。いわば、純粋の照明学上の実験のため行う場合のように夫々の時間帯における照度の絶対値を求めること自体に目的があるのではなく、日の出前の夫々の時刻に応じてどのような照度値の変化があるのか、そして西野、阿部が本件犯行を目撃したとする日の出の約一時間一四分前における照度はどのようなものか、その照度下における人間の視覚による認知力がおよそどのようなものかを知るための認知実験の結果との対応関係に最大の眼目がある。従つて、右照度測定と認知実験に用いる器械が同一の照度計でなされる限り、仮に市川証人の述べる色温度等による誤差があつたとしても、右の対応関係に基本的な変化があるとは考えられず、又、右照度計は検定を要しない精密なものであることも明らかである。

元々、犯行当時の照明条件の一〇〇%の再現が不可能である以上、諸々の条件を考慮して能う限り近似した条件を設定する努力をなしつつ、不確定な要素は、鑑定の立証命題に対して不利益な条件を負担させても尚、右立証命題が維持できるか否か、を検証するのが、かような鑑定における通常の合理的手法であろう。而して、前記の事情から考えると、伊東鑑定が照度測定の前提として設定した条件は、本件犯行現場に比して、少くともより明るい条件下で行つたものとみられ、言い換えるならば、西野、阿部が仮に格闘を目撃したものとして、同人らが置かれていた条件よりも、少なくともより見やすい条件下において行つたものと認めることができる。

従つて、当該犯行時刻の室内における照度測定の結果、照度計の針は振れなかつたところ、その読み取り誤差を考えて最大限譲歩し、0.25×10-4ルクス値であるとした伊東鑑定の結果は、本件につき充分に参考とさるべき数値であり、その照度値下において、人間の視知覚認知が前述のとおりの当該認知実験による結果のようであることも充分に参考に値するものと考えられる。

そして、事件発生時刻は、日の出前一時間一四分頃であり、天文薄明は日の出前六〇分までであるから太陽光の影響はなく、又、月の光の影響もなく、仮設小屋内の照度も市街地の夜間照明、周囲の状況を勘案すると事件発生現場よりも高いと推定することができる。

かような諸要素を考慮すると、伊東鑑定の結果は、本件の解明において重要な科学的根拠を提示したことになるであろう。即ち、西野、阿部が茂子夫婦の格闘を目撃したとする時刻(日の出前約一時間一四分)の照度は、高く見積つても、0.25×10-4ルクス以下であるとみられ、右照度下における認知実験の結果によると、両名が供述しているような視覚による認知を獲得することは不可能である。

そして、右伊東鑑定の結果は、西野、阿部両名が、格闘を目撃した旨の証言は偽証であつた旨当請求審において述べるところとも、まさに符合する関係に立つているのである。

(3) 右の伊東鑑定、市川鑑定によつても、曇天の方が晴天よりも雨が反射板となつて、地上照度はむしろ高い可能性があることが指摘されている。又、日の出の一時間以上前には、太陽光による光は照度に関係がないことも明らかにされた。これらのことは、「日の出時刻………において事件当時の方が右検証時より明るかつたものと思われ」(第二審判決第三の一の(四)(イ))、「又、実況見分調書によれば当時の天候は晴天と記載されており、原審検証調書によれば曇天で月明なく………西野、阿部も亦現在よりももう少し明るかつたと思う旨述べているところで全般に事件当時の方が明るかつたものと推定される」(同上)との第二審がした思考ないしは推定が夫々科学的根拠を欠くものであることが明らかとなつた。

(4) 伊東鑑定書及び伊東証人の証言によると、西野、阿部の目撃供述の中には、わずかな同一照度下で実見したものとしては到底相容れないものが混在しており、全体としての供述内容は視知覚心理学上容認し難いものであることが指摘されている。

例えば、西野の昭二九・八・一〇付検面調書中の供述によると、足が見えたり、髪の毛が見えた旨供述しているが、認知実験の結果によると、右のような認知が可能となる照度は事件現場における推定照度0.25×10-4ルクスの数万倍にも当り、照度測定の結果と対応せしめると殆ど日の出近くになる。第一審二回公判における供述でも、西野は一方では「服装が白かつたようにも思うがはつきりしない」と述べ、他方で「向きや位置がわかつた」と述べており、これらは明らかに両立し得ない認知報告が混在していて、現実にこれを体験した者の供述としてみるには信頼性に欠けることが明らかである。

(四) まとめ

以上の西野、阿部供述の分析と、新証拠である伊東鑑定、伊東証言の趣旨からすると、西野、阿部両名の目撃供述は科学的にも論理的にも成立たないものであると考えるほかなく、両名自身が当請求審において証言するようにその第一、二審証言は虚偽のものであるといわざるを得ない。

2 電話線、電灯線の切断

(一) 第二審判決の証拠構造

第二審判決は、西野供述を要約し、それを裏付ける証拠を列記し、「西野の電話線、電灯線の切断自体にはこれを裏付ける客観的な情況事実が存在し、到底否認し得ない事実であつて本件断罪の資料として甚だ重要である」と述べる。

ところで、電話線、電灯線の切断に関し、第二審判決が認定した事実は、前掲判決理由のとおりであるが、これを摘記すると、

「同人(=阿部守良)が出た後、西野は腰のあたりに何かふれるものがあるので手をやると、それは被告人が持つた匕首で、被告人は、『これで電話線と電灯線を切つてくれ』と言つたこと、同人は被告人の命ずるまま表へ出、建築中の新館足場を伝つて屋上に出、電話線を引込口で数回匕首で切り込み折り曲げて切断したこと、電灯線は後に切断することとして屋根を下り四畳半の間にいた被告人に切断した旨を告げ匕首を返したこと………(刺身庖丁を新町川に投棄し、両国橋派出所に届け、大道の家族に知らせて帰つてから)………ついで電灯線を切断するため、新館表足場から屋上に上ろうとしたとき、隣家の新開鶴吉に発見され、危いぞ、と注意されたので一旦中止したこと……………洗面を終つた西野は、店の間からナイフ、ペンチを携え新館西側階段から新館二階に上り、東側窓から店舗屋上に出、引込口附近で電灯線にナイフで切込みをつけ、ペンチで一方をはさんで折り曲げて切断したこと、しかも直ちに現場に来ていた警察官に対し、電灯線が切られているのを発見したと申告して警察官を案内して切断箇所を示したこと、その後、西野は参考人として警察署等にて取調べを受け、帰宅後店舗から電線を持ち出し、屋上の切断した電灯線を接続して修理したこと」

というものである。

第一、二審判決は、右の事実を西野の証言に即して認定し、それを裏付けるものとして幾つかの証拠を挙げている。

ところで挙示された各証拠のうち実況見分調書、匕首一振、電話線、電灯線の各切端、警察庁技官大久保柔彦作成の鑑定書、警察技官佐尾山明作成の鑑定書、によつていずれも昭和二八年一一月五日午前七時五〇分から午前一一時五〇分までの間に実施された実況見分の時点において、三枝方屋根上にある電話線、電灯線が何者かによつて切断されていたこと、右匕首が三枝方新館コンクリート壁のところに遺留されていたこと、を認めることができるものの、これらの各証拠はいずれも、茂子と本件犯行の結び付きを証するものではない。

証人櫛淵泰次、同石井雅次、同四宮忠正、同坂尾安一らの各証言は、本件発生日の午前六時ころまで三枝方の電気が消えていたこと、四国電力徳島営業所係員の坂尾らが事件の朝五時五〇分に石井からの修理申込を受け、午前六時過ぎ頃現場に赴き、三枝方配電盤の蓋を閉じると直ちに点灯したこと、警察官櫛淵泰次は午前六時三〇分頃現場に到着したが、その頃電気は消えていたこと、同警察官は西野の案内で屋上の切断箇所を確認して切口を切断領置したこと、を立証しているものであるが、これらも、茂子と本件犯行の結び付きを証するものではない。

証人新開鶴吉の証言は、「茂子が病院へ出かけたのち、五分位して西野清が寝巻のまま工事場二階へ上ろうとしていたので危いと注意したことがある」というのに過ぎず、西野が如何なる目的で上ろうとしていたとか、茂子と本件犯行との結び付きを証するものではない。

証人喜田理の証言は、西野が身柄釈放され保護観察処分に付されての帰り道に、中学時代の教師であつた同証人に対し、西野が電線切断のことを話すのを聞いたというものであり、証人石川幸男の証言は、証人阿部幸市の証言とも同様の性質のもので、西野が電線を切断したというのを聞いたというもので、いずれも伝聞証言であるところ、石川幸男は、判決確定後、右証言が偽証である旨告白するに至つた(昭三三・九・一二付、昭三四・二・五付法(安友竹一))。

証人堤藤子の証言は、茂子が、同じくラジオ商である堤方の窃盗被害に暗示を得て本件犯行に至つたものである証拠として第一審判決が掲げているものであるが、茂子犯人の前提に立つてのみ意味を持ち得る証拠に過ぎず、勿論、茂子と本件犯行の結び付きを証するものではない。第二審判決も同証人の証言は証拠として挙げてはいない。

電灯線、電話線の切断に関し、確定判決が挙示する証拠は以上に尽きる。

以上の第一、二審判決の証拠構造を見るとき、結局、電線切断と茂子とを結び付けるものは、西野清の供述であり、又、それに尽きるものであることが明らかである。

そこで、項をあらため西野供述の信憑性につき検討する。

(二) 西野供述の信憑性

(1) 茂子よりの切断の依頼

第二審判決の認定によると、茂子は阿部が出かけた後、西野に匕首を渡して「これで電灯線、電話線を切つてくれ」と依頼した、とされている。

ところで、西野の公判証言によると、右依頼の内容については、「茂子より匕首を渡され、これで電灯線、電話線を切つてくれ、と言われたが、どこの線を切つてくれ、とはいわれませんでした、下では切るといつても切る所はないので屋根へ上りました」(第一審二回、一一回公判)というものである。

しかし、同人が初めて茂子から偽装工作のため、電話線、電灯線の切断を依頼された旨供述した昭二九・七・二一検(前記〈6〉調書)においては、「茂子は自分に屋根へ上つて電灯線と電話線を切つてくれと頼んだ」と述べており、昭二九・七・二三検(〈8〉調書)、昭二九・七・二四検(〈11〉調書)、においても同様の供述をしている。特に、右昭二九・七・二一検においては、「茂子が入院するとき、蒲団を持つて追いかけ、茂子に電話線だけ切つたというと、茂子は、『早く出来るだけ根元から電灯線を屋根の上で切つておけ』と依頼された」旨具体的に供述しており、かような捜査段階の供述と前記公判証言とは、茂子の依頼した内容について顕著な相違を示している。

第二審判決は、茂子の依頼内容に関する西野供述の食い違いについて触れ「この点は両者いずれが真実かにわかに断定し難いが、公判供述のように切断箇所を指示されなかつたとしても、切断の目的の如何、室内電話機の傍に居ながら切断用具を手渡し、切断を命ぜられていることから賊の侵入を装うため屋外で切断せよとの意なることは西野としても容易に判断し得るところであるから、屋上引込口を選んだことはしかく不可解とするに当らない」(第二審判決第三の一の(四)の(ヘ))としている。

しかし、日の出前の暗闇の時間に、あえて危険を犯して屋根上に上り、電線を切断するというのであるから、真実、電線の切断を依頼されたのであれば、切断箇所についても何らかの指示があつた筈と考えられるし、又、西野が自らの判断で屋根上の電線を切断したものであれば、その動機において、何らかの特段の事情が存在したものと考えるのが合理的であるが、同人の公判証言は、これらの疑問については何ら答えるところがなく、特に第二審における弁護人の尋問に対しては、沈黙していることが多い。

元々、茂子が亀三郎を殺害したあとで電線を切断する依頼をした、ということ自体、その直前茂子が阿部に「泥棒が入つたから警察に電話するよう頼んでくれ」と叫び、阿部が怒鳴つて田中佐吉方に頼んだ、という第二審判決自ら認定した事実とは両立し難い関係にある。すなわち、偽装工作のため電線切断が必要だと考えた判断と、右切断はおろか、切断依頼も未だしてない時期に警察に通報し警察官の到着を早めるという判断が同一人の中に共存することは通常ありえないからである。

さらに、三枝電機商会には、電線を切断するための道具は、他にいくらでもある筈なのに、わざわざ匕首を西野に渡し、その匕首で電線を切断するように依頼したというのも奇妙であるし、又、未成年で雇つてから未だ一年にも満たない西野に対し、犯跡の偽装工作を依頼するのも、甚だ不自然に考えられる。

これらの点につき、第二審判決は、かようなことが「常識上考え得られるところであろうか、むしろ極秘のうちに敢行し得た後にわざわざ証拠を残す行為ではないか、配電盤の蓋を既に開放しているならそれで十分ではないのか、かかる疑問が一応西野の供述に対して生ずるであろう」としながらも、「わざわざ証跡を残す行為である半面、犯罪者の心理としては協力者を得ることの安堵感、その秘匿上の便も考え得る」し、「相手は少年であり、自家の雇い人であるということは、右の目的には恰好の関係にあることも考うべきである」上に、さらに又「西野、阿部等は被告人が犯後四畳半から新館裏側に出たとき被告人が自分等を見たのに何も声をかけなかつたと述べており、然りとすれば被告人は予期に反し西野、阿部にその行動を発見されたことを知りこれを両者間に秘匿する一方としてその犯行後の処理に協力さすことも容易に考え及ぶことではなかろうか」(以上、第二審判決第三の一の(四)(ヘ))としている。

しかし、第二審判決の認定並びに説示するところによると、茂子は、「犯行中等に点灯されることを妨げるため」、わざわざ配電盤の蓋を開き(同第二の一の(三)(イ))、或いは、「犯人の逃走を偽装するため」わざわざ四畳半の間の障子、ガラス戸を開放した上(同第三の一の(四)(ト))、亀三郎殺害の目的を遂げたというのであるから、右のような認定を前提とする限り茂子は、亀三郎殺害後、犯行現場の四畳半の間において外部犯人の偽装を更に念入りに行うことは考えられても、茂子が新館裏側へ足を運ぶ必然性はなく(この点、茂子は外部犯人を追つて新館裏側まで行つた旨一貫して供述している。後述)、強いて言うならば、外部犯人の追跡を装うことにより自己の犯行を偽装するためであつた、とでも言うほかはないであろう。そうすると、西野、阿部に見られたから狼狽したとするのは、第二審判決の認定それ自体の中に存在する論理矛盾であるというほかはない。

してみると、茂子より電話線電灯線切断の依頼を受けたとする西野供述は、当該供述自体の中に重要な変遷推移があり、弁護人の反対尋問の吟味にも沈黙し、到底これに耐え得たものとみるには至難であり、元々、その供述内容自体、論理法則・経験法則に合致しない部分を多く含んでおり、その信憑性には多分の疑問があつたものと見ざるを得ない。

而して、西野は、当請求審において第一、二審の電灯線、電話線切断の証言は偽証である旨告白しており、右告白は、本件他の証拠とも矛盾するところがないから第一、二審の公判証言は虚偽のものであるといわざるを得ない。

(2) 切断の時期=二度切断

第二審判決の認定によると、西野が電話線を切断したのは、大道へ行く前であり、電灯線を切断したのは大道から帰つて洗面を終つてからである。そうすると、西野は、大道へ行く途中両国橋派出所に届けた午前五時二五分頃(証人森本恒男の第一審五回公判における証言)以前に電話線を切断していることになるので事件発生推定時刻である午前五時一〇分から最大限見積つても約一五分間の間に電話線の切断を完了したことになる。実際には、茂子の依頼により、西野らが田中佐吉方に警察に電話するよう頼み、右田中の電話連絡により東警察署から両国橋派出所へ電話があつたのが午前五時二〇分であつた(前記森本恒男証言)のであるから、西野が電話線切断に要する時間は更に僅少なものとならざるを得ず、そのような僅かの時間内に、茂子から匕首を受取り、三枝方屋根上に上り、暗闇の中で電話線を切断したあと匕首を茂子に返す、などということができるものか極めて疑問である。

ところで認定によると、四国電力徳島営業所係員の坂尾安一が配電盤の蓋を閉じて点灯したのは午前六時頃であり、その後、西野の電灯線切断により消灯したのであるが、西野が右切断して直ちに申告、案内した櫛淵巡査は、午前六時三〇分頃現場に到着したが、そのとき三枝方の電灯はついていなかつた(証人櫛淵泰次の第一審三回公判証言二八八丁)というのであるから、第二審判決の認定からすると、電灯線切断は、午前六時頃から六時三〇分頃の間になされたということになるのであろう。右の事実認定を前提として、犯行後の電話線と電灯線の別々の機会における切断(いわゆる事後切断、二度切断)について考察する。

イ ところで、同じ屋上にある電話線と電灯線とが、しかも後述のとおり同じような方法で切断されていたものであるから、これらが全く別々の機会に切断されたというのはそれ自体如何にも不自然のように考えられる。

西野のこの点に関する供述を見てみると、

昭二九・七・二一検(〈6〉調書)

「大道へ行く前電話線を切つた。電灯線は、又、後で要るかも知れないと思い気が進まなかつたし、又、電灯線は看板の裏手にあるので後で切断しても表側や裏側から人に見付けられるおそれが殆どないと思つたが、電話線は看板のすぐ上にあつて、暗い内に切つておかなくては人に見付けられるおそれがあつたのですぐ電話線だけ切つた。」

昭二九・七・二一検(〈7〉調書)、昭二九・七・二三検(〈8〉調書)

「電話線は切つていない。電灯線は切つた。」

昭二九・七・二四検(〈11〉調書)

「電話線も電灯線も切つた。切つた時期はいずれも大道から帰つてから後。茂子は単に電灯線の切断を頼んだだけだが自分の判断で電話線も切つた。次で電灯線を切ろうとしかけたがニツパーでは仲々切れなかつたので機会があれば切ろうと思つて下へ降りた。その後、茂子が入院して後ペンチで切つた。」

昭二九・八・二検(〈17〉調書)

「電話線は切つていない。」

昭二九・八・五検(〈19〉調書)

「電話線も電灯線も切つた。一緒に切らなかつたのは、電灯線は下に明りが要る時困るだろうと思つて、少し夜が明けてから切ろうと思つた。」

昭二九・八・五検(〈21〉調書)

「電灯線は又後で要るかも知れないと思つて切らなかつた。」

昭二九・八・一〇裁(〈25〉調書)

「(電灯線は)後で要ると思いましたし、暗かつたので医者が来て困ると思つたからです。明るくなつてから切ろうという心算でした。」

第一審二回公判

「電灯線は匕首では切れないのでもう一度上つて切るつもりでした。」

第一審一一回公判

「電灯線は余り線が太かつたので刃物は当てずに線を見ただけで切るのをやめました。」

第二審三回公判

「匕首では電話線がやつと切れた位だから電灯線は切れないと思つてやめたのです。」

と変遷している。

西野が、ほゞ同一場所にある電話線と電灯線をわざわざ別々の機会に切断した理由は、捜査段階においては、「電灯線は後で要るから」「電話線は暗い内に切らないと人に見付かるが電灯線はそうではないから」「電話線はニツパーで切つたが電灯線は仲々切れなかつたから」「電灯線は下に明りがないと困るから」「暗かつたので医者が来て困ると思つたから」と変化し、公判段階では「電灯線は匕首では切れないから」と更に変化して来ている。

しかし、西野が、あえて茂子の指示に反してまで別々の機会に切断しようと思つた理由として述べる事実は、一つ一つ検討しても到底人を納得させるに足りる内容を含んではいない。「電灯線は後で要るからと思つた」と言うが電話線を切る時にはそう思わなかつたのか、大体、そのような指示を受けてわざわざ屋根上まで上つた人間がそのようなことを考えるものであろうか、「電話線は暗いうちに切らないと人に見つかるが電灯線はそうではない」というが、明るくなれば人も多く集まるし、より目立つことになることは誰にも明らかなことである。「電灯線はニツパーでは仲々切れなかつた」というが、ニツパーで簡単に切断できる筈である。そして、公判段階に至り「匕首では電灯線を切れないから」と証言するに至つたが、現に西野は、同じ公判証言において、電灯線を「ナイフで切込みをつけ、ペンチで一方をはさんで折り曲げる」というナイフを主体にした複雑な切断方法をとつた旨供述し第二審判決もそのように認定している。

結局、西野供述からは同人があえて二度の機会に分けて電話線と電灯線を切断したとする納得の行く根拠は発見し難く、後述の客観的証拠、すなわち、旧証拠中の徳島電話局長回答(九五二丁)による故障判明時刻は午前五時五〇分である(即ちそれ以前に電話線は切断されていなければならない)とする証拠と、坂尾による点灯は午前六時頃(即ち、電灯線切断はそれ以後でなければならないと村上検事は断定した)であることから、電話線と電灯線とはどうしても別々の機会における切断でなければならず、西野証言は、この捜査上の要請の忠実な反映以上のものと見ることは至難である。

ロ 次に電灯線切断の時期に関する西野供述と他の証拠との符合関係について検討する。

西野の公判証言(第一審二回公判)によると、電灯線切断、警察官への申告、案内の状況は、「電灯線を切断してから、前に上つて行つた所を通つて下り、店に入つてそこにいた警察の私服の人に『電線が切れとるでよ』と知らせ、警察の人が『どこで切れとんな』というので案内して又、屋根の上に上り、そこだといつて切れている所を教えました。私が線を継ごうとすると、警察の人は証拠になるから置いとけ、そのペンチを貸せ、というので持つていたペンチを渡しておいて屋根から下り店へ帰りました。現場へ警察官を案内したのは先方からではなく私から先に言いました」というものである。

ところで、西野から切断の申告を受け現場へ案内された櫛淵泰次の第一審三回公判証言によると、

村上検察官

それはどんな事情の下に行つたのか。(二八八丁表)

………現場へ到着したのは午前六時半頃でした。

……………

証人が行つたとき三枝方の店の間とか四畳半の間に電灯が点じていたか。(二八九丁表)

電灯はついていませんでした。

……………

現場で証人は鑑識係としてどんな事をしたか。(二九〇丁裏)

先ず部屋の東側に置いてあつた茶箪笥のようなものから指紋の検出を始めました。…………次に部屋の中に懐中電灯が一本あつたのでそれについても指紋を調べました。

……………

それからどうしたか。(二九一丁表)

私が指紋の検出をしている時に、電灯線電話線が切られているという事を話しているのが聞えましたので、私は、その現場をそのままにしておけ、見に行くからといいました。

それは誰にそう命じたのか。

誰に命じたともはつきり判りませんでした。

それで電灯線についてどのように処置したか。

室内の指紋を検出したがよい指紋が出ませんので電灯線を切られている現場へ案内して貰いました。

誰に案内して貰つたのか。

確か三枝方の店員の西野であつたと思います。

それは証人が先に案内して呉れといつたのか又は西野が進んで電灯線、電話線が切れているといつて案内したのか。

私が案内してくれといいました。

……………

弁護人

電話線、電灯線が切れているという事は証人は誰から聞いたのか。(二九七丁表)

誰からであつたか判りません。

……………

証人はその西野だと思う男を指して案内せよといつたのか。

そうではありません。案内してくれといつたら西野と思われる店員が案内したのです。

と証言している。

右櫛淵巡査は、午前六時三〇分頃現場到着し、四畳半の指紋検出を終えてから西野の案内により屋根上に上つたというのであるから、その公判証言だけからしても、同人の電灯線切断確認時刻は、午前六時三〇分より相当の時間が経過した後であることが明らかである。

ところで、櫛淵泰次の昭三四・四・二七検(一偽1)によると、同人は「西野に切断箇所へ案内されたのは現場に着いて一時間位経つていたので午前七時半頃ではないかと思う。」旨述べており、又、昭三四・九・九(一検審)によると、その時刻は午前七時三〇分頃か八時頃と思う旨述べ、昭三五・四・四検(一偽1)では、「現場に到着して指紋検出の途中、電灯線が切れている、と声がしたが誰の声だか分らなかつた。約二時間後、和田警部補が来て、同警部補と共に指紋検出を終えた後、村上巡査と共に切断状況を確認した。」というのであるが、和田警部補が現場に到着したのは午前九時一五分頃(証人和田福由の第一審三回公判証言)であるから、切断確認時刻は、さらにそれから後ということにならざるをえない。

いずれにせよ、第二審判決が認定したような、西野が電灯線を切断してのち、「直ちに」(同判決第二の一の(二))、しかも「外部からの侵入犯人の切断なることを逸早く申告する意図で」(同第三の一の(四)(ヘ))現場に居た警察官に申告し案内したという認定は、右櫛淵証言と西野証言を比較対照するだけでも容易にはこれを肯認し難く、新証拠である櫛淵の供述調書を加味すれば、更に大きく食違う関係にある。又、西野と櫛淵の証言相互は、単に切断確認時期についてだけでなく、西野の申告した際の状況、案内の状況いずれについても食違つており、旧証拠それ自体の評価からしても、その信憑性には疑問があつたと言わなければならない。

ハ 以上のとおり、西野の電話線、電灯線切断の時期に関する供述も重要な部分において変遷推移し、その内容自体不自然であり、他の証拠との符合関係についても食違いがあり、その信憑性は極めて薄いものであることが明らかである。

(3) 切断方法に関する西野供述

西野の電話線電灯線の切断方法に関する供述は、変化、動揺、矛盾を極めている。

イ まず、電話線の切断についてみると、

昭二九・七・二一検(〈6〉調書)

ニツパーであつたかペンチであつたかとにかく一丁持つて外へ出、ニツパーかペンチで切つた。

昭二九・七・二一検(〈7〉調書)

電話線の切断自体を否定。

昭二九・七・二三検(〈8〉調書)

切断自体を否定。

昭二九・七・二四検(〈11〉調書)

ニツパーで切断。

昭二九・七・二六検(〈13〉調書)

実は茂子から渡された匕首で切断。

昭二九・七・三一事(〈15〉調書)

匕首で切断。

昭二九・八・二検(〈17〉調書)

電話線は絶対に切つてはいないと切断自体を否定。

昭二九・八・三検(〈19〉調書)

匕首で切断。

昭二九・八・四検(〈20〉調書)、昭二九・八・五検(〈21〉調書)、昭二九・八・一〇裁(〈25〉調書)

匕首で切断。

という風に変化し、公判証言では、茂子から渡された匕首で切断した旨供述した。

ロ 次に、電灯線の切断方法についてみると、

昭二九・七・二一検(〈6〉調書)

ニツパーかペンチで切断。

昭二九・七・二一検(〈7〉調書)

ペンチで切断。

昭二九・七・二三検(〈8〉〈9〉調書)

確かペンチで切断。

昭二九・七・二四検(〈11〉調書)

ニツパーでは仲々切れないので後刻ペンチで切断。

昭二九・七・二六検(〈13〉調書)

ペンチとニツパーを一丁宛持つて上り、ペンチだけを使つたように思う。

昭二九・七・三一事(〈15〉調書)

ペンチで切つたように思う。

昭二九・八・二検(〈17〉調書)

切断は認めるが手段の記載なし。

昭二九・八・三検(〈19〉調書)

ペンチで捻じ切つた。

昭二九・八・四検(〈20〉調書)

ペンチで切断(ペンチで電線を力一杯はさんで握りしめ、二、三回最後にねじるようにすると中の銅線が切れたような手応えがしたので………と詳細に切断方法を展開する)。

昭二九・八・五検(〈21〉調書)

ペンチで切断。

昭二九・八・一〇裁(〈25〉調書)

ペンチで切断(詳細に切断方法を展開している)。

昭二九・九・一検証調書(検察官村上善美)(一三二九丁以下)

ペンチで切断。検証調書添付写真二七、二八は、三枝方屋根上で西野がペンチを用いて電灯線を切断した際の状況を再現した実演をしている写真がある。

昭二九・九・三検(〈34〉調書)

ナイフで切り込みぐるつとナイフを廻し、ペンチと手で折曲げて切断。

昭二九・九・三審判調書(審判官高木積夫)(徳島家裁)(西野清の少年事件記録)

ペンチで切断。

という風に変化し、公判証言では、前記昭二九・九・三検のとおり、「(電灯線は)、その線を一本右手で握り左手で持つていたナイフで線の被覆を切り込むようにして切り、次でペンチを持つてその切込んだ処を挾んで折り曲げてその電灯線を切りました」と第一審二回公判で証言したが、第二審三回、九回各公判では「ペンチで切つた」ととれる趣旨の証言をし、公判段階においてすらも一貫しているとは言い難い。

ハ ところで、電灯線電話線の切断方法については、動かし難いと考えられる客観的証拠がある。第一審で取調べた、科学捜査研究所大久保柔彦技官作成の鑑定書(昭二九・九・一一付)(三三三丁)によると、「電話線と電灯線は、いずれもナイフ状工具によつて切込みを与えたのち繰返し曲げを与えて切断したものであり、いずれも切断面の観測においてペンチ又はペンチ様工具を使用した切断痕はなく、ペンチ又はペンチ様工具を使用したものではない」との結論が得られている。右鑑定書によると、大久保技官は昭和二九年八月三〇日に鑑定を終了し、同年九月一一日鑑定書を作成したものであることが明らかである。

右西野の電灯線の切断方法に関する供述は昭二九・九・一検証調書に至るまで動揺がありながらも「ペンチで切断」と固まりつつあり、右検証期日においてはペンチで電灯線を切断する様子を写真撮影までしたものであつたところ、九月三日に至つて突如として、ナイフで切込み、ペンチと手ではさんで折り曲げた、という異常な切断方法を供述し始めたのであり、しかも、同じ日の家裁での審判では、尚、「ペンチで切断」と供述しているのであるから、同人の九月三日における供述は聴取する機関の如何により全く不可解な分裂状態を呈しているというほかはなく、同一時期における同一人間の正常なる行動とは到底理解し難いところである。

かような点と、本件の他の諸点にも表われた事情を加味して考えると、昭和二九年九月三日における西野の突然の供述変更は、前記大久保鑑定書の結果を知つた捜査官が、電灯線の切断痕がペンチ状工具によるものでない以上、西野がペンチ以外のナイフ状工具で切込みを与えたことにせざるを得ないため、同人を誘導若しくは強制し、西野がこれに迎合してその意のままに作成されたものと合理的に推認する余地がある。

そして、このことは、右のようにして作成された検面調書に依拠して西野を尋問し、西野がこれに答えた同人の公判証言の信憑性をも決定的に傷つける結果になることは明らかである。

(三) 事後切断、二度切断の不自然性と新旧証拠の総合的考察

(1) 茂子が、亀三郎殺害の目的を遂げて後、西野に電話線、電灯線の切断を依頼し、西野がこれを実行した(いわゆる事後切断)、或いは、西野は電話線を大道へ行く前に匕首で、電灯線を大道から帰つてのちナイフとペンチで切断した(いわゆる二度切断)旨の西野証言は、以上見て来たことからしても容易に信用し難いところであり、又、右の事柄自体如何にも不自然であり経験則上容易には是認し難いとこである。

しかし、同人が何故かような証言をするに至つたのか、

他の証拠とも合わせて検討する。

この点に関する旧証拠のうち客観的に見て動かし難いと考えられるものは、

(イ) 徳島電話局長作成徳島地検宛昭二九・七・一二付「電話故障判明時刻等についての回答」(九五二丁)によると、「加入者不出判明時刻午前五時五〇分、試験時刻午前六時〇二分、修理完了時刻午前一一時一五分」であるから、電話線切断は午前五時五〇分以前になされている。

(ロ) 四国電力徳島営業所係員坂尾安一により配電盤の蓋が閉められ点灯したのは午前六時頃である(証人坂尾安一の第一審四回公判証言、昭二九年押第一三四号の一五故障受付簿中の記載)。従つて、この時点では、三枝方電灯線の回路はつながつていた。

(ハ) 午前七時五〇分から開始された実況見分の際の電灯線の状況は同調査添付第九号写真のようなものである(一四八丁以下)。

(ニ) 電話線、電灯線は、共にナイフ様工具によつて切込みを与えられたのち、繰返し曲げを与えて切断されたものであり、ペンチ様工具を使用したものではない(前記大久保柔彦鑑定書)(三三三丁)。

の四点である。

村上検事は、(イ)の事実から電話線切断は、午前五時五〇分以前であり、(ロ)の事実から電灯線切断は「ここに電灯線の切断は事後切断である事が確定的となるに至つた」と想定し断定している(同検事作成「捜査の経過」一偽1)。

西野の供述は、この村上想定の動揺と断定の狭間をその変化に応じて忠実に推移している。例えば、

昭二九・七・二四検(〈11〉調書)においては、電話線切断は、大道から帰つてからであると突如として供述し、時間の推移を細かく述べて、午前五時五二、三分頃には電話線を切断したと思う等とわざわざ詳しく述べているのも電話線故障判明時刻までには、大道から帰つた西野が電話線を切断しうることを強調したものであるが、右供述は二日後の昭二九・七・二六調書で、電話線切断は大道へ行く前とあつさり変更されている、という風に。

そして、二度切断と事後切断の骨格を形成したものは、実に右(イ)(ロ)の各事実であり、右二つの事実から村上検事の想定が定まり、右想定に忠実に西野供述が構成され、右西野供述に沿つて第一、二審において事実が認定されたわけである。

(2) ところで、西野は事件直後の取調に対し、電灯線は早い時期に修理したものである旨供述し(昭二八・一一・五員、同一一・二六検、昭二九・七・五検)、阿部の供述もこれに照応していた(昭二八・一一・二七員)。西野が偽証告白してのち、同人は、電灯線を切断したものではなく、自ら修理したものであるとする点で一貫している(例えば、昭三三・一〇・一〇法、昭三四・二・一付手記、昭三四・二・一検審、当請求審証言など)。

昭三三・一〇・一〇法(安友竹一)(法務省)によると、「(要旨)大道から帰つて来て、しばらくして阿部が医者を連れて来た。茂子から電気がつかないと言われ、スイツチを調べたが異常がなく、配線を調べるため屋根上に上つてみると、電灯線が一本切断されていたので一旦下に降りて警察官に告げたところ、「切断個所を動かさないようにして別の線を持つて行つて補修するよう指示されたので、店にあつた電線の切れ端を持つて上りブリツジ状につないだ。それから病院へ行つたり七輪を買いに行つたりした。」というものである。

これに対応して、武内一孝の第一審五回公判証言によると、

藤掛検察官

被告人が病院へ出かける前後に三枝方の電灯がついたか。(五四五丁裏)

茂子が病院へ行つて後時間ははつきり判りませんが電灯のついた事を確認しました。

証人が何をしている時に電灯がついたか。

私が現場保存のため座敷に居る時ではなかつたかと思います。

……………

何故電灯がついたと思つたか。(五四六丁表)

いゝ遅れましたが医者が来る前後に店員が絶えずその座敷を行つたり来たりしていたので、私がその店員に電線は何処が切れているのかと聞きますと、何処か判らんが切れている所が判ればつないでも構わぬかといつたので真暗では仕方がないからつなげと言つておきました。それで私は店員が修理したと思いました。

その様な事があつたのは医者の来る前か後か。

医者の来る前であります。

その店員は誰か。

西野清であります。

と証言しており、同人の昭二九・七・二八検(不1)においても「(要旨)斎藤病院の医師が死体を見ている時、店員の西野が死体のある部屋へ電池で照らし乍ら出たり入つたりして電線の切れているところを探している様だつた。西野に何処が切れているのかと尋ねると、判らん、今探しているが切れていたら継ないでもよいかと言うので、私は暗いから継がねばいかんなあーと言つた。そのうち部屋が点灯した。点灯したのは、西野があちこち切れているのではないかと言うので探していた時より間もなくの事だつた。点灯して一寸した頃、西野が死体現場の部屋を通りかかつたので、何処が切れとつたかと聞くと、前の外が切れていたと言つていた。その後、匕首が発見された。」と同旨のことを供述している。

武内一孝の供述は、西野の事件直後の供述、偽証告白の供述と合致している。

ところで右西野の供述から窺えることは、同人は電灯線を補修したとは言つても、切断された本来の電灯線の切断部分はそのままにし、別の線を用いて別紙図面(七)の如くブリツジ状に補修したと述べていることである。この点、偽証告白後の西野供述の中には、「まず残つた部分の端の被覆の箇所を両方ともナイフで削り取り、その部分の線を裸にし、補修のため持つて上つた長さ二尺位の一・六センチメートルの電灯線の両端の被覆の部分も元の線と同様ナイフで削りとり裸にし、それを元の線の裸の部分に夫々ねじつけてつなぎ合わせました。そのとき警察官が、電気がついたら良いのだと言つておりましたので、私はごく簡単につないだのであります。」(昭三四・九・二供述調書・一検審)と、補修用電線の両端を、配線の各切断箇所とねじり合わせた旨供述し、補修方法についての供述が必らずしも一貫しているとは言えず、当請求審においても、

伊多波弁護人

その時の、あなたのテープを見てみますと修理の方法ですけれども、それは、電線をじかに巻いたんだ、というようなことも言つておるようなんですが、まず原田先生にそういうふうにいうたことは覚えておりますか。

それは、いうておると思います。

それは、今の記憶ではどんなんですか。電線をどういうふうにつないだのか。

それは、今でも電線をねじつたと思つております。

電線をねじつたというのは、切れておる電線どうしをねじり合わした。

別の線を持つて行つておるかもわからんのです。

別の線を持つて行つてねじり合わしたかどうかは別として、どちらにしてもその電線をねじり合わしたと。

はい。

法務局で調査を受けたりしたころ、昭和三三年ころには、別の電線を持つて行つて、補修したと言つておるようですけれども、そうだつたかもわからない。

その時のほうが正しいと思います。今よりはね。

と述べ、電灯線を補修したことは間違いないが、その方法については、多分に記憶の不鮮明なことを卒直に認めている。しかし、偽証告白直後の供述である昭三三・一〇・一〇法、の内容は、ブリツジ型に補修した旨図面を付して供述しているところであり(別紙図面(七)参照)、しかも、「補修するにつき、予め巡査から切断箇所を触れないよう指示を受けていたので図示の如く継いだ」旨注釈しているところであり、信用性の相当に高いものと認められる。そうすると、本来の電灯線は、依然として切断されたままであることには相違がなく、旧証拠中で警察官の証人らが述べている「切断されていました」との供述は、右の状態を指すものとも合理的に解し得られるところである。元々、犯行直後の捜査においては、外部犯人の犯行という点で捜査官の意見は一致していたこと後述のとおりであり、電灯線の切断状況それ自体に大きな注意が払われていたものと認めることもできないことは、それら警察官の供述からも窺うことができるからである。

(3) 西野により電灯線が早期に補修されていたのではないかと考える上で、客観的証拠が二つ当請求審に上提された。

一つは、科学警察研究所警察庁技官小松崎盛行作成の昭三五・二・二二付鑑定書(一偽1)である。右鑑定書によると、「1鑑定資料の写真(実況見分調書添付第九号写真)………を観察すると、上部切断箇所のところにある線らしきものは明らかに電線と思われる。2電線の連絡は別添写真に示すとおりの結線で前項の電線は引込線の一部であり下部切断線とは連絡している。」と鑑定されている。

右鑑定は、第一次偽証被疑事件につき徳島県警本部より依頼を受け同人が鑑定をしたものであるが、右実況見分調書添付の第九号写真は、既に他の電線によりブリツジ状に補修されていることが認められ、西野の偽証告白の内容とも合致する関係にあつたものといわなければならない。

その二は、当請求審において提出された財団法人日本電気用品試験所研究室長富沢一行作成の鑑定書及び補足説明書である。

右鑑定は、前記大久保鑑定書添付の電灯線切端二ケの写真のうち、刑三号証の(一)の右側端に巻きつけてある線状の物体の性格に関するものであるが、その結果は、「一、刑三号証の(一)の被覆電灯線の右側端に巻きつけてある線状のものは、被覆電灯線の電線とは同等の太さの銅線であり、被覆電灯線の被覆とは別異のものである。二、巻きつけてあるものと接続用被覆電灯線の銅線とは極めて近似のものと推定できるが同一とは断定できない。三、昭二八・一一・五付実況見分調書添付第九号写真において、上碍子と右側碍管との間の電灯線は接続用電線で接続されていて、当該部分に写つているものは影や汚れ、模様等ではないと判断する。四、右写真は、接続前すなわち電灯線を切断したままのものとは思われない。」と述べている。

元々、大久保鑑定書添付写真の刑三号証の(一)の切取り部分の反対側に巻きつけてある線状の物体の性格についてはかねてより疑問のあるところであつた。右巻き付け部分が電灯線を切断領置して後、右のような状態に巻き付けられるとは通常考え難いところであるから、切取り領置前にすでに当該部分に何らかの経緯で銅線が巻き付けられてあつたと考えるのが合理的である。そうすると、切断された本来の電灯線をそのままにして別の線でブリツジ型に両方の線を接続していたところ(西野の偽証告白後の供述、昭三三・一〇・一〇法)、切断部分を切取り領置する際、一方の側につき接続部分の一部を含めて切取つたため刑三号証の(一)に見られるように修理した電線の巻き付き部分がその側端に生ずることになつたのではないかと合理的に推認することができる。もつとも、当該電灯線部分に元々かような古い接続痕が存在した可能性を否定することはできないが稀有のことと考えられ(電話線切端にはそのような巻付き部分はない)、接続修理した後に、切断された電灯線の切り口部分が切断領置された蓋然性の方がはるかに高い。

以上の小松崎鑑定、富沢鑑定と補足説明書を西野の偽証告白後の供述と総合して理解するならば、次のような推定が合理的に成立つであろう。即ち、

(イ) 昭二八・一一・五付実況見分調書添付第九号写真は、接続用電線によりブリツジ状に、切断された電線を接続しているものであること。

(ロ) 第九号写真が撮影される以前に、切断箇所の夫々の切端が切取り領置されていること。その切れ端の長さは一方は一〇センチメートル、他方は六センチメートル(前記大久保鑑定書)である。

(ハ) 右の切取り領置の際、接続用として巻きつけてあつた電線の一部が巻き付いた状態のままで同時に切られていること(刑三号証の(一))

(ニ) 従つて、切取り領置前に既に西野のいうブリツジ状に切断された電灯線が補修されていたことを窺うことができること。

である。

右の事柄を時の順序に従い図解するならば別紙図面(七)のとおりであると考えられる。

(4) 以上のように西野により電灯線が早期に補修されていたとすると、坂尾安一により午前六時頃点灯されたことは不思議でも何でもないことになる。西野が配電盤の蓋を開き、あちこちと切断箇所を探し回つたのち(前記武内証言や供述)屋根上の切断箇所を発見し、別の線で接続し終つて後、駆けつけた坂尾が配電盤の蓋が開いていたので閉じたら点灯した、ということに過ぎないことになる。即ち、坂尾による点灯と、電灯線切断の事実は、旧証拠中の西野、阿部の事件直後の供述と武内一孝の第一審公判証言を重視することによつても充分に両立し得たのである。又、配電盤の蓋が開いていたことも、「被告人が西野をして電灯線を切断せしめる前、犯行直前、故ら配電盤の蓋を開き犯行中等に点灯されることを妨げたものと推定するのが相当であろう」とか、「被告人の兇行中の震動で開いたとも想像し得ぬでもない」とか、「ただ配電盤の下方には陳列台がありその上に上れば容易に配電盤に手が届く状態にあり、右陳列台上には実況見分当時人の上つた形跡は残されていなかつたのであるが、このことは直ちに被告人の開放の事実を否定するものではない」(以上いずれも第二審判決第二の一(三)イ)とかの、あれこれの推定や想像や、裁判上の論理としては余りにも恣意的ともいうべきロジツクを用いた上、あえて茂子の開放の事実を推定するよりも、旧証拠中の右各証拠の総合による前述のような合理的推認により充分に説明することが可能であつたのである。

当請求審で取調べた新証拠により、さらにこれらの関係が明確に裏付けられることになつたものと認めることができる。

(四) 証人石川幸男の証言(第二審判決第二の一の(三)(ハ))

第二審判決は理由第二の一の(三)の(ロ)(ハ)において、西野証言の信憑性を裏付ける証拠として、証人喜田理の第一審一〇回公判証言、同石川幸男の第一審六回公判証言を挙げている。いずれも西野から、電灯線を切つて来いと茂子に言われた等と言うのを聞いたとする伝聞を内容とする証言であるが、喜田証言は西野の釈放直後の供述を聞いたというものであるのに比し、石川証言は、その時期が内部犯人説に基く捜査が始まる前の昭和二九年四月三、四日であり喜田証言と異り証拠価値が高いように見えるので検討しておかなければならない。

この点に関する第二審判決の説示は、「右証人は元被告人方の店員で西野とともに勤務していたことがあり、昭和二九年四月三、四日居村の八幡祭に西野を招待し同月三日西野が訪ねて来たこと、そのときの話の際事件のことをきくと西野は二度目の叫び声で二度目に出て見ると、電灯が消えていて大将が殺されていたこと、それから被告人から電線を切つてこいと言われて切つたことを話したこと、西野は口外するなといつたが自分は冗談と思つていたところその後になり電線のことで西野が逮捕されたことを新聞で知つた旨の供述がある。右証人が西野から聞いたのは前記のように昭和二九年四月三日頃であり当時は未だ被告人は本件容疑者の線上になくもとより西野の電線切断の事実についても捜査当局が何等の知識をも持たなかつた当時であることに照し、西野が自ら電線を切断したと語つた事実は重視されねばならない。」というのである。

そこで、石川幸男の捜査段階における供述を見てみるのに

〈1〉昭二九・七・二八検(湯川和夫)(不1)

西野が今年の四月三日の晩自分方に遊びに来たが、誰が亀三郎を殺したのだろうと話し合つた。西野は別に変つたことを言つてはいなかつた。

〈2〉昭二九・七・三〇員(久米貞夫)(不1)

〈3〉昭二九・七・三一員(同)(不1)

以上〈2〉〈3〉いずれも、公判証言で述べたような内容は含まれてはいない。

〈4〉昭二九・七・三一検(村上善美)(偽2)

昭和二九年四月三日、西野から「奥さんから頼まれて電話線を切つた」というのを聞いたが本日まで隠していた。

〈5〉昭二九・八・二裁(宮崎福二)(一偽2)

昭和二九年四月三日西野から「奥さんから頼まれて僕が線を切つた」と聞いたので、「大変なことではないか」と言うと、西野は「あれは言うなよ」と言つた。

〈6〉昭二九・八・二一検(斎藤降晴)(一偽2)

昭和二七年一一月ころか同二八年一月ころ三枝方店のお勝手で新しい紙箱入りの刺身庖丁を見たが、その後店をやめるまで時々見かけた。同二九年四月三日、西野から「線は奥さんに頼まれて僕が切つたんじや」と言うのを聞いた。

というものであり、当初は否定していたが、昭二九・七・三一検(村上)に至つて初めて公判証言で述べた様な伝聞内容を供述するに至り、昭二九・八・二裁で裁判官に対し供述したとほゞ同旨を第一審六回公判で証言するという過程を辿つている。

この頃、石川幸男の兄石川正治(昭二九・八・二検・一偽2)母石川キクヱ(昭二九・八・二検、昭二九・八・二検・一偽2)、妹石川貞子(昭二九・八・二検・一偽2)も、検察官により集中的に取調を受けている。

ところが、石川幸男は、阿部守良とほゞ同じ時期に公判証言は偽証であつた旨告白するに至つた。証人渡辺倍夫の当請求審証言により、真正に作成されたと認められる昭三三・七・四供述調書によると、

昭三三・七・四供(渡辺倍夫)(一再審)

「本籍 徳島県三好郡三繩村大字漆川字勘内三七五二

現住所 右に同じ

石川幸男

昭和十二年四月三日生

右の者に対し徳島県徳島市北佐古町五丁目十二番地呉服商渡辺倍夫は昭和三十三年七月四日石川幸男自宅に於て任意の供述調書を作成した。

一、私は昭和二十七年四月頃より昭和二十八年七月頃まで徳島市八百屋町三丁目三枝電機商会に就職していましたが、家事都合により右二十八年七月頃に退職し現在自宅で農業に従事しています。

二、三枝のラジオ商殺しの事件について昭和二十九年七月頃と思います検察庁へ呼出しを受け取調べを受けたことがあります。

三、検察庁での取調べの内容は、三枝電機商会店員の西野清が昭和二十九年四月三日居村の春祭に来て話をした事でありまして、その話は春祭に来て泊つた際に、私に「事件の朝電線を切つたのは自分が切つた」と言つた事に対して尋ねられましたが、私は検察庁へ呼出されて聞かれる迄西野が私に話したという記憶は全々ありませんでした。しかし西野が電線を切つた事は新聞を見て知つていました。

四、検察庁で「西野が電線を切つたという事を聞いたであろう」と尋ねられましたが、私は記憶もなく新聞を見て知つていましたが知らないことなので知らないと申しましたが、検事さんが「西野はお前に話しておるのにお前が知らない筈はないだろう」と「と言われましたがその日は知らないとお答え致しました。

五、知らないと答えた為に、取調べを受けたその夜「よく考えてくれ」と検事に言われて徳島市内の旅館で泊められました。

六、第一日目の取調べは午後一時位と思います。それから午後十二時位まで取調べを受けました。

七、第二日目は午前九時位から取調を受けまして、昨日と同じ事を聞かれましたが知らないと答えていましたが、家の事も心配になるし「西野清がいうているのに知らん事はないだろう」と言われましたので、西野清が春祭に来た折電線を切つたと言う事に対し記憶にない事をいつてはいけないと思いましたが、「聞いた」と申上げたなれば帰してくれると思い、「聞いたのでありましよう」と申上げましたら調書を後で読み聞かせてくれたのに「聞いた」と書いてありましたが、その調書に名前を書いて指印か印鑑を押して帰つてもよいと言われ、その後で西野清に合わせてくれましたがお互いに何にも言わず午後五時位に検察庁を出て自宅に帰りました。何も言わなかつたのは西野の嘘に対し腹を立てた為です。

八、その後裁判所で証言しましたが検察庁で二日目に書いてありました通りに申し上げましたが「知らない」と証言すれば又再び検事さんの取調べを受ける事が恐ろしく証言を変えませんでした。

九、尚私は右の事実について現在でも、「西野清が昭和二十九年四月三日春祭に来て電線を切つたという事は聞いていない事」に間違いありません。

昭和三十三年七月四日午後四時五十分

徳島県三好郡三繩村大字漆川字勘内三七五二

石川幸男

右の供述は本人の意志に依るものに相違ありません

昭和三十三年七月四日午後四時五十五分

徳島市北佐古町五ノ一二番地

呉服商 渡辺倍夫」

と言うものであり、その後の人権擁護局、徳島地方法務局の調査に対しても、

昭三三・八・一二法(安友竹一)(法務省)

昭三三・九・一二法(同)(同)

昭三四・二・五法(同)(同)

において、いずれも同旨の偽証告白を維持している(しかし、昭三四・三・二五検(一偽1)では、第一回偽証被疑事件の参考人として偽証告白を撤回する調書をとられている。この点でも西野清と軌を一にしている)。

右のとおりの同人に対する取調過程、偽証告白の過程とその内容と、西野、阿部らに対する捜査と公判証言の関係とを合わせて考察するならば、同人の証言は、検察官に迎合してなされたもので偽証の疑いの濃いものと考えるのが相当である。

(五) まとめ

以上を要するに、本件犯行後、茂子が西野に対して電話線、電灯線の切断を依頼し、西野がこれらを実行した旨の第一、二審の事実認定については、第一に、第一、二審判決の認定及び説示それ自体に経験則、論理法則上首肯し難い疑問の存在すること、第二に、その認定根拠となつた西野供述には、捜査、公判いずれの段階における供述にも看過し難い矛盾動揺が甚だしいこと、第三に、西野自らがこれに沿う第一、二審公判証言は偽証である旨当請求審において証言していること、第四に、西野供述を除いた場合に、他に第一、二審の認定を支えるに足りる証拠は何もないこと、第五に、三枝方屋根上の電話線、電灯線が切断されていたことは事実であるが、西野は自ら電灯線をブリツジ状に修理した旨明瞭に述べ、右事実と第一、二審が事後切断の根拠とした坂尾による午前六時頃の点灯とは旧証拠の範囲においても合理的に説明が可能であること、が指摘されるところであり、第六に、当請求審において、西野の早期補修を裏付ける小松崎鑑定書、富永鑑定書によりさらに右の点が明らかになつた、ということができる。

以上のことから、西野の偽証告白の真実性はもはや疑う余地はなく、同人の第一、二審における電灯線、電話線切断についての証言は虚偽のものであるといわざるを得ない。

3 匕首

(一) 第一、二審判決が認定した事実と証拠

本件発生直後、三枝方新館風呂場焚口附近の壁に立てかけて遺留されていた匕首の、入手経路、その状態、その発見状況について第一、二審判決が認定した事実は次のとおりである。

(a) 昭和二七年頃、佐野辰夫は、自己所有の日本刀を友人の辻本義武に依頼してグラインダーをかけてもらつたり、自分で加工するなどして匕首を作り所持していた。

(b) 昭和二八年三、四月頃、佐野辰夫は、ヒロポン入手のため、右匕首を児玉フジ子を介して篠原保政方に預けた。そのとき、児玉フジ子は右匕首を篠原澄子に渡し、右澄子は篠原イクヱにこれを渡し、ヒロポン一五本を佐野に渡した。

(c) 昭和二八年一〇月下旬、阿部守良は、茂子の依頼により篠原方に赴き、篠原澄子より右匕首を受取つて帰り茂子に渡した。

(d) 昭和二八年一〇月下旬の頃、西野清は、阿部がハトロン紙包みのものを持帰つたのを見た。その日、台所棚の上に置いてあつたので開けてみると長さ一尺位の匕首だつた。同夜小屋で阿部に聞くと、あれは新天地から持帰つたものだと答えた。

(e) 二、三日してのち、阿部はダイヤル糸を茂子に渡し、そのダイヤル糸を右匕首の柄に巻いた。

(f) 茂子が西野に渡して電線を切るよう依頼したのは右匕首である。

(g) 西野は右匕首で電話線を切断後茂子に渡し、茂子は右匕首を新館風呂場焚口附近に放置したが、阿部が発見し警察官に申出た。

以上の事実を認定するに際し、第一、二審判決が挙示する証拠のうち、証人佐野辰夫、同児玉フジ子、同辻本義武の各証言は、結局、前記(a)(b)の事実、すなわち本件匕首が、佐野辰夫→児玉フジ子→篠原保政方へと移動した所持経路を立証するだけであり、佐尾山明作成の鑑定書、大久保柔彦作成の鑑定書、昭二八・一一・五付実況見分調書、は、匕首の遺留された状況やその形状、血痕附着の有無等のことを立証するのに止まつている。

すなわち、佐野辰夫が本件匕首を篠原組に持ち込んだことは間違いないとしても、右匕首が茂子の手に渡り、茂子と本件犯行とを結びつける(c)(d)(e)(f)の各事実を立証する証拠は、結局のところ、阿部証言と、「阿部がハトロン紙の包みを持帰るのを見た。それが匕首だつた。阿部が右匕首を新天地から持つて帰つたと言つていた。」という西野証言だけであり、他には(c)の事実に関する篠原澄子の捜査段階における供述(公判段階においては、同人は捜査段階の供述を否定する証言をしている)があるわけである。

そこで先ず、篠原澄子の供述の信憑性につき検討する。

(二) 篠原澄子の供述の信憑性

篠原澄子は、徳島市内の篠原組組長篠原保政の弟篠原重氏の妻である。

同人の捜査段階における供述調書のうち公判に上程されたものは、昭二九・八・二三検(検察官村上善美)二通(その一、その二)、昭二九・八・二五裁(裁判官矢島好信)の計三通である。

昭二九・八・二三検(その一)(村上善美)(一五九九丁)

私は匕首を担保にヒロポンを貸す取次をしたことがある。昨年四月一、二日か三月末頃、児玉フジ子が階下で呼ぶので下の土間へ降りると、米の通帳と匕首を担保にヒロポンを貸してくれと人に頼まれたといつて風呂敷包みを渡すので、篠原イクヱに対して取り次ぎその風呂敷包みを渡した。イクヱはヒロポン一五本を私に渡してくれ自分はそれを児玉フジ子に渡した。

次に、この匕首をラジオ屋の店員に渡したことがある。昨年一〇月中旬頃の夕方頃、顔の面長な一六、七歳の少年が篠原方に来て、「この間頼んであるもん判りますで」というので、私が何かいなときくと、少年は「姉さんに聞いてみてくれるで」というので、寝ていた姉イクヱに聞くと、イクヱは「うん矢の事じやけんあれ見てあげな」といつて、抽斗にあるといい私に鍵を渡してくれ、抽斗を開けると、ハトロン紙で包んだ匕首があつたのでそれを少年に渡した。

昭二九・八・二三検(その二)(村上善美)(一六〇六丁)

言い残したり間違つている点があるので、更に詳しく申し上げる。

昨年一〇月中旬頃、篠原方で、私の実兄矢野清次が「三枝ラジオ店の若衆が来たら、引出しに入つている匕首を渡してくれ」と頼んだ。それから一週間位後の夕方頃、一六、七歳の少年が来て「ラジオ店からですが」というので、何ですか、と尋ねると、「この間、頼んであるもの貸してくれるで」というので、三枝方から匕首を取りに来たので、寝ていた姉イクヱに対し「姉さん鍵貸してくれるで」といつて鍵を借り引き出しを開けハトロン紙に包んであつた匕首を少年に渡した。

この少年というのは、最前、透視鏡を通じて見せて貰つた阿部という店員に間違いない。

昭二九・八・二五裁(裁判官矢島好信)(一五八八丁)

裁判官

証人は昨年一〇月下旬頃、現住居において年令一六、七歳位の少年に匕首一振を渡したことがあるか。

はつきりしませんが、渡したように思います。

どんないきさつからそれを渡すようになつたか。

私の実兄の矢野セイジから若いしがドスを取りに来たら渡してやつてくれと言われていたので抽斗の中に入れてあつたドスを渡したのです。

そのドスは誰のものか。

セイジさんが時々持つて出ていたものです。

何時頃からその抽斗には入つていたか知つていたか。

その点はつきり知りません。

一六、七歳の少年に渡した時その少年から何か話があつたか。

別に話はありませんでした。

どのようなドスであつたか。

ハトロン紙のような紙に包んであつたものです。

検察官

証人が一昨年二月頃から住んでいたという家は誰の家か。

篠原保政方です。

……………

その一六、七歳の少年はどう言つて入つて来たか。

ここの姉さんの弟さん居りますかと言つて尋ねて来ました。

そして「セイジさんに頼んであつた矢を出してくれませんか」と言つて炊事場の方の東の入口から入つて来ました。

そこで証人はどうしたか。

その時、私は、炊事をしていたのですが、セイジさんからも聞いていたので、炊事場の上の二階で姉さんに「鍵を貸してくれるで」と言つて鍵を受取つて炊事場に下り、その若いしに西の方へ廻つてくれといつてから裏側から二階へ上り、西の部屋の抽斗を開けてそのドスを取り出し階下へ下りて西の入口を入つた土間で一六、七歳の少年に「これをセイジさんに預つていたものだ」と言つて渡しました。

ドスを渡すと、その少年はどうしたか。

「すみません」といつて持つて帰りました。

それは何時頃のことか。

夕方のことで炊事をしていた時です。

……………

その匕首は誰のものか。

佐野辰夫さんのものだと思います。

どうして佐野辰夫のものだと思うのか。

その匕首に佐野辰夫から預つたとき、私がイクヱ姉さんに受次いだので判つています。

その匕首は誰が持つて来たものか。

高木義貴の家内の児玉フジ子という人が持つて来たのです。

児玉はどういつて持つて来たか。

「これでヒロポン一五本程貸してくれないか」と言つて持つて来たのです。

匕首を姉さんに取次いでどうしたか。

フジ子さんにヒロポン一五本を渡しました。

……………

その匕首を渡した少年は顔を見ればわかるか。

顔を見ればわかると思います。

検察庁でその少年を見せてもらつたことがあるか。

鏡に写つた顔を見せて貰いました。

見せて貰つた結果どう思つたか。

ドスを渡した時の子供によく似ていました。

この時、検察官は阿部守良を示した上

この人の顔を見て見覚えがあるか。

あります。

この人が匕首を渡した少年のように思うかどうか。

そう思います。

弁護人

その匕首はどうして佐野のものであることがわかつたか。

この事件があつて警察で聞いてはじめて判つたので少年に渡したときは判りませんでした。

その匕首が黒い風呂敷に包んであつたのがハトロン紙に包み変つたのを知つているか。

どうして包み変つたのか判りません。

すると高木の家内から預つた匕首と一六、七歳の少年に渡した匕首とが同一のものであるかどうかわかるのか。

それはわかりません。

……………

検察官

……………

証人は本年三月頃、徳島簡易裁判所で松田裁判官より証人としてこの匕首のことについて取調べを受けたことがあるか。

あります。

その際、川口算男という人がフジ子さんに頼まれて匕首を持つて来て、それを川口が中身をぬいてみていたと述べているがどうか。

間違いです。川口に渡したというのは嘘であります。その頃、川口が居らないのに居ると思い違いしていたのでそのように申述べたのであつてその供述は間違つています。

ところが、同人は、第一、二審における証人尋問に際しては、捜査段階における供述を全面的に覆えし、本件匕首については一切知らない、阿部に渡したことはない、と証言するに至つた。

その詳細は次のとおりである。

第一審受命裁判官による証人尋問調書(昭三〇・一〇・二七)(受命裁判官桑原勝市)(一五四九丁以下)

受命裁判官

……………

刑第一号証の一、匕首刀身、刑第二号証の二匕首の柄を組合わせた上示す。

証人はこの匕首を知つているか。

知りません。

全然知らないか。

全然知りません。

昭和二八年一〇月頃このような匕首を見た事はないか。

見た事ありません。

証人がこのような匕首を人に渡した事があるという事だがどうか。

全然知りません。

証人は、前に検察官に取調べられた事があるか。

あります。

その際、こんな匕首を人に渡した事があるといつたのではないか。

私は、検察庁へ呼出された時、西野という人に会わされましたが、その時、西野という人がこのねえさんから匕首を受取つたのに間違いないといつたので私も渡したといいました。

何故そんなことをいつたのか。

私は知らんといつたのですが、西野が間違いないというので、検事さんから強く追及されました。その時私はお腹が大きかつたので、体が苦しかつたため、渡してはいないのですが仕方なしに渡したといつたのです。

証人から匕首を受取つたのは西野ではなく阿部ではないか。

私は西野と聞いています。

証人はこのような匕首を受取つた事もないか。

誰からも受取つた事はありません。

渡した相手が西野でなくても、誰かにこのような匕首を渡したことはないか。

渡した事はありません。

村上検察官

証人は昨年八月頃大原という旅館で証人として裁判官の尋問を受けたことがあるか。

あります。

その時証人は、昭和二八年一〇月下旬頃に一六、七歳の少年に匕首を渡したことがあるといつたのではないか。

私は本当は渡していないのですが、それまで検察庁で調べられた時の調書が渡したという事になつているので証人尋問の時にもそのとおりいつたのです。

匕首を渡した事について、矢野清次から若い衆がドスを取りに来たら渡してやつてくれといわれていたので若い衆が取りに来た時、二階の一番西の部屋の違い棚の抽斗の中に入つていた匕首を出して渡したと相当詳しい事情を述べているがどうか。

そういつた事は間違いありませんが、それは私が付け加えてそれようにいつたのですから本当の事ではありません。

そのような事を矢野清次からいわれたのは証人が若い衆に匕首を渡した日から一週間位前であるとも述べているがどうか。

そういいましたが実際はそんな事はありませんでした。

受命裁判官

前にそのように述べているのは全部証人の作つた事か。

そうです。

村上検察官

証人が矢野清次から頼まれた時、ラジオ屋から来る若い衆さんに渡してくれと聞いたように思うが何処のラジオ屋かは聞かなかつたという事も述べているがどうか。

そういつた事は間違いありませんが事実ではありません。

その匕首は証人が児玉フジ子から預つたものだといつているがどうか。

それも私が考えた事です。

児玉フジ子はその匕首を持つて来てこれでヒロポン一五本貸してくれ、といつたのではないか。

そういいましたが嘘をいつたのです。

結局匕首は全然知らないのか。

知りません。

弁護人

児玉フジ子からヒロポンを貸してくれといつて匕首を預つたというような事は証人が作つたのではなく誰かから聞いた事ではないか。

私の作り事です。

前に裁判官の尋問の際述べた事はその前に検察官に対し述べたとおりか。

そうです。

証人は検察官の取調に対し作り事を述べたのか。

私の全然知らない事であるのに西野が私に間違いないというので、仕方なく作り事をいつたのです。(一五五四丁)

……………

さらに、第二審においては、次のように証言している。

第二審証人尋問調書(昭三二・一・二三)

裁判長

……………

冨士茂子という人を知つていますか。又、昭和二八年一一月五日の朝八百屋町の三枝亀三郎が殺された事件を知つていますか。(二四〇〇丁裏)

事件当時はよく知りませんでした。

その事件で検察庁へ呼ばれて調べられたことがありますか。

一回あります。

警察にはどうですか。

警察には呼ばれて行つたことはありませんが、市民病院へ入院していたとき、警察から病院の方へ来て調べられたことがあります。

裁判官が来て調べられたことはどうですか。

一度調べられました。

検察庁では何を調べられたのですか。

三枝の店員が私に矢を貰つたと言つていたということで呼ばれたのです。

それであなたは何と答えたのですか。

私は全然知らんと言つていたのですが、店員と私とが会わされ、その店員がこのねえさんに貰つたことに間違いないと言つたので、私は全然知らなかつたのですが、仕方なく渡したように答えました。

何故知らないものをそのように答えたのですか。

夜の九時、一〇時まで調べられ、私もその当時はお腹が大きくて苦しかつたので、暫く休んだのち仕方なく渡したように答え、調書にもそのように書かれたのですが、本当に渡したことはないのです。

検察庁では何時間ぐらい調べられたのですか。

昼の一一時頃から夜の一〇時頃まで調べられました。

店員というのは阿部守良のことですか。

阿部と言つておりました。

その人はそれまでに見たことのある人でしたか。

全然見たことのない人でした。

阿部は、このねえさんから貰つたことに間違いないと言つていましたか。

はい、そう言つていました。

あなたは本当に匕首のことを知らないのですか。

知りません。

矢野清次という人を知つていますか。

それは私の兄さんです。

その兄さんは事件のあつた頃、時折姉さんの家へ出入していましたか。

ちよいちよい来ておりました。

その兄さんは、三枝方の阿部とか店員のことについて話していませんでしたか。

話していませんでした。

検察庁で匕首を見せられたことはありませんか。

ありません。

児玉フジ子という人を知つていますか。

知つています。

この人にヒロポンを渡したことはありませんか。

ありません。

岡林弁護人

検事に調べられ、同じ日に二通の調書ができているがそういうことがありましたか。

ありました。

その調書の一回目の分には、姉さんに聞いて匕首を渡したと、なつており、二回目の分には、矢野清次に頼まれていたのでそれを渡したと言つているが、どうしてこのように違うことを言つたのですか。

検察庁で長いこと聞かれ、言わないと帰らせないと言われたので出鱈目を言つたのです。

一回目にあなたが述べたことについて検事が姉さんに聞いてみた結果、そんなことはないと姉さんが述べたのでもう一度、検事から聞きなおされたのではありませんか。

そうです。私が嘘を言つていたので調べなおされたのです。

すると、二回目に調べられるまでの間に姉さんが検事に調べられたのですね。

そうです。

裁判官には二回調べられたのではありませんか。

二回だつたか調べられました。(二四〇四丁表)

……………

合田裁判官

清次はあなたよりいくつ年上でしたか。(二四〇五丁裏)

四ツ上でした。

結局あなたは検事が帰さぬというので困つた結果渡してもいないのに匕首を渡したと言つたというのですか。

はい。

検事に対し児玉フジ子から匕首を貰つたと言つたのはどうしてですか。

検察庁へ行つた折、佐野という人が来ていてその人がフジ子が私に渡したのを見ていたと言つたのでそう言つたのです。

佐野とは対質させられたのですか。

そうです。

裁判長

児玉から本当に匕首を受取つたことはないのか。

受取つたことはありません。

合田裁判官

店員と対質させられた折、鏡通しで店員の顔を見せられたのですか。

見せられましたので、知りませんと答えました。

その鏡通しで見せられたのは何時でしたか。

それは初めて会つた時で、それ以外に直接会つたことはありません。

……………

鏡を通して見て、あの人に渡したと言つたのではありませんか。

先程述べたようなわけでそのように言いました。

岡林弁護人

ずつと前に、川口算男という人に渡したと警察か検察庁で調べられた折に言つたことはありませんか。

それは覚えていないのですが…………。

川口算男という人は知つているのですか。

同じ村の人なので知つています。

川口算男が容疑者として調べられていた頃にそう言つた記憶はありませんか。

覚えません。

合田裁判官

ヒロポンを渡したことはないと言つているが、ヒロポンを売る手伝いをしたことはありませんか。

それはあります。

児玉フジ子は現在何処にいますか。

もう長いこと会つていないので、何処にいるか知りません。

裁判長

右証人の尋問について検察官に対し証人尋問の機会を与えた。

右の篠原澄子の供述の推移を見ると、昭二九・八・二三付検は二通あるが、その一とその二とでは、匕首を渡す経緯についても、姉イクヱに教えられて引出しを開けると匕首があつたという供述(その一)が、矢野清次より頼まれていた(その二)という風に変化していて、供述の基本的部分が同じ日に変化しており、昭二九・八・二五裁においては、昭二九・八・二三検(その二)に沿つて供述しているが、右証人尋問の内容からも、同女が川口算男が本件の容疑者として捜査されていた頃は、本件匕首を川口に渡した旨供述していたことが明らかであり、捜査段階の供述自体、動揺の多いものであつたことが明らかである。

そして、本件が起訴されて後の証人尋問においては、第一審でも第二審でも、篠原澄子は、阿部に匕首を渡したことはない旨明白に否定するばかりか捜査段階において何故そのような供述をするに至つたのかについても、その理由を明らかにしているのである。

ところで、篠原澄子は、三枝亀三郎殺害事件の容疑者として川口算男が立件捜査されていた頃、本件匕首に関する参考人として何度も取調べられている。

昭二九・三・四員(川口・1)、昭二九・三・五員(川口・1)、昭二九・三・一四員(川口・1)、昭二九・三・一一検(不3)、昭二九・三・一三裁(不3)、によると、この頃、同女は、本件匕首を川口算男に渡した旨捜査官や裁判官に対して供述していたことが明らかである。

その後、数ヶ月を経て、何故、同女は、匕首の渡した先を川口算男に対して、でなく、一六、七歳のラジオ屋の店員へという重大な変化を遂げるに至つたのか。

この間の事情を、同女は法務省人権擁護局の調査に対し、次のように述べている。即ち、

昭三三・八・一三法(斎藤巌)(法務省)

「検事に対し、又、市民病院入院中、裁判所に対して述べたことは間違いである。私は妊娠中で、初め『冨士茂子や店員は知らない』と言つていたが、検事が阿部に『篠原澄子から矢を貰つて来た』と言わせ、阿部が細かく知つているように言うのでつい嘘を言うようになつた。裁判所に聞かれた時も、子供ができたばかりなので検事に言つたとおり嘘を言つた。」

と述べている。

同女の供述は、第一、二審の時点においても既に分裂し、検察官主張に沿う捜査段階の調書と、これを明白に否定する証人尋問調書とが共存していた。後者の信用性を排斥し、前者のみを採用して事実を認定した第一、二審の証明力評価がさらに検討されなければならない。

(三) 阿部供述の信憑性

阿部の供述の推移については既に詳しく検討した。本件匕首に関する同人の供述を改めて概観すると、阿部は、事件直後の昭和二八年一一月、三回にわたり取調を受けたが、右の各調書には匕首の入手に関する供述は一切存在しない。そして、内部犯人説に的を絞つた徳島地検の捜査により、昭和二九年七月六日より集中的な取調を受けたが、同年八月二一日に至り、はじめて森会から匕首を受取つて来た旨供述し、翌八月二二日には、前日森会からと言つたのは全くの嘘であり、篠原方から受取つて帰つたものである旨訂正している。ところで、阿部が、真実、篠原組から匕首を受取つて来たものであれば、事件発生当日、右匕首を発見し警察官に教えたのは外ならぬ阿部であり、同人の口から何らかの説明がなされているのが通常であろうし、翌年の八月二一日に至るまで、そのことを隠しておく必要も、又、わざわざ森会から受取つて来た、等と虚偽を述べる必要もないと考えられる。元々、同人の身柄拘束の根拠は、外ならぬ「匕首を所持した」、というものであつたから、同人が、真実、匕首に関わりがあつたのであれば、弁解することは幾らでもあつた筈である。それらを昭和二九年八月二一日に至るまで一切供述していないのは、同人がそれを隠していた、とみるより、真実そのような体験が存在しなかつたからではないか、と疑う合理的な理由があるものと考えられる。

ところで、阿部が篠原澄子から真実、匕首を授受したものであれば、両名はまさに同一の体験を共有するわけであるから、右授受の事実に関する供述が大きく食違うことはあり得ない。

しかし、匕首受渡しの際の阿部と澄子とのやりとりは大きく食違つている。

ほゞ同じ時期に供述した両名の供述を比較対照してみると、

阿部の昭二九・八・二二検、昭二九・八・二四裁によると

篠原方を訪れ、澄子と思われる女の人に、三枝方から来たという趣旨だけを述べた。女の人は阿部を入口に待たせておいて二階に上り、うす茶色のハトロン紙包みを手渡した。茂子の依頼も、三枝といえば渡してくれる物がある、というものだつた。

というのであるが、篠原澄子の昭二九・八・二三検(その一)によると、

「この間頼んであつたもん判りますで」、澄子「何かいな」少年「姉さんに聞いてみてくれるで」イクヱ「うん、矢の事じやけんあれ見てあげな」といつて匕首の入れてある場所を指し示し、澄子はその指示に従つて匕首の包みを取り出して少年に渡した。

というのであり、昭二九・八・二三検(その二)によると、

阿部が「ラジオ屋からですが」といつて現われ、澄子に「この間頼んであつたもん貸してくれるで」と言うので、澄子は、矢野清次より頼まれていたので三枝より匕首を受取りに来たと思い匕首を渡した。

というのであり、さらに、昭二九・八・二五裁によると、

阿部「ここの姉さんの弟さんおりますか」「セイジさんに頼んであつた矢を出してくれませんか」と澄子に言い、澄子は矢野清次からの指示に従い、匕首を「これがセイジさんに預つていたもの」と言つて渡すと阿部は「済みません」といつて持帰つた。

というものである。

篠原方における匕首の授受を肯定する澄子の供述調書は以上の三通だけであり、公判段階では同人は、それら調書の内容をも否定する証言を行つていることは既に述べた。

ところで、阿部は、預つて来た物が匕首であることは、後に台所の棚の上に放置してあつたハトロン紙包みを開いてはじめて知つたというのであり、澄子の供述とは大きく食違つている上に、受渡しの際のやり取りも、食違つている。

これらの食違いは、同一の体験を共有し、しかも取調を受けた時期が同一であり、共に捜査に対して協力的な状態における供述であることからすると、看過することのできない食違いであり、果して両名が匕首の授受という体験を共有したのか否かにつき疑問を生じさせるものということができる。

こうして匕首の入手に関する証拠を詳さに検討してみると、篠原澄子の検面調書、裁判官面前調書は、同人自ら第一審において「作り事である」旨証言している上に、右各調書の内容、それまでの同人に対する取調経過をも参酌するならば、容易には信用すべからざるものであつたというほかなく、敢て証言を排斥して採用された右各調書の内容も阿部供述との食違いが大きく、両名の供述だけから、篠原組と三枝方との匕首の授受を認定することには無理があつたものと言わざるをえない。

(四) 新証拠により認められる匕首の捜査経過

新証拠である、昭和二八年一一月付重要遺留品手配書(松山2)、昭二八・一一・一〇付「ラジオ商殺し事件の遺留品手配について」(松山3)、庄野広明の昭二八・一一・二三員(川口2)、森田一夫の昭二八・一二・六員(松山3)、山田晴夫の昭二八・一二・六員(松山3)、大栗博の昭二八・一一・二三員(川口2)、国見トクヱの昭二八・一一・二四員(川口2)、北野初の昭二八・一二・一一員(川口6)、児玉フジ子の昭二九・五・一一事(不3)、昭二九・五・一三事(不3)、昭二九・五・二七員(川口6)、木内宏の昭二九・三・二四員(川口1)、山田富義の昭二九・三・二五員(川口1)、篠原イクヱの昭二九・八・一〇検(不3)、篠原澄子の昭二九・三・四員(川口1)、同三・五員(川口1)、昭二九・三・一一検(不3)、同三・一三裁(不3)、昭二九・八・九付捜索差押許可令状請求書(松山2)、高木義貴の昭二九・八・七検(不3)、森和一の昭二八・一二・一四員(川口6)、同一二・八員(川口2)、昭二九・三・一三員(松山3)、同五・一〇事(川口6)、川口算男の昭二九・八・五検(不1)、中越明の昭二九・五・二四事(川口4)、昭二九・六・一捜査報告書(松山2)、昭二九・八・九捜査報告書(不3)を総合すると、本件匕首の捜査経過につき次のような事情を窺うことができる。

(1) 現場に遺留されていた本件匕首は、事件直後から外部犯人の物として重要な捜査資料とされ、管下警察署、派出所に手配書が配付され、その出所と現場に至る経路が丹念に捜査されていた。

(2) 事件発生後間もない昭和二八年一一月下旬頃から、篠原組の組員やその関係者と本件匕首との関係が巾広く捜査の対象とされた。昭和二八年一一月中に庄野広明、大栗博、国見トクヱ、北野初らは、高木義貴と匕首とが関係があると思う趣旨の供述をしていた。

(3) 木内宏、山田富義らは、川口算男が昭和二九年三月二〇日徳島刑務所の房中で、「殺しに使われた匕首はわしが持つていたが、篠原組に預けてあり、高木がそれを使いよつたように思う」と言つているのを聞いた、と供述し、川口算男は、昭和二九年八月五日、「昭和二八年八月頃、本件匕首に似た匕首を高木義貴に渡した。三枝事件のことは、高木が何もかも知つていると思う」と述べ、右供述により、昭和二九年八月九日高木に対する銃砲刀剣類等所持取締令違反容疑で捜索差押許可令状請求書が提出されている。

(4) 本件発生当時、篠原組に出入りしていた森和一は、「昭和二八年一〇月頃、川口算男が篠原組で本件匕首と類似の匕首を所持しているのを見た、それは刑一号証の匕首と同一物のように思う」と述べ、篠原澄子は、「昭和二八年五月ころ、児玉フジ子から匕首と米麦配給通帳を受取り、それらを川口算男に渡した。その後この匕首のことは知らないが、多分、川口が持つていたと思う」(昭二九・三・四員、同三・五員)と述べている。

(5) 昭和二九年六月一日、本件匕首に関するそれまでの捜査を集約した徳島地検検察事務官大知梅夫、笹山明雄の両名は、三枝亀三郎殺害の犯人は川口算男であり、本件物的証拠である匕首と棒型懐中電気の二つは「其の二つ共完全に連りがあるのであつて被疑者(=川口算男)の犯人である事は此れのみによつて立証することが出来ると思います」との内容の検事正宛報告書を作成している(昭二九・六・一付捜査報告書)(松山2)。

(6) 徳島地検検察事務官丹羽利幸は、内部犯人説に従つた捜査の最中で茂子逮捕の数日前である昭和二九年八月九日本件匕首につき、「匕首の所持は、佐野辰夫→篠原イクヱ→矢野清次→川口算男→高木義貴の順序に移動し、川口から高木へは昭和二八年八月ころ手渡された」旨の捜査報告書を作成し(昭二九・八・九付捜査報告書)(不3)ている。

以上の事実から窺うことができることは、その事柄の厳密なる真実性は勿論断定することはできないにしても、少なくとも、昭和二九年六月の時点においては、本件匕首の最終所持人は川口算男か高木義貴かの何れかであるとの一応の捜査結果が得られていたものであり、その捜査は、内部犯人説に従い、西野を逮捕(昭和二九年七月二一日)して後の同年八月九日の段階においても尚、続けられていたことが明らかである。

そして、その間の捜査の過程で、本件匕首が篠原組から茂子の手に渡つた等という証拠は一切存在していないことが注目に値する。

右の捜査結果から、一転して篠原組→茂子へと匕首の経路を一八〇度転回させたものは、阿部の昭二九・八・二二検(〈二二〉調書)以下の供述であり、篠原澄子の前記三通の調書であつて、又、それだけであつた。そして、阿部は、公判段階においては、捜査当時の供述を維持したものの、篠原澄子は、既に全面的にこれを否定する証言をしていたのである。

(五) 匕首に巻かれた糸

第二審判決第二の一の(二)は、阿部供述を、「(匕首を持つて帰つてから)二、三日位後被告人から丈夫な糸がないかと言われ店の修理箱から古いラジオのダイヤル糸を探し出して渡したこと、しばらくすると被告人から再度呼ばれ台所へ行つて見ると、被告人は右糸を前記匕首の柄に巻いており強くしばつてくれというのでその糸で匕首の柄を強く巻いたことがあること、」と要約し、右匕首の柄に巻いてあつた糸は阿部の巻いたダイヤル糸であると認定している。

しかし、証人川村利男の第一審一〇回公判証言、証人後藤田真太郎の第一審一四回公判証言、昭二九・九・四付警察庁科学捜査研究所作成の鑑定書(一〇〇一丁)によると本件匕首に巻かれていた糸はダイヤル糸としては使用されてはいないものと認めるほかはない。第二審判決は、右の事実を認めつつも、「阿部の供述は右糸はダイヤル糸であると断定しているところもあるがむしろ被告人からダイヤル糸の古いのを取つてくれといわれ、道具箱の中にあつたダイヤル糸と覚しきものを渡したので、ダイヤル糸に相違なかろうと信じていたという趣旨を出ず、従つてその仕入先についての陳述もそれがダイヤル糸でないとすれば矛盾を生ずることとなるがしかく重要視し得ないものである。」(第二審判決第三の一の(四)(ホ))と説示する。

しかし、既に見たとおり、阿部は第一審二回、一二回、第二審四回各公判において、「匕首の柄に巻いた糸はダイヤル糸である」「ラジオの修理にはその糸しか使わない」「茂子からダイヤル糸ないで、と言われたので修理台の中から糸を探し出して渡した」とする趣旨の供述で一貫している。そして、ラジオ商の住込店員である阿部がダイヤル糸とそうでない糸とを間違う筈もなく、又、三枝電機商会のラジオ修理箱の中にダイヤル糸以外の糸が入つていた旨の格別の事情を認める証拠は何もない。従つて、阿部供述によつて右のような事実を認定しておき乍ら、右糸がダイヤル糸ではないという証拠があらわれるや、「ダイヤル糸と覚しきものを渡した」に過ぎず、とする第二審説示は、一種の認定のすり換えであつて、もはやその認定過程それ自体に明白な論理矛盾を抱えるところであつたというほかはなく到底支持し難いところである。

結局、右匕首の柄に巻かれていた糸が、ダイヤル糸として使用されていたものではない、とする右の各証拠(いずれも旧証拠)は、阿部証言と客観的事実との背馳を、既に明瞭に物語るものであつたといわなければならない。

(六) 匕首入手の目的

第二審は、茂子が篠原組より匕首を入手した旨認定したが、何のために茂子がそのようなことをしたかについては、これを認める何らの証拠もないことを卒直に認めている。すなわち、第二審判決第二の二によると、「最後に、当審のように認定した場合しからば被告人は何故匕首を入手したのであろうかとの疑問が残される。この点は、これを確定するに足る証拠は存しない(或は被告人は犯行決意には到らないが当時既に亀三郎と黒島テル子との関係につき懊悩していたこと、被告人の性格の迷信的な点等が匕首入手に関連するかもしれない。又、入手先との知合関係については被告人方の職業、篠原方の電蓄を修理したことがあること、なお、被告人が以前カフエー等を営んでいた職業関係等が考慮されるが結局において入手理由は断定し得ない)。」としているのである。

前述のとおり、本件犯行以前から茂子が篠原組と関わりがあつたと認め得る証拠は何もなく、阿部証言と篠原澄子の捜査段階における調書のみに頼つて篠原組→茂子への匕首の移転を認定した第二審は、肝心の入手目的を認める証拠の説明に窮し、「茂子の迷信的性格」とか、「茂子がカフエーを営んでいたこと」、等までをも、その合理化の理由として考慮の端にのぼせていたことが明らかである。

(七) 証人阿部幸市の証言

第二審判決第二の一の(三)(ニ)は、証人阿部幸市の第一審六回公判証言をもつて、阿部守良の供述の信用性を裏付けるものとする。即ち「右証人は阿部守良の兄であり、昭和二八年一二月末頃弟である阿部守良とともにラジオを聞いているとき、丁度ラジオは本件につき川口某の逮捕を報じており、守良は自分が駅前の方から庖丁らしいものを預つてきたことがあると話していたこと、又同人は釈放された朝、事件のあつた朝被告人が夫婦けんかをしているのを見たといつていたことがある旨供述している。前段の部分はことに前説明と同様事件直後の話であり、前同様重視せらるべきものである。」とするのである。

同人の捜査段階における供述を見てみると、

〈1〉昭二九・八・二五事(丹羽利幸)(不1)

奥さんが怪しいとか川口は真犯人ではないという様な事は守良は全然口にはしていなかつた。

〈2〉昭二九・九・一検(村上善美)(一偽2)

昭和二九年旧正月に守良が帰つた時、ラジオで川口逮捕の報道を聞き、守良は「主人が殺される前に、奥さんから頼まれて庖丁のような刃物を持つて帰つて奥さんに渡したことがある」と言つていた。

〈3〉昭二九・九・一裁(高木積夫)(一偽2)

右同旨。

〈4〉昭二九・九・一〇検(藤掛義孝)(一偽2)

昭和二九年九月六日、守良が釈放されたとき、守良は「実は、事件のあつた朝夫婦喧嘩を見たんじや」と言つていた。又、守良は「わしが篠原という新天地にある家から匕首を持つて帰り、店にあつたダイヤルの糸で匕首の柄を巻いた」と言つていた。

〈5〉昭二九・九・一〇検(藤掛)(一偽2)

省略

と言うものであるが、同人は、阿部守良が偽証告白をしたと同じ日、渡辺倍夫に対し、第一審証言は偽証であつた旨告白するに至つた。当請求審証人渡辺倍夫の証言により、真正に作成されたものと認められる同人の昭三三・七・八付供述調書によると、

〈6〉昭三三・七・八供述調書(渡辺倍夫)(一再審)

「本籍 徳島県名西郡神領村大字石堂五二

現住所 同右

阿部幸市

昭和七年五月二十日

右の者に対し昭和三十三年七月八日徳島市北佐古町五ノ一二渡辺倍夫は右阿部幸市自宅に於て任意の供述書を作成した。

一、私は徳島市八百屋町三枝ラジオ店の元店員阿部守良の兄であります。

二、私は昭和二十九年七月頃、徳島地方検察庁で弟守良の私に話した事等に関して取調べを受けた事、又三枝ラジオ店の殺人事件について徳島地方裁判所に証人として出廷し、証言した事がありますので、その事情を申上げます。

三、徳島地検で取調べを受けた内容は、昭和二十八年十二月中頃弟である守良とともにラジオを聞いていたとき、ラジオが三枝ラジオ店の殺人事件につき川口某を逮捕したと報じており、その際守良は自分が駅前の方から庖丁らしいものを預つてきたこと、事件の朝、夫婦ゲンカをしているのを見たといつているのを聞かれました。

四、私は弟守良とラジオを聞いていて、その際守良から庖丁を預つてきた事も事件の朝夫婦ゲンカをしているのを見たという事も全然聞いたことはありません。

しかし検事さんから肉親の弟から右のような事を兄として聞いているであろうと言われましたが、聞いていないので知りませんと申上げましたので、その後度々呼出しを受けて調べられました。

五、その間弟守良は検察庁へ呼出しを受けそのまま約二十八日間位と思います留置場へ入れられていました。

六、私は度々検察庁へ呼出されるし、弟もいつが来ても家へ帰してくれませんので、暑い時でもあるし弟も可愛そうであり、私として全々記憶にもなく又知らない事ですが検察庁で検事さんにいわれる通り(三)に申し上げた事について「聞いています、知つています」と申上げました。するとその直後裁判所へ連れて行かれて宣誓書を読み上げ検察庁で言つた事と同じ事をもう一度聞かれましたが、その中で検察庁でいつていない事で私も知らない事を聞かれましたので、「知りません」とお答え致しました。するとその後私が裁判所を出て帰ろうとすると、湯川検事さんに呼び止められ又検察庁へ連れて行かれ、私に「普通の検事なればともかく次席検事に恥をかかせたな」といつてしかられました。そして先程裁判所で尋ねられた事のように言うか、指印を押して認めれば帰してやるといわれましたので、そのように致しますといつてもう一度裁判所へ行つて尋ねられました。湯川検事さんにいわれた通りお答えするとその日は帰してくれました。

七、その後ラジオ商殺し事件の裁判で私は証言しましたが、前に湯川検事さんにもいわれた事もあるし、又私の思つた通り知つている通りに証言しますとしかられると思い、知らない事を検察庁で作つた調書通りに証言致しました。

八、以上申上げた通り三枝ラジオ商殺し事件については弟より聞いていない事は間違いありません。

昭和三十三年七月八日

阿部幸市

右立会代筆者 渡辺倍夫

というものであるが、その後も

〈7〉昭三三・八・二一法(安友竹一)(法務省)

〈8〉昭三四・二・六法(同)(同)

〈9〉昭三四・四・一一弁聴(一再審)

において、夫々の機関に対し、同旨の偽証告白をしている(しかし、昭三四・四・一四検(一偽1)においては、第一次偽証被疑事件の参考人として偽証告白を撤回する趣旨の調書をとられている。この点も、西野清、石川幸男らと軌を一にしている)。

右の事情からして、同人の第一審証言は、検察官の誘導もしくは強制に迎合してなされた偽証の疑いが濃く、その信憑性の薄いものとみざるを得ないことは、石川幸男について見たと同様である。

(八) まとめ

旧証拠の中で、本件匕首が篠原組から茂子に授受されたとする第一、二審の認定を支えるものは、阿部、西野の証言と篠原澄子の供述調書だけであつた。篠原澄子は、第一審公判の段階で既に阿部に匕首を渡していたことを否定していたのであり、第一、二審が認定の基礎にした同人の供述調書も、その受渡しの状況は阿部供述とは大きく食違い、到底同一の体験を共有し合う者の供述と見ることは困難である。元々、ラジオ商の妻である茂子が、暴力団の篠原組と匕首を授受し合う様な懇意な仲であると認め得る証拠は旧証拠の中には存在しなかつた。又、匕首の柄にダイヤル糸を巻いたという阿部証言も、右柄に巻かれていた糸はダイヤル糸ではないとの証拠が旧証拠中に存在していた。結局、阿部証言のうち匕首に関する供述は、その内容それ自体の突飛さと不自然さもさること乍ら、旧証拠中の他の証拠との比較検討によつても、その矛盾がかなりの程度明瞭になつていたものと判断される。同人の偽証告白は、かような旧証拠中の矛盾を一挙に解明するものであるというほかはない。阿部の第一、二審における匕首についての証言が虚偽のものであることはもはや明白というべきである。

4 兇器である刺身庖丁

(一) 第一、二審判決の認定と証拠

第一審においては、茂子が刺身庖丁を揮つて亀三郎を殺害した、と認定し、第二審は、茂子が台所棚の上にあつた刺身庖丁を揮つて亀三郎を殺害した、と認定した。

第一、二審が右の事実を認定した証拠は、

(a) 兇器である刺身庖丁を茂子に依頼され新町川に投棄したとする西野証言

(b) 本件の後、八百屋町の三枝方にあつた刺身庖丁がなくなつているとする阿部証言

(c) 右西野証言を裏付けるものとして、西野が刺身庖丁を投棄したと話すのを聞いたとする証人喜田理の証言

(d) 亀三郎の創傷は有尖に鋭利な片刃の刃物により突き刺された為生じたとする鑑定人松倉豊治の鑑定書

(e) 三枝方から押収された二本の刺身庖丁(刑五号の二、六号)

である。

ところで、第一、二審判決が茂子による本件犯行の兇器であるとして認定した刺身庖丁は、西野が投棄した旨述べる両国橋下の新町川を川ざらえしても発見されるに至らず、前記(e)の刺身庖丁二本は、事件後三枝方より押収されたものであつて本件と直接の関係はなく、又、(d)松倉鑑定書も亀三郎が鋭利な片刃の刃物により突き刺された旨を証するだけであるから、結局、第一、二審判決の認定はいずれも重要な物証を欠き、帰するところ、茂子と右認定にかかる兇器とを結び付けるものは、西野、阿部の証言しかないことが明らかである。

(二) 西野供述の信憑性

そこで西野供述の信憑性につき検討する。

(1) 西野が初めて、茂子に頼まれ刺身庖丁を新町川に投棄した旨供述し始めたのは、昭二九・八・一八検(〈27〉調書)においてである。その中で、西野は、「今一つ大事な事を隠していたので正直に申し上げる」として右供述を始めたのである。同人はその中で、その事実をそれまで隠していた理由につき、「どうしてこの事を隠していたかというと、こんな事まで言わなくても事件は解決つくと思つていたし、又、こんな事を言うと私がいよいよ共犯者の様に疑われて罪が深くなると思つていたからである。」と述べている。しかし、これらは、とても信用に値する供述とは考えられない。すなわち、同人は、既に昭二九・七・五検(〈4〉調書)の中でも、ごくさ細な点をとらえて茂子が怪しいと述べ始めて以後、昭二九・七・二一検(〈6〉調書)以降、「これまで隠していたことがある」として電話線電灯線の切断の供述を始め、茂子が犯人であると思うこと、自分が罪証隠滅工作の一翼を担つていたことを認めているのであり、殊更に刺身庖丁の点を長期にわたつて隠匿する合理的な理由も必要も認めることができない。

むしろ、前記西野の偽証告白の内容に加えて、昭二九・七・一三付鑑定嘱託書(検事湯川和夫)(不1)によると、徳島地検より科学捜査研究所宛匕首に人血附着の有無等について鑑定嘱託がなされ、昭二九・八・九、同一四付電信二通(東京地検特捜部長から徳島地検次席検事宛)(不3)により、「匕首には人血の附着を認め得ない」との回答があり、昭二九・八・一四付富田功一外一名作成の鑑定書(不2)によると「匕首には一応血痕と疑わしいものが附着しているようであるが、血液とは断定できない」との鑑定結果が出ていること、等の捜査の進展度からみて、本件兇器は匕首ではなく、他の鋭利な片刃の刃物である、とする捜査する側からの誘導若しくは強制によりなされた迎合的供述の疑いが濃い。

(2) 西野の前記昭二九・八・一八検によると、「私はそれを手に持ち、自転車にまたがつて寝巻のふところへ入れるとき、これは刃物だということが分つた。そのとき新聞紙から約一センチか二センチ位刃物の先が飛出していた。新聞紙も何かべとべとしたものがついていたのを感じた。それが血であるかどうかは分らないが………血であろうと思つていた。」と述べており、第二審において実施された検証(昭三一・九・五)においても、新聞紙に包んだ刃物を寝巻の右懐に入れ、橋桁へ自転車で乗りつけた旨指示説明している。右の供述並びに指示説明によると、通常、西野の寝巻の胸或いは衿付近に血液が附着するものと考えられるが、昭二八・一二・一七付三村卓作成の鑑定書(松山2)によると、「西野の寝巻には表側前裾付近にA型の血痕が若干附着するのみで胸ないし衿の内外いずれにも血痕が附着していない」とされている。

(3) 西野の証言によると、刺身庖丁を新町川に投棄したとき、「中味が新聞紙から離れて、庖丁の方から先にぽちやんと音を立てて落ち込みました。」というのであるが、第二審の検証の結果によると、「よつて検するに、西野立会人が車を止めたところ………から、西方へ向つて投げた新聞紙包みの庖丁は………橋より西方六、七メートルの水面にぽちやんと音をたてて、新聞紙に包まれたままで落下した」(二〇五四丁)ことが認められ、西野証言は、右検証結果と矛盾している。

(4) 西野が両国橋上から投棄した旨述べる刺身庖丁は、同人の指示する場所を川ざらえしても遂に発見され得なかつた。右の川ざらえは、昭和二九年八月二六日から八月三〇日までの五日間にわたり、両国橋の上流二〇メートル、下流二〇メートルの広範囲にわたつて潜水夫により行われた(証人大柳忠夫の第一審九回公判証言)。右の本格的な川ざらえによつても尚、刺身庖丁が発見されなかつたことは、西野証言に根底からの疑問を生ぜしめる。

しかし、第一審判決は、この点につき「該刺身庖丁は徳島市中を東に流るゝ新町川に両国橋上から投棄されたものである。(その後該庖丁は川ざらえの結果によるも発見されなかつたことは証人大柳忠夫の第九回公判における証言によつて明かであるが、このことは特に右認定の妨げとはならない。)」(第一審判決第三の四のイ2)と説示し、第二審判決も、「尤も所論のごとく検察官は西野の供述により潜水夫を使用して新町川の投棄したという地点附近を五日間に亘り捜査したが刺身庖丁は遂に発見されなかつたところである。しかし刺身庖丁が尚投棄の場所に存在するとしても発見の能否は別個の問題で右のごとく発見できなかつたからといつて直ちに投棄の事実を否定し得ない。」(第二審判決第三の一の(四)(ハ))と簡単に説示するのみである。

しかし、第一、二審の右のような事実の認定方法は、供述証拠と客観的証拠との関係を逆転させ、採証法則上の初歩的原則を無視するものであつて到底看過することができない。すなわち、兇器を投棄した旨述べる当の本人が指示する場所(そこは川底であるから、通常は何人も移動させることのできない場所である)を大規模な川ざらえをして捜索した結果発見できなかつたという客観的事実にもかかわらず、尚、「そこに投棄した」旨の証言を無条件で信用し、事実の認定に供し得るという採証法則があり得るであろうか。もし仮にその証言が特に信用し得る根拠があるのであれば、「不発見」という客観的事実と、「兇器の存在」という仮説との両立し難い矛盾を合理的に説明するところがなければならない。合理的に説明し得なければ、そうした事実は認定し得ないのが論理法則、経験則に従うべき事実認定の鉄則である。第一、二審判決説示は、西野証言の信憑性を過信する余り、事実認定の基本原則を軽視した疑いが濃厚である。

(5) 第一審判決では明らかに認定されてはいないが、第二審判決によると、茂子が亀三郎殺害に用いた刺身庖丁は、三枝方台所棚の上にあつたもの、と認定されている。

ところで、証拠とされている二本の刺身庖丁のうち、刑五号の二は昭和二九年八月一三日三枝方で押収されていたものであり、刑六号の二は同年八月二一日三枝皎が任意提出したものである。従つて、昭和二九年八月の時点において、刑五号の二、刑六号の二の二本の刺身庖丁が八百屋町新築ビルに存在したことが認められる。そして、事件発生の昭和二八年一一月五日から、昭和二九年八月までの間に、新しい刺身庖丁が購入されたという証拠は何もないから、事件当時も、大道の家から八百屋町かは別にして三枝方に二本の刺身庖丁が存在したということになるであろう。

ところで、茂子は、台所棚の上にあつた刺身庖丁で亀三郎を殺害し、西野にこれを投棄せしめたというのであるから、昭和二八年一一月五日以降の時点において、三枝方に刺身庖丁が三本あつたこと、そしてそのうちの一本が紛失したこと、が認定されなければならない。しかし、刺身庖丁が三本存在した旨認定するに足りる証拠はなく、又、八百屋町の刺身庖丁が一本紛失しているのに気付いた旨の阿部証言以外、庖丁の紛失に関する証拠はなく、阿部証言は、同人自ら偽証である旨請求審において証言しているところであるから改めて論じない。

(三) まとめ

以上により、茂子に依頼され、兇器である刺身庖丁を両国橋上から新町川に投棄した旨の西野証言は、到底信用すべきでないものであることが明らかであり、同人の偽証告白とも合わせて、同人の第一、二審証言は虚偽であるといわざるを得ない。

5 茂子の供述―特に自白の真実性について

(一) 茂子の供述内容とその推移

茂子の供述は、大きく四つの段階に区分される。

(a)事件直後の供述

この時期、茂子は、夫を殺害された妻として、又、三枝佳子と共に犯行の数少ない目撃者として、参考人として取調を受け三通の供述調書が存在する。

(b)被(容)疑者としての供述

ところが昭和二九年七月、捜査方針が転換し、同年八月五日から亀三郎殺害の被疑者として徳島地検により取調を受け、合計一〇通(うち一通は署名拒否)の供述調書を作成された。そのうち、昭二九・八・二六検、同八・二七検の各調書は、亀三郎殺害を認める供述をしている。

(c)公判段階から判決確定までの供述、(d)判決確定後の供述

公判段階に移ると、茂子は第一、二審を通じて自己の無実を主張し、判決確定後においても獄中で、仮出獄後も再審請求の審理の過程で一貫して無実を主張している。

そこで、茂子の供述する内容、特に自白の真実性について検討しなければならない。その方法は、西野、阿部供述の信憑性につき試みたと同一の方法、即ち、茂子の供述内容とその推移を総体的に把握し、夫々の段階における供述につき分析を加え、その後で、他の証拠との符合関係につき各論的に検討することとしたい。

(1) 事件直後の供述

〈1〉昭二八・一一・五員(警察官福山文夫)(取調場所斎藤病院)

今朝、午前五時一〇分頃、私方に覆面をした賊が侵入し、匕首様のもので主人が殺され、私自身も胸部に傷を負つたので、その状況について詳しく申し上げる。

私方は、主人亀三郎(五三歳)、長女登志子(二二歳)、次女満智子(一八歳)、長男皎(一五歳)、次男紀之(一二歳)、三女佳子(九歳)の七人家族であるが、現在、八百屋町の家の隣に新築の家を建てており、狭いので三女佳子を残し、子供は全部市内大道四丁目の家で寝起している。店には、住込で西野、阿部の二人の店員が家の裏の小屋で寝ている。本日午前五時一〇分頃、奥四畳半の間で寝ていると、家の裏の方で

奥さん居るで

と聞き覚えのある様なかすれ声で呼ぶので、

はい

といつて起き上り、私が裏の障子戸を開けようとしたところ、私より一足先に主人が障子戸を開けたが、主人は何かに驚いたように「はつ」と言つて後の方に下つたが、この時、相手の男も一緒に家の中へ入つて来た。部屋の電灯をつけようとしたが、どうしても電気がつかず、朝も未だ早かつたので部屋の中は真つ暗で相手の人相、着衣等については判らなかつた。相手の男は、主人に何か刃物で切りつけたものと見え、暗闇の中で主人と格闘になつた。私は、いち早く子供を外に逃がし、早く店の者を起して来てといつて外へ逃げ出し助けを求めようと思い、とつさの気転で、「火事じや」と叫んだ。そして、裏の障子戸付近に来た時、主人と格闘していた賊が私の側にとんで来て匕首様のもので私の左胸部を突き刺し、すぐ裏口から逃走した。

この時、私は、はつきりと賊が布切で覆面をしているのを見た。尚、賊は懐中電灯を所持していたように思う。

犯人については、以前外交販売員をしていた米田明実が、ラジオの販売をしたと言つている売先にラジオが渡されていないことが判り、本日、亀三郎が米田のところへ問い質しに行くことになつており、この米田がラジオの請求を苦にして、主人を恨み、殺したのではないかと思う。

〈2〉昭二八・一一・二〇員(福山)(市警)

〈1〉とほゞ同旨。

尚、賊は部屋に入つて来て懐中電灯を照らしたこと、自分は部屋の電灯をつけようとしたがつかず、外に逃げようと思い裏口の障子戸のところ迄来た時、賊に刺されたこと、賊が裏口より逃げ出したあと自分も外に飛出し、火事とか泥棒とか言つて助けを求めた様に思うこと、建築中の新館裏口迄走り出たところ、賊は新築の家の中を通り表の八百屋町の通りに逃げ出して行くのが目にうつり、自分は新館の裏付近迄飛出したものの寝巻で素足だつたのですぐ部屋に帰つたこと、警察に電話をかけ様としたがかからなかつたこと、事件当日、米田がやつたのではないかと言つたが米田でないとしたら、他に恨みを受けることもないのであるいは物盗りの仕業かもしれないのでよく調べて欲しいこと、等。

〈3〉昭二八・一二・一〇検(検事浜健治郎)(地検)

〈1〉とほゞ同旨の供述。

犯人は、主人を追うように上つて来て、主人に向つて懐中電灯を照しているようでそれも余り明るい光でなく一回しか照らさなかつた。私は非常に驚き、暗いので四畳半の間の電灯のスイツチをひねつたがつかなかつた。そのとき、犯人と主人は、格闘しており、何も言葉を口にしてはいなかつた。私はどうしてよいか判らず、佳子を起して、小屋にいる西野、阿部を起して来るように言つた。

…………………。犯人のことは、黒の洋服らしい物を着て多分背広と思うが、はつきり判らない。只、白いワイシヤツが見えていた。体格は小さい方で若い人の様に思う。私は裏口から外へ出て、火事じやと二回位叫んだ。犯人らしい者は北側の出口を西の方に出て行くのが見えた。

事件のあつた日、米田が犯人らしいといつたのは、警察の人から犯人が主人に恨みを持つている人である、といわれたのでつい、米田のことが頭に浮んだので、別に深い理由があるわけではない。私と主人とは、別に夫婦喧嘩をしたという事もない。主人は商売熱心であるが、そのために恨まれて殺されるということも想像できない。

(2) 内部犯人説に立脚した地検の捜査が開始されて以後の供述

〈4〉昭二九・八・五検(藤掛義孝)(地検)

〈1〉とほゞ同旨。

「奥四畳半の裏戸から、「奥さんおいでるで」と二回低い男の声がした。私は「誰で」と尋ね、「西野さんで」とさらに尋ねたが返事がなく………主人が起き上つて内側の障子を開けると、同時に何とも言えん様な腹の底からの声を出して「ウオー」と唸つて押入の方へ後ずさりし、同時に主人と同じ位の体格の男が薄暗い光の懐中電灯を照らしながら入つて来た。私は佳子を起し、西野、阿部を呼びにやつたが、その時既に、主人は賊と押入の前で格闘していた。佳子が出てから私はすぐ部屋の電灯のスイツチをひねつたが、灯はつかなかつた。私は助けを求めるため、縁のところまで走り出た時、私の後ろから私の左側を追越す様にして、賊が走り出し、工事現場の方へ走り逃げた。そのすれちがつた瞬間に、私は左腹部に氷が肌に触れた様なヒヤーツとしたのを感じた。……………」

茂子は、昭和二九年八月一三日に逮捕されるに至り、亀三郎殺害の被疑者として、身柄拘束の上取調を受ける。

〈5〉昭二九・八・一四検(湯川和夫)(同右)

私は、決して主人を殺したような事はなく、犯人が入つて来て、主人を殺したのである。私は被害者である。

犯行の模様を私は見ていたので詳細に申し上げます、として、〈1〉、〈4〉とほゞ同旨の供述。

一一月四日夜一〇時頃寝た。電灯のスイツチは切つた。主人は晩酌一合五酌位。自分は風邪をひいていた。翌五日朝、二人とも目が覚めていた。裏の廊下から「奥さんおいでるで」と声がし、「誰で」「西野さんで」と言つたが答がなく、主人が起きて障子を開けると、「ハアー」といつてうしろへ下つた。犯人がすぐ続いて部屋に入つた。犯人が電池をつけたのか壁に丸い光がついた。すぐ佳子を起した。そして店員を起してくれ、といつて外へ出した。とつさに「火事じや」といつて叫んだ。主人と犯人はもじり合つて部屋の真ん中で居て、自分は傍に立つていた。主人が出て行けというので裏の方へ逃げようとした。犯人は自分を左から追い抜いて外へ出たが、すれちがい様に左脇にひやりと冷たいものを感じた。自分は賊を追おうとしたがためらつて、店へ戻り警察へ電話しようとしたが通じなかつた。窓から工事場の方を覗くと賊らしい姿が見えて、丁度道路を外へ出るところだつた。賊はYシヤツを着ていた様に思う。賊の逃げる姿を見て寝室に戻つたが、丁度、裏の私道の傍を通るとき、二人の店員が小屋の入口附近に立つていた。「若い衆さん、盗つ人が来た」と言つた。自分は、電気がつかないので、電池を探して店の方へ来た。二人もついて来た。自分は阿部に市民病院へ行つて医者を呼んで来て、と頼み、西野には大道へ行つて来て、と頼んだ。二人は夫々、自転車に乗つて出かけた。自分は電池で主人を照らした。佳子を呼んで、亀三郎の上に布団をかけた。佳子に警察へ電話をかけて、というと佳子は出かけた。間もなく、市民病院や、斎藤病院の医者が来た。「もう駄目だ」という。自分は、子供や近所の人に助けられ、斎藤病院へ行き入院した。傷の痛さは入院してから感じた。米田のことは、警察官から何か怨恨を受ける覚えはないか、と聞かれたので、米田といつたまでである。自分は絶対に主人を殺していない、等。

〈6〉昭二九・八・一六検(藤掛)(地検)

〈5〉と大略において同旨。

〈7〉昭二九・八・一六検(藤掛)(同右)

斎藤病院に行つてから、やつて来た警察官から電話線、電灯線が切られていること、匕首が新築中の風呂場の窓の下に立てかけてあつたことを聞かされはじめて知つた。犯人が線を切つたと思うし、犯人が遺留したものと思う。西野が線を切つたとは考えられない。そう言つているとすれば、きつい取調を受けたため出鱈目を言つていると思う。仮に西野が真実切つたものとすれば、私がつないでおけ、と言つたものをはき違えて切れていないものを切つてつないだのではないかと思う。電灯線はつないで灯をつけよとは言つたが電話線をつなげとは言つていない。要するに、私が西野に、電話線や電灯線を切れと頼んだ事は絶対にない。

〈8〉昭二九・八・一七検(藤掛)(同右)

犯行の模様について〈5〉と大略同旨。

〈9〉昭二九・八・二三検(藤掛)(同右)

大分前に、店で岡田花枝という三好郡の人が女中として働いていた。この子から庖丁を買い換えてくれ、と催促され、両国橋筋の中屋という金物屋で刺身庖丁と菜切庖丁を一本ずつ買つた。刺身庖丁は刃は一尺位で先がとがつていた。商標は見ていない。この二本の庖丁は、新館に今でも置いてあると思う、等。

(3) 昭和二九年八月二六日付、同二七日付自白調書の全容

ところが、茂子は、昭和二九年八月二六日亀三郎殺害の犯人は自分である旨自白するに至る。その全容は次のとおりである。

〈10〉昭二九・八・二六検(村上)(自白)

一、私は、昨年一一月五日朝早くまだ夜が明けきらない内に夫亀三郎を刺し殺しました。

出来た事は仕方がないと思つて本当の事を述べます。今後、処分されて刑務所へ行つた後は子供の事をお願いします。

又私方の家が立ち行く様に出来る丈面倒を親戚や友人の者に見て頂ける様に取扱つて頂ければ幸いだと思います。

二、此に私が主人を刺した当時の事を簡単に申しますと、当時主人は私方奥四畳半の間で南枕で寝ていたのですが、私は眠つている主人が着ている掛布団をめくつて主人の東側に坐り、右手に持つていた刺身庖丁で暗がりの中ではありましたが大体腹のへんを突き刺し、続いて何処を突いたか一生懸命であつたので判然とした事は覚えませんが二突程致しました。

そして確か三べん位腹のへんを突き刺した時、主人が立上つて西北隅にある押入れの方に後ずさりに逃げて行きましたが、私は何時も主人の東側に居つたと思いますが尚も主人を突き刺そうとして後ずさりする主人を追つて押入れの前へん迄行きました。

ところが、今度は、主人が私の持つている刺身庖丁を奪い取ろうとして私の方にやつて来て私の持つている庖丁の刃先をつかんで取上げようと致しました。そこで私は取上げられまいとして段々と電灯線のさがつている部屋の真ん中へん迄来た時、私と主人とはもじりあつたのであります。

このもじり合ふというのは刺身庖丁を互に奪い取ろうとして争つた事を言うのであります。そして真中へんでもじり合つた末遂に私は、夫の為めにその庖丁を取上げられ今度は逆に私が夫から左腹を突き刺されたのであります。

そして、私は、右刺身庖丁を取上げられた時であつたか腹を刺された時であつたかその点覚えませんが寝ている佳子を起しました。何と言つて起したかその内容は覚えませんが兎角佳子は裏外へ出て行かした様に思います。

私が佳子を起して外に出したのは両親が突いたり突かれたりするのを子供に見られたり、知られたりしたくなかつたからであります。

そして私は夫から一突き刺されてから後というものは夫から取られた庖丁を奪い取ろうとして、無我夢中になつた為めその後どの様な格闘をしたか判然りした記憶がありませんが、それでもとかくする中、夫から又刺身庖丁を取り戻して立つている夫の胸や腹と思われるへんをめつたやたらに突き刺し、一番最後に主人の咽喉を横から一突き刺した事は覚えております。

そして最後に主人は部屋の東側で炊事場と元出入りしていた玄関との間へんにある柱の処に頭を置き足を南側に向けて倒れたのであります。

私は格闘中に廊下へ出た事はありません。

三、私は夫が倒れてから後店土間の電話のあるへんに居た時、店員の西野と阿部が近くへやつて来たので、先ず阿部に対し市民病院へ行つて医者を呼んで来てくれと頼み、同人が出て行つた後で残つていた西野に対し匕首一振を渡し、「これで屋根の上の電灯線と電話線を切つてくれ」と言つて頼みました。すると表に出て行つた西野が間もなく入つて来て、当時四畳半の間に居た私に対し「奥さん線を切つて来ました」と言つてその匕首を私に戻してくれたので、私はすぐ西野に対し自分が主人を刺した刺身庖丁を「これを放つて下さい」と言つて頼み且つ「大道へ行つて子供を皆起して来てくれ」と頼むと、西野はその庖丁を持つて出て行きました。私はその庖丁を何かに包んで渡したか如何は覚えません。

西野が出た後で私は右匕首を新築中の西隣の建物の裏、西湯殿の裏へんの壁に立てかけました。

〈11〉昭二九・八・二七検(村上)(同右)(自白)

一、昨日、私が亀三郎をめつたやたらに突き刺した事情を述べましたが、この点は間違いありません。

二、次に私は主人を突き殺してから、一寸して私方の四畳半に来た警察官に対してどうしたのかと聞かれた際、私はこの電池は、強盗が残していた電池だというと、警察官は、証拠品にするからさわるな、といつた旨、私はこれまで警察で述べましたが、これは嘘であります。というのは、この電池は、日時の点は覚えませんが、主人を殺す大分前頃私方に来た客がほつて帰つた電池のうち、真中の長い棒に頭と尻を他の部分品をもつて取付けた電池であります。このちぐはぐな電池を私は付けないから若い店員が取付けたものと思う。尚、このような電池は他にも数本あつて、これらを時々、私方の子供や店員が使用しておりました。

三、私は、これより夫を刺し殺すに至つたまでの事情のうち前夜のことを述べることにします。

昨年一一月四日夜に四畳半の間に二つの寝床を並べて敷き、東側に佳子、真ん中に私、西側に夫が寝る様にし、私と佳子とが右布団の中に入り、すぐに佳子が寝てから夫は私に明日一番の汽車で新野町の米田方へ集金に行く、もしくれなければ訴訟をすると言つていました。米田が父と姉か妹かの嫁入り先の人を保証人にと書類を持つて行くと言つて書類その他を封筒に入れ鞄の中に入れておりました。これと相前後した頃、店員西野と阿部は、店の電気を皆消して、四畳半の間を通つて裏の小屋へ行きました。その後、私は、いつしか寝入つてしまつて、その後夫も眠つたものと思います。ところが、その後、時間は覚えませんが、私はセキをして目が覚めました。すると、横になつて寝たらよいと夫が目覚めていたものと見え私に申しましたので、私は東向きに右肩を下にしたのであります。

これから先のことは今のところ言いたくありません。

(4) 自白の撤回とその後の供述

ところが、茂子は、同月二九日に至り、自白を撤回するに至る。

〈12〉昭二九・八・二九検(藤掛)(徳島刑務所)(否認)

「私は、今でも犯人は主人に悪感情を持つている男に違いないと考えている。ところが、事件の日に西野が電線を切つたり、事件前に阿部が新天地から匕首を持つて帰つたりしているのだから、西野と阿部の二人が鍵を握つていると思う。二人共、嘘を言っているところから考えると、二人は、自分らの計画がばれるのをおそれて、私に罪をなすりつけていると考えざるをえない。私は西野から恨まれる覚えはない。主人は西野をよく叱つていたが、私は庇う様にしていた、」等と述べ、事件当時の模様を〈5〉のように大略述べた上、「今日二人が揃って私に濡衣を着せていることを考えると真犯人は店で働いておつたこの二人ではなかったかと言う気が致します。真犯人を探し出して事件を解決するためには、この二人を徹底的に調べて頂きたいと思つております。」と述べる。

〈13〉昭二九・八・三〇検(村上)(不1)

現場に遺留されていた、といつた懐中電灯は、私が主人を殺す前に、店に来た客が、置いて行つた電池を利用し頭と尻だけその他の部分品でつぎ合わしたこと、等懐中電灯に関する事柄、及び自分の身上経歴、家族関係を述べた旨の記載があるが、「当初誤りのない旨申立て前言をひるがえして電池に関する部分に相違がある旨申立て署名指印を拒否した」とされている。

〈14〉昭二九・八・三一付手記(不1)

一、西野さんが電線、電話線を切断したと申しておりますが、私はぜつたいに頼んでおりませんが銅反が出たと申される處から、間違いなく西野君が切つたと思います。

二、阿部さんが篠原組へ匕首を受取りに行ったと申されますが、私はそんな事を頼んだ覚えもございませんし、又、柄にダイヤルの糸を巻かせたと申しておりますが、そんな事はぜつたいに頼んでおりません。但しながら、阿部さんの言つた通り、阿部が篠原組から受取つて来た事及びダイヤルの糸を阿部さん自身が巻いたことは間違いない様に思います。

昭和廿九年八月卅一日

冨士茂子 〈指印〉

別用紙に、同じく同日付と思われる茂子の手記(不1)

私の身辺にこゝまで立派な証拠が出来て最早私の何とも申上げる何ものもない事に気が付きました。それにしても今まで可愛がつて来た二人の店員をこの暑い最中獄に入れられた時、私の店にさへ来てゐなかつたらこんな苦しい浮目もみないでいいものを、一度、西野様の事を思う余り、次席検事様におめにかかりに参り、余りの腹立たしさに随分とにくまれ口を聞き、又次に阿部さんの呼出しの日に阿部さんから奥さんの事に付いて色々とわけのわからない事を聞かれてつらいと申され、余りに気の毒に思つて又々自転車に乗せてもらって湯川検事様に余りも余るひどい口を聞いてここに来て始めて色々の事情を聞かされ、こんなにまでも立派な証拠が余りにもそろつている事に驚きました。

西野君阿部君が家で真面目に働いてくれてゐたのでこんなしらじらしい事を申して私を苦しめるのには何かこみ入つた事があるものと私は思います。

他人から何と申され様と正しき者は最後までと今だに信じてはおりますものの、事ここに参りましてはもがけばもがく程私の身体は弱るばかり、死んでも最後までと思つた私の意志は信じて下さつてゐた田中さんさへも私を信じては下さらない様になりました。

〈15〉昭二九・九・一検(村上)(地検)(西野、阿部、茂子三人の対質調書)(不1)

前掲。

(5) 公判段階における供述

〈1〉第一審二回公判(昭二九・一〇・二二)

村上検察官

被告人は、本件の犯人は外から入つて来た男であるというが、その男はどういう風にして入つて来たのか。

それは判りませんが私は西野と阿部を信じていたので犯人はそれ以外に外から入つた男だと思います。入つて来たのは裏口からです。

その男は黙つて入つて来たのか。

そうです、何も声は出しません。主人(亀三郎を指す、以下同じ)が起きて行き縁の障子を激しい音で明けた途端に後ずさりして恐怖の声を上げ、押入の所まで下りました。それと同時に賊が入つて来て賊の持つている電池の鈍い丸い光が壁に射すのが見えました。それから主人と賊が押入の前でもじり合いをしそれから部屋の真中へ寄りました。

その時被告人はどうしたか。

私は、それを見てどうしてよいか判らず三つ巴のような格好で二人の傍に立つていましたが、主人から出て行けといつたような声を聞いた感じがしたので裏口から外へ出ようとし、その方へ行きかけました。その時、賊が私を追い越し、私は左の脇腹にひやりとしたものを感じましたがその侭賊の後から裏の硝子戸の敷居の所まで行きました。そして、敷居の所でこりやいかんと思って後へ引返しました。

それからどうしたか。

それから、私は店の間へ行き、電話をかけようとしましたが慌てていた為かカチヤカチヤしましたがかかりませんでした。それで又裏口へ行きそこから外へ出て新築工事の中の家の所へ行きました。その事情は警察の調書に書いてあるとおりです。私はこのような法廷で取調を受けるような悪い事はしていませんのでその当時の行動は一々記憶していませんでした。私としては、その当時殆ど失神状態であり、無意識であつたので後になつて阿部や西野のいうのが正しいと信じ、あゝいえばあゝか、こういえばこうかと思い、どれが正しい自分の行動か判らなくなつたのです。(一三八丁裏)……………

賊が入つて来て亀三郎と格闘し出て行くまでの時間はどの位か。(一三九丁表)

はつきり判りませんが二、三分もかかつていないと思います。

亀三郎と賊が格闘中どちらかが声を出したか。

主人が最初にあーと恐怖の叫声を出しただけで後はどちらも声は出しませんでした。

賊が刃物を持つて亀三郎を突くのを見たか。

刃物は見ませんでした。

賊の背丈はどの位であつたか。

主人とちよぼちよぼでした。

賊の服装はどうであつたか。

見えなかつたものか私がよう見なかつたものか、賊が電池をぱつとつけた時に見た筈なのに記憶がはつきりしません。しかし、白つぽいものではなかつたと思います。(一三九丁裏)

……………

被告人が新築工事場の所へ行つた時何か見えたか。(一四一丁表)

新築工事場から板の隙間を通つて西の方へ出て行く賊らしい人の後姿が見えました。

……………

弁護人

被告人は本件の際何で目を覚ましたか。(一四三丁表)

「奥さんおいでるで」という声で目が覚めました。

その声は外から聞えてきたのか。

外からであつたと思います。

……………

〈2〉第一審検証期日(昭二九・一二・五)における茂子の指示説明

被告人の指示説明

被告人は四畳半の間において本件発生当時の状況について

「この事件の当時私方ではこの四畳半の間に西側の壁にひつつけて三巾物の布団を敷き、更にそれにひつつけて東側に佳子用の小さい布団を敷き南枕で西から主人と私及び佳子の順に就寝していました。その時の電燈の位置は現在よりもう少し低く吊つてあり、電球は六十ワツトでした。私はその夜注射をして寝ていたのでよく眠つていましたが咳が出たので目を覚ましました。そして私の苦しそうなのを見て主人がお母ちやん横向きに寝たらよいというのでそのとおりにし、うつうつしていた時裏の小屋と新館の辺から「奥さんおいでるで」という声が聞えたので私は「西野さんで」と尋ねましたが何も返事がありませんでした。すると主人がパツと起きて南側の廊下に面した西寄りの障子を西から東へ開けました。そしてその途端ハアーツと何ともいえない恐怖の声を上げ障子の傍から北西隅の押入の前まで後ずさりしました。主人が後へ寄ると同時に賊が室内に入つて来て西側の壁の方に電池を差し向けたらしく鈍い赤いような光が丸く壁に写りました。私はこの時佳子を起し救を求めに行くように命じた心算ですが恐ろしい一杯でどういつたか判りません。佳子は泣きながら裏の方へ出て行きました。主人と賊は押入の前でもつれ合い、それから部屋の電燈の所まで出て来ました。そして電燈を真中にして主人が南の方を向き、賊が北向きとなつて相対し、その二人に対し私が西向きとなるような恰好になりました。その時主人が電気をつけようとしたように思つたので私は電気をつけないかんと思い電燈のスイツチをひねりましたが電燈はつきませんでした。そうする中に主人が私に救を求めて来いといつたように心に感じたので私は四畳半の間と廊下との仕切りの敷居の便所寄りの所まで行きました。その時私の左側を賊が通り抜けたので私は敷居の西端の柱を背中に東の方を向くようにして避けました。賊は私を追い越して裏へ出て行きましたので私は廊下の南側の硝子戸の敷居際まで左足を踏み出し、硝子戸の敷居の西端の柱に手をやり体を延ばすようにして裏の露地を西へ行く賊の方を見ましたが恐ろしかったので外へは出ずに引返し、店の間の電話の所へ行き警察へ電話をかけようとしましたがかゝりませんでした。それで電話も切られているんだなあと思い、かけるのを止めました。なお電燈は先につけようとしましたがつかなかつたのでこの時切れているのだと思いました。それから私は又引返して四畳半の間を通り廊下から裏へ出たのです。主人が最初ハアーツといつて恐怖の声を出して後賊が入って来てからは主人も賊も声は出しませんでした。賊が刃物を持つていたかどうかも、主人が刺された事も、私が刺された事もその時には私には判りませんでした。たゞ私が廊下の際で賊に追い越された時、左脇腹に冷いものを感じたのでその時刺されたのかも知れません。私は裏から外へ出て、出た直ぐの所で火事だと叫び、露地を西へ行き、更に新館の風呂場の辺りでも火事だと二、三回叫びました。そして新館の窓から北の方を見た時、工事場の一番外側の板塀の出入口の板戸の左端の隙間から外へ出て逃げて行く賊の後姿が見えました。工事場の戸はドア式ではなく、開ける時には外して脇に寄せるようになつておりました。私としても賊の逃げるのが少し遅過ぎると思いました。私はそれから四畳半の間に引返しましたが、その際小屋の前に阿部と西野が立つているのを見たので、盗人ぢやといつて二人を連れて店の間へ行き、病院と大道へ使いにやりました。」

と各位置点を指示して説明した。

右指示する本件発生前の関係者の所在の状況は、別紙図面(二)のとおりである。

〈3〉第二審六回公判(昭三二・五・一一)における供述

裁判長

その後、本件がおこるまでのことを述べてみよ。(二五五二丁裏)

私は、朝、目がさめるまでひとねいりでした。朝方、私が咳をしましたところ、主人がお母ちやん横になりなさい、というので私は子供の方を向きました。それから、うとうとしましたところ、「お奥さん、おいでるで」という声がしましたので私が「誰で」とたずねましたが返事がありませんでした。それで私が重ねて「西野さんで」と問いましたがそれにも返事がありませんでした。そのうちに、主人が「アツ」と言って起き上つて障子を開けに行きました。すると、とたんに主人は、「はあつ」と言つた恐怖の声を上げて二、三歩後に下りました。それと一緒に賊が部屋の中にはいつて来て主人は賊と闘つておりました。私は、気がてんとうしてしまつていたのか、主人が賊と闘つているのを部屋のまん中でぼうつとして見ておりました。そのうちに、主人が私に出て行けと言つたのか、所作でそのようにしたのかわかりませんが、私は、出て行けと言われた様に感じたので外へ出て、廊下のところへ来たとき、賊が私を追い抜いて行きました。その時、私は胸のところに冷いものを感じましたが怪我をしたとは思わず、手さぐりで電話のところまで行き電話をかけようとしましたがかかりませんでした。

どこへ電話をかけようとしたのか。

警察へかけようとしたのです。

それでどうしたのか。

電話がかかりませんので、救いを求めに裏へ行き、外側の便所のところでいがりました。

何と言つて叫んだのか。

どう言つたか覚えません。はじめは「火事だ」と言つたことは覚えております。(二五五四丁表)……………

(6) 判決確定後の供述

〈1〉昭三三・八・一一法(法務省人権擁護課長斎藤巌)(法務省)(和歌山刑務所服役中)

(イ) 私が上告を取下げたのは、これ以上皆さんに迷惑をかけたくないし、若い衆が偽証罪になるとも思つたからである。強い者にはなかなか勝てないと思つた。私が夫を殺したのではないことは子供は皆んな信じてくれている。

(ロ) 私は警察、検察庁で調べを受けたが、夫を殺したと述べたことはない。ただ、毎日のように遅くまで調べられたのですつかり体にこたえた。

(ハ) 私は篠原については全然知らない。

(ニ) 警察で米田が殺したのではないかと言ったが、それは刑事さんから怨恨関係を聞かれたので金を使い込んでいる米田のことを思い出したからである。

(ホ) 私が亀三郎の籍に入らなかったのは、自分がことわつたからである。亀三郎には他に女があり、その当時は先妻の子が末だなつかなかつたから自分の子供は一人で育てることができると思い籍に入る気持がなかつたからである。

(ヘ) 本件の半年前、先妻の八重子から女中にでも使つてくれという手紙が来たが、登志子に返事を書かせ「今、皆んな勉強中であるが大きくなつたら一人位母さんの面倒をみるものがあろう」と言うことを申してやつた。

(ト) 妹から、「真犯人であると自首した者があつたのに上告を取下げたので警察がそれ以上の調べをしなくなった」と勝手に上告を取下げたことを叱られた。

(チ) 私は真犯人が早く出てくれることを望んでいるが、皆さんをさわがしたくはない。

〈2〉昭三四・一〇・九(一検審)

従前の第一審公判供述とほゞ同旨。

(二) 茂子の供述の推移に見られる特徴

茂子の供述は、昭和二八年一一月中の参考人として取調べられていた頃の三通の供述調書、亀三郎殺害の容疑者として取調べられた昭和二九年八月五日付から八月二三日付に至るまでの〈4〉乃至〈9〉の各検面調書においては、ほゞ一貫して亀三郎が外部から侵入した賊に殺害された状況を具体的に供述しているが、昭二九・八・二六付、同八・二七付検面調書(いずれも村上検察官)において、一転して亀三郎殺害の犯人は自分である旨供述するに至り、同年八・二九付検面調書(藤掛検察官)では再転して犯行を否認し、その後、検察官(村上)が調書を作成したが茂子が署名拒否したため調書として成立しなかつたもの(〈13〉調書)、昭二九・八・三一付では当時の茂子の心境をつづつた手記が作成され(〈14〉手記)、昭和二九年九月一日には、西野、阿部両名と検察官の面前で対質の上尋問されたが、そこでも犯行を否認し(〈15〉調書)、同年九月二日起訴されたものである。右のとおり、茂子の捜査段階における供述は、複雑な展開を辿つている。

公判段階(第一、二審)においては、茂子は自己の無実を一貫して主張し、本件犯行は外部より三枝方奥四畳半の間に侵入した賊の仕業であるとし、その目撃した状況を詳細に述べるが、その内容は、捜査段階において述べていたこととほゞ同旨である。

茂子は、上告申立の後、これを取下げるに至ったが、第二審判決の結果に満足した上でのものではなく、訴訟費用の心配や、西野、阿部らの立場を思いやった上でのことと述べており、又、裁判に絶望すると共に、自ら犯人を探し出す以外ないと思い詰めた結果である旨その手記、上申書中で述べている(一乃至四再審)。そして、判決確定後、法務省人権擁護局、検察審査会の調査に応じて述べている内容も、事件直後或いは公判の過程で述べていたこととほゞ同旨であり、一貫していると認めることができる。

そうすると、茂子が本件につき供述するところは、事件直後の参考人供述、昭和二九年八月五日から、同月一三日に逮捕されて以降八月二三日までの各供述、同年八月二九日から起訴されるまで、そして公判段階における被告人供述、判決確定後本請求審に至るまでほゞ一貫しているものと見られ、これと全く異なる昭二九・八・二六検、同八・二七検(〈10〉〈11〉調書)の真実性、信用性が問題とされざるを得ない。

(三) 自白の真実性

そこで、茂子の昭二九・八・二六検、同八・二七検に盛られた自白の真実性について検討する。検討の順序は、本件における客観的証拠、すなわち、亀三郎、茂子の各創傷の状況と自白が照応するか否か、その他の物的証拠と自白が照応するか否か、を先ず検討し、次いで、自白調書のその他の内容と他の証拠との符合関係について考察することとしたい。

(1) 自白と亀三郎の創傷との照応関係について(第二審判決第二の三)

第一審判決は、茂子が横臥中の亀三郎の頸部頤下部を突き刺したのが最初の創傷であると認定した(第一審判決第三の六の八)。そうすると、最初に亀三郎の腹の辺を突き刺したとする茂子の昭二九・八・二六検の自白との矛盾が問題とならざるを得ないが、同判決第三の七のロ4は、「本調書の記載が全部そのまま真実であるかは疑問であるが、その大綱たる亀三郎を刺殺したことを自白した点については之を措信するに充分である」と説示する以外格段の説明を加えるところがない。

第二審判決は、第二審証人松倉豊治の証言、被告人の自白調書(昭二九・八・二六検)により被告人が亀三郎の腹の辺を突き、その後格闘の後、最後に咽喉を亀三郎が倒れた後低い姿勢の際に横から一突きしたものと認めた(第二審判決第二の三)。これらに関する他の証拠は主として松倉鑑定書(一七五丁以下)である。

右松倉鑑定書、松倉豊治作成の昭五二・八・三〇付回答書によると、亀三郎の死体に認められた創は、別紙亀三郎創傷図面(四)のとおり、

「(1)―(2)創、頤下部右側((1))より左側頸部((2))に達せる貫通刺創………左頸静脉を大半切破する。

(3)創、前頸最下部刺創………筋層に達するのみ。

(4)創、右前胸上部刺創………右肺臓の肺門部にまで刺入、右胸腔内に約二〇〇ccの出血々液を貯溜せしめる。

(5)―(6)創、心窩部左側((6))より右側((5))に刺出せる貫通刺切創………皮下筋層を刺通するのみで体腔内に刺入せず。

創、心窩部下方の刺切創………前者のすぐ下で肝臓左葉を貫通して膵臓に達してこれを切断、膵動脉をも切断し、腹腔内に約一、〇〇〇ccの出血々液を貯溜せしめる。

(8)創、右上肢肘窩部の刺創………僅かに筋肉層に達するのみ。

(9)創、右肩甲下部の刺創………筋肉層に刺入するのみ。

(10)創、左手指又は手指根部掌面の計八個の切創………三個づつ一線上に並ぶもの二組と別に二個とで、一部は骨に達し一部は皮下に達する。

(11)創、左手背の切創………皮下に達するのみ。」

というのである。そして、右各創傷の成傷器は、刀身の長さ九・〇センチメートルかそれ以上、刀幅最広部二・三センチメートルかそれ以下の片側刃の鋭利な匕首か短刀の類である、とされている。右各創傷の先後関係については、当請求審における松倉証言、小林宏志鑑定書は、(7)創が受傷の初め頃、(1)(2)創が最後頃の創傷であるという点で一致しているが、その他の創傷については、いずれも生活反応上に著しい差がないので、短時間で夫々相次いだ創傷である以上、厳密な先後関係を明確にすることは困難であるとする。

ところで、茂子の自白(昭二九・八・二六検)は、前記のとおりであるが、亀三郎の創傷に関する部分を要約すると、

(一) 南枕で寝ている亀三郎の東側に座り、右手に持つた刺身庖丁で大体腹の辺を突き刺し、続いてどこを突いたかはつきりしないが二突き程した。

(二) 主人が立上つて押入れの方へ逃げ、自分もそれを追つて行つたが、主人が刺身庖丁を奪い取ろうとして、自分の持つている庖丁の刃先をつかんで取上げようとし、そこでもじり合いになつたが、部屋の真中へんで庖丁を取上げられ、逆に夫から左腹を突き刺された。その頃、自分は寝ている佳子を起こして外へ出て行かした。

(三) その後、夫から刺身庖丁を取返し、立っている夫の胸や腹と思われる辺をめったやたらに突き刺し、一番最後に主人の咽喉を一突き刺した。

というのである。

右の茂子の自白が亀三郎の創傷の客観的内容と果して符合するものなりや否やが検討されなければならない。

イ (5)(6)創及び(7)創について

小林宏志鑑定書、小林証言によると、(5)(6)の創は、鋭利な片刃の刃器をその刀背を死体の前方、刀刃を後方にして刺入して生じた刺切創であるが、創傷(5)(三・四センチメートル)、創傷(6)(五・八センチメートル)の創縁の長さなどから見て(6)→(5)と刺入した可能性が極めて高いが、(5)→(6)に成傷した可能性も否定しえない、と述べ、前記松倉鑑定書は(6)→(5)と刺入した創傷である旨断定し、上野正吉鑑定書(四再審)、助川義寛作成の昭五三・一〇・一二付鑑定書も同旨である。当請求審において取調べた松倉豊治回答書は、前記鑑定書とは若干異り、(5)→(6)の可能性もあり得るとするが、同人の当請求審証言においては、結論的に(6)→(5)であると述べている。

これら鑑定書、証言の内容と、松倉鑑定書に添付された亀三郎の創傷部位の写真に見られる創縁の長さ、その創口の形状からみて、(5)(6)創は(6)→(5)の刺入であると解するのが合理的であり、(5)→(6)である旨述べる三上芳雄鑑定書及び同人の証言は、その結論に至る推論の過程に合理的な根拠が示されないので措信し難い。

ところで、小林鑑定書、上野鑑定書、小林証人の証言によると、

(一) 茂子の自白のように、仰向けに寝ている亀三郎を加害者がその右側に座つて(6)→(5)創を形成することは不可能である。

(二) 刺創(7)の刺入口の性状は兇器の刀背が亀三郎の左にあつたことを示しているから、亀三郎の右側に座つて加害者が右手に兇器を持ち腹部(7)の創傷を負わせることは、兇器を逆手にでも持ちかえない限り困難である。(6)→(5)創と(7)創とは、かなりに刺入方向が異つており、茂子の自白にあるように寝ている亀三郎を続けざまに刺した、という状況とは符合しない。

ことが指摘されている。

証人松倉豊治の当請求審証言は、(6)→(5)創と(7)創とは、被害者の身体の動きによつては連続的に作り得る、とし、加害者と被害者の相対関係が考慮されなければならない、とするが、亀三郎の姿勢につき、独自に例外的な姿勢を想定することによつて、矛盾はないとするものであることがその証言自体からも明らかである。

ロ (1)(2)創について

小林鑑定書、小林証言によると、「亀三郎が立位では、身長の劣る茂子は順手逆手何れでも(1)(2)創を形成することは困難である。」と指摘されている。そうすると亀三郎は身長一六三センチメートル、茂子は約一四〇センチメートルであるが、「又刺身庖丁を取り戻して、立っている夫の胸や腹と思われる辺をめつたやたらに突き刺し一番最後に主人の咽喉を横から一突き刺した」とする前記自白とは矛盾しているといわなければならない。尚、この点は更に他の証拠と合わせ後述する。

ハ その他の創傷について

小林鑑定書によると、亀三郎の中間期における創傷は、(3)、(4)、(8)、(9)の各創傷であるが、(3)創と(4)創とは、その刺入方向が異っており、連続的に刺されたものとは考え難く、最初腹部を刺したあと残っている創傷といえば胸部の(4)創だけであり、前頸最下部の(3)創を加えたとしても「夫の胸や腹の辺りをめったやたらに突き刺した」とする自白に符合する創傷は存在しないことが認められる。

ニ 左手掌面の創傷について

松倉鑑定書(一七八丁)によると、亀三郎の左手掌面には次の様な八個の創傷があり、(別紙図面(四))その状況は、

「創角は何れも尖鋭、創縁及び創面は整鋭であつて、何れも切創を認められる。

(イ) 小指末節に長さ二、五糎のもの、深さ骨に達す。

(ロ) 薬指の基部より中指根部の掌面を経て示指の延長線上に達する長さ六、二糎のもの、一部に屈曲を伴う深さ骨に達す。

(ハ) 拇指球部外側に、長さ一、一糎、深さ皮下に達するもので、やや変曲し下方の皮膚は竹状を呈す。

この(イ)(ロ)(ハ)は指の位置を適当に整えると略、同一線上にあり、本来一個の切創と認むべきものである。

(ニ) 中指の末節に長さ一、二糎、深さ皮下に達するもの

(ホ) 示指の中節に長さ一、二糎、深さ皮下に達するもので、下縁の皮膚がやや竹状を呈する。

(ヘ) 拇指の第二関節内側に長さ〇、九糎、深さ皮下に達するもので、下縁の皮膚がやや竹状を呈する。この(ニ)(ホ)(ヘ)も指の位置を整えると、同一線上にあり、一個の切創と認むべきである。

(ト) 前記(ハ)及び(ヘ)の中間にあり、長さ一、三糎、幅〇、五糎の深さ皮下に達する面上切創で辺縁はやや屈曲している。

(チ) 小指下部に横に変曲して長さ二、九糎、深さ一部骨に達するもの

以上いずれも局所に出血あり凝血を認める。」

と鑑定されている。

ところで第二審判決第二の一の(五)(ハ)は、「なお亀三郎の左掌に刃物を握ったと認められる創傷その他の創傷があること(前記松倉豊治の鑑定書)。これと前記被告人の受傷の事実から(被告人には尚他にも受傷がある、松倉豊治の検案書)両者は格闘し亀三郎は被告人の兇器を奪い取ろうとしたことが窺われ、被告人の創傷は一旦兇器を奪い取られて受けたものと考えられる。」と説示している。

果して、亀三郎の左手掌面の創傷は、「兇器を奪い取ろうとし」て「刃物を握つたと認められる創傷」であろうか。

右松倉鑑定書(一八五丁裏)によると、「左手に見られた各切創は、又かかる兇器の刃がこれらの部に触れて牽引的に作用する事に依つて生じたものであるが、………(イ)(ロ)(ハ)の三創並に(ニ)(ホ)(ヘ)の三創は夫々一群となつて各一線状に来らしめ得るが故に、防避乃至抵抗等の為、左手を持つて兇器の刃を握らんとした時に、その刃が引かれる事に依つて生じたものとするのが適当であると認められる」としているのであり、右鑑定書自体、刃物を握つて生じた創傷であると断定しているわけではない。右図面(四)にも明らかなように、右手掌(イ)(ロ)(ハ)の各創傷、(ニ)(ホ)(ヘ)の各創傷は、いずれも指の位置を整えると同一線上にあり、夫々一個の切創と認められるが、小林宏志証人によると「左手で握つたにしては傷の位置が一致しない」と指摘され、助川義寛証人によると、「本当に鋭利な刃物を握つたとしたらもつと深い傷になる。刃をぐつと握りしめるというのではなく、左方向から来た刃物を左手で指を曲げて防いだ防禦創である。亀三郎は右利きであるから握ろうとするなら右手でなければならない」と指摘されている。

茂子の自白によると、亀三郎は一旦兇器を奪い返し、さらに茂子がそれを取戻した、というのであるが、亀三郎の右手掌には何らの創傷もないこと、茂子の両手掌には何らの創傷もないことからすると、亀三郎と茂子が兇器の奪い合いをし、茂子→亀三郎→茂子と刺身庖丁が移転した旨の茂子の自白は、亀三郎の手掌面の創傷状況とは符合しないというほかはなく、むしろ、外部から侵入した賊からの襲撃に対する「防避乃至抵抗の為」(松倉鑑定書)左手で防禦しようとした際生じた創傷ではないかと考える合理的な余地がある。

(2) 自白と茂子の受傷との照応関係

松倉検案書(三一丁)によると、茂子は、昭和二八年一一月一八日松倉医師の検診を受けたが、別紙図面(五)のとおり(い)左季肋部刺創、(ろ)背面の左側腰上部創傷、(は)左上肢の肘頭部の浅い切創、の計三個の創を受け、いずれも検診時(受傷後一四日目)には殆ど完全に癒着し治癒していて受傷時の創傷の性状は定かではないが、いずれの創傷も鋭利な刃器により生じたものと認められると記されている。

右(い)左季肋部刺創と(ろ)背面の左腰上部創傷とが一個の貫通創であるとするものは、右松倉検案書、松倉豊治の第二審五回公判証言、同人の当請求審証言、三上芳雄鑑定書と同人の当請求審証言である。貫通説の根拠は、前後の創傷の形態と位置関係、茂子の着ていた寝巻背部に疵がないこと、重要臓器がその部分にはないから腹腔内をくぐり抜けて兇器が背部に達することもありうる、等であるが、松倉豊治証人は当請求審において第二審における証言を変更し、大量の出血があったので貫通の際、脾臓損傷したと思われると証言した。

ところで、茂子を入院直後に診察した臨床医の第一審証人蔵田和己、同伊藤弘之は、(い)と(ろ)の創傷は別々の機会における創傷である旨証言しており、当請求審証人小林宏志も、貫通創であれば重要臓器の損傷がある筈であること、茂子は比較的出血も少なく短期間に治癒しているので内臓損傷を伴つていないと考えられることを理由に、(い)(ろ)の各創傷は別々の二個の創であり、寝巻の背部に疵がないと鑑定されているのは見落された疑いがある、と指摘している。

小林証言の述べるように(い)(ろ)各創傷が貫通創であるとすると、該部分には、胃、横行結腸、肺臓、脾臓等があり、腹腔内には空間というものは考えられないところであるから、該部分に刀身長九・〇センチ以上、刀幅最広部二・三センチ以下の片側刃の鋭利な刃物が貫通したとすると、必ず何らかの臓器損傷、毛細血管の切断を伴うこと必定と考えられ、それによる多量の出血、腹膜炎の併発を惹起するべきところ、現実の茂子の軽度の症状とは符合しない。

従つて、茂子の(い)(ろ)の各創傷は、受傷直後に茂子を診察した臨床医の証言どおり別々の機会における創傷と認める余地が多分にあつたものといわなければならない。

そうすると、茂子の(い)左季肋部刺創は、茂子の供述する「賊が自分を便所の前附近で追い越すとき腹部にひやりとした感じがした」という供述内容に符合する関係にある。

さらに、小林宏志鑑定書、同人の証言によると、茂子の受けた創傷は、いずれも軽傷であり、同女の自白調書にある如く、同女が持つていた刺身庖丁をもじり合つていた亀三郎から取上げられ、今度は逆に夫から突き刺されたものとしては、亀三郎の受傷(特に腹部の創傷)に比して茂子の受傷が余りにも軽傷のように考えられる。亀三郎が既に体力が弱つていたとしても、相手ともじり合い兇器を取上げる体力、気力があるとすれば、女性である茂子にかなり重大な刺創や切創を兇器を奪い取つてから与えるのが当然のように推量される、とする。

又、松倉検案書によつても、茂子の手掌面には何らの創傷もなく、右自白で述べるような兇器を奪い合いもじり合つた形跡が一切存在しないのである。

もし、自白にあるように、刺身庖丁が、茂子→亀三郎→茂子と激しく奪い合われたものとすれば、茂子の右手には、何らかのそれによる創傷、痕跡が存在して然るべきであろう。右の旧証拠中に認められる客観的事実は、茂子の自白の真実性につき決定的とも言える疑いを投げかけるものと考えられる。

(3) 自白と茂子の寝巻に存するO型血液痕

第二審判決第二の一の(五)(ニ)は、茂子の寝巻に存する亀三郎の血液痕を茂子の犯行の一端を示す情況証拠として挙示した上、右付着が少量であることは茂子の犯行ではないことを裏付けるものだ、とする弁護人の主張に対し、理由第三の三において、「押収の第八号被告人の事件当夜着用の寝巻には所論のように亀三郎の血液の飛沫がむしろ僅少であることは鑑定人三村卓、同佐尾山明作成の鑑定書に明らかなように右前すその方に少量の附着があるに止り、その他背部、前部等の多量の血痕の附着は何れも被告人自身のものである。従って一応袖口その他等に今少し血液の附着すべきが至当ではないかとの疑問が生ずる」とした上で、「鑑定人松倉豊治の鑑定書によれば亀三郎の死因は冒頭認定のとおり出血による失血死であるが頸部創傷も動脈でなく静脈であるため血液の迸出力は弱く、ことに心窩部下方の創傷の後であればなお弱く、心窩部下方の創傷自体からも迸出力は弱いと認められ、又亀三郎の刺傷が寝巻の上からであると認めれば一層血液の飛散は阻害されるわけである。もちろん総ての創傷が寝巻の上からでないことは創傷の部位現場の状況から窺えるのであるが、前記外被告人の犯行時の位置体位関係も亦血液附着に影響があることは当然であり、さらに被告人のこれについての配慮作為が影響したことも考え得べく、所論血液の附着状況から直ちに被告人の犯行を否定することはできない。」と説示する。

しかし、小林宏志鑑定書によれば、もし茂子が自白調書にある通り、犯行を実行していたものとするならば、亀三郎の受傷状況や四畳半の間及びその附近の血痕の高着状況から見て茂子の寝巻の右前裾の方に少量のみ自身の創傷に由来しない血痕が附着していただけというのは余りにも附着血液量が少なく、また少範囲であつて合理的ではない、とされている。

旧証拠に照しても、例えば昭二八・一一・五付実況見分調書によると、事件直後の現場の状況は、別紙図面(三)のとおりであつて、「〈1〉居宅四帖半の寝室え裏口より上れば………(中略)………上つた直ぐの所は半間の板張りとなつて、「かんてき」「やかん」「茶袋」「バケツ」等が置いて在り、夫れ等に人血が附着して飛散し………〈2〉板の間左側(西側)の柱には血痕二ヶ所が附着してゐた。板の間と寝室の境の障子は第二四号写真の通り硝子戸と同方向に開かれ、二枚重ねとなって、障子紙にも血痕が飛散し、内側(北側)の障子で、畳より高さ一、〇五メートルの障子親桟に対照的な血液指紋壱ケを………〈3〉その(三枝亀三郎の死体の)損傷部位並に附近の寝具、畳上敷等には第一五号―第二一号写真の如く、血液飛散し残殺(惨殺の誤記)その侭にて倒れて居り………〈4〉部屋の西側は壁になつて、西北隅の壁にはラヂオテレビアンの広告紙を貼り、第二二号写真の様に畳より高さ一メートルの所より下方に飛血が附着して居り………〈5〉お櫃(半坪の板の間にある)の蓋の上に血痕が五滴落ちて居り、横には学生用女物提鞄壱ケを置き、血痕は附着してゐたが………〈6〉西側の壁下には犯行当時使用してゐた寝具の敷布で、敷布団の敷布二枚と上布団の掛布一枚等血痕の附着した衣類をつぐねて置いて在り、………(中略)………被害者の妻茂子が使用して居た敷蒲団の敷布より血痕の附着した足跡と思料されるもの二ケを発見したので………」というものであるが、その中で亀三郎ともじり合い、同人に刺身庖丁を奪われて突き刺され、さらにこれを奪い返して同人を惨殺した犯人の寝巻に、亀三郎の血液が右前裾の方に少量しか附着しないということは経験則上到底首肯し難い。第一、二審判決の認定どおりであるとすれば、又、茂子の自白が真実であるとすれば、茂子の寝巻には少なくとも亀三郎の多量の噴出血液、亀三郎と格闘し必死で兇器を奪い合つた過程で生じる筈の袖口や衿への何らかの痕跡が印象される筈であるのに佐尾山明、三村卓作成の鑑定書(一九七丁)によると、これらを発見することができない。

(4) その他

茂子の昭二九・八・二六検によると「そして私は、右刺身庖丁を取上げられた時であつたか腹を刺された時であつたかその点覚えませんが寝ている佳子を起しました。何と言つて起したかはその内容は覚えませんが、兎角佳子は裏外へ出て行かした様に思います。私が佳子を起して外に出したのは両親が突いたり突かれたりするのを子供に見られたり知られたりしたくなかつたからであります。」と述べている。

亀三郎ともじり合い、兇器を奪い合い、自らも危険の切迫した状況の中で、右のような理由で佳子を起して外へ出したというのである。まして、その後で、さらに無我夢中で庖丁を奪い取る格闘をした末、夫を突き殺したというのである。佳子と夫と三人で川の字になつて寝ているうち夫の殺害を決意したという犯行の思い付き方と共に、実際的でないことは言うまでもなく、経験則から著しく逸脱していると考えられ、何らの論証をまつまでもなく、この供述部分は真実ではないと断定することができるであろう。

さらに、昭二九・八・二七検によると「その後、私は、いつしか寝入つてしまってその後夫も眠つたものと思います。ところが、その後、時間は覚えませんが私は咳をして目が覚めました。すると、『横になつて寝たらよい』と夫が目覚めていたものと見え私に申しましたので私は東向きに右肩を下にしたのであります。これから先のことは今のところ言いたくありません。」と記載されている。

茂子が、事件発生日の早朝、咳が出て目覚めたことは、昭二八・一一・二〇員、昭二九・八・五検、同八・一四検の各調書中にも記載されており、第一審二回公判、第一審検証期日での指示説明にも「………私はその夜注射をして寝ていたのでよく眠っていましたが、咳が出たので目を覚ましました。そして私の苦しそうなのを見て、主人が『お母ちやん、横向きに寝たらよい』というので、そのとおりにし、うつうつしていた時………『奥さんおいでるで』という声が聞えたので………」との供述記載がある。

昭二九・八・二七検中にも右供述が存在することは、右自白が真実なら、茂子は亀三郎との間のそうした暖かいやりとりの後、亀三郎殺害の決意を生じ、諸々の偽装工作をした上、殺害の目的を遂げたということになろう。

しかし、このことは、本件発生の直前、亀三郎が既に目覚めていたことを窺わせると同時に、その経緯からしても、右自白内容が経験則上首肯し難いものであり、信憑性の乏しいことを如実に物語るものといわなければならない。

(5) 自白の形成過程、持続過程、撤回過程に見られる問題点

(イ) 茂子の昭二九・八・二六検(自白)には動機に関する供述が存在しない。家庭内犯罪、しかも外ならぬ夫を殺害したというのであるからこれは異常なことである。もし、茂子が認定されているような動機で亀三郎を殺害したのであれば、自白は、先ず亀三郎を何故殺害しなければならなかつたのか、その深いいきさつから語り始められるのが通常であろう。

この点につき、取調を担当した村上検事は次のように証言している。

証人村上善美の第一審一八回公判証言

弁護人

一般的に言つて被告人が否認していたのが自白した時は詳細な調書をとるのが普通であるが八月二六日付の調書はあらましの事しか書いてないがどうしたのか。(一六八五丁表)

隣室に居た田中が出て行つて再び戻って来て一筆調書でもよいから引上げて来いという次席の命令を伝えて来たから詳しいことは尋ねなかったのです。

八月二七日の取調べの時、被告人は懐中電灯は店の物だと述べたが、その際、何故前には賊が残して行つた物だと言つていたのかと追及しなかつたのか。

その点は尋ねませんでした。

八月二七日の取調べの際、犯行の動機を尋ねようとしたか。

動機まで尋ねるところまで行きませんでした。切角自白しかけていた時、何故、一筆調書でよいから引上げて来いと次席が連絡して来たのかということを後で田中事務官や次席検事に尋ねたか。

その当時は勿論、その後もその点については田中事務官や次席に尋ねませんでした。

被告人が自白した内容をその当時上司や共同捜査をしていた者に話したか。

上司に報告しました。藤掛検事にも話しました。

調書の日附から考え、八月二九日附の被告人に対する藤掛検事作成の調書には被告人が犯行を自白したことについては何も出ていないが、若しその前に自白しているのなら八月二九日にはその点を詳しく尋ねると思うがどうか。

何故藤掛検事が自白の点について尋ねなかつたのか知りません。

八月三〇日附の調書に対する署名を拒否したのは懐中電灯の点が違うと言って拒否したが、その時何故その点を訂正してやらなかつたのか。

そのような調書であれば署名しないと断言し訂正しても署名する気配がなかつたからです。

自白が任意になされたのであれば、細かな殺害の方法まで供述しているのであるから、自白者の供述は自ら動機に及ぶ筈である。まして一〇年来連れ添つた夫を殺害したというのであるから、又、それまで否認し続けて来たのであるから、自白と共に一挙に思いのたけを吐き出すのが通常の自白者の心理というものであろう。村上証言によると、「動機まで尋ねるところまで行きませんでした」というのであるが、茂子が、真実、自白したのであれば、どうして殺害の状況については事細かに述べながらも、夫殺害に至る経緯とその心情について述べるところがないのか不可解である。

(ロ) ここで想起されるのは、村上検事が昭和二九年七月一〇日頃の時点で、既に明解な茂子犯人像を想定していたという客観的事実である。

同検事作成の「冨士茂子に対する擬装殺人被疑事件捜査の経過」(一偽1)と題する書面によると、徳島地検においては昭和二九年七月一〇日頃捜査会議を開き、検事正、次席検事以下担当検事に松倉博士を加えて、「………検討論議を重ねた結果、犯人は外部より侵入したものではなく、茂子が先ず兇器をふるつて寝ている亀三郎の腹部を突き刺したものの、海軍一等兵曹として鍛え上げた亀三郎は痛手に屈せず立ち上つて茂子と兇器の取り合いに及んだが、暗夜のこととて数ヶ所に刺創を受け、漸く茂子より兇器を奪い取って茂子を一突きしたが、多量出血の為力遂きて座敷に倒れ、遂に茂子に兇器を奪い返され、最後に茂子から頸部に止めの一刀を受けて死亡するに至つた。然も茂子は右止めの一刀に当つて通常の止めの一刀と異なり咽喉部を正面から突き刺さないで頸部を真一文字に横刺しにし、以て発声音を不明ならしめんとしたものであり、然もその真の兇器は何処かに処分し、犯人が外部から侵入したものと見せかける為、前記匕首を新館裏手のコンクリート壁にもたせかけたのではないかとの嫌疑が濃厚であるとの結論に達した。」と述べられている。

右村上検事の報告は、次の点で本件の解明のための強力な手掛かりを与える。

第一に、その内容が、茂子の昭二九・八・二六検における自白内容と余りにも近似していることである。右村上検事の想定を、茂子自らが語った形に文章を書き直すならば、直ちに昭二九・八・二六検の内容になり代わる程に。

第二に、村上検事が結論づけた茂子犯人の想定が出来上つた時期の早さについてである。昭和二九年六月末、一旦、川口犯人説に基き起訴状原案まで作成されたが上司の決裁が得られず、他に真犯人があるかもしれないとして両面捜査を指示され、村上検事を主任とする特捜班が編成されたのが同年六月三〇日の頃であつた(前記「捜査の経過」一偽1)。その後、七月一〇日までに展開された捜査といえば、村上検事の述べるところによつても、(一)記録の検討、(二)新館板戸の開閉時期等外部侵入者の有無、西野、阿部、三枝方元女中の佐々木良子らに対する任意捜査等基礎的捜査だけであり、西野、阿部らも、この段階では、茂子犯人の決め手になるような供述は何もしていない。かような捜査状況の下で同検事は、一体何を根拠にこの余りにも大胆にして明解な茂子犯人像を想定することができたのであろうか。証拠に基く推論ということを前提とする限り、新旧証拠を検討しても、この段階で、同検事の手元に、右のような想定を合理的になし得るだけの証拠は存在していなかつた筈である。

第三に、右の想定が、西野逮捕、阿部逮捕そして茂子逮捕、茂子起訴と発展して行つた本件捜査の出発点であつたことを同検事自らが語つていることである。粘り強い証拠の集積により、動かし難い犯人像を遂に確定し、それから身柄の確保を検討する、という捜査の常道に沿うのではなく、先ず一定の犯人像を設定し、直ちに関係者の身柄を拘束し、想定した供述をひたすら迫り、当初の犯人像に合致する供述調書の作成に鋭意腐心するという典型的な見込み捜査が展開されたといわざるを得ない。

以上により、茂子の自白の形成過程には、捜査官の本来有していた想定の押しつけが歴然としており、その内容も、本来、夫殺しの妻がその犯行を遂に自白したものとみるには不自然な要素に満ちている。

(ハ) 茂子の自白調書は、昭二九・八・二六検、同八・二七検だけであり、それも前述のとおり夫殺しの犯人の自白調書というには奇異なものがあるが、昭二九・八・二九検(藤掛)では、否認に戻り、自白した旨の供述記載を窺うことはできない。そして、昭二九・八・三〇付調書には署名拒否している事情、昭二九・八・三一付手記にみられる、その当時の茂子の心情からみると、茂子は八・二六付、八・二七付調書に署名してはいるものの、必ずしもその真意から発したものであるかどうかについては多分に疑問のあるところである。

かように自白が検察官の提出した事実を承認するだけであつて、その時点では本人だけしか知らないような事実が述べられず、しかも、それが二、三日後には取消されているような場合には、元々、自白としての証拠価値を容易には承認すべきでない概括的自白であつて、それらに任意性、真実性を認めるのは危険である。

(6) 自白の真実性についての評価

(イ) 茂子は、事件発生の当日、娘の佳子、店員の西野、阿部らと共に警察で取調を受け、外部犯人が四畳半の間に侵入した状況を詳細に供述していた。その内容は、同じ頃、四畳半の間に居た佳子の供述ともほゞ合致していた。その事件直後の供述は、茂子が亀三郎殺害の被疑者として取調を受けてからも、公判段階においても、そして判決確定後服役するに至つてからも基本的に変ることなく一貫している。

(ロ) 茂子がしたとされる昭二九・八・二六検、同八・二七検(村上)の各自白は、その形式自体、動機の記載に欠け、真に夫殺しの妻がした自白とは容易に受け取り難い上、余りにも簡単であり過ぎ、それまで頑強に否認し続けて来た同女が真になしたものであるか多分に疑問の余地のあるところであつたが、当請求審で取調べた村上検事作成の「捜査の経過」(一偽1)と題する書面により、右自白は、それより一ヶ月半も以前の捜査の基礎的段階における、必ずしも証拠に基いたものとは言い難い同検事の想定の単純なる焼き直しであるに過ぎないことが明らかになつた。茂子は、昭二九・八・二九検(藤掛)においては形式上も自白を撤回した形になつており、同月三一日には、当時の心境を率直につづつた直筆の手記が当請求審において取調べられた。これらは、当時の彼女に対し、何がどのように迫られたかを端的に表現しており、その状況下で彼女がどのような心理状態に追い込まれていたかを窺うことができる。

(ハ) 茂子の自白内容は、経験則に照らしても、それまで一応平和に過ごして来た妻が夫、娘と三人で川の字になつて寝ていた早朝、突如として夫の殺害を決意するに至るという、それ自体突飛で理解し難い内容を随所に包含しているものであるが、旧証拠中の動かし難い客観的証拠、即ち亀三郎の創傷、茂子の受傷状況、茂子の寝巻への血痕附着状況、四畳半の間の状況、等とは両立し難い矛盾を包蔵していることは既に詳しく述べた。

以上、茂子の昭二九・八・二六検、同八・二七検における自白は、その形成過程、その形式と内容、その持続、撤回の夫々の過程の何れの観点から考察しても、茂子が、真実、任意になした自白と認めるのには余りに多くの疑問があり過ぎ、畢境、取調を担当した検察官の想定を押しつけた上文章化した類のものと考えられ、裁判上の事実認定の用に供すべき性質のものではなかつたものと見るのが妥当である。

従つて、茂子の自白には、任意性に疑いがあり、真実性は存在しない。

6 第二審判決が情況証拠として説示する諸点(第二審判決第二の一の(五))

第二審判決は、その理由第二の一の(五)において、「さらに以下の状況証拠は被告人の犯行の状況の一端を示すものである」として、(イ)犯行現場の血痕等の附着状況、(ロ)被告人の左季肋部刺傷、(ハ)亀三郎の左手掌面の創傷、(ニ)被告人の寝巻に存する亀三郎の血液、(ホ)犯行後現場の夜具蒲団を逸早く取片付けてあつたこと、(ヘ)四畳半西北隅押入の板戸が割れその傍のポスターに血痕の附着していること、等を挙げている。

右の夫々の事実が、新旧証拠を総合して評価した場合、どの程度に茂子の犯行を認定する情況証拠たりうるかが検討されなければならない。

(一) 犯行現場の血痕等の附着状況(第二審判決第二の一(五)(イ))

第二審判決は、理由第二の一(五)(イ)において、

(A) 四畳半の間南側障子内側の西端親桟下方から約一〇五センチメートルのところに指頭を斜外に向けた形状で血液による亀三郎の左拇指紋が存し、右拇指紋は同所から下方にずり落ちた形跡を示していること。

(B) 右障子の内側に飛散した亀三郎の血液が存すること。

(C) 縁側に同種多量の血液が滴下し、且つ右血液を室内の方向に摺つたような形跡の存すること。

(D) 右拇指紋附着の親桟の西、縁側便所入口前に接近して敷居外側に被告人の血液による右母趾紋が何れも斜外に向き、東西に接近して二ヶ所、何れも趾紋がずれて重複して残されていること。

以上の(A)乃至(D)の事実を認定した上、右の各事実から次の三つの推定をしている。即ち、

第一に、以上の状況から、亀三郎は、右縁側敷居附近においても刺され、一旦縁側に身体を出し、左手を障子親桟にかけていたが、そのまま同所に崩折れたと推定しうる。

第二に、被告人の右母趾紋には、前進意欲が認められず、重心は室内にある左足にかけられ、体は東南方即ち亀三郎の位置に重なる状態にあり、足紋の重複異動は何らか行動に出たことを示しておるので、前記亀三郎の位置、血液の滴下、飛沫等の状況と亀三郎の創傷に鑑み、おそらく右両者の位置で被告人が亀三郎の胸部を刺したものと推定することができる。

第三に、前記引摺つた形跡は、亀三郎の最後に倒れていた位置に照らし、右崩折れた亀三郎を被告人が室内に引摺つたか又は亀三郎自身摺るように室内に入つたことが推定される。

というのであるが、右三つの推定は、第一審証人和田福由が、実況見分調書添付写真により行つた推定(第一審三回、一三回公判証言)及び、三回公判で証言後、同人が作成した鑑定書(昭和二九年一一月二〇日着手、同年一二月一一日に完了)の内容を全面的に信用し採用した結果であることがその説示自体からも明白である。

そこで、右の各推定の合理性が検討されなければならない。

(1) 第一の推定について

この点に関する和田福由証人の証言は次のようである。第一審三回公判(三一七丁以下)

村上検察官

その外にはどうか。

廊下と四畳半の間の仕切りの障子の便所寄りの親桟の見付の下から九五センチメートルの個所に血液指紋が一つ付いていました。

それは誰の指紋か。

亀三郎の左手の拇指紋でありました、その外その障子には、はつきりしたものは検出できませんでしたが上から下へ手がずり落ちたような血液が点々と付いておりました。

それ以外には障子には血液の飛沫等が付いていたか。

障子の内側に小豆の半分位の直接直角に飛ぶ付いたような血液の飛沫が一〇数滴付いていた外、下の腰板にも斜にさつと垂れ下つて飛び付いたような血液の飛沫が一二、三ヶ所付いていました。

それらの血液はどういう機会に付着したものと推定されたか。

障子に近接して刺されたものと思います。ただ障子のすぐ下の畳の部分には血が付いていないので立つた侭の状態で刺されたもので障子との距離は三尺も離れていなかつたと推定されます。……………

障子の親桟から指紋がずり下つているというのはどんなことか。

障子の親桟に手を触れていた時に三秒後に刺されて立つ気力もなくその侭倒れ込んで仕舞つたものと思います。

亀三郎の倒れた位置はどこか。

その親桟の処に足を向け斜に座敷の中に倒れていました。

ところで、小林宏志証人の証言、同人作成の昭五三・一・九付、同一・三一付意見書によると、右親桟の指紋につき、障子の親桟の下方より約一〇五センチメートルの高さに左手拇指をあて、身体を支えるときは、左手拇指以外の各指や手掌面も障子に触れるのが通常であり、しかも左手拇指以外の血液指紋が検出されていないことからすると、右血液指紋附着時に左手拇指以外の各指や手掌面に血液が附着してはいなかつたように推定され、そうすると、左手拇指紋と同障子親桟の下方より一三センチメートルの高さまでの「血液により手を触れた形跡」とは連続的に印象されたものとは考え難い。従つて、亀三郎が親桟をつかんだのは、兇行開始直後に一度親桟をつかみ、そして兇行の終り頃、亀三郎が再度障子附近に来てその下方をつかんだのではないかとの推定が成立つ、とされている。右は、あくまで犯行現場の遺留血痕からの推定ではあるが、前記和田証言の如く、「障子の親桟に手を触れていた時に三秒後に刺されて………倒れ込んで仕舞つたものと思います」というような、時間をまで特定しての余りにも大胆に過ぎる想像ないしは推論に比し、少なくとも科学的であり、親桟をつかんで亀三郎がそのまま現場に崩折れたとの和田証人の推定を一義的なものとして支持することができないことが明らかである。

(2) 第二の推定について

和田福由作成の鑑定書(昭二九・一二・一三付)(八八七丁以下)によると、現場四畳半の寝室より裏出入口に通じる板の間廊下上に証一号血液趾紋Aと証三号血液趾紋Bの二つの血液趾紋が採取され、右証一、三号の両血液趾紋はいずれも茂子の右母趾紋である。

ところで、右和田鑑定書によると、「六、血液並びに血痕足紋より見たる冨士茂子の位置と行為の観察。証一号及び証三号並びに参考写真(五)に示すABにより、冨士茂子は裏出入口方向へ逃がれ、又は救援を求めようとして屋外へ移動の際印象された足紋であると認めることはできない。」と断定し、さらに「即ち証一号のAよりA′に至り、次でBよりB′に重複異動したるもので、何れも裏出入口方向に移動せんとしたる状態に趾先を圧したる形跡を認められない。その際左足を畳上に位置し、上体を東南方に向けたる状態にありたるものと推定される。」旨の推定をした上、さらに前記障子親桟に遺留されていた亀三郎の左手拇指紋(証五号血液指紋)と同障子北面の障子紙に飛散していた血液二方向群により兇行位置を観察した上、「このことは、亀三郎が東方より前記障子北面寄りに裏出入口方向へ逃れるべく移動中に刺されたものと充分認識される。その場合、同障子北面に印象の亀三郎の左拇指々紋並びに同箇所に移動し来るまでの障子北面に印象の血痕による二方面飛散群の形態及び亀三郎の位置に対し茂子の位置がABにおいて相接したる状態にあり、而も、A及びA′並びにB及びB′と何れも同一足紋が重複印象されて西方より東側へ右足が移動した事実により、茂子が何等かの行為に出でた心理状態が趾先に充分顕われていることが窺われる。」とするものである。

右鑑定書は、同人が第一審三回公判で証言した後作成され、右証言内容を更に詳細に書面化した内容を含むものであるが、同人の証言を見てみると、

証人和田福由第一審三回公判証言

村上検察官

被告人の足紋はどんな事からついたか。(三一八丁表)

これは廊下で格闘状態になつたものと見なければなりません。茂子が裏口から直ぐ逃げようとしたのであれば、もう少し連絡のある正常な間隔の歩みがある筈であります。それに拘らず、便所寄りの敷居から五センチメートル位の処に二ヶ所もダブつて足紋が付いており、その状態には、裏口へ出て行こうとした形跡が見受けられず、そこで躊躇逡巡したため左足に力が入り、右足の足紋に力が入つていないのだと考えられるので、これはそこで左足に力を入れて格闘した際付いたものと考えられます。

それらの血液をにらみ合わせて証人は現場の状態をどう考えるか。

亀三郎の左手拇指紋が障子の親桟についており、且つ多量の滴下した血液がこの親桟から一尺位離れた処に付いているので、これと茂子の足紋とを考え合わせると、亀三郎と茂子は非常に接近して肩と肩とが接しているような状態にあつたものと考えられます。

すると、被告人と亀三郎は、肩と肩とが接するような状態において格闘したと見て差支えないのか。

そう見て差支えないと思います。

証人和田福由第一審一三回公判証言

弁護人

なお証人は、廊下に附着している被告人の足紋について、被告人が裏口から逃げようとしたのであればもう少し連絡のある正常な間隔の歩みがある筈だが、廊下の足紋はそうではなく、左足に力が入り右足に力が入つていないので同処で左足に力を入れて格闘した際付いたものと思う、ということを詳しく述べているが、これは証人が足跡だけを見て判断したのか。(一一九五丁表)

そうです。

その足跡の状態から証人が述べている以外の場合は考えられないか。

私が述べた以外には推定できません。

……………

村上検察官

犯行現場の裏側の廊下についている被告人の足跡は、被告人の言う如く、犯人が逃げて行く時、廊下で被告人を追い越し被告人が便所の戸の方にひつついてこれを避けた時に付着したものとは考えられないか。(一二〇一丁表)

そうではありません。現場の状況からは私が説明したとおりの状況しか考えられません。

被告人の供述は嘘であるというのか。

さようです。茂子のいうとおりであれば、茂子の体には相当傷があり出血していたので便所の扉にひつつくと便所の扉に当然血が付くのが建前だと思いますが、それが付着していません。それに現場が非常に荒れている状況及び犯行の時間が非常に長くかかつている点その他廊下に置かれた茶罐の水を犯行後茂子が飲んだらしい様子が茶罐に沢山血の指掌紋が付着している事より認められるので、若し賊が入つたのならそれだけの余裕はない筈である点等を考え合わせると、茂子の供述は嘘であると考えざるを得ません。

第二審判決がした推定が右の和田鑑定書、和田証言を全面的に信頼に値するものとして採用した結果であることはその説示自体からも明白であり、他に確定記録中この推定を裏付ける証拠は存在していない。

ところで、右のような推定が合理的なものとして成立し得るためには、幾つかの前提条件が必要なように考えられる。

即ち、犯行現場である四畳半の南側廊下敷居附近の母趾紋と四畳半の間との境の障子親桟及びその北面に付着していた血痕について、

(a) 茂子の足紋と、亀三郎の指紋、血痕とが同一時期のものであること

(b) 人間の足紋の形状、態様だけからでもその人の位置、姿勢、動きやひいてはその時の心理状態までが推定しうるという採証法則上の方法論が確立していること

(c) と同時に、茂子の右母趾紋から茂子の位置、姿勢、動き、心理状態までを推測した和田鑑定書が方法論として正しいものであること

(d) 亀三郎の血痕から同人の位置、姿勢、動き、同所での負傷部位までが推定し得るものであること が右推定を合理的なものとして裁判上の事実認定の世界に用いうるための必要条件であるように考えられる。

しかし、本件確定記録の全てによつても、茂子の右母趾の血液趾紋と、亀三郎の左拇指の障子親桟上に存する血液指紋とが同時期に印象され付着した旨認めるに足る客観的証拠は存在してはいない。和田鑑定書と和田証言は、本来証拠により認定されるべき重要な前提的事実を単純なる推測により割切つた上、その上で「推定」を展開した疑いが濃厚である。茂子の右母趾紋と亀三郎の左拇指紋の印象時期が異なるとすれば(狭い四畳半の間附近の、しかも相当の時間の幅における複数の人間の動きであるから、それら足紋や指紋が異なる時期における異なる動作の際に印象された可能性が常に存在する筈であり、同一時期のものである旨想定する側に、むしろ厳密な証拠による立証が必要と解されることは、事柄の性格からしても極く当り前のことと言わなければならない。)右二つの血液趾指紋だけから、茂子と亀三郎の位置、姿勢、行動、相互の体位の関係までを詳細に展開した和田証言、和田鑑定書はまさに想像を恣意に組み立ててみた、という以上のものではなく、厳密を要する裁判上の事実認定の世界からは放逐されるべき性質のものであるといわなければならない。

次に、仮に茂子の右母趾紋と亀三郎の左手拇指紋とが同一時期に印象されたとしても、右和田鑑定書の採用した方法には初歩的誤りを犯した疑いが濃厚である。

すなわち、同鑑定書によると、茂子のA、B二ケ、重複異動したA′、B′二ケの合計四ケの母趾紋については「A→A′次いでB→B′に重複異動したもので裏出入口方向に移動せんとした形跡は認められず」としているのであるが、助川義寛作成の昭五三・一〇・一二付鑑定書、同人の証言によると、AとA′は逆転紋であり、BとB′は正像趾紋であるから、AA′がBB′より先に付着する筈がなく、先ずうすい血液を踏んで母趾に付着し証三号(BB′)を押捺したあと、多量の血液の部を踏んで証一号(AA′)の逆転紋を生じたと考えられるとし、又、AとA′の関係もA′の方が鮮明であるからその時間的順序はA′→Aと見るべきであり、BとB′の関係も降線の濃度や数の多さからみてB′→Bと移動したと考えるのが合理的であると述べる。従つて、助川鑑定によると、茂子の右母趾紋の移動は(B′→B)→(A′→A)であり、より正確には、(B′→B)→×→(A′→A)の可能性が強いというものであつて、そうすると茂子は東から西へ、つまり便所方向に移動していることになり茂子の供述を裏付けることになる。

小林宏志意見書(昭五三・一・九付)、同人の証言も、Aは逆転紋、Bは正像趾紋であるから先ずBが先に印象され、次いでAが印象されたとの推測が可能であり、血痕の付着状況からは茂子はむしろ東南方よりも南方に向いた状況にあつたと推測されるが左足の位置が確定できないので身体の向きも確定できない、と述べる。

さらに、A、Bの右母趾紋だけから「茂子が何らかの行為に出た心理状態が趾先に充分に顕われていることが窺われる」とする和田鑑定書については、小林鑑定書、前記助川鑑定書、助川証言が指摘するように、単なる趾紋だけからは体重の移動、力のかかり方が小趾側にかかつたか母趾側にかかつたか、を降線の形から言うことは可能であるにしても、当該趾紋を印象した人間の前進意欲とか心理状態までをも推測しうるという科学的根拠が存在するものとは到底考え難いところであつて、和田鑑定書は実体ある物証につき考察を加えるべき鑑識採証学的立場からははるかに逸脱した独断的な観察方法であるというほかはない。

してみると、前記(1)で述べたこととも合わせて、第二審判決がした第二の推定は、その推定を合理的ならしめる前記(a)(b)(c)(d)の前提条件をいずれも欠落したものというほかはない。

(3) 第三の推定について

第二審判決がこの推定をなすに至つた根拠は、理由第二の一(五)(イ)において摘示する(C)縁側に同種多量の血液が滴下し、且つ右血液を室内の方向に摺つたような形跡が存すること(実況見分調書)と、第一審三回公判における証人和田福由の証言

村上検察官

亀三郎の倒れた位置はどこか。(三二〇丁表)

その親桟のところに足を向け斜に座敷の中に倒れていました。

それはどうした関係か。

障子の親桟の処へ亀三郎が倒れ、座り込んだ時に、亀三郎の肩の辺をつかんで座敷の中へ引摺り込んだものと考えます。廊下の血が西南から東北に向つて飛んだようになつているのでそのように考えられるのであります。

それは誰が引摺り込んだものか。

亀三郎と茂子が廊下附近で格闘したと考えるので茂子が引摺り込んだものと思います。

を全面的に信用した結果であることは、その挙示する証拠関係からも明白である。

和田福由証人は、さらに第一審検証期日における証人尋問に際し、右推定の過程をより直截に次のように証言している(六九二丁表以下)。

「一、以上証言した各血液の付着状況を総合して考えると、亀三郎は障子から二尺位内側の位置で刺され、その後障子の親桟に左手をかけ、足は廊下へ出ていたかどうか判定できませんが体は廊下上の血液の落下している個所の上に数秒間おり、それから室内に引返し左手を障子の親桟にかけた侭敷居の内側にへたり込み、茂子は前述の足紋の状況により推測される位置で丁度亀三郎と東南の方向に向いて重なり合つた形になつて立つていた訳になり、更にそれからへたり込んだ亀三郎を茂子が右横合から押したか、又は引摺り込んだかして炊事場の出入口の西側の柱の処へ頭の位置が行くように倒れたものと認められます。

一、しかし、鑑識の結果によつては、亀三郎の体を移動させた事について横合から押したとか引き摺り込んだということの証拠はありませんので、或いは亀三郎が自力で室内に入り前述の位置に倒れ込んだのかも知れません。」

従つて、第二審判決のした第三の推定についても、これを裏付けるに足る証拠は何もないこと、第三の推定は第一、第二の推定とセツトになつており、第一、第二の推定が合理的なものと認められる場合のみ、合理性を持つ性質のものに過ぎないことが右和田証言自体からも明らかである。

ところで、前記助川鑑定書、助川証言によると、廊下上の血液の擦過した痕跡については、或る程度血液が凝固しつつある段階で擦過したもので、落下した時期と擦過した時期との間には時間的前後関係にやや差があること、擦過痕跡は重畳物を押えて圧力をかけて引張つた跡ではなく、従つて人体が倒れているのを引き摺つた故にできたようなものではなく、着物の裾などがその上を二〇センチメートルほどの間引つぱられて擦つてなでたようなものである、旨述べている。

以上の検討から少なくとも言いうることは、第二審が行つた三つの推定は、必ずしも科学的合理的根拠を伴つていたとは言い難く且つその内容自体からしても余りにも大胆に過ぎると考えられる推測に基いた和田鑑定書、和田証言を、安易にそのまま全面的に採用したものというほかはない。

而して、第二審判決は、右三つの推定によつて想定した事実を「以上の客観的事実」として客観化した上で、茂子の供述と対立させ、結局、茂子の供述は、右の「客観的事実」に矛盾するとしてこれを排斥しているのであるが、右三つの推定によつては、茂子の供述を排斥する根拠として充分でないことは勿論、茂子の犯行の一端を証する情況証拠たりえないことも叙上の諸点からして明らかと言わなければならない。

(二) 茂子の左季肋部の受傷(第二審判決第二の一(五)(ロ))

第二審判決は、茂子の左季肋部に刺傷が存在することを茂子の犯行である情況証拠として挙げている。その説示するところだけからはどのような意味で情況証拠たりうるとするのか明らかではないが、同判決第二の一(五)(ハ)に述べるところによると、茂子に右の創傷があることは、その認定にかかる亀三郎との格闘があつたこと、その際、亀三郎により突き刺されて受傷した証拠である、とするものである。

しかし、元々、茂子は、廊下に出ようとした際、後方から賊に突き刺された旨一貫して供述していたところであるから、茂子の受傷という事実だけを以て、茂子犯人の情況証拠とするのは妥当を欠く。茂子の右供述を排斥し、疑いもなく亀三郎との格闘の結果による受傷である旨断定するためには、茂子の自白と茂子の受傷の部位、程度、犯行現場の四畳半の間の客観的状況等との照応関係はいうまでもなく、ひいては、確定判決が認定した事実それ自体と茂子の受傷の状況が客観的に、しかも合理的に符合するものかどうかの検討が厳密に行われなければならないであろう。

ところで、前記5(三)(2)でみたように小林宏志鑑定書、同人の証言によると、茂子の(い)ないし(は)の創傷は、いずれも軽傷であり、第一、二審が認定したように、茂子が持つていた刺身庖丁をもじり合つていた亀三郎から取上げられ、今度は逆に夫から突き刺されたものとしては、亀三郎の受傷に比し茂子の受傷が余りにも軽傷であり、亀三郎が既に受傷していたとしても相手ともじり合い兇器を取上げる体力、気力がある以上、女性である茂子にかなり重大な刺切創を与えるのが当然のように推量されること、亀三郎と茂子との各創傷は、同一兇器による同一握りによる手首の動きで、双方共に立位で形成しうる、と指摘されている。

これらのことは、あえて新証拠にまつまでもなく、裁判所による証拠評価の枠内においても合理的に推認しうるところであるが、第二審によると、茂子は、寝ている亀三郎の腹の辺を突き刺し、その後格闘となつて兇器を一旦奪い取られ、自ら受傷してのち、再び亀三郎より兇器を奪い返して、その咽喉を突き刺して殺害した旨認定されている。しかし茂子の手掌面には、兇器の奪い合いをした形跡を物語る筈の何らの創傷はなく、又、その受傷の程度、その数、いずれをとつてみても、認定された事実に比して余りにも軽微であり、これらに第一、二審判決の認定を裏付けるものというよりは、むしろ茂子の一貫した供述を補強する関係にあるものと認められる。

そして、亀三郎、茂子の各創傷が、同一兇器による同一握りで、しかも立位により形成可能であるとする右の鑑定結果は外部犯人により亀三郎が殺害され、自らも受傷した旨述べる茂子の供述をさらに積極的に裏付ける関係にあるというべきである。

(三) 亀三郎の左手掌面の創傷(第二審判決第二の一(五)(ハ))

第二審判決は、亀三郎の左手掌の創傷は、刃物を握つたと認められる創傷であるとし、このことと茂子の受傷の事実とから両者は格闘し亀三郎が茂子の兇器を奪い取ろうとしたことが窺われる、とするのである。

しかし、前記5(三)(1)(ニ)で既に見たように、亀三郎の右創傷は、刃を握りしめたというのではなく、左方向から来た刃物を左手で指を曲げて防禦した防禦創と見るべきこと、右利きであるから握ろうとするなら右手でなくてはならず、右手には創傷はないこと、茂子の両手指に兇器の奪い合いをした痕跡はないこと、からして、この点も第一、二審判決のような認定を裏付ける情況証拠とはなりえないものと考えられる。

(四) 茂子の寝巻に存する亀三郎の血液(第二審判決第二の一(五)(ニ))

前記5(三)(3)で見たとおり、茂子の事件当夜着用の寝巻に亀三郎の血液の飛沫は僅少であり、右前裾の部分に少量の附着があるのみである(鑑定人三村卓、佐尾山明作成の鑑定書一九七丁)。このことは、第一、二審判決が認定した亀三郎と茂子の格闘の態様、特に兇器の奪い合いをしていること、前記5(三)(3)で述べた犯行現場(図面(三))である四畳半の間の壁、ポスター、障子、或いは、裏口から入つた半間の板張りにある「かんてき」「やかん」「茶袋」「バケツ」等への人血の飛散の状況と対比するならば、異常に附着量が少ないというほかはなく、第一、二審判決の認定に対して、むしろ重大な疑問を投げかける証拠と言うべきである。

(五) 「犯行後現場に敷いてあつた夜具蒲団を逸早く取片付けてあつたこと」について(第二審判決第二の一(五)(ホ))

第二審判決は、右の項目を設け、右の事実をもつて茂子犯人の情況証拠としている。右事実を認定した証拠として、実況見分調書、証人村上清一の第一審三回公判証言が挙げられている。そして、「右は外部からの侵入犯人の兇行としては考え難い余裕ある態度であり、むしろ犯跡隠蔽のためと考えられる」と説示している。

しかし、四畳半の間に敷いてあつた蒲団を片付けることが、仮に茂子が犯人だつたとして、どのような意味で犯跡を隠蔽したことになるのか必らずしも明らかではない。四畳半の寝室はそれ自体狭い上に、亀三郎が負傷して倒れ、医師の往診を求めているわけであるから夜具蒲団の類は片付けてから迎え入れるのもあながち不自然と言うことはできないと考えられる。

ところで、第一審判決が「素早く」(判決第三の四のロ)、第二審判決が「逸早く」片付けたとされる蒲団の片付けの時間的関係を見ると、これを認定した証拠は、実況見分調書、証人村上清一の第一審三回公判証言である。ところで、実況見分が開始されたのは、昭和二八年一一月五日午前七時五〇分からであり、村上清一が現場に到着したのは、「午前六時五分か一〇分」(第一審三回公判証言)であり、同人の現場到着時点には、既に茂子は入院して現場には居なかつたことが明らかである。従つて、右実況見分調書、村上証言から、「逸早く」蒲団を片付けたと認定しうる内容は含まれていない。武内一孝の第一審五回公判証言も「蒲団は敷いてあるような状態ではなく、座敷の隅に置いてあつたと記憶しますが、それが、どんな状態で置いてあつたかは、はつきり覚えていません。」(五四二丁表)というものである。

他方で、第二審判決第二の一(二)によると、「間もなく被告人は斎藤病院に入院のため家を出、西野は命ぜられて病院へ蒲団を運び、次いで近所で七輪を買入れて………」と認定されている。右の病院へ運んだ蒲団がどの蒲団であるか、これを確証する証拠はないが、三枝方は新館建築中であり、その間八百屋町と大道との二重生活をしていたものであることを考えると、西野が運んだ蒲団は、茂子の蒲団の敷布をはずして運んだ蓋然性が強い。

そうすると、村上清一の到着時点、或いは実況見分開始の時点において蒲団が片付けられてあつたことは別に不思議でも何でもないことになる。

元々、蒲団が片付けてあつたことが、茂子犯人の認定に際し、どのような意味で情況証拠たりうるのか、何故そのことが犯跡の隠蔽になりうるのか疑問の多いところであつたが、旧証拠の枠内で、その時間的関係や、病院に蒲団を運んだ旨の第二審判決自体が認定した事実との対応関係を検討しても、右事実をもつて茂子犯人の情況証拠とすることは、それ自体誤りであつたといわれなければならない。

(六) 「四畳半西北隅押入の板戸が割れポスターに血痕の附着していること」について(第二審判決第二の一(五)(ヘ))

第二審判決は、四畳半の間押入の板戸が割れポスターに血痕の附着していることは、同所で格闘が行われ、西野、阿部が、二人の姿が押入の方へ移動した旨の供述と照応しており茂子犯人の情況証拠とする。しかし、押入板戸の割れ、ポスターへの血痕の附着している事実は、四畳半の間で格闘があつたことを証し得ても、西野、阿部の供述が虚偽であれば亀三郎の格闘の相手が茂子であるということにはならない。

元々、西野、阿部が真実目撃したものであれば、押入板戸が割れ、壁面のポスターに血痕の飛沫する凄まじい格闘が行われているのであるから、それこそ大変だとして人を呼ぶなり、助けに入るなりする何らかの行動に出るのが通常であろう。しかし、同人らは格闘を目撃したと称し乍ら、「大したことはない」と思つて小屋へ戻つた、というのであり、同人らの行動は、右のような四畳半の間の状況とは本来そぐわないものであつた。両名の格闘目撃に関する証言の信憑性については、詳細に見たところであるから繰返さない。これらは、旧証拠相互、第一、二審の認定した事実相互に内在した矛盾である。

ところで、小林宏志鑑定書、小林証言によると、四畳半の間北側の押入横壁にかかつたテレビアンポスター紙に附着した血痕のつき方、亀三郎の受傷の位置、創傷から推定される出血の模様などから考えると右血痕は比較的高い位置の、しかも飛散するような出血を伴う創傷からのものと考えられ、又、(1)(2)の創傷は頸動脈は切つてはいないが細少動脈は切つているので、右ポスター上の血痕は(1)(2)の創傷によるものと考えるのが妥当である旨述べ、助川義寛証人も、ポスター上の血痕や西側壁面の血痕はその高さからみて(1)(2)の創傷による可能性が一番高いと述べ、松倉証言も結論において同旨である。

この点につき、証人三上芳雄の当請求審証言、同人作成の鑑定書によると、テレビアンポスター及びその附近壁面の飛沫血痕は(5)(6)創からの噴出血液であるとしているが、同人の鑑定にはその推論の過程に合理的根拠が示されてないこと前述のとおりであり、客観的にも、右飛沫血痕は高さ一ないし一・三メートル位のところに付着していることからすると、(5)(6)創から噴出した蓋然性に乏しいというほかはない。

そうすると、亀三郎が(1)(2)創を受傷した場所は、右テレビアンポスター付近であり、そのときはほゞ立位であつたものと合理的に推認することができる。

ところで第二審判決は、茂子の昭二九・八・二六検(自白)に従い、(1)(2)創は亀三郎が倒れた後低い姿勢の際に与えたものと認定しているのであるから、右の新証拠とは両立し難い関係にある。

元々、(1)(2)創は、亀三郎と茂子との身長差からして、亀三郎が立位であつた場合には、茂子が右創傷を与えることは不可能であり、亀三郎が低い姿勢にある場合にのみ可能である(小林鑑定書、松倉当請求審証言)。第二審判決は、この難点を回避し、「頸部創傷の形状、被告人と亀三郎の身長関係から見て頸部創傷は亀三郎が倒れた後等低い姿勢の際に与えたものと認められる」(同判決第二の三)としたものであるが、そうすると、今度は逆に、そのような低い姿勢の亀三郎の(1)(2)創から、テレビアンポスターの高さにまで血痕が飛散するものかどうかという問題が生じて来てしまう(しかも前記のとおり同判決は、亀三郎の倒れた位置は、テレビアンポスターより大分離れた縁側敷居附近で崩折れた、と推定しているのである)。

これらも又、茂子有罪を認定した事実相互に内在する矛盾であるということができる。

従つて、押入の板戸の割れ、ポスター上の血痕の存在をもつて、茂子犯人の情況証拠とするのは妥当ではない。むしろ、右の事実は、亀三郎と同じかそれ以上の身長を有する犯人が、ポスター附近で、亀三郎に(1)(2)創を与えたものではないか、との有力な情況証拠となりうるものと考えられる。

7 犯行の動機

第一審判決(二)第三の一は、茂子が判示するような理由で本件犯行に至つたとする動機として、

イ 亀三郎が浮気者であつたこと

ロ 離別した八重子の手紙により子供らとの間にすら水を差されるような不安を感じていたものと推察されること

ハ 茂子が亀三郎の浮気について懊悩していたこと

ニ 判示招待券にからむ亀三郎との口論により、同人に対する憤まん、黒島テル子への嫉妬、将来に対する絶望感に駆り立てられ、いよいよ犯行の決意を懐くに至つたこと

ホ 茂子が正式に亀三郎の籍に入つていないこと

との事実を挙げ、それ等を認めた証拠として、証人三枝登志子(八回公判)(イ、ロ、ハ、ニの各事実)、証人黒島テル子(八回公判)(イの事実)、黒島テル子の昭二九・九・六検(第四回)(イの事実)、永山キヌヱの昭二九・九・九検(イの事実)、三枝登志子の昭二九・九・一検(ハの事実)、茂子の昭二九・八・二九検(ニの事実)、女鹿八重子から茂子に宛てた手紙(ロの事実)、戸籍謄本(ホの事実)を挙げ、第二審判決もこれを支持している。

ところで第一審判決は他方で、茂子は、昭和一七年頃亀三郎と知り合い、昭和一八年一一月同人との間に佳子をもうけたこと、亀三郎は昭和二二年妻八重子と離別したこと、それ以後、茂子は亀三郎と自他共に許した夫婦として、子供達に対しては八重子に代る母としてその面倒を見ると共に、亀三郎の営業の補助者として立働き、やがて戦災後の営業再建もなり、昭和二六年頃同市八百屋町に仮建築を設けて移転し、八重子の子供達のみ大道四丁目に住まわせ、営業所には、店舗に続く四畳半の間に、亀三郎、茂子、佳子の三名が、裏に仮設した板囲い小屋に店員二名がそれぞれ寝起し営業成績も順調に発展していたこと、本格的営業所としての鉄筋三階建建築も昭和二八年五月着工し、同年末までには完成する運びになつていたこと、を夫々認定している。

従つて、茂子は、子供達の面倒をよく見ていたこと、亀三郎の営業の補助者としてよく働き、営業も順調に発展していたこと、は第一、二審自体の認めるところであつたのである。

かような状況にあつた茂子が、「憤まん」「嫉妬」「将来に対する絶望感」に駆り立てられ、夫を惨殺するに至る動機として、どのような証拠があつたのであろうか。

以下、第一審判決の挙示する証拠につき検討を加える。

亀三郎の長女三枝登志子の八回公判証言は、第一審が認めたイ、ロ、ハ、ニの事実全てについて挙示されており、茂子の犯行動機を認定する最重要の証拠であつたと考えられる。

三枝登志子の第一審八回公判証言

藤掛検察官

母が大道へ来て二晩も泊つたことがあるか。(八三三丁表)

何時もは一晩泊るだけですが事件の二、三日前に来た時には母が微熱して起きられなかつたので二日か三日大道の家で寝ていました。

その時母は何か父の事について話さなかつたか。

何時もの口癖のこれから先の私達の事や商売を父が向う見ずにやり過ぎるし、店員達に強く当るので私達から父に注意して呉れるようにというような事を繰返していました。私達は何時もの事なので聞き流していました。

大道の家で母から父が浮気をして困るという事を聞かなかつたか。

そんな事も聞きましたが具体的な話は知りません。

母はそれを苦にしている様子であつたか、又はそんなに気にしていない様子であつたか。

あまりそれを苦にしたり深刻に考えている様子はありませんでした。何時も口癖のようにいつているので私の感銘が薄かつたのかも知れません。

そんなに何時もいつていたのか。

私達への戒めの心算もあつてかよくいつていました。

この事件の二、三日前に大道の家へ来た時にもその事をいつていたか。

その時にはどうであつたかはつきり記憶しません。

母は父と喧嘩をして気の浮かぬ事があつたり心配事があると大道の家へ来て泊つていたのではないか。

そんな事はありません。

しかし、そんな時にも来ていたのではないか。

そんな時ばかりとは限りません。(八三四丁表)

……………

すると母は三十一日と一日と二日の三晩泊つたのか。(八三五丁表)

二日の晩は泊つたかどうか記憶しません。

八百屋町の店は誰が中心でしていたのか。

父が中心になつてやつていましたが母も一緒にやつていました。

母がいないと店は困るのではないか。

それは困ります。

それに二日も三日も帰らなかつたのは何か体が悪い事の外に原因があつたのではないか。

母は風邪で熱があつたから帰らなかつたのです。

母は腹が立つたら頭が痛いといつて寝る質の人ではないか。

腹を立てて時に寝ていた事はあります。それは先方も怒りこちらも怒つたら家庭にごたごたが起るのでただ受流して寝ていたら治まるからという事でした。

この事件前に来た時にも何か母が腹を立てるような事があるのではないかと思われるような様子があつたか。

そんな事はありませんでした。(八三六丁表)

……………

証人は前に本件について検察庁で取調を受けた事があるか。(八三九丁裏)

あります。

その際述べた事と今述べた事とが少し違つている所があるがどちらが正しいか。

どう違つているか判りません。

この調書の署名指印は証人がしたものか。

(証人に対する昭二九・九・一検を示す)

私がしたものです。

この調書によると、「私が考えますのに母はずつと前から父がよく浮気して困ると口ぐせのようにいうておりました、しかし母からはそれ以上詳しい話は聞いておりませんが兎角父の浮気を一人苦にしていた事は事実であります。」と述べているがどうか。

そういつたかどうかはつきり記憶していません。(八四〇丁表)

……………

弁護人

母が三日も四日も続けて頭が痛いといつて大道で寝ていたので、よほど腹の立つ事があつたかも判らないと思うという事を証人がいつたのか。(八四三丁裏)

それは検察官が勝手に想像して書いたのだろうと思います。私は言いません。その取調の時には聞かれて聞かれて頭がこんがらがつていたので、こんな気持でなかつたんでといわれて、たゞハイハイと答えました。そして後で調書を読聞かせて呉れた時に、そのようになつているので私はそんな意味の事はいわんといつたら、大体同じでしようといつて訂正して呉れなかつたのです。

……………

母の茂子は証人等に対しどんな態度であつたか。(八四六丁表)

普通の母親のようにしてくれ、私達も本当の親の様に思つていました。

証人の実母である女鹿八重子が家を出て後八重子から手紙が来た事があつたか。

昭和二八年八月頃に一回手紙が来ました。

……………

昭和二八年八月の手紙は誰に来たのか。

父の処へ来ました。

その手紙の内容はどうか。

子供達と一緒に暮したいから女中でもよいから家に置いて呉れという内容でした。

証人はその手紙を誰に見せられたか。

大道の家で母に見せられました。その時母はこういう手紙が来て父は非常に怒つたが皆に相談したいから持つて来たといつて見せました。その時、私と満智子と皎の三人がそれを見たと思います。

それでどんな相談をしたのか。

私が折角今円満に行つているのに今帰つて来たら皆が不幸になるからその侭にして呉れ、という意味の返事を書いて母に渡しました。その返事は母が出して呉れたと思います。

その事について父と話した事があるか。

父と話はしませんでした。

そのような手紙が来てから父と母の仲が拙くなつたという事はないか。

そんな事はありません。(八四七丁表)

……………

証人は本件について母に疑いをかけられている事についてどう考えるか。(八四八丁裏)

私としては事件の朝とか事件後逮捕される時までの事を考えると母が犯人であるというような事は全然信じられません。

同人の証言は、概略以上に尽きるものである。右の証言内容からすると、亀三郎が女性関係の多い男であり茂子がそのことを子供達に口癖のようにこぼしていた、という事実を認めることができるが、女鹿八重子から来た手紙について、八重子の依頼を断わつたのは娘の登志子であり、そのことについて茂子が「子供等との間に水を差されるような不安を感じていた」と認め得る内容は含んではいないし、茂子が亀三郎の浮気について長女の登志子に口ではこぼしてはいても、深刻に悩んでいたと認め得る程の内容は含んではいない。まして、二の事実のように、憤まん、嫉妬、絶望感の余り、亀三郎の殺害を決意するに至るような内容の事実は、同人の証言中には存在していない。

黒島テル子は、第一審八回公判における証言では、亀三郎と肉体関係のあつた旨の証言をしたが、検察官の尋問に対し、昭二九・九・六付検の内容については、「それは文章がそうなつていますが、そんなことはありませんでした。」「その時私は気が顛倒していたのでどんな事を申し上げたか記憶していませんが、そんな事はいわなかつたと思います。」「私はそうはいいませんでしたが文章にしたらそういうようになるかもしれません。」と述べている。

同人は第二審の証人尋問において次のように証言している。

裁判長

証人はこの事件の証人として徳島地方裁判所で調べられたことがありますか。(二一六四丁)

あります。

その折の証言に間違いありませんか。

当時の気持として間違いないと思つています。

松山弁護人

証人と三枝亀三郎との間に肉体交渉がありましたか。

絶対にありません。

徳島地方裁判所では関係があつたように言つておりますがどうですか。

あの時はそのように言つたと思いますが、本当はそんな関係はありませんでした。

どういう訳で前に関係があつたように述べたのですか。

私は関係があると言つたような判然した記憶がありません。

亀三郎と関係があつたか否かについて大分検察で調べられたのですか。

午後の六時から十一時頃までひどいことを言われ乍ら調べられました。何でも茂子さんが私の咽喉笛に咬みついてやると言つているが本当は亀三郎と関係があつただろうとか、今治へ亀三郎と行つて同宿したのだから関係がないという筈はないとか、事件の日の二〇日位前に私の家へ亀三郎が行つているが会いに行つたのであろうとか、さんざん嫌なことを言われて私は頭がぼつとして卒倒したのですが本当に倒れたのに、それをたしか村上検事さんと藤掛検事さんだつたと思いますが「芝居じや」「芝居じや」こんなことを答えるのに何十分かかるんかと叱りつけるので、私ももうどうでもよいと思い検事さんのいう通りに関係があつたように認めたのでした。(二一六五丁裏)

……………

亀三郎とは全然関係はなかつたのですか。(二一六六丁裏)

全然ありませんでした。

……………

合田裁判官

一審で亀三郎と関係があつたと言い、ここでは関係がなかつたというがどちらが本当か。(二一六九丁表)

ご想像にまかせます。

裁判所は事実の有無を問うているのだが今日の証言を本当と聞いてよいか。

(相当時間黙して答えない)

という風に亀三郎との関係を否定したり、肯定するかのような証言態度を示している。

同人の昭二九・九・六検(第四回)は、同人が亀三郎と肉体関係のあつたことを認める調書である。

永山キヌヱは、昭二九・九・九検(村上)において、亀三郎と黒島テル子とが肉体関係があるように思う旨の供述をしているが、第一審八回公判においては、「そんなことを言つたかどうか記憶しません」と右検面調書の内容を否定する趣旨の証言をしており、第一審判決も同人の証言を挙示してはいない。

第一、二審が茂子の犯行動機として認定した証拠は以上のようなものである。右の証拠から、果して一〇年来連れ添つた夫を殺害する動機を認定するに充分なものであろうか。

先ず、第一審判決(二)第三の一イの亀三郎が女性関係にルーズな男であつたことはこれを認めることができる。しかし、同ロの点については、挙示された三枝登志子の証言と手紙とだけから、茂子が子供達との間に水を差されるとの不安を抱いたと「推察」することが果してできるであろうか。三枝登志子の証言による限り、右手紙に対して怒つたのは亀三郎であり、茂子は子供の意思を尊重する母親の態度しか窺うことができず、具体的に返事を書いたのは娘の登志子であつた。

同ハの点については、挙示されている三枝登志子の供述から、茂子が亀三郎の浮気について子供達にこぼすことがあつたことは認められるが、そのことを深刻に悩んでいたものと認める程の内容は含んでおらず、ましてやその余り、亀三郎に対して害意を抱くような形で悩んでいた旨認めることはできない。

同ニの点については、挙示された茂子の昭二九・八・二九検は、茂子が犯行を否認し、外部犯人の侵入を強調している調書である。

判示招待券に関して、亀三郎と口論した旨の供述記載があるものの、本件犯行直前における亀三郎の行動について、従前の否認供述に見られると同旨の内容を述べており、しかも、事件当日のことについては、従前の否認供述と同旨を供述している調書である。かような調書中の供述記載の極く一部分を採用して、事実を認定することは、全体の趣旨とは著しく異つた事実を認定してしまうことにつながるものであり、採証法則上も妥当な措置とは解することができない。しかも、右調書中にも、右口論をした旨の供述記載が極く一部分に存在するだけで、それにより同人に対する憤まんが募り、殺意をまでも抱くに至る事情は何も述べられてはいない。

又、三枝登志子の証言内容は概略前記に見たところに尽きるものである。

以上の証拠関係から、次のようなことが指摘され得るであろう。

第一に、動機を認定するために挙示されている証人らの供述調書の日付からも窺えるところであるが、黒島テル子、永山キヌヱらはいずれも、茂子が起訴される前後、しかも主として起訴後、検察官により取調べを受け調書を作成されている。本件不起訴記録中には、茂子の犯行動機に関する証拠は同人らの供述のほか確たる証拠を発見することはできない。このことは、茂子を起訴する時点において犯行動機に関する証拠は固まつてはいなかつたことを窺わせる。村上検事は前記「捜査の経過」(一偽1)中において、「前掲の諸証拠より亀三郎殺害の真犯人は茂子であることが分明したものの茂子は約一〇年連れ添つた亀三郎の内縁の妻とはいえども、夫亀三郎を殺害するについてはそれ相当の理由なくして行なわれる訳はないので、その動機が明らかでない以上、百の証拠も一瞬にして潰え去る虞があるので最後の捜査は鋭意此の点に集中された次第であるが………」として、黒島テル子、永山キヌヱらの取調経過を説明している。右の説明からも、犯行動機に関する捜査は最終段階においてなされたこと、その時期は、調書の日附からして、主として茂子起訴後であつたと認められる。

第二に、黒島テル子が亀三郎と肉体関係があつたか否かはともかく、仮にあつたとしても、それ自体では亀三郎殺害の動機たりえないことである。そして、茂子が黒島テル子に嫉妬し、同女に対して何らかの行動に出たという証拠は存在しない。永山キヌヱの公判証言はあいまいであり、検面調書中の供述も、黒島テル子と亀三郎の情交の事実を知つているというものではなく、「深い仲ではないかと思う」という類のものに過ぎない。

ところで、茂子が仮に黒島テル子に嫉妬したとして、その挙句に同女に対し何らかの行動に出るのならともかく、外ならぬ夫の亀三郎に対して殺意を抱くに至る等ということが経験則上容易にありうるものであろうか。そして、本件犯行前、茂子と亀三郎との夫婦仲がそれ程に険悪になつていた旨認め得る証拠は何も存在しない。

第三に「将来に対する絶望感」というが、茂子がどのような絶望感に苛まれていたのかについては、何らの証拠は存在しない。仮に絶望感に陥つたとして、亀三郎を殺害することによつてどのような将来の展望が開けると彼女が考えていたのかについても何らの証拠は存在しない。逆に、第一審判決自ら認定しているように、ラジオ商としての営業は順調であり、その中心は亀三郎であつたし、子供達との関係も良好であつた。第一審判決は、「情状」の説示部分においては「遺された子供達は被告人を信じ、慕つている」と自ら認定している。そして現実に亀三郎の死によつて最も打撃を受けたのは外ならぬ茂子であり子供達であつたのである。

第四に、第一審判決は、「犯行の動機等」として茂子が未入籍であつたことを挙げている。未入籍という事実が茂子の犯行動機とどのように結びつくのか必らずしも明らかではない。茂子の第二審六回公判供述によると、

裁判長

被告人の籍は入れてなかつたのだね。(二五七三丁裏)

はい。

どういうわけで入れなかつたのか。

昭和二一年頃、つらいことがあつて別れようと考えたことがありました。丁度その頃、主人が籍を入れてやろうと言つてくれましたが、そんなことがあつたので私は辞退したのでした。

と述べ茂子自ら入籍を辞退したものであることが述べられている。

元々、未入籍の事実を犯行動機の認定にそれ自体として数え上げることは、採証法則からも誤まりである。すなわち、そのことが犯行動機となりうるためには〈1〉未入籍の事実〈2〉そのことが亀三郎の意思によるものであり、茂子の願望に反していたこと〈3〉茂子がそのことを苦にして悩んでいたこと〈4〉その悩みが募る余り夫を殺害することさえも企てる程度であつたこと、の〈2〉〈3〉〈4〉の事実が立証されてはじめて未入籍の事実は、犯行動機の一つとなりうる。動機の認定には往々二重の推理を伴うが、そこは、常に二重の誤謬原因が潜在することが忘れられてはならない。旧証拠中には、茂子自らの右の如き公判供述が存在するほか、茂子が、未入籍の事実を悩んでいたというような証拠は何も存在しない。果してそうだとすると、未入籍の事実を犯行動機の一つに数え上げた第一審は採証法上の誤まりと共に、茂子の人間性をも誤解する誤まりを犯したものといわなければならない。

以上のとおりであつて、第一審が犯行の動機となつたとして摘示した事実それ自体、果して挙示された証拠から合理的に認定しうるものか疑問なものがあり、又、仮にそれらの事実が認定し得たとして、一〇年来連れ添つた夫を或る早朝突如殺害するに至る動機としては不充分であり、多分に裁判所による想像をまじえたものであつたというほかはない。

逆に、第一審判決自体認めている営業の順調であつたこと、子供達との関係も良好であつたことに加うるに、茂子が先妻の子の面倒をよく見ており、判決確定後も先妻の子供達、茂子の親族一同が茂子の無実を確信していること、茂子の三枝家での地位は安定しており経済的にも確立していたこと(三枝満智子昭二九・二・七検、三枝皎昭二八・一一・八検、三枝紀之昭二八・一一・七検(以上川口1)、三枝皎昭三五・二・一五付書簡、親族一同の昭三五・二・一九上申書(以上、二再審)、証人郡貞子の当請求審証言)を認めることができる。これらを総合すると、本件発生の頃、茂子が亀三郎を殺害しなくてはならないような事情は、存在しなかつたとみるのが経験則に合致する。

三 外部犯人の証跡

確定記録中の旧証拠の中には、亀三郎殺害の犯人が外部より三枝方に侵入した者の仕業ではないか、と疑うに足りる証拠が幾つか存在していた。これらは、第一、二審においても争われ、結局、第一、二審判決の容れるところではなかつたものであるが、新証拠と総合した場合に、果して、どのように評価されうるか、を検討しなければならない。

検討の順序は、1、靴跡又は足跡、2、懐中電灯、3、新築工事現場の表出入口の開閉状況、4、逃走した犯人の目撃者の存在、5、侵入し亀三郎を殺害した犯人の目撃者の存在、6、侵入し逃走した犯人の痕跡、7、電話線、電灯線の切断、8、遺留されていた匕首、の順である。

1 靴跡又は足跡

第一審判決においては、犯行現場の敷布上に印象された足跡については何もふれていない。第二審判決では、理由第二の一(六)において、足跡の存在はこれを認め、誰の足跡か、という点については、「事件直後の混雑した状態から立入つた者の足跡のつく事も考えられ、直ちに外部からの侵入犯人なりとの結論に結びつかない」と説示している。

ところで、茂子らの蒲団の敷布上に、靴跡又は足跡が印象されるということは、外部からの侵入犯人が亀三郎を殺害したとの茂子、三枝佳子らの供述とまさしく符合する関係にあり、茂子有罪の認定にも大きな疑問を生じさせることとなる。

従つて、(1)靴跡或いは足跡が存在したか、存在したとしてどのようなものか、(2)それは誰の靴(足)跡か、が検討されなければならない。

(一) 靴(足)跡の存在とその形状

昭二八・一一・五付実況見分調書によると「西側の壁下には、犯行当時使用していた寝具の敷布で敷蒲団の敷布二枚と上蒲団の敷布一枚血液の附着した衣類をつぐねて置いてあり、鑑識係員の手に依つて綿密に足跡等について採取した結果、被害者の妻茂子が使用していた敷蒲団の敷布より血痕の附着した足跡と思料されるもの二ケを発見した。」とあり、右調書を作成した証人真楽与吉郎は、第一審七回公判において「実況見分調書にはそのように記載しましたが、それは血痕ではなく土の足跡であります。実況見分当時その附近には方々に血が飛散しており血というものが頭から離れなかつたので土の足跡と書くべきところを血痕の附着した足跡と書き誤つたのであります。(七三五丁裏)」「(その足跡は)素足ではなくゴム靴かゴム草履の裏の跡と思われるもので、私は大体靴跡ではないかと考えました。(七三六丁表)」と述べている。

同証人は、第二審一回公判調書中の証人尋問調書においても、「登志子さんに立会して貰つて積み重ねてあつた寝具を展げて点検したところ敷布に足跡らしいもの二個を認めました。(二〇七七丁表)」と証言している。

同人の昭二九・九・二四検(不一)においても、「右の土の附着した足跡と思料されるもの二ケと言うのは、実況見分当時右敷布のうち東南隅から一〇センチ位西寄りのところに靴のうち先端一寸五分位に該当する部分ではないかと思われる様な土の附いた型と、その二五センチ位西方に同様靴の先端一寸位までの分の跡ではないかと思われる様な跡と見てよい土跡が発見されたのであります。」と述べている。

ところで、証人和田福由の第一審三回公判証言によると、

村上検察官

その敷布に付いている血液等を詳細に見たか。(三二五丁表)

見ました。敷布の上には血液の滴下したものが付いており、その外に足跡が一ヶ所付いていました。

足跡は一ヶ所だけか。

そうです。それも甚だ不完全なものでした。

それはどの程度に付いていたか。

踵と土踏まずの部分を除いた靴の前三分の一位の一応靴跡といえないものでもないという程度のものでした。それで徳島市警の方に出入関係者の履物を調べてくれといいましたところ、その後鑑識課に送られて来たのは中越明のゴム草履でしたがそれとは違つていました。

中越明というのは誰か。

本件の犯人の容疑者として徳島市警が逮捕した男であります。

川口算男の靴と対照しなかつたのか。

対照したが違つていました。

と証言しており、第一審一三回公判において「私が見たのは血液のものです。泥の足跡は全然見ませんでした。」と証言している。

同人の昭二九・九・二〇検(一偽2)によると「敷蒲団の敷布に血液が点々として居り附着しておりましたが、その血液中靴跡の一端ではないかと思われる附着部分が二、三点見受けられたので……………ベンチヂン検査をやつたところ、靴の内先端近くの左右の端らしい物が検出されたのであります。その形から見ると、ラバ系統の靴か表が皮で裏がゴム底の靴か或いはゴム草履の裏跡の様に思われたので、その跡に該当する靴草履類を徳島市警に徳島市内を探して貰つたのですが合致する物は出なかつたのであります。」と述べている。

新証拠である証人松島治男の当請求審証言、吉内市治の昭二九・九・一五検、同九・二〇検(不1)、佐尾山明の昭二九・九・一検の添付写真(一偽2)、市警作成の現場写真(靴跡紋様の写真)(松山2)、昭二八・一一・一〇付徳刑第一二六号添付「ラジオ商殺しの遺留品手配について」(松山3)(別紙図面(六))も、右の両証人の証言を裏付けている。

以上のことから次のことが言えるであろう。即ち

(1) 本件敷布上には、(イ)真楽証言のいう土ないし泥の付着したゴム靴かゴム草履の裏の跡と思われる靴跡二ケ、(ロ)和田証言のいう靴の前三分の一位で靴底とはいえないものでもないという程度のもの一ケでラバ系の靴かゴム底の靴かゴム草履の跡の様に思われたもの、の二種類の靴跡が存在したこと

(2) 徳島市警は、右靴跡を図形化し(別紙図面(六))、市警察署に配布し犯人捜査の一助にすると共に、その後、容疑者として検挙された中越明や川口算男の靴と対照していること

を認めることができる。

本件靴跡は、外部犯人説に従つて捜査が行われていた時期には重要な、犯人の手がかりであつたのである。

(二) 靴跡は誰が残したのか

第二審判決は、足跡の存在は認めつつも、「事件直後の混雑した状態から立入つた者の足跡のつく事も考えられ」るとして、外部犯人の侵入した痕跡であることを否定した。

ところで、旧証拠によつても、事件発生後、徳島市警捜査課鑑識課主任西本義則は、午前五時四〇分か四五分頃現場に到着し(同人の第一審五回公判証言)、同人の指揮により直ちに現場保存には配慮が払われていた(証人村上清一の第一審三回公判証言)と認められるが、茂子が斎藤病院に入院するに際し、西野は命じられて病院へ蒲団を運び出したのであるから、この時点では、既に蒲団と敷布は分離され、分離された敷布は、その後、四畳半の間西側の壁下につぐねて置いてある状態(昭二八・一一・五実況見分調書)にあつたものと認めることができる。

そうすると、本件敷布は、西本巡査部長が現場到着した五時四五分頃からは現場保存の対象となり、蒲団と敷布とが分離された筈の六時前後頃以降は、四畳半の間西側壁下につぐねて置かれていたものであつて、その時点以降に靴跡が印象されることはあり得ない。

ところで、旧証拠を検討してみても、四畳半の間にその時間内に上つた蓋然性のある者といえば、(イ)茂子、佳子、(ロ)西野、阿部(四畳半を通り大道と市民病院へ出かけた)、(ハ)武内一孝巡査、(ニ)三枝方家族、皎、紀之、登志子、(ホ)斎藤病院の医師蔵田、斎藤医師、市民病院の尾木医師、看護婦らである。

これらの者が土足のまま四畳半の間に上つたという証拠はなく、西野、阿部が、履物をはいて上つたと思うと供述調書中や、公判証言で述べているに止まる(例えば、西野昭二九・九・四検、阿部昭二九・一〇・九検)。西野、阿部は、供述を偽証した旨述べているところであるから、改めて論じない。これらの供述は、捜査官の時々の必要に合わせて修正され迎合的に供述したものである旨同人ら自らが述べているからである。

しかも、右靴跡は外部犯人の印象したものとして展開され、昭和二九年九月二四日には、西野からゴム半長靴一足を任意提出させ領置していること(昭二九・九・二四付任意提出書、領置調書)(不1)が認められ、西野の靴が右靴跡と合致するかどうかを調べているのであるから、もし合致していれば当然提出されている筈である。

しかも、昭二九・五・三証拠金品総目録(川口1)、昭二九・四・一一捜査報告書(川口1)、藤とし子の昭二九・一・一三員(川口1)、川口算男の昭二九・二・一五員(川口4)、昭二九・六・三捜査状況報告書(川口5)によると、その当時、容疑者に擬せられていた川口算男の靴に関し徳島市警は詳細な捜査をしたことが明らかである。

以上のことから、外部犯人説に従い捜査が行われていた昭和二九年六月末の時点まで、捜査当局は、右靴跡は外部犯人の印象したものであるとの想定により捜査をなしていたことが明らかであり、その前提として、右靴跡が三枝方家人や、警察官、医師、看護婦、西野、阿部らのものである可能性は排除されていたものと考えるのが合理的であり、証人松島治男の当請求審証言は、それを裏付けている。

(三) まとめ

そうすると、前記靴跡は、外部より三枝方四畳半の間に侵入した者が遺留した蓋然性が極めて大きいといわなければならない。

2 懐中電灯

犯行現場である三枝方四畳半の間に存在した懐中電灯については、第一、二審判決ともに、茂子方に従前からあつたもので、現場に来合わせた警察官に対し、茂子が賊が遺留したものとして提出したことは、茂子の偽装工作であるとした。(第一審判決(二)第三の三のハ、第二審判決第二の一の(八)(B))

第一、二審判決が、懐中電灯について、右の認定をするのに用いた証拠は、証人武内一孝の第一審五回公判証言、西野清の第一審三回公判証言、阿部守良の第一審七回公判証言、そして、実況見分調書、押収された懐中電灯であり、第二審では、茂子の昭二九・八・二七検が付け加えられている。

ところで、右のうち証人武内一孝の証言は「現場で茂子から、これは犯人が忘れていつた電池だ、といつたので、私はそれに触つてはいけないといつて受取り亀三郎の枕元に置いた」というものであり、実況見分調書、懐中電灯は、それが四畳半の間に存在したことを立証するだけであるから、結局、右懐中電灯が茂子方の物であること、茂子が偽装工作のため警察官に提出したものであること、を認定する根拠になつた証拠は、西野、阿部の証言と茂子の自白だけであることになる。

右西野、阿部の証言、茂子の自白の信憑性については既に詳しく触れたところであるから繰返さない。

ところで、右懐中電灯が茂子方の物ではないとすれば、何者かが、懐中電灯を所持して三枝方四畳半の間に侵入し、これを遺留して行つたことになる。そして、「賊が懐中電灯で照らした」旨の茂子、佳子の供述をも裏付けることになる。

昭和二八年一一月付徳島市警作成の重要遺留品手配書(松山2)によると、本件懐中電灯は、匕首と共に徳島市警によつて、本件の重要遺留品として管下警察署に手配され、重要な捜査資料とされた。右により捜査が進められた結果、昭和二九年五月末の段階において、徳島市警は、次の様に本件懐中電灯の出所、経緯を突きとめていたことが窺われる。即ち昭二九・五・二一付捜査報告書(幸田保作成)(川口6)、長岡武夫の昭二九・五・二〇員(川口6)、昭二九・五・二六員(川口1)、渡辺文雄の昭二九・五・二〇員(川口6)、森本幸一の昭二九・五・二五事(川口1)、渡辺クニヱの昭二九・六・七員(川口6)、佐尾山明作成昭二八・一二・五鑑定書(三四六丁)を総合すると、「長岡武夫は、昭和二八年八月ころ、楠藤電気器具店で電池二本入棒型懐中電灯を三〇〇円位で買い、同年九月末渡辺文雄にヒロポン一五本と交換して渡辺文雄に渡したこと、渡辺文雄は右懐中電灯を使用中、同年一〇月末頃、落して電照灯のガラスが割れたが、そのまま使用していたこと、渡辺文雄が、昭和二八年一一月四日午後四時から一一月五日午前一〇時の間、自宅を留守にしていたが、右懐中電灯は失くなつていたこと、渡辺文雄の実兄勲に聞いたところによると、懐中電灯は渡辺明に貸したとのことで、渡辺明は宮本春夫に貸したといい、返してもらうように言つたがそのままになつていたこと、そして、渡辺文雄は、刑二号証の懐中電灯を示され、一一月四日の夜紛失した物と同一物である旨確認し、渡辺文雄の妻渡辺クニヱは、刑二号証は自宅にあつたものである旨のべ、ガラスが割れているのでまちがいないと思うが断定はできないと述べていること、佐尾山鑑定書及び前記現場写真(松山2)によると、本件懐中電灯はガラスが割れていること、」等を認めるに足りる捜査結果が得られていたことが明らかである。

勿論、これらは、捜査段階の供述調書が主であつて、これらの事実自体を全て真実である旨断定することはできない。しかし、昭和二九年五月末の段階において、これらの証拠が捜査機関により収集されていたこと、即ち、そのときまで、捜査機関は、本件懐中電灯は、外部犯人の遺留したものであることを当然の前提とし、それを手がかりとして、犯人割出しに奔命していたものであること、そして、昭和二八年一一月四日の時点での本件懐中電灯の最終所持人が宮本春夫である旨突きとめるまでに捜査が進展していたことを少なくとも認めることができ、このことが何よりも重要である。

これらの捜査の過程で、本件懐中電灯が三枝方のものである等という証拠は存在せず、元々、電機商会である三枝方での犯行であり、懐中電灯は沢山ある筈であるから、本件懐中電灯が、被害者方のものかどうかということは、捜査の初めに、当然、確認されている筈である(証人松島治男の当請求審証言)。それが、一八〇度転回し、第一、二審におけるように、本件懐中電灯が、三枝方のものであり、茂子が、自己の犯跡の偽装工作として、警察官に提出したものである旨認定されることとなつたのであるが、その根拠となつた証拠は、西野、阿部の証言と、茂子の自白だけであつたのである。

そうすると、本件懐中電灯は、宮本春夫或いは同人より受取つた他の何者かにより、三枝方四畳半の間に持ち込まれ、遺留された疑いが濃厚であるといわなければならない。

尚、当請求審において検察官が提出した稲田貞俊作成の昭二八・一二・二四付鑑定書は、その鑑定対象物件が特定されているとは認め難く、本件懐中電灯が三枝方の物である旨認めうる証明力を本来具備するものとはいい難い。却つて、その作成日付からして、何故、第一、二審公判において証拠請求されなかつたのかという疑問を生じさせると共に、本件犯行直後から、市警においては、本件懐中電灯が三枝方のものかどうかの捜査を経た上で、それに消極的結論を下し、外部犯人捜査の有力な手がかりとして、捜査を展開した旨の証人松島治男の当請求審証言をも間接的に根拠づけるものであるということができる。

3 新築工事場表出入口の開閉状況

(一) 第一、二審判決の認定と証拠

第一審判決は、理由(二)第三の二のニにおいて、「現場西隣被告人方新築工事表出入口から侵入者が逃走したとは認められないこと」と題する項目を設け、「2、新築工事場表出入口は閉鎖されていた」と認定している。そして、それを認めた証拠として、証人石井雅次、同新開鶴吉、同田中佐吉の第一審四回公判証言、証人辻一夫の第一審一五回公判証言を挙示している。

第二審判決も、右同の証言に加うるに、証人石井雅次、同田中佐吉の第二審証言を採用して右表出入口の戸は閉つていたと認定し、これに反する証人武内一孝の第一審五回公判証言は「同人がこれを目撃した時刻は被告人入院後で他の警察官もすでに現場に到着した後である」こと、証人村上清一の第一審三回公判証言は「右開いていた戸より入つているが、その時刻は又犯後相当時間経過後である」こと、証人三枝皎の第一審一四回公判証言は「同人が現場に来たのは、前記隣人等の到着よりも後のことである」こと、等からして採用できず、「事件直後隣人が来たときは閉つていたことは動かし難い事実と見ねばならない」とするのである。

右表出入口の戸が開いていたということになると、賊が侵入して新館出入口から逃走したという茂子の供述に根拠が出来ることになる。

昭二八・一一・五付実況見分調書によると、「鉄筋三階建の建築途中の前側を板囲いした第二号写真に示す如く出入口が開いているので、そこより新築屋内に這入れば、入口の板囲の柱に僅かの血痕と思われるものが一、二点附着しており」と記載されており、右実況見分の開始時刻の午前七時五〇分の時点では、右表出入口の戸は同調書第二号写真のような状況で押開かれていたことが認められる。

ところで、武内一孝証人は、午前五時三〇分頃現場に到着、茂子から事情を聴取、医師が到着、西本部長到着(午前五時四〇分か四五分頃)、茂子入院、現場保存に当つているとき阿部が匕首を発見し匕首の保存に当る、等の経過を経て、「私が匕首の番をしていた時に、裏口から工事場の表出入口を見ましたが、そのときには出入口の戸は少し開いていました。その開き方は下の方が窄み、上の方が余計に開いていたように思います(五四七丁)」と証言している。

村上清一証人は、「午前六時五分か一〇分頃現場到着。工事場の表出入口が開いていたのでそこから三枝方に入つた。現場保存に当つていた武内巡査と会つた(二六一丁)」と証言し、武内、村上両証言は合致している。

三枝皎証人は、「事件の日の朝、西野が呼びに来たので八百屋町の家へ行つた。そのとき茂子は居た。茂子は自分が行つてから病院へ行つた。新町橋を経て元町から八百屋町へ来る途中、新築工事場の表出入口は開いていた」と述べ、さらに「(出入口の戸は)板の一枚戸でした。その戸の南側を上下二ヶ所針金で柱に括りつけてありましたが向つて右側の前方の括り目が外れて板戸の西側が外側へのけぞるように開いていました(一三〇二丁裏)」と証言している。三枝皎は、登志子を自転車の後部荷台に乗せて八百屋町に赴いたもの(証人三枝登志子の第一審八回公判証言)であり、登志子の証言によると、同女が八百屋町に着いたのは午前五時二五分であり、それから二、三分か五分位して医者が来た(八三七丁)というのであるから、三枝皎が八百屋町へ着いたのは医者の来る前で、相当に早い時刻であつたと考えられる。

第二審判決の説示によると、武内、村上、三枝皎らの証言を排斥したのは、その内容自体ではなく、見た時間が遅かつたことを理由にしている。そうすると、第二審判決の立場では、隣人達が戸の閉つているのを目撃した時刻(左程明確ではない)から、村上、三枝皎、武内証人らが開いているのを見た時刻、遅くとも医者の到着時刻の午前五時四〇分頃までの間に誰かによつて第二号写真のように押し開かれなくてはならない。しかし、第二審判決は、表出入口の戸を誰が押し開いたのかについては何も説示してはいない。

ここで、問題にせざるを得ないのは、第一、二審判決が、「閉つていた」旨認定した根拠となる隣人の証言の信憑性である。結果的に出入口の戸は開かれていたわけであるから、或る時点で閉つていたと認定するには、隣人たちが見た時刻が、三枝皎、武内、村上らの見た時刻より明らかに早いこと、右三名の証言に優る「閉つていたこと」の目撃内容の正確性が要求されるであろう。

そこで項を改め、第一、二審判決が、表出入口の戸は閉つていた旨認定した証拠である三枝方の隣人や辻一夫の証言の信憑性について検討する。

(二) 各証言内容の検討

(イ) 証人新開鶴吉の第一審四回公判証言

藤掛検察官

その朝証人が三枝方の前へ行つた時、新築工事場の戸は開いていたか。(四一五丁裏)

開いていませんでした。

新築工事場の出入口の戸はどうなつているのか。

工事場の舗道に面した方には板囲をし、その中央部に一間位の板戸を取付け、それを西から東へドア式に舗道の方へ廻して開けるようになつていました。

証人は三枝方へ行き誰でという声を聞いてから新築工事場の方へ行つたか。

行つておりません。

何故戸が開いていなかつたと判るのか。

それは板囲が道路上に三尺も出ておりますので傍に行かなくても戸が一尺程開いていてもよく判ります。

同人は、新築工事場の方へ行つて見ているわけではないこと、推測で述べていることが証言自体からも明らかである。

(ロ) 証人石井雅次の証言

第一審四回公判証言

村上検察官

証人が三枝方へ行つた時刻は何時頃か。(四〇三丁裏)

午前五時半頃であつたと思います。

……………

証人が三枝方の前にいた時医者が来たか。

来ました。警察の人が来て後、医者と看護婦が来ました。

……………

証人が三枝方へ行つた際、三枝方の西隣の新築工事場の出入口の戸は開いていたか。

私は工事場の前の歩道を通りましたが、工事場の出入口の戸は開いていたとは思えません。

若し開いていたとすればどんな関係から気が付くのか。

工事場は何時も晩には大戸のようなものを閉めていたので開いていたとすれば判る筈ですがそのようには思われませんでした。

第二審証人尋問調書

岡林弁護人

証人が三枝方へ行つた折、新館工事場の板囲いの戸は明いていましたか。(二一一二丁表)

暗かつたのでよく覚えていませんが、明いていたのであれば気がついたと思います。

帰りにはどうでしたか。

明いていたかどうか気がつきませんでした。

同証人の証言は、第一、二審共に推測的証言である。同人は、昭三四・九・一四調書(一検審)において、「現場到着時に、工事場の戸は片方が少々一間か四尺位開いていたように思いますがはつきり記憶しません。」と、板戸についての供述に自信のないことを告白している。

(ハ) 証人田中佐吉の証言

第一審四回公判証言

村上検察官

証人は三枝方へ行く時に新築中の工事場の前を通つたか。(四四〇丁表)

元町の方から行くと工事場の前を通らな行けませんので通りました。

工事場の表戸は開いていたか。

工事場には板囲いをしてありましたがその出入口の戸は開いていませんでした。板囲の高さは七尺位でありますので泥棒ならこれ位乗り越せるわなあと皆で話をしました。

第二審証人尋問調書

岡林弁護人

新館の工事場の板囲いの戸が閉つていたと前に言つていますがどうですか。(二一〇三丁表)

戸の締りがはづれていたかどうかは知りませんが、私が見た時には板囲いが出来ていましたから閉つていたと述べたのです。

同証人は、第一審では断定的証言をしているが、第二審においては、実際には確認したわけではないことを自認している。

ところで、田中佐吉は、事件直後ともいうべき昭和二八年一一月の段階では、検察官に対し、次のように述べている。

昭二八・一一・一四員(不1)

問 貴方が最初に三枝さんの家に駆けつけた時に、三枝さんの西隣りにある新館の板囲がどの様になつていたか見ませんでしたか。

答 はい。私はあわてておりましたので、新館の様子等は見ておりませんので何とも申し上げられません。

右の供述は、記憶の新鮮な事件直後の供述であるから、その頃において、表出入口の板戸に関する同人の供述が、右のようにあいまいであつたことは重視すべきである。

しかし、同人は、昭二九・七・一五検(一偽2)、昭二九・七・三一検(一偽2)においては、いずれも「閉つていた」と述べ、判決確定後において、昭三四・九・一四調書(一検審)においても、「板戸は開いていなかつたように思う」と述べている。

(ニ) 証人辻一夫の証言

第一審一五回公判証言

藤掛検察官

その板囲いに人が飛び出したような隙間とか板囲いに取付けた戸が開いていたとかいうような事があつたか。(一四一五丁裏)

私は板囲いに近寄つて見なかつたのでそんな事は判りませんでした。

……………

証人は検察官に対し新築工事場の板戸は人の出入ができる程何処も開いていなかつたといつているがこの点どうか。(一四一六丁裏)

板戸があつたという事は申しましたが、その戸が開いていたかどうかという事は判りませんでした。

……………

裁判長

その板囲いに戸を取付けてあつた事とかその戸が閉つていたとか開いていたとかいう事に気がついたか。(一四一八丁裏)

板囲いに戸があり、その戸が閉つていたのがよく見えました。

証人は検察官の問に対し板囲いの戸が開いていたかどうか判らぬと述べたようだがどうか。

私は検事さんの問を、板囲いとかそれに取付けてある板戸に人が出入できるような隙間があつたかどうかという意味に解したので、そんな隙間が開いていたかどうかは判らぬと答えたのですが、板囲いについている戸自体は閉つておりました。

村上検察官

工事場の板囲いというのは、隙間なしに板を当ててあるのか又は相当隙間があつたか。

それが判らなかつたのです。

板戸そのものにも隙間があつたかどうか判らなかつたのか。

それも判りませんでした。

第二審証人尋問調書

岡林弁護人

工事場の板囲を見たといいますが何処から見たのですか。(二一七六丁裏)

車道の中程よりも北側のところから見ました。

そこから戸が開いていたか否かが判りましたか。

判りませんでした。

……………

検察官

証人は一審で通町まで見に行つて再び道路中央へ戻り、工事場を見たが板囲いは閉つていたと述べていますが、今日述べたのとどちらが正しいのですか。(二一七七丁表)

一審で言つた方が正しいと思います。

岡林弁護人

証人は検事に調べられた折には、板戸が閉つていたか開いていたか確かめていないと言つたのではありませんか。

板戸の戸が開いていたか閉まつていたかについては別に確かめたことはありません。

……………

合田裁判官

証人は原審で裁判長の問に、検事さんの問を板戸に人が出入出来るような隙間があつたかどうかという意味に解して、と言つているが、その答自体はどういう意味ですか。(二一七八丁表)

表の方から見ると、全体に板囲いが出来ていて、人が出入出来るような出入口は開いていなかつたので囲いが出来ているように思つたのですが、その板戸は外側から立てかけたようなものであつたので、立てかけてあるのなら、横から見た場合に、人の出入出来る位の隙間が出来ていたかも知れないと思い、その意味の出入口ならよく見ていなかつたので、どうであつたか判らないと述べたのです。

以上の各証人の証言の特徴は、第一に、戸の傍まで行つて確かめた者は居ないこと、第二に、もし第一、二審の認定どおりであるとすれば、証人らが閉つている旨「認識」してから遅くとも村上清一巡査が現場に到着した午前六時五分か一〇分頃までに表出入口の戸を押し開いた者が居る筈であるが誰もそれを見ていないこと、第三に、各証人とも夫々に推測或いは意見を述べるに止まるとみられる供述内容であること、第四に証人らが三枝方附近に来た頃は、未だ暗かつたのであつて、証人新開キチも第一審四回公判において「暗かつたので開いていたかどうか見ていません」と述べており、表出入口の戸は、傍まで行きよく調べないと判らなかつたとしても不思議ではないこと、である。

しかも、右板戸は、「戸の西方の方が下方は狭く、上方は広く内側から無理に押し開いた格好に、一人分の体が出入りできる位に西方に向けて斜めに開いていた」(松島治男昭二九・九・一二上申書)(不1)というものであつて、内側から無理に押し開いた不完全な開き方であつたことからも、注意深く観察しないと開いているとも閉つているとも判り難い状況にあつた。

いずれにせよ、右の各証人らの供述するところだけによつて、昭二八・一一・五実況見分調書第二号写真、武内、村上両警察官、三枝皎の各証言を排斥するにはいささか無理があり、仮に閉つていたと認定した途端に直ちに、誰が開けたのか、しかも、中から押し開いたような形で、という難問にぶつかることになる。しかも、既に述べたように午前五時四五分頃からは、犯行現場である三枝方は現場保存の対象にされており、警察官の管理下にあつたのである。

(三) 第一、二審で排斥された証拠と新証拠による総合的検討

(1) 警察官の供述

新館工事場表出入口の板戸の開閉状況については多数の警察官の供述がある。以下、各警察官の到着順にその供述を見てみることにする。(尚、到着時刻については新旧証拠間で若干の異同があるが、公判証言があればそれにより、ない者については遅い方の時刻を選択する。事柄の性質からして差支えないと考える)。

〈1〉武内一孝 午前五時三〇分頃到着。供述内容は前記第一審五回公判証言。

〈2〉森本恒男 午前五時三〇分頃到着。

昭二九・九・二二上申書(不1)「………出入口の戸の開閉は私は行つて居りませんから判りません」

〈3〉西本義則 午前五時四〇分か四五分頃到着。

昭二九・九・二一申述書(不1)「………板囲の扉これは臨時的なもので板を組んであるに過ぎない様なざつとしたもので、表から向つて右の方の下部が地面について一尺足らず上部が三尺余り扉がねじれて開いておりました」

昭三三・八・一三法(法務省)「表に回ると工事場入口の板囲が少し開いており、開いた方の上段の隅の方に血液が指先でついた位あつた」

昭三四・九・一四供述調書(一検審)「茂子より犯人の逃走経路の説明を受けたので、同女の指示する場所へ行つて見たところ、工事場板囲の戸がVの字型に開き、一人が自由に出入りできるようになつていた」

〈4〉長尾昂 午前五時五〇分頃到着。

昭二九・九・二一申述書(不1)「私は現場到着後、工事場より内部に這入りましたが中央の戸が下が約一尺位、上部が約三尺位の角度で開いており人間の通行には不自由は感じませんでした」

〈5〉松島治男 午前六時頃到着。

昭二九・九・二一上申書「工事現場の方へ行きますと、表建板囲が中央部で一間位口を西方へ向けて斜に開いて居りましたので工事場内の様子を見様と思い板囲内に入りましたが、此処は私の身体が一人出入出来兼ねる位の開き方で下方は狭く上の方が広く、内側より無理に押開いた格好でありましたがずつと裏へ通り抜け………」

〈6〉新居清 午前六時頃到着。

昭二九・九・三〇検(不1)「その西の方の戸が上下平均二尺位外へ向け上が多少ねじれるようになつて開いておりました。」

〈7〉村上清一 午前六時五分か一〇分頃到着。

供述内容は前記第一審三回公判証言。

〈8〉的場明 午前六時二〇分頃到着。

昭二九・九・二二上申書「店舗表戸は閉つており、西側新築中三階建建物の一階中央部の表入口の戸は約二尺位開いて居た様に思います」

〈9〉高木金吾 午前六時二〇分頃到着。

昭二九・九・二二上申書(不1)「新築中のコンクリート造三階建の建物が建築中であり、表歩道に面した所は板囲をめぐらし中央に入口がついて居り板戸を作つて有り約二尺位引き開けてあり自由に這入る事が出来たので………」

〈10〉櫛淵泰次 午前六時三〇分頃到着。

昭二九・九・三〇申述書「誰が開けたのか人一人位が身体を横にすると通行出来る位に開けてあつたので其処より裏の方へ這入つて行つた」

〈11〉真楽与吉郎 午前六時四〇分頃到着。

昭二九・九・二二上申書(不1)「表入口の戸は開いて居り、その状況は、実況見分調書添付の現場写真の通りであつた様に思います」

〈12〉仁木豊文 午前六時四五分頃到着。

昭二九・一〇・五検(不1)「私達一行が現場に到着した時にはすでに西側に新築中の三階の建物の表中央附近の入口の板戸はあいておりました」

〈13〉近藤邦夫 午前六時五〇分頃到着。

昭二九・九・二〇検(不1)「三枝方西隣りの建築工事場表側一階中央辺の入口附近に行つたところ、その戸は既に人一人通れる位、即ち巾二尺位開いておりました」

〈14〉宮崎欣一 午前七時頃到着。

昭二九・九・二一上申書(不1)「板囲中央部より南よりのケ処に三、四枚板がまくり取られて居り、自由に人の通行出来得る状態でありましたので…………」

〈15〉田所弘 午前七時頃到着。

昭二九・九・二二上申書(不1)「私が現場に駆けつけた時、三階建鉄骨コンクリートの現場表側の板垣出入口の状況はその時に相当の出入者があつて半間巾位の板戸が裏向きとなつて入口東側にもたしかけてあつて、その位置が入口の東側半面近くの処迄出て来ており、間隙が四尺位空いていた」

〈16〉佐藤嘉彦 午前七時一〇分頃到着。

昭二九・九・二二上申書(不1)「そのときまでに相当の出入者があつて半間巾位の板戸が裏向きになつて入口東側にもたしかけてあつた、この位置が東側半間近くの処迄きて居り、間隙が三尺余り空いていたように思います」

〈17〉福山文夫 午前七時一〇分頃到着。

昭二九・九・二一上申書(不1)「私が現場に行つた時には、大勢の捜査員が来て、新館入口の戸はすでに開いて居り、そこから這入つた様な訳で………」

〈18〉逢坂秋義 午前七時二〇分頃到着。

昭二九・九・二二上申書(不1)「私が現場に駈け付けました際、工事場入口の板戸は開いていまして少し西側の方に「ズラシテ」置いてあつたと思います」

〈19〉日下利光 午前七時四、五〇分到着。

昭二九・九・二二上申書(不1)「私が現場に駈付けた時は、西側の新築工事場の前入口の戸を東側は開かない状態になつて居たが西側の戸は締まつて居たが開いたら開く状態になつていました」

(2) 三枝方家族の供述

〈1〉三枝皎 昭二九・九・二一検(不3)

事件の日、自転車でかけつけ、その前を通つたが「その戸の西端部分が表の歩道にはみ出していて、ねじれる様に上の端の方が約二尺開いていました。それで私は、この時、自分の自転車の荷台に乗せていた姉登志子と二人で、どうしてこの戸が開いているのかいなあ、などと話し乍らその家の東側の父母の家に入つたのです」

〈2〉三枝登志子 昭二九・九・二一検(不3)

「父母の家の西側の表の囲いの所へ来たとき、真中辺の戸が一、二尺開いていたので、私はどうして何時もは用心の為、夜は閉めてあるのに開いているのかと不思議に思いました」

(3) 以上の警察官の一連の上申書は昭和二九年九月二一日から三〇日にかけて集中的に作成されている。警察内部において、新館表出入口板戸の開閉状況について各人が見たところを書くように命じられたのである。この時期は、茂子が既に起訴(昭和二九年九月二日)され、第一審一回公判(昭和二九年一〇月一一日)を待つ許りの時期であつて、捜査当局としては犯人内部説により固まつていた筈の時期であるだけに、その信用性は高いと考えられる。

三枝皎、登志子が、八百屋町に到着した時刻は比較的早かつた。登志子のいう五時二五分というのは何かの間違いとしても、隣人達が見たという時刻と大した時間の差はないと考えられる。

新館表出入口の板戸は、「内側から外に向つて多少ねじれるように押開かれ」ていた。果して誰が開けたのか。

村上検事作成の前記「捜査の経過」(一偽1)によると、村上検事は、「新館表側板戸の開放は、本件事件発生後西本部長が開放した」と想定している。

同検事の言によると「昭和二九年一一月中旬乃至下旬頃であつたと思うが、当職は新館表戸の開放時期如何について未だ十分の解明がなされておらず、この点だけが気がかりなところより、その頃の午後四、五時頃、たゞ一人で本件現場附近近くにおいて………私的実況見分を二、三日継続して行い、或いは東北側より、或いは西北側よりためつすかしつして眺めていたところ、………新開キチがこれを見咎めて………『アレそんなことなら事件後自分方に来てマージヤンをしていた鑑識部長の西本義則が、あの戸は自分が事件発生直後現場にかけつけた時証拠収集に出入りするのに不便を感じたところから、自分が内側から開けておいたもんじやと笑いながら言つていた』旨供述し、………右証言により西本が表戸を開けたことは明らかである」としている。

しかし、前記一連の警察官の上申書によつても、「表の板戸を開けたことはない。誰かが開けているのを見ていない」という点で一致しており、元々、西本義則が現場到着した午前五時四五分頃から現場保存がなされているのであり、当の西本警察官が、表出入口板戸を「内部から押し開いたように」不自然に開けることは考えられないところである。

(四) まとめ

以上見て来たとおり、第一に、「戸が閉つていた」とする隣人達の証言は、推測に基くものであり傍まで行つて確かめている者は居らず必ずしも信憑性が高くないこと、第二に、「戸が開いていた」とする三枝方家族、警察官の供述は、傍まで行きその開閉の状況を具体的に述べるもので信用性の高いと考えられること、第三に、もし隣人達のいうように「閉つていた」のであれば、その後開けた者が誰か居る筈であるが、誰もそれを見ていないことからして、隣人達の推測的証言を、武内一孝、村上清一、三枝皎の証言に優越させて事実を認定した第一、二審判決は誤まりであるといわなければならない。

結局、新館表出入口板戸は、隣人達が集まつて来たときも、三枝姉弟が自転車でやつて来たときも、そして警察官が来たときも、「不自然な形で」、「上が広く下が狭く」、「ねじれるように」「人一人がやつと通れる位に」開いていたものと認めるのが妥当である。

そうすると、外部から侵入した賊が新館表出入口から逃走した、とする茂子の供述の有力な根拠となることになる。

4 逃走した犯人を目撃した者の存在

第一、二審とも新館工事場表出入口附近から元町ロータリー方向(別紙図面(一)参照)へ走り去つた男の存在を認めている(第一審(二)第三の二のニの5、第二審第三の二)。そして、その男は、中越明であると第一審は断定し、第二審は「要するに酒井証人の証言はそのまま信用し難いものであり、辻証人の目撃した人物は、おそらく中越明であつて、もとより本件とは関連がない事実である」とするのである。

しかし、辻、酒井両証人の目撃内容は、第二審が説示するところだけによつても、容易にそのようには断定し得ない要素を含むものと考えられる。そこで、新旧証拠を総合して、辻、酒井両証人の目撃内容を正確に把握し、本件との関連を検討し直す必要がある。

(一) 辻一夫証人の目撃内容

同証人の第一審一五回公判証言要旨

辻一夫は、本件発生の昭和二八年一一月五日朝、勤務先の中央市場へ出勤するため午前五時一〇分から一五分位の頃、自転車で三枝方前を西から東に約二〇メートル位手前まで来たとき、三枝方工事場の処から一人の男が飛び出したように直感した。その男は急ぎ足で西に向かい、すぐ交叉点を南へ曲りその先の新町橋の方へ走つて行つた。そこで同証人は、泥棒ではないかと思い少しその後を追つて見たがすぐ引返した。すると、被告人方前辺りで奥の方から「お父さん」とか「泥棒」とかいう女の悲鳴が聞こえたが誰も出て来ないので勤務先へ行つた。もつとも、自分は、その男は工事場の中から飛出したように直感したが暗かつたので工事場の前附近に立つていて走り出したのかもしれない、旨の証言をした。

同人の第二審証人尋問調書中の証言もほゞ同旨である。

同人は、事件発生の翌日、昭二八・一一・六員(不1)において、「事件当日午前五時一〇分か一五分ころ、自転車で元町ロータリーから八百屋町三丁目に入ると、女の叫び声がし、建築中の階下より黒い人影がバタバタと飛出して西へ走り、左に折れて元町通りへ出た。自分は思わず泥棒が逃げたなと思つて追いかけたが途中で引返した。自分は、五、六間位のところでその男を目撃したが、背は細高く、走り方も相当早く、おそらく三四、五歳以下の者が走るような走り方をしていた。」と述べている。

右の供述は、事件直後のものであり、民間人たる辻が警察の捜査に協力して目撃供述を申し出たものであるから相当に信頼性の高いものと見なければならない。

(二) 酒井勝夫証人の目撃内容

酒井勝夫の第一審一三回公判証言要旨

同人は、かまぼこの行商人であり、昭和二八年一一月五日朝は祭礼のため、例日より早く仕入れに行き午前四時三五分乃至四〇分頃に自転車で仕入れ先を出、三枝方前を東から西へ通行するため、眉山タクシー附近(三枝方手前)(別紙図面(一)参照)まで来たとき、前方から「火事だ」という声を聞いたように思つた。さらに進んで、自転車から片足をおろして左側を見たが何もなかつたので錯覚かと思い自転車を一歩踏み出した時、斜左後方にパタツという物音が聞えたのでふり返ると、黒い服を着た二五、六歳の若い男が新築工事場の板戸が倒れた上に片足をかけて、さも急いでいるらしく走り出すのが見えた。その男は歩道を元町の方へ走り去つた、旨証言した。

ところが、同証人は、右証言した公判期日である昭和三〇年九月二日、偽証罪の容疑があるとして検察官に取調べられることになつた。そして、同日付の昭三〇・九・二検(藤掛)(一四八八丁)において、「(本日の証言は)私が実際に見た部分と、そうでなく私が勝手に想像判断したものを両方含めて実際に見たように証言してしまつたものであります」と述べ、公判証言を公判外で訂正する調書が取られており、さらに二日後の昭三〇・九・四検(村上)(一四九四丁)においても同趣旨の調書を取られている。

しかし、同人は、第二審証人尋問(二一二三丁以下)において、

裁判長

その折に(第一審で)述べたことは間違いありませんか。(二一二三丁表)

私自身としては間違いないと思つて述べたのですが、後で検察庁へ呼ばれて間違つていると言われ、不承不承訂正し、証言が間違つている様に述べたことはあります。

何処が間違つていると言われたのですか。

私が新築工事場の板囲の戸が倒れているのを見た、と言つたのを、あれは倒れていなかつたと言われ、又、その日の朝、諏訪神社の祭礼の日であつたので、普段より一時間早い三時半に起きてかまぼこを取りに行つたと述べたのを、いつもの通り行つたのであろうと言われたのであります。

証人は検察官の言う通り訂正したのか。

皆が違う違うというので年寄のことで、思い違いもあるかもしれないと思つて、不承不承訂正いたしました。

それではその訂正したものが正しいのか。

私としては、訂正したものより裁判所で証言した方が正しいと思つています。

と第一審での証言が正しい旨述べ、第二審でも第一審とほゞ同旨の証言をしている。

同人は、昭三四・三・三〇検(一偽1)においても、「火事だという声がし、パタツと物音がしたのでふり返つてみると、黒い服を着た男が新築工事場から出て来て走り去るのを見た。板戸を押し倒して出て来たと前に言つたのは想像である」と述べている。

酒井勝夫の供述については、結城虎雄の昭三〇・九・二事(一偽4)によると、「事件のあつた二日目に、酒井勝夫から、三枝方より男が走るのを見た、というのを聞いた」とする供述もあり、同人の証言の信憑性を一概に否定することはできない。

(三) 走り去つた男は中越明か

第一、二審は、新館工事場表出入口附近から元町ロータリーの方向に走り去つた男は中越明であるとし、第二審は、辻証人の目撃した人物は「おそらく中越明である」としている。

果して、そのように断定しうるだけの証拠が存在したのであろうか。

中越明の第一審一五回公判証言によると、当時、同人はヒロポンを多量に射つており、禁断症状を呈していたこと、自分の歩行経路を左程に明確に記憶しているわけでもないことが窺われる。そして、三枝方前附近を通つたかどうか、その時の状況については、

藤掛検察官

証人がその三枝方の附近を歩いている時に何か変つた事はなかつたか。(一四二八丁裏)

その時分の記憶は全然ありません。

三枝方の附近を通つている時に何か人声が聞えたのでびつくりして走り出したような記憶はないか。

その事については前々から色々聞かれているのですがどうしても記憶が起きて来ないのです。

証人は前に検察庁で取調べられた時、その点について三枝方の前を歩いていると女の声で泥棒という悲鳴が聞えたのでびつくりして逃げ出したと述べているがどうか。

そんな事を述べた記憶はあります。

この事は間違いないか。

同じ事を何回も何回も聞かれるので、最初は判らなかつた事を錯覚を起してそんな事があつたようにいいましたが、現在正常な精神状態で考えるとそんな記憶は全然ありません。

……………

証人はその朝、新築工事場の板囲いの前附近を通つた記憶はないか。(一四三〇丁表)

通つたかどうか判りません。

新築工事場の前附近の人道上を元町の方へ証人が走り出した記憶はないか。

元町ロータリーの処を藍場町の方へ向つて走つた記憶はあります。

……………

証人が三枝方の新築工事場の板囲いの前を通つた時、泥棒という悲鳴を聞かなかつたか。(一四三〇丁裏)

どうであつたか記憶がありません。

証人は、何も記憶がないというが、警察とか検察庁では記憶にない事を述べたのか。

何回も何回も同じ事を取調べられたので記憶にない事も本当の事のように思うようになつて述べたのです。

昭和二九年八月頃検察官に対しても同じような事を述べているがどうか。

どんなに考えても事件当時の記憶がないのです。

……………

村上検察官

証人は三枝亀三郎を殺したと自白した事があるか。(一四三二丁表)

あります。

その自白が次にどう変つたか。

川口がやつたといいました。

川口がやつた際証人は何処にいたといつたか。

ロータリーの方でうろうろしていたといいました。

証人が自白した時に警察官はそれを信用したのか。

それは判りません。

証人が自白したのは何時頃か。

昭和二九年五月頃でした。

その後、村上検事が証人を取調べた時には証人が自白した事には一切触れなかつたのではないか。

(証人は答えない)

証人は亀三郎を殺したのか。

殺しておりません。

何故殺したといつたのか。

ヒロポンの中毒により幻想でそういわれるとそうかいなと思つたのです。

川口が殺したと述べた事もそれと同様か。

そうです。

……………

弁護人

証人は川口と一緒に中洲港から帰る道順を記憶していたのか。(一四三三丁裏)

水上署の前を通つた事と徳島民報社の前まで来た事は確かに憶えていましたが、その他は全然記憶がありませんでした。それで、警察で色々聞かれましたがはつきり言えず、川口と口が合わぬというので何回も何回も尋ねられ、結局唯今いつた様な道順になつたのでありますが、川口と別れた場所を取調を受けて思い出したので大体その道順に間違いないと思つています。

……………

というものであつた。

右の証言からも明らかなように、中越は当時の歩行経路を正確に記憶しておらず、「何回も何回も尋ねられ、結局唯今いつた道順になつた」のに過ぎないこと、事件の朝、三枝方前附近を、「通つたかどうか判りません」と証言しているのである。前記村上検事作成の「捜査の経過」(一偽1)でも明らかなように、中越明は窃盗前科数犯あるところから、三枝亀三郎殺害の被疑者として逮捕勾留され、一旦は自己の犯行である旨自白したが、その後、自白が犯行現場の態様と異なるため追及されたところ、自白を翻えして、川口算男の犯行であると供述を変更していること(同人の昭二九・六・七員、同六・九員、同六・一四裁((以上いずれも不1)))、右自白は、当時中越の取調に当つていた柔道五段の猛者が中越を道場に連れ出し、同人を数十回となく投げとばして取調を続けた結果自白するに至つたものであり虚偽の自白と判明した、と報告されている。右の経緯に加うるに中越は、当時、強度のヒロポン中毒のため、捜査官に迎合し易い状況にあつたとも考えられる。

従つて、同人が本件につき証言している内容についても、それ自体多分にあいまいであるが、それ迄に数多く取調べられ頭に刻み込まれた事実の中から断片的に供述している気配も見受けられるのであつて、同人の証言だけから、同人が本件発生の日の早朝三枝方工事場の前を疑いもなく通行したと認めるには疑問の余地があるというほかはない。

しかも、辻、酒井両証人は、新築工事場附近を単に通行していた者とすれ違つたと述べているのではない。新築工事場の板戸附近から飛び出した人物を目撃したといつているのであり、その頃「火事だ」或いは「泥棒」という悲鳴を聞いた、というのである。

従つて、本件旧証拠だけからは、中越明が工事場表出入口附近を通行したと断定しうるには不十分であり、辻、酒井両証人の見た男が中越明であると断定することはできないというべきである。

もし、辻と酒井が目撃した人物が同一人物であれば、二人は新築工事場附近で出会う筈であるのに出会つていないのは、両名に目撃された人物が複数であることを窺わせる。亀三郎殺害の二人の共犯者の可能性を示唆するものと考えられる。

(四) 高畑良平の目撃内容

高畑良平の昭二八・一二・一一員(松山3)は、同人が事件の日の早朝、三枝方近くの元町ロータリー附近を走り去つた男を目撃したというものである。

右調書によると、同人は、高木義貴の家へ寄つた帰りに、徳島駅の売店で煙草を買い、旅行に行くのか小学生が沢山集合している一番汽車の着く前であつた頃、「そして帰りは元町からびつくり屋の処から通町へ入つたのでありますが、その前に元町ロータリーの処に来た時に自転車を操縦して居る春藤が、アツと声をかけ、『あれ、とんし(盗人)と違うんか』というて自転車を一生懸命踏んだのであります。私は姿を見た時はつぼや呉服店の前を一人の男が南へ走つたので追いかけた処が、その男は通町びつくり食堂の処から通町へ曲り、畳屋の前あたりで立止つて私達が追かけて行つたので振向いて顔を見合せたのであります。何でもなかつたので、その侭通り過ぎて戎さんの処から曲つて伊沢へ帰つたのであります。」と述べて、犯行時刻頃、犯行現場近くを通りかかり、逃走犯人らしい人物を目撃した旨供述している。

(五) まとめ

以上の新旧各証拠の検討から言えることは、第一に、辻一夫、酒井勝夫の供述により、本件犯行時刻頃、三枝方新館表出入口の板戸附近から飛び出した男がいたものと認められること、第二に、中越明の第一審証言はあいまいであつて、同人が事件のあつた早朝、三枝方新館前附近を通行したと認めるには多分に疑問の点があること、第三に、従つて、辻証人の目撃した男は中越明であると断定することはできないこと、第四に、辻、酒井両証人以外にも、高畑良平が外部犯人説に従い捜査が展開されていた頃に、事件の日の早朝犯行現場附近から走り去つた男を目撃した旨、供述していたことである。

これらのことから、外部犯人が亀三郎を殺害してのち、新館工事場表出入口の板戸のところから元町ロータリー方面へ走り去つた状況を窺うことができる。

5 侵入し亀三郎を殺害した犯人を目撃した者の存在

犯行現場である四畳半の間には、亀三郎、茂子、佳子の親子三人が寝ていた。茂子と佳子は、何れも、覆面をした男が四畳半に侵入し、亀三郎を殺害した旨供述する。本件における外部犯人の犯行を目撃したとする者はこの二人だけであり、その目撃内容は慎重に検討されなければならない。

(一) 茂子の目撃内容

前記二の5(一)「茂子の供述内容とその推移」において詳細に検討した。その供述は具体的であり、事件直後からほゞ一貫していること前述のとおりである。尚、外部犯人を追い新館裏の大工小屋付近まで来て表出入口から賊が逃げるのを目撃したあと四畳半の方へ引返したとする部分は、別紙図面(二)のとおり茂子の血痕が点々と落下しているところから客観的裏付けを伴つているところである。

(二) 三枝佳子の目撃内容

三枝佳子は、本件発生当時は九歳(昭和一八年一一月一一日生)の少女であつた。事件発生当日、同女は、警察官に対し次のように供述している。

昭二八・一一・五員(工藤寿)(八七七丁)

(要旨)

今朝泥棒が入つてお父さんお母さんに傷をつけて逃げた。五時頃お母さんが何を言つているかわからない大きな声を出し乍ら私をゆり起した。眼を覚すと電灯はついておりません。薄明るかつたので見えました。お父さんお母さんが立つておりました。その向いに眼と顔だけ出して顔を包んで覆面の上、服は紺色によくにた青色の洋服を着た泥棒がおりましたのを私は見ました。

同女は、昭二八・一一・二九検(浜健治郎)(八八一丁)においても同旨の供述をしているが、昭二九・八・一三検(村上)(一偽2)においては、「これまで述べて来たことは自分の想像であつて皆嘘である。」とする供述記載があるが、右検面調書は何故か公判には提出されなかつた。

同女の公判証言を見てみると、

第一審六回公判(昭二九・一二・六)証言

藤掛検察官

証人が起きるとお父さんとお母さんはどうしていたか。(六一八丁裏)

お父ちやんは電気に手を持つて行つており、お母ちやんは障子のある方に立つていました。

……………

お父さんとお母さんの外に誰か居たか。

男の人が一人おりました。

その男の人は背の高い人か低い人か。

お父ちやん位の高さの人です。

……………

その人は帽子を冠つていたのか。

判りませんでした。

着物を着ていたか洋服を着ていたか。

洋服を着ていました。

どんな洋服を着ていたか。

紺色の洋服を着ていました。

どんなネクタイをしていたか。

それは判りません。

その人は覆面でもしていたか。

茶色の薄いので目の直ぐ下まで覆面していました。

……………

証人は起きた時本当に泥棒を見たのか。(六二六丁表)

見ました、本当に見ました。

証人は前に検察庁で調べられた事があるか。

あります。

その時泥棒を見た事はないといつたのではないか。

それは私を調べたおぢさんがそうして仕舞つたのです。

証人は見た事はないとは言わなかつたのか。

いいませんでした。

その調べの時調書を作つて貰つたか。

帳面を書いて呉れましたが私が見たというのにおぢさんが見とらんという事にして仕舞つたのです。

証人は叱られたか。

嘘を言えと叱られました。私が見たというのによう考えて見い嘘を言えと叱られました。

(証人は激しく泣きながら供述した)

弁護人

証人は目を覚まし賊を見た事は間違いないのか。

間違いありません。(六二六丁裏)

……………

というものであり、判決確定後の昭三三・八・一二法(安友竹一)(法務省)、当請求審証言も、ほゞ、事件直後の供述並びに第一審公判証言と同旨である。

第一審判決は、「証人三枝佳子の第六回公判における証言は措信せず(以下何れの場合も同じ)」(同(二)第三の二のニの4)と極く簡単に同女の証言を排斥し、第二審判決も、「三枝佳子の供述については細部においては多少異動があるが事件直後の警察官の取調べ以降、原審公判廷における供述に至るまで概ね一貫して犯人を目撃したと述べているところである。然し同人は事件当時年令一〇歳小学校四年生の少女である。智力も判断力も劣るのみならず本件のごとき早暁のしかも暗中の突発的事件にあつては見聞の確実ならざることは当然である。しかも幼少年が簡単に他の暗示に落入り易いことは吾人の経験上も肯定し得るところである。上来説明した諸証拠に対照すれば外部侵入犯人の兇行を目撃したという佳子の証言も以上の点からこれを真実と認められず、従つて被告人の暗示にもとづく供述と認めるのが相当である。犯人の服装等についての詳細にわたる供述は一層この感を深くする。」(同第三の五)として排斥した。

しかし、右の第二審説示について考えるのに、一〇歳以下の小児でも異常体験に基く事実に関する証言能力は広く実務上も承認されており、成人以上に信用できる場合もあることが指摘されているところである。しかも「見聞の確実ならざることは当然」というけれども、本件の場合、証言の前提となる認識能力は四畳半の間に知らない人が入つて来たか否か、入つて来たとすればどんな人だつたか、というのに尽きるものであり、当時小学四年生であつた佳子の証言を右の理由で排斥するのは採証法則上も妥当とは考えられない。又、「暗示に陥り易い」というけれども、佳子が供述しているような内容を果して暗示によつて述べさせられうるか疑問であり、茂子の昭二八・一一・五員と佳子の同日付調書の内容は、細かく一致しているわけではない。

佳子は、事件直後から当請求審証言に至るまで、目撃した内容を一貫して述べており、その内容は具体的で、記憶の明確でない部分はその旨述べて供述してはいない。

以上により、茂子、佳子の供述は、その供述の推移、その内容の迫真性、具体性からして真実、外部犯人を目撃した者の供述であると認めるのが妥当である。

6 侵入し逃走した犯人の痕跡

新旧両証拠の中には、三枝方に侵入し亀三郎を殺害して逃走した犯人の痕跡と考えられるものが幾つか存在している。

(一) 新築工事場二階から屋根上に通じる東側窓枠に存した「指紋二ケ、掌紋一ケ」

和田福由作成の鑑定書(八八七丁)によると新築工事場二階から三枝方屋根上に通ずる東側窓枠に「指紋二ケ、掌紋一ケ」が印象されていたことが認められる(同鑑定書参考写真(三))。右の事実は、何人かが三枝方屋根上に通ずる東側窓枠に手を触れたことを示し、外部犯人が新館二階に上り、東側窓から店舗屋上に出た可能性を示している。

(二) 新築工事場表出入口の柱に附着した人血

昭二八・一一・五実況見分調書によると、「………前側を板(柱)囲した第二号写真に示す如く出入口が開いているのでそこより新築屋内に這入れば、入口の板囲の柱に僅かの血痕と思われるものが、一、二点附着しており」と記載されている。右調書の作成者である真楽与吉郎は、第二審証人尋問に際し

岡林弁護人

その入口の板囲いの柱に血がついていましたか。(二〇七二丁裏)

血痕と思われるものが一、二点ついておりました。

その血は人血でしたか。

佐尾山技官に観て貰つたら人血であるとのことでした。

血がついていた柱は何処の柱でしたか。

開かれた戸の側の柱だつた様に思います。

と証言している。右旧証拠により、新館表出入口の板囲の柱に血痕の附着していたことは否定することができない。

ところで、茂子は、「犯人を追跡したものの大工小屋の前附近で立ち止まり引返した」と述べており、別紙図面(二)のとおり、それに即応する落下血痕が大工小屋前附近まで点々と続いている。又、茂子犯人の認定をする立場でも、茂子が表出入口附近へは行く必要のない場所であることは言うまでもなく、その場所に血痕が附着していることは、前述3で述べた表出入口の板戸が「Vの字型に内側から押し開いたような格好で開かれていた」事実と共に、外部犯人が亀三郎と格闘した後同所から逃走したことを窺わせる。

(三) 新築工事場板戸附近に落下していた人血

証人真楽与吉郎の第二審証言によると、

岡林弁護人

道路ぶちの入口のところに血は落ちていませんでしたか。(二〇七三丁表)

血が落ちていたように思います。

新館工事場の土間はどのような状態でしたか。

砂が一面にザラザラ敷かれていたように思います。

その砂は足跡がつく程度のものでしたか。

足跡がつく程砂はありませんでした。

道具小屋には内部から天井を突き出ているナル木がありましたか。

あつた様に思います。

そのナル木に血はついていましたか。

ついていたように思います。

との証言があり、当請求審における渡辺倍夫証言中にも、四畳半裏出入口から工事場の表出入口に通じる小屋のナル木、踏板に血痕がついており、特にナル木には自分の手形より大きい位の手形がついていた旨の証言があり、前記実況見分調書にも、「小屋内より居宅裏側に通ずる小路のナル木や踏板等に第一一、一二、二六号写真の如く血痕が点々と附着して居り」と記載されている。

これらのことから、外部犯人が、血痕をナル木や、踏板、板戸附近の道路ぶち、板戸等に附着させ乍ら新館表出入口から逃走したと認められ、この状況は、茂子、酒井勝夫、辻一夫の夫々の供述ともまさに符合する関係にある。

(四) 犯行直後における警察犬による追跡

西本義則の昭三四・九・一四供述調書(一検審)によると、「私は傍におつた茂子に事件発生の模様を尋ねてみたところ、茂子は『裏の戸口より賊が入つて来て主人と格闘となり、主人は賊に刺されたのだ』と言い『その賊は………新野の米田という者で、同人は店の金を使い込んだので主人にやめさせられ…………そいつが主人を刺したのだ』と言つていました。………私は米田が一番列車で逃走するかも知れんと思い、早速徳島駅へ手配すると共に、警察犬を傭つて来て犯人の逃走経路を調べさせました。そのとき警察犬は殺人現場から元町のロータリーの池のあるところまで二度も走つて行きました。」と述べている。右警察犬により追跡された犯行現場から元町ロータリー方向への逃走経路は、既にみた辻、酒井、高畑らの逃走した男を目撃した状況とも合致している。

7 電話線、電灯線の切断

第一、二審判決は、電話線、電灯線が切断されていたことは、茂子の依頼により西野が実行したこととして茂子有罪の根拠とした。西野の証言が偽証であり、茂子の依頼による西野の行為ではないことになると、この事実は、第三者による切断、即ち、三枝方に侵入し亀三郎を殺害した外部犯人の仕業と見るべきことには、何らの論証をまつまでもないと考えられる。

8 遺留されていた匕首

第一、二審判決は、右匕首は、茂子が阿部を介して篠原組より入手し、犯行直後、西野に渡して電話線を切らせ、その後新館コンクリート壁に立てかけ、外部犯人を偽装したと認定し、茂子有罪の根拠とした。阿部、西野の証言が偽証であり、右の認定が根拠のないものになつて来れば、右匕首は、篠原組関係者か或いはそれより譲り受けた者が三枝方に侵入し、同所に遺留したと見るしかないことになる。

四 本件捜査経過とその特徴

そこで、最後に本件の事態の推移を解明するため本件捜査経過を概観する。

第一、二審確定記録、不提出記録、川口算男不起訴記録、松山光徳不起訴記録、第一次偽証不起訴記録、第一次、第二次検察審査会記録、法務省人権擁護局からの取寄記録、当請求審証人松島治男、同真楽与吉郎の各証言によると、本件捜査の推移に関し、次のような事実を認めることができる。

1 事件直後の捜査

昭和二八年一一月五日早朝、本件発生の通報を受けた徳島市警は、署長新居清、松島治男刑事課長の指揮の下に捜査を開始した。犯行現場は鑑識係官による鑑識活動が実施され、現場保存は午前五時四五分以降なされ、午前七時五〇分から実況見分が開始された。その結果、三枝方屋根上の電灯線、電話線が切断され、建築工事現場の表出入口の板戸が開いており、その板戸、ナル木、踏板などには血痕が附着し、蒲団の敷布には足跡が印象され、匕首一振、懐中電灯一ケが遺留されていた。これら犯行現場の状況は、何人の目にも外部から侵入した犯人による殺人事件と判断され、事件当日取調べた亀三郎の内縁の妻冨士茂子、娘の三枝佳子、住込店員の西野清、阿部守良らの供述するところも、それを裏付けるものであつた。

捜査の方向は、先ず遺留品の鑑定や鑑識活動により、その出所や由来が探索された。一一月一〇日には、匕首、懐中電灯、靴跡(別紙図面(六))につき写真や図面の手配書(「ラジオ商殺し事件の遺留品手配について」(松山・3))が徳島市警察署長から県内各署、駐在所に配付されると共に、併せて目撃者探し、不審者の割出しが粘り強く進められた(「殺害現場附近を時間的に通行する者調」昭二八・一一・六付、「宿泊者調査」同一一・一〇付等)(松山・3)。

先ず、蒲団の敷布上に印象されていた靴跡については、(イ)靴跡がラバーシユーズによるものであること、(ロ)当時、ラバーシユーズは遊び人など特殊少数の者にしか使用されておらず、篠原組においては本件発生前、組長のラバーシユーズが紛失し詮議されていたこと、篠原組にヒロポンを卸していた金本某が、篠原組にラバーシユーズを売却したことがあつたことなどが、捜査の結果突きとめられていた。

匕首については、佐野辰夫が刀身を快楽栄方で手に入れ、上野庄太郎方に間借りしていた時に匕首の形にし、友人の辻本義武にグラインダーをかけてもらつて作つたものであること、佐野辰夫は右匕首を米穀通帳と共に高木義貴の内妻児玉フジ子に渡し篠原組からヒロポン一五本を貰つたこと、児玉フジ子は篠原澄子に本件匕首を渡したこと、その後佐野辰夫が篠原組に赴き匕首の返還を求めたが返してもらえなかつたこと、が明らかになつており、昭和二九年三月段階では篠原イクエ、同澄子らは、右匕首を川口算男が所持していた旨供述したのである。

懐中電灯については、長岡武夫が購入したものを渡辺文雄にヒロポンと交換して渡し、昭和二八年一一月四日夜、渡辺文雄の兄渡辺勲が渡辺明に貸し、さらに渡辺明が宮本春夫に貸したこと、宮本春夫は篠原組と関係があつたこと等が判明した。

そして、その間、篠原組の関係者を中心に「附近不良徒輩」と目された者らが次々と逮捕されたが、いずれも嫌疑不十分となり、中越明も一旦は自白したものの、右自白は警察官の暴行により強制されたもので虚偽であることが判明し、その後、同人は本件犯行は川口の仕業であると供述するに至つた。徳島市警は昭和二九年四月二八日川口算男を強盗殺人容疑で逮捕し、同年五月三日検察官送致した。

2 昭和二九年六月の時点における捜査の集約

外部犯人説に基く捜査は、昭和二九年六月の段階に至り、川口算男を本件の犯人であると断定するところまで進展した。

このことを端的に示す昭二九・六・一捜査報告書(検察事務官大知梅夫、笹山明雄共同作成)(松山2)は、検事正宛に要旨次のように報告している。即ち、

「 物的証拠である匕首、棒型懐中電灯は完全に連りがあり、被疑者川口算男はこれのみによつて犯人である事を立証できる。

(イ) 佐尾山明鑑定書によると、匕首には人血が附着しているが少量のため血液型の検出ができない。柄に巻いた細紐は麻の三本縒であり、柄は布紺色のスフサージで巻き人血が附着し、杉材を糊で合し針金で両溝を締めてあつた。右匕首は犯人が三枝殺害の用に供したものであることは明らかである。

(ロ) 右匕首の由来は、佐野辰夫が元小刀を加工し辻本義武にグラインダーを当てるよう依頼し、佐野は匕首と米穀通帳を抵当にして高木義貴の内妻児玉フジ子を介して篠原澄子を経て川口算男に右匕首と通帳を渡し、ヒロポン一五本を譲受けた。川口は右匕首を篠原澄子より受取つていることに間違いない。川口はこれを否認しているが、篠原澄子、高木義貴、松本光夫、森和一、矢野清次郎、中越明、三谷刀剣店主、佐野辰夫、辻本義武らの供述により、右匕首は被疑者(川口)に物的証拠の第一に数える事ができる。

次に懐中電灯は、被疑者川口が犯行当日右ズボンのポケツトに所持していたものであつて、この事実は、中越明、森和一、の供述により認められ、犯行現場においても一回点滅している事実は被害者の内妻冨士子の供述よりしても、川口との結び付きの物的証拠の一つとして数えることができる。

その他、中越明の供述は、川口算男が犯行現場に居たことの証明であり、その他にも、川口が現場にいたことを証明するものがある。

さらに、屋外の電灯線の切断は、犯人の面を被害者に見られないための手段であり、電話線切断は、警察への通報阻止のためと考えられるが、電灯線と間違つて切つたものとも推定される。」

とし、さらに、情況証拠として、川口が本件犯行に至る動機、取調べに対する態度、監房内における動静、を取上げている。

右の捜査報告書に盛られている内容については、勿論、これをそのまま真実と断定することはできないし、その内容についても疑問の点が多い。しかし、昭和二九年六月一日の時点において、徳島地検で亀三郎殺害事件の捜査を担当していた者の本件に関する認識及び捜査の集約点が右のようなものであつたことが極めて重要であると考えられる。

昭和二九年六月、徳島地検の担当検察官は、川口算男を本件の犯人であると断定し、本人否認のまま強盗殺人罪で起訴することを決断した(見張りの中越明と共同正犯として)。そして、起訴状原案を作成の上高松高検に起訴禀請に赴いたところ、証拠不十分の故を以て上司の決裁が得られず、起訴は見合わされるに至つた。

3 内部犯人説に基く捜査の開始とその発展

(一) 内部犯人説への捜査方針の転換

村上善美検事作成「冨士茂子に対する偽装殺人被疑事件捜査の経過」(一偽1)と題する書面によると、この間の捜査方針の転換の過程が次のように説明される。

「然して、帰庁せられた田辺検事正より昭和二九年六月三〇日頃当職を主任として、川口・中越に対する事件の再検討と捜査を命ぜられ、その後検討を加えている内、上司諒解の下に○○、○○両事務官は川口・中越を真犯人と思い込んでいる風情があつたので之を排除して、丹羽事務官・田中事務官を捜査補助者として再捜査に乗り出している内、藤掛検事は自ら志願して補助検察官に加わり、こゝに田辺検事正総指揮、湯川次席検事指揮の下に、以下、村上、藤掛、丹羽、田中の四名よりなる特捜班が編成されて再捜査に乗り出すに至つた」と。

そして、同検事は、次のように徳島地検独自の捜査を開始した旨述べる。(以下要旨)。

「一、市警捜査の記録の検討(基礎調査)

依つて当職は亀三郎殺害事件の高さ二尺近い全記録を検討し、捜査の振出しに戻つて綿密なる基礎調査より出発した。その結果

(1) 中越明の自白は警察官の暴行、強制による虚偽自白であることが判明した。

よつて先ず新館板囲い中央の板戸の日頃の戸締り状況とこの戸を何人が本件犯行前後頃開けたかに当面の重点を置いて検討した結果は次の通りである。

(2) 昭二八・一一・五実況見分調書によると、恰も犯人は、開放された板戸より出入したと推定される状況にあるが、何時この戸が開放されたかについては解明されてはいない。

(3) 茂子の警察における供述内容の不自然性

茂子は犯行当日の調書では犯人は米田だと言うのみで、茂子がその後逃走して行く犯人を追跡して行つてその逃走方向を確認したことの有無についての記載は全然ない。

然るところ、それより約二〇日経過した後の供述調書に依れば自分を追い越して行つた犯人をその後自分は追跡して新館裏手風呂場窓口に至つた時、犯人は新館内部を通つて表側出入口である板戸のところより表街道にとび出し、それより西方に向つて逃走するのを右窓口より確認したので一旦座敷に引返してから泥棒じや若衆さん来てくれと言つて店員を呼んだ旨の供述が附加されている。よつて茂子は犯行当日には犯人は米田だと言つていたのに、二〇日後になつて始めて犯人は新館から西方に逃走したと何故言い出したかについて疑惑が注がれるに至つた。

ところが、本件犯行数日後の徳島新聞紙上に、辻一夫の目撃についての記事が発表されており、茂子の二回目の附加供述は右新聞記事を読み、或はラジオ放送を聴取して、これを弁解材料に(偽装用に)利用するに至つたのではないかとの疑が生じたので当初の供述を得た係官に聞き質したところ、被告人は最初の供述をした際、賊が新館を通つて西側に逃走する姿を見かけたとの供述は全然なかつた旨の供述を得て被告人の言動につき不審が持たれるに至つた。

さらに茂子が犯人は米田だと思う旨指名したことは捜査の主力を米田に向けしめて犯人外部説に陥らしめんと巧妙なる詐術を用いたのではないかとの疑も持たれるに至つた。

(4) 三枝佳子の供述の矛盾性

被害者亀三郎及びその妻の茂子間の実子で、本件犯行前夜来より奥四畳半の間で父母と共に就寝していた佳子(当時小学校三年生)は司法警察員に対して犯行当時父は犯人と奥座敷中央辺において格闘していた。その犯人は父と同じ位の高さの人で紺色の服を着て薄茶色の布で覆面し、頭髪は七、三に分けていた男である等と供述しているが、測候所に問い合すに一一月五日午前五時頃消燈下の屋内においては白黒の判別は稍可能であるが、その他の色の色別は不能である旨の回答を得たので、同人の供述は何人かの示唆によるものではないかとの不審が持たれるに至つた。後の捜査により被告人茂子が斎藤病院に入院してより佳子を枕許に引き寄せ、毛布をかぶせる様にして『今度の事は母ちやんとあんた丈しか知らんことだから云々』と言い聞かせた後に工藤巡査が佳子を取調べたところ前記の如く佳子は賊はお父さん位の背丈の人であつた等との供述をするに至つた事が判明した。

(5) 被害者亀三郎に対する松倉博士の鑑定書

同鑑定に依れば亀三郎の死体には合計九ケの頸部・腹部・胸部・背部・掌等に刺切創があり、その刃先は一定せず或は刀背を下に刀刃が上部になつているかと思うとその逆、或は斜のものがあり、然も頭部の刺創は咽喉部を左右一文字に貫通していることが明かである。よつてこの咽喉部の刺創は通常の止めの一刀と異つているのみならず、前記の如く兇器の使用法が一定していない事実等より単なる物盗の仕業ではなく、殊に前記咽喉部の刺創は特に怨恨又は情痴に基く最後の止めであり、然も発声音を不明ならしめる処置とも考えられる状況である。

(6) 佐尾山技官一名作成の茂子着用の寝巻に対する鑑定書

右鑑定書に依ればその寝巻には四ケの破綻があり、その中三ケは刃物による破綻で、他の一ケはこれを生ぜしめた方法については判定困難である、となつているが、発生原因の判定困難だと言う破綻一ケは格闘中につかまれて或は引張られて生じた破綻ではないかと推定されるに至つた。然も右鑑定書に依れば右茂子の寝巻の前面には相当多量の被害者亀三郎の血液型と同型であるO型の血液が附着しており、これについての佐尾山技官の説明に依れば該O型の血痕は茂子が亀三郎に極めて接近していた際、刺された亀三郎の血が噴出して直接附着した血液であるとの事であつた。然も亀三郎の当時の寝巻は紛失して現存していない。

(7) 松倉博士の茂子に対する検案書

右検案書は松倉博士が本件事件発生後の昭和二八年一一月一八日本人の承諾を得て司法警察員西本義則立会の下に行われたものであるが同人の左脇腹とその背後の創とは左脇腹を刺入口とし、背部の創を刺出口とする一刀の刺創と認められるが、その外被告人には左肘頭部に左上より右下に稍々斜に長さ〇・七糎の軽微切創の痕跡が認められ、右二ケの損傷はその治癒状況より見て受傷後一〇日乃至二週間位のものと推定される。然も右左脇腹の刺創は刀背を下にし、刀刃を上にした片刃の兇器による受傷であるとの鑑定であるが、刃物を普通に持つ場合には刀背が上であると思料されるのでこの点不審が持たれると共に、右左肘頭部の軽微な切創は同博士が検案するまで何人も知らず、又茂子がこれを物語つた事実がなく、何故これを隠していたかにつき疑問が持たれた。

(8) 現場附近に犯人が遺留したという匕首に対する疑問

放置してあつたという匕首は、建築中の新館裏側(南側)下部の壁に柄を下に刃先を上に六〇度位の角度を以てもたせかけた様な状況であつて、犯人が逃走の途次匕首を放つたとしても、実験の結果は、百辺に一度も右の様な状態に立ち得ないと言われている事実(鑑識係村上清一巡査談)があつて此の点にも疑問が持たれた。然もその手前(東方)にはかなりの凹凸があるのでその上部に橋をかける様に巾三尺、長さ(東西)約一間の板をかけ渡してあり、その上には東から西に歩行したとき落下附着したと見られる血痕相当量がある外、その中途より稍々北西に向け、即ち右立てかけた様な匕首に向けて歩行して行つたとき、落下附着したと思われる血痕が続き、その先端にしやがんで手を伸ばせば右匕首を十分立てかけ得る状況にある(此の点、鑑識係村上清一巡査の供述)点及び右匕首には血液型不明の小量の人血がついているのみである為、この匕首を以て亀三郎及び茂子両名に多数の刺切創を与えた兇器でない事が明らかである。

然も右板橋上の附着血痕は茂子と同一型のA型である事実よりして右匕首は被告人が擬装の為わざわざ立てかけたものではないかと思料されるに至つた。

(9) 店員阿部、西野両名の警察官に対する各供述の対比と疑問点

同人等の供述内容の詳細については記憶していないが、当初の供述は本件犯行当時の状況は殆んど何も知らない旨の供述をし、然も阿部のみが、本件事件の実況見分当時右立てかけたものの如き匕首を発見したので係官にその旨を報告してこれを領置するに至つた旨供述をしていて、当時阿部は一七歳、西野が一八歳であるところ、年長者の西野より年少者の阿部の方が多少詳しく供述しているので、年長者の西野の方が早く目覚めて余計知つていると思われるのに、その事がないのは、口止めされたか、特に言い憎い特殊事情が潜んでいるのではないかとの疑いが持たれるに至つた。

更にその後の警察における供述であつたか、当職等の取調べに対する供述であつたか現在明確な記憶がないのであるが、確か警察におけるその後の両名の供述は当初の供述より更に詳しい供述が為され、然も前記茂子が犯人は新館内部を通つて西方に逃走するのを目撃したとの供述が為された前後において、これと符節を合わした様に初めて同人等は茂子が前記匕首のあつた個所附近において窓に向つて佇立していたのを目撃したがその後自分等が居住している小屋に立ち帰つたところ一、二分して茂子が泥棒じや若衆さん来てくれと叫んだので三枝方屋内に這入るに至つた等と供述を附加するに至つたので店員両名は被告人より何等かの暗示乃至教示を受けてかゝる供述を為すに至つたのではないかとの疑念を抱くに至つたので当職は右店員両名を招致して当時の取調状況を尋ねたところ、当時店員両名は近藤巡査部長、福山巡査部長より茂子対席の下に取調べを受けたものである旨を供述したので、尚更茂子よりの入智恵に基く供述であると共に被告人を前にしては真実の供述を為し得なかつたのではなかろうかとの疑を生じた。

尚此の点については右係官よりも聴取したのであるが、その取調方法は店員の供述と同様であつた。尚右取調官の話によると茂子は斎藤病院退院後度々出頭を命じたのに、療養中であるとの口実の下に容易に出頭しなかつたものであるとのことであつたので被告人に対する疑惑は一層深まるばかりとなつた。」

村上検事が徳島市警の捜査した記録を綿密に調査検討の上なした思考は以上のようなものであつた。同検事は、右思考の上に立つて、後の、「基礎捜査」「本格的捜査」に取りかかつて行くのである。

同検事のなした思考の特徴は、第一に、捜査記録中の全ての事実を「振出しに戻つて」内部犯人説(すなわち茂子犯人説)の観点から検討し直すということであり、第二に、外部犯人説の想定に従つてそれまでに集積された捜査の成果に対する検討が一切省略されている点にあることが、右の同検事自らの報告により一目瞭然である。

同検事を主任とする徳島地検特捜班は、右基礎調査(記録の検討)を経て、基礎的捜査に取りかかつた。

その内容は、右報告によると、「第一、新館板戸の開閉時期、外部犯人の侵入の有無についての基礎的調査」として、石井雅次夫婦、田中佐吉、藤井金次、工藤岩吉そして西野、阿部らを取調べ、「この板戸を開閉して賊が出入した事実はないと思考されるに至つた」とし、さらに痴情怨恨関係基礎捜査として元三枝方女中佐々木良子が調べられ、その結果、「以上捜査の結果は犯人が三枝方若しくは西側新館表板戸から侵入し、更にこれより逃走したとの気配を認める事が出来ない状況となり、事件当日午前七時五〇分頃より開始された真楽巡査部長作成に係る実況見分調書記載の新館表側板戸が開放されてあるのは事件発生後捜査官又は弥次馬、新聞記者等の手に依つて不用意に開け放たれたものであるとの認定に落着かざるを得なかつた。然も当時の市警鑑識係村上清一巡査の報告に依れば、同人が現場に馳け付けた際、新館内部は掃き清められていて、ほうきの跡が真新しく残つていたのに足跡は見出し得なかつたとの事であつたので、茂子の言う犯人は新館内部を通つて逃走したとの弁解は虚偽のもので、犯人は外部から侵入したものでなく真犯人は内部の被告人に非ずやと疑念は次第に濃厚となるに至つた。」とするのである。

(二) 昭和二九年七月一〇日頃の捜査会議

昭和二九年七月一〇日頃、それまでの基礎調査、基礎的捜査を踏まえて、徳島地検において捜査会議が持たれた。

村上検事の報告はその状況を次のように述べる。

「(A) 日時  昭和二九年七月一〇日頃

(B) 参加者 田辺 検事正

湯川 次席検事

柴田 検事

村上 検事

藤掛 検事

丹羽 事務官

(C) 松倉博士より亀三郎及び冨士茂子の傷口鑑定についての説明聴取

同博士の説明に依れば

(イ) 亀三郎の九ケの刺創の中腹部の傷が最初のもので頸部の傷が最後のものと思われる。尚亀三郎は刺切創を受けて多量出血による絶命に約四、五〇分の時間を要したと思われる(これにより頸部の傷は止めの一刀であると共に助けを求める為の或は遺言をなし得ない様に発声音を不明ならしめる為の一突きではないかとの結論が得られる)。

(ロ) 右頸部の傷は亀三郎が倒れた後の傷である。(これより犯人は単なる物盗りの仕業とは思えない。)

(ハ) 亀三郎の死体の創傷は刃の方向が一定でなく犯人と格闘した事が窺われる。(即ち被疑者並びに被害者の位置が相当移動しての格闘であり、亀三郎の掌の切創は犯人から兇器をもぎ取らんと刃をつかんだ時の傷と思料せられる。)

(ニ) 現場の兇器(匕首)には小量の血液しかついておらず血液型の検出が出来ない状況であつて被害者亀三郎の傷口の状態からして、同匕首が兇器なりとせば相当多量の血液が附着する筈である。

(ホ) 冨士茂子の左肘部の切創は自分が同人の承諾を得て身体検査を為したとき発見したもので、此の事実は茂子には全然告知していない(此の点については被告人が当職等の取調を受けるまで何人にも話していない。これは同人が自己が犯人である事を秘する為の所業と認められると判断した)。

(ヘ) 茂子の寝巻に被害者亀三郎の血液が相当量附着しているが、その附着状況は茂子が亀三郎に極めて接近した位置にいて亀三郎の噴出する血が直接附着したものと認められる。

(ト) 亀三郎の手の切創は二回程犯人の刃を握つたものである。

(チ) 茂子の傷は自傷でなく他傷と認められ、腹部の傷は腹部から背部に貫通している。

(D) 会議に提出の検討事項

前記松倉博士の説明内容及び前掲基礎調査事項を主題として即ち

不審点

証拠

(1)(イ)兇器の放置してあつた位置(コンクリート壁に刃を上にして)に茂子が壁に向つて立つていた事実。

店員阿部・西野の供述。

(ロ)その附近の血液は茂子の血である事実。

鑑定結果。

(2)茂子が兇器の位置に立つていた後、同女は一旦同人方寝室に這入り二、三分した頃始めて泥棒じや若衆さん来てくれと叫んだ事実。

店員西野・阿部の供述。

(3)外部から侵入の事実はない。

右店員両名、田中佐吉、工藤、石井夫婦等の逃走した物音を聞いたことがない、新館表板戸は閉つていた、田中方の良く吠える警察犬が全然吠えなかつた旨の供述。

(4)前記茂子の泥棒じやと言う以前にドタンドタンの夫婦喧嘩らしい物音を聞いた事実。

新開夫婦・工藤の供述。

(5)犯行現場の布団を茂子が或る程度片付けた事実。

(イ)店員両名の供述「本件犯行直後頃店員両名が同室通過の際つまずかなかつたし布団らしいものを踏んだ事がない。」

(ロ)警察官の検証。

(6)茂子の寝巻の右脇が裂けている外、三ヶ所の刃物による破綻がある事実。

(イ)寝巻の存在。

(ロ)警察官の鑑定。

(7)茂子の右脇に切創がある事実。

松倉博士の診断。

(8)犯行現場に犯人が遺留したと茂子が供述する懐中電灯は各種メーカー品を組み合せたものである為、三枝方に来店した客が新品購入にあたり、旧懐中電灯を放置して立ち去つたものゝうち利用し得る部分を組み合せて三枝方家人等が使用していたのではないかと思料される事実。

右店員両名の供述。

(9)本妻八重子と亀三郎との関係。

女中佐々木良子は本件犯行二、三日前に徳島市大道で本妻八重子と相遇したと供述するので八重子が復縁を迫りこれを茂子が憤慨したのではないかと思料される。

(10)茂子は犯行後殊更に内部からは犯人はでんぞと言つていた事実。

右店両名の供述。

(11)掛布団の内側及び敷布団の上側に多量の亀三郎の血痕附着の事実。

布団の存在。

の各項目及び証拠を検討論議を重ねた結果、犯人は外部より侵入したものではなく、茂子が先ず兇器をふるつて寝ている亀三郎の腹部を突き刺したものゝ、海軍一等兵曹として鍛え上げた亀三郎は痛手に屈せず立ち上つて茂子と兇器の取り合いに及んだが、暗夜のこととて数ヶ所に刺創を受け漸く茂子より兇器を奪い取つて茂子を一突きしたが、多量出血の為力遂きて座敷に倒れ、遂に茂子に兇器を奪い返され、最後に茂子から頸部に止めの一刀を受けて死亡するに至つた。然も茂子は右止めの一刀に当つて通常の止めの一刀と異なり咽喉部を正面から突き刺さないで頸部を真一文字に横刺しにし、以て発声音を不明ならしめんとしたものであり、然もその真の兇器は何処かに処分し、犯人が外部から侵入したものと見せかける為、前記匕首を新館裏手のコンクリート壁にもたせかけたのではないかとの嫌疑が濃厚であるとの結論に達した。仍つて茂子の言う犯人が現場に遺留したと言う懐中電灯の出所及び匕首が如何なる経過を辿つて被告人茂子の手に渡つたか、又犯人が予め切断して侵入したと茂子の言う、切断されてある電灯線と電話線は何時如何様にして切断されたかに捜査の重点を置くこととなつて捜査会議は一応散会するに至つた。」というものである。

右の捜査会議により茂子犯人の捜査方向は定められた。三枝亀三郎殺害事件の捜査にとつて重要な、そしてその後の捜査の在り様をも大きく決定ずけた悲劇的とも言うべき方針決定が行われたのである。

右の捜査会議の内容のうち、村上検事が「不審点」として種々摘示する事項も、それ自体、それまでの捜査資料の中から、茂子を強いて怪しいと見る立場から見た場合には、或いはそのようにも考えられるかもしれない、と言う以上のものはない。しかもその場合、他の証拠資料、すなわち、それまで外部犯人説に基き営々として集積された成果は殆ど顧りみられておらず、それらとの比較検討と総合的評価は行われていない。言い換えれば、茂子犯人の疑いが、いよいよ濃厚であると結論づけた右捜査会議の根拠となる証拠は、その時点では右の程度のものにしか過ぎなかつたということを間接的に物語るものといえよう。

しかも、右の捜査経過から明らかなことは、昭和二九年七月初から開始された内部犯人説に基く捜査が、一〇日後の捜査会議においてはすでに明瞭に茂子犯人の犯行態様までの想定をしていることである。右の想定は何を根拠にどのようにして組立て得たものであろうか。六月下旬、川口算男の起訴が見送られてから考えても異常に早い進展と転換であるといわなければならない。結局、右の想定は、綿密な捜査の結果、遂に到達した捜査の結論ではなく、まさにそれまでの基礎調査、基礎捜査(その内容それ自体も村上検事自らが語る前記の程度のものにしか過ぎない)から同検事が想定してみたというものに過ぎない。しかし、右の想定はまさにそれ以後の捜査の出発点となつたことが重要である。すなわち、この一見明瞭に描かれた茂子犯人像は、本件が茂子によつて犯されたに違いないとの検察官の予断の表われであるが、まさにその故にその後の捜査が全てその想定に沿つて進められ、沿わないものは切捨てられて行く決意の表明でもあつたことがその後の展開の中で更に明瞭になつていく。

(三) 本格的捜査の進展

前記捜査会議以後、そこで明瞭に描かれた茂子犯人像の想定に従い、新開鶴吉ら近隣の人々、西野、阿部らが次々と参考人として事情聴取されていく。

そのうち、遺留されてあつた懐中電灯は、西野、阿部らの供述により、犯人が遺留したものではなく、元々三枝方のものであることが判明したとされ、電話線については、徳島電話局から午前五時五〇分に故障判明という回答があり、電話線切断はそれ以前ということになつたが、電灯線の切断については、事件の日の早朝、四国配電徳島営業所係員坂尾安一、四宮忠正の供述により同人らが午前六時頃修理依頼を受けて三枝方に行き、配電盤の蓋が開けてあつたので閉じると直ちに点灯した事実が判明し、村上検事は、「ここに電灯線の切断は事後切断である事が確定的となるに至つた」と断定した。この時点においても、既に、西野は昭二八・一一・五員において早期修理の供述をしており、阿部もそれに照応する供述をしていたのであり、事後切断と短絡的に断定することをせず、西野、阿部らの調書をさらに検討し、同人らから事情聴取することによつて事態を解明することが充分に可能であつたと考えられる。

しかし、事態は不幸な方向に進んだ。

七月二一日徳島地検は西野清を逮捕するに至つた。容疑は、茂子の依頼により電話線、電灯線を切断した、という公益事業令違反等によるものであつた。西野は、同日、右容疑を認めたとされたが、それ自体、自己の言い分を聞いて貰えず無理矢理供述させられたものであることは、その偽証告白後の供述により明らかである。そしてそれ以後の西野の供述を通じて電話線切断は大道へ行く前(すなわち故障判明の午前五時五〇分以前)、電灯線は、坂尾による点灯後、すなわち大道から帰つて後、という、茂子の犯行後しかも二度の機会による切断という経験則上も容易には首肯し難い認定の骨格が出来上つた。以後、西野は、捜査官の意のままに、その時々の捜査の推移と必要に応じて、その供述を次々と推移させて行つたことは、既に詳細に述べた。そして、昭和二九年八月一一日深夜、阿部逮捕、八月一三日茂子逮捕、そして九月二日茂子起訴と事態は進んで行つた。その間の夫々の供述の推移は、既に詳細に検討したところである。

4 本件捜査の看過し難い特徴

以上の本件捜査の過程を概観して来たところから、次のようなことが最少限指摘されうるであろう。

第一に、本件発生後、昭和二九年六月下旬に至るまで、本件は外部犯人の犯行であるとし、徳島市警を中心に営々と捜査が展開され、犯行現場に遺留されていた物証を主たる手がかりとして、かなりの程度、犯人像を絞るところまで捜査は進展していたものとみることができる。しかし、昭和二九年七月、警察制度の大巾な改革そして人事異動に伴い、外部犯人説に基く捜査は正しく承継されず、従つてその成果も正しく発展させられなかつた。

第二に、徳島地検が、従前の捜査方針を一八〇度転換し、内部犯人説へと切換える際にも、既存の収集証拠の総体が全面的にしかも厳密に検討されてはおらず、極く一部分の証拠を独断的に解釈して犯人像を想定するに至つていることが、主任検事である村上検察官自らの文章によつて赤裸々に語られている。

第三に、右の犯人像の想定を出発点として、直ちに、しかも強引としか言いようがない身柄捜査に早期に移行してしまつたことである。その際、本件における重要物証である筈の匕首、懐中電灯、切断された電話線、電灯線、犯行現場の状況を物語る実況見分調書等、犯罪の客観的部分を語る証拠との照応関係が充分な考察の対象とされた形跡はない。このことは、電灯線の切断痕に関する大久保鑑定の結果が、西野の身柄拘束期間の最終段階になつて判明し、あわてて西野の切断方法に関する従前何通もの調書で語られた供述を一切変更し、右大久保鑑定書に合わせて調書を作り直しているという誠に稚拙ともいうべき捜査方法に端的にあらわれており、そのことが逆に西野供述の信憑性に決定的とも言うべきダメージを与えていることについては詳説した。右の例は、本件捜査の極く一例に過ぎない。

「証拠が出発点であり、事実は到達点である」「捜査は可能なる最大の正確さを以て証拠痕跡から事実を推論する」といわれる。しかし、村上想定は、証拠資料の前に「事実」が出発点とされた。そして、「事実」を裏付ける証拠はないかとの痕跡探しにその後の捜査が展開されたことを同検事の「捜査経過」(一偽1)は物語つている。

本件捜査は、先ず物証とその科学的鑑定、犯行現場の重視とその再現等、犯罪の客観的部分に依拠しつつ徐々にその主体(犯人)に肉薄するという捜査の常道から出発したのではなく、或る犯人像の想定、関係者の身柄拘束、それへの供述の強制、という典型的な見込捜査として出発し、そして終末したのである。茂子有罪を実質的に根拠付ける証拠の全ては、供述証拠であり、物証、実況見分調書等、犯罪の客観的部分を物語る証拠はむしろ外部犯人の侵入を裏付けている事実がその何よりの例証である。

第四に、右の見込捜査の犠牲となつたものは西野と阿部であつた。西野は、電話線、電灯線を切断したことを理由に四五日間、阿部は、実に、遺留されていた匕首を所持したという嫌疑で二七日間身柄拘束された。西野は、強制されたものとはいえ、一応七月二一日付で自白しているが、阿部に関しては、同人が匕首を「所持した」という証拠は新旧証拠の何処にも発見することはできない(この点は第四次再審の抗告審決定も鋭く指摘している)。二人の少年に対する、かくも長期の、そして必らずしも充分な証拠による裏付けを持たない嫌疑による身柄拘束状態こそ、検察官が、次々と、思いのままの供述を両名より引き出し得た格好の温床であつたのである。

第五に、取調べる側が供述を真摯に聴取し、矛盾があれば指摘追及し、徐々に実体的真実に迫る、というのではなく、先ず或る一定の犯人像を想定し、それに合致する供述を得るまで取調を止めず、尚、供述を迫るという捜査方法であるならば、必然的に供述調書の数は矢鱈と多くなる。同一人に対して一日に何通もの調書が作られ、それらが全く違つた内容を述べていたりする(例えば、西野清、黒島テル子、篠原澄子など)。西野、阿部の昭和二九年七月以降の供述録取過程は既に見たとおりであり、茂子、黒島テル子、石川幸男、阿部幸市らも、何通もの調書が作成されていることも既に述べた。特に、石川幸男、阿部幸市らは、その家族をも含めて集中的に取調を受けていることが特徴的である。

そして、検察官が望む内容の調書が作成されるや、直ちに刑訴法二二七条によつて裁判官による証人尋問調書が作成されていることも軌を一にしている。同法は、その立法趣旨からしても例外的に運用されるべきものであつた筈である。

そして、夫々の証人の裁判官面調書が、各人の公判証言におけるシナリオとしての役割を演じたものであることも、既にこれまで述べて来たところであるから繰返すことはしない。

第八結論

新旧証拠を総合して、本請求の当否につき検討した結果は、以上のとおりである。

これを要するに

一 三枝亀三郎殺害の真犯人が茂子である旨断定した第一、二審判決なかんずく第二審判決の証拠構造は

1 事件発生当時、三枝電機商会の住込店員であつた西野清(当時一七歳)、阿部守良(当時一六歳)両名の証言を決定的証拠として採用し、両名の証言により、

(一) 両名が、事件発生の日の早朝、三枝方奥四畳半の間において、茂子と亀三郎夫婦が格闘しているのを目撃した

(二) 西野が、その日の朝、茂子に依頼され、三枝方屋根上の電話線、電灯線を切断した

(三) 西野が、その日の朝、茂子に依頼され、亀三郎殺害に用いたと覚しき刺身庖丁を両国橋上から新町川に投棄した

(四) 阿部が、茂子に依頼され、事件発生前の昭和二八年一〇月下旬、篠原組から匕首一振を預つて持つて帰り茂子に渡した。事件発生の日、発見された匕首はその匕首である

とする内容を骨子とする四つの事実を認定し、それを裏付けるものとして他の幾つかの証拠を挙示し、

2 さらに、茂子の犯行の状況の一端を示すものとして

(一) 犯行現場の血痕等の附着状況

(二) 茂子の左季肋部に刺創の存在すること

(三) 亀三郎の左手掌面に創傷の存在すること

(四) 茂子の寝巻に存する亀三郎の血液

(五) 犯行現場に敷いてあつた夜具蒲団を逸早く取片付けてあつたこと

(六) 四畳半西北隅押入の板戸が割れその傍のポスターに血痕の附着していること

(七) 外部から犯人侵入の形跡のないこと

を挙げ、

3 茂子の自白調書(昭二九・八・二六検)、松倉鑑定書により、茂子は亀三郎の腹の辺その他を先ず突き、その後、格闘の後さらに咽喉を最後に一突きしたもの、と創傷の順序を認定し

4 外部から侵入した犯人が亀三郎を殺害した旨の茂子の供述は措信し難く、又、娘の三枝佳子の証言も茂子の作為、暗示によるものであつて信用し難い、

とするものであつた。

二 しかし、確定判決が茂子有罪の決定的支柱とした西野、阿部両名の第一、二審における証言は、その供述の形成過程から当請求審証言に至るまでの内容とその変遷過程を具さに分析することによつても、両名が当請求審において、自ら第一、二審においては偽証したものである旨告白する証言の真実性を検討することによつても、又、両名の第一、二審証言を他の新旧各証拠と総合して検討することによつても、これを偽証であると断定せざるを得ない。

即ち、

1 茂子と亀三郎とが格闘しているのを目撃したとする両名の証言は、その形成過程が極めて不自然で検察官の強制に迎合してなされた疑いが強く、その供述内容は動揺を極め、特に、第二審における弁護人の反対尋問に対しては沈黙したり、「記憶にありません」と答える等、真にこれを体験した者の証言としてみるには多分に疑問があり、第一審において実施した検証の結果によつても、目撃不能との結果しか得られてはいないところであつたが、当請求審において取調べた伊東三四作成の鑑定書により、同人らが目撃したとする本件発生時の自然条件下においては、客観的にも同人らの述べるような認知内容を獲得することは不可能であること、両名の供述内容の中には、視知学心理学上到底共存することのあり得ない認知内容が混在しており、両名が真にこれを目撃したものとは到底考えられないことが明らかとなつた。

2 茂子の犯行後、同女の依頼により電話線、電灯線を切断した旨の西野証言は、その捜査段階における供述は矛盾動揺を極め、その時々の捜査官の必要に応じて、その思いのままに作成され変更されて来た形跡が顕著であり、公判証言自体にも看過し難い矛盾の存在するところであつた。当請求審で取調べた同人の、昭三三・一〇・一〇法、当請求審証言において、西野は、電話線電灯線を切断したものではなく、早期に電灯線をブリツジ状に補修した旨述べるところ、その補修に関する供述は、旧証拠中の西野の事件直後頃の供述調書中にも存在し、証人武内一孝の第一審五回公判証言とも符合するところであつたが、当請求審で取調べた小松崎盛行作成の鑑定書、富永一行作成の鑑定書、及び旧証拠中の昭二八・一一・五実況見分調書添付第九号写真、大久保柔彦作成の鑑定書添付の写真等とも、合理的に照応することが明らかとなつた。

3 刺身庖丁を新町川に投棄したとの西野証言は、同人が投棄したと指示する場所を川ざらえしても発見できなかつたことが既に第一、二審の段階で明らかであり、西野が懐中したと証言する寝巻の衿に血痕の附着がなく、これらは全て西野の第一、二審証言が虚偽であつたことを示している。

4 匕首を篠原組より入手したとの阿部証言は、旧証拠それ自体の範囲でも篠原澄子の供述と食違い、しかも、渡したと認定された篠原澄子本人が、第一審においても「阿部に渡したことはない」と明白に否定する証言をしていたところであり、容易には措信し難い要素を数多く含むものであつた。阿部は、当請求審において、右の供述が、検察官の強制、誘導により已むなくしたものであり偽証である旨述べている。

してみると、西野、阿部が第一、二審で証言し、第一、二審が茂子有罪を認定するにつき決定的な決め手とした以上四つの事実は、全て虚構であつたことに帰着し、確定判決の根拠が根本から問い直されることにならざるを得ない。

三 西野、阿部の証言を裏付けるものとして、第一、二審判決が挙示しているその他の各証拠は、何れも、それ自体としては茂子と本件犯行を結び付けるに足りるものはなく、西野、阿部の証言を取除いた場合には茂子の犯行を何ら立証することのできない、いわゆる、見せかけの証拠にしか過ぎないものであつた。

四 第二審判決が、「茂子の犯行の状況の一端を示す」として挙示する各証拠も、夫々の証拠を仔細に検討してみるならば、茂子の犯行を基礎づけるもの、というよりは、むしろ第一、二審判決の認定に疑問を抱かせ、外部犯人による犯行ではないかと窺わせるものである。

即ち、

1 当請求審で取調べた小林宏志鑑定書、各意見書、助川義寛昭五三・一〇・一二鑑定書、同人らの各証言、松倉豊治回答書、同人の証言、上野正吉鑑定書(四再審)を総合すると、

(一) 亀三郎が仰臥中に右横から腹部(6)→(5)創と(7)創とを連続して形成させることは不可能である。亀三郎の左手掌面の創傷は防禦創であつて、兇器を奪い取る際に生じたものとは認め難い。頸部の(1)→(2)創を背の低い茂子が立位にある亀三郎に負わせることは困難である。そうすると、茂子の昭二九・八・二六検による自白と亀三郎の創傷の客観的状況とは符合しない。

(二) 茂子自身の創傷の程度が軽微であること、茂子の寝巻に亀三郎のO型の血液痕の附着が少ないことは、何れも茂子の自白内容と、それに基き認定された本件格闘の規模、状況とは符合しない。

(三) 廊下上の茂子の母趾紋から同人の行動、心理状態までをも推測した和田福由鑑定書は非科学的であり初歩的誤まりすら犯している。

(四) 亀三郎と茂子の傷は、同一兇器の同一握りによる手首の動きで、双方共に立位で形成しうる。

ことが認められ、以上の各事実は、茂子の自白内容と大きく矛盾することは勿論、第一、二審判決の認定に対し、いずれも両立し難い疑問を生み出すものであり、むしろ、茂子が一貫して供述し主張して来た外部犯人の犯行であるとする内容の方に夫々合致している。

2 以上のほか、第二審判決が情況証拠として挙示する証拠は、それ自体、茂子の犯行を裏付ける情況証拠としてよりも、むしろ外部犯人による犯行を裏付ける情況証拠であると見た方が経験則に合致する。

五 茂子の自白は任意性に疑いがあり、真実性は認められない。

茂子は犯行直後の取調、昭和二九年八月、夫殺しの被疑者として取調べを受け始めてからも、その供述は一貫して外部より侵入した犯人による犯行である旨、具体的に供述していた。茂子がなしたとされる自白は、昭二九・八・二六付検、同八・二七付検であるが、いずれも犯行に至る動機の供述を欠き、それ自体、事犯の性質から考えると余りにも簡単に過ぎ、その内容も捜査主任であつた村上検事が昭和二九年七月一〇日頃の捜査会議の段階で想定した茂子犯人像の具体的内容を、主語を代えて文章化した内容と著しく酷似しており、その二日後の昭二九・八・二九検においては、自白には何ら触れることなく従前と同様の否認調書が作成されているという典型的な概括的自白であつて、その内容を、茂子の従前の供述や、その後の公判段階、判決確定後の茂子の供述と比較対照しても、その時点において、果して茂子が任意になしたものであるかどうかは多分に疑問のあるところである。

しかも、その内容を、他の旧証拠中の客観的証拠、即ち亀三郎の創傷、茂子の受傷の各状況、茂子の寝巻に附着した亀三郎の血痕の状況、昭二八・一一・五実況見分調書により認められる犯行現場の状況と対照すればいずれも両立し難い疑問を生ぜしめるものであつて、右自白に真実性を認めることはできない。

六 以上のほか、旧証拠の中に、亀三郎殺害の真犯人が茂子である旨断定するに足りる証拠は存在しない。かえつて、犯行現場に所在し、外部犯人による犯行を目撃したとする茂子、三枝佳子らの供述するところは、具体性と迫真性に富み、他の客観的証拠とも符合している。

又、第一、二審判決が、茂子が犯行に至つた動機として挙示する事実は、一部旧証拠によつては認め難いものが存在し、又、右認定にかかる事実によつては、経験則上、茂子が一〇年来連れ添つた亀三郎を殺害する動機としては不十分であると認められる。

七 新旧証拠の中には、亀三郎を殺害したのは、外部から三枝方に侵入し、逃走した者ではないかと合理的に疑うに足りる証拠が存在している。

(一) 犯行現場の四畳半の間に敷いてあつた敷蒲団の敷布上には、外部犯人のものとみられる靴跡が印象されている。

(二) 犯行現場である四畳半の間には、犯人が遺留したとみられる懐中電灯一ケが存在した。

(三) 三枝方新築工事場表出入口の板戸が、内側から押開いた様に上方が広く下方が窄んで開かれており、犯人が逃走する際、右板戸を開いて逃走したものとみられる。

(四) 犯行時刻頃、三枝方前附近路上を通行していた辻一夫、酒井勝夫は、いずれも新築工事場板戸附近から飛出したと思われる男が東から西へ走り、左に折れて元町通りへ出たのを目撃しており、同じ頃、元町ロータリー附近を通行していた高畑良平も元町ロータリー附近を走り去つた男を目撃している。これらにより、三枝方に侵入した犯人が新館板戸附近から逃走したものと考えられる。

(五) 茂子、三枝佳子はいずれも一貫して四畳半の間に侵入した男を目撃した旨具体的に供述している。

(六) 三枝方新築工事場二階から屋根上に通ずる東側窓枠に「指紋二ケ、掌紋一ケ」が印象されており、何人かが新館二階に上り、東側窓から店舗屋上に出て電灯線電話線を切断した可能性を示している。

(七) 新館工事場表出入口の柱に人血が附着している。

(八) 新館工事場板戸附近に人血が落下している。

以上(七)、(八)の血液の痕跡は、第一、二審判決の認定によつても茂子が右場所に行く筈のない処であることから、茂子以外の誰かが血液を身体に附着させた状態でそこを通過したことを明瞭に物語るものであり、外部犯人が亀三郎と格闘の後、そこから逃走したことを窺わせる。

(九) 犯行直後、警察犬により犯人を追跡させたところ、二度とも殺人現場から元町ロータリーのところまで走つた。この事実は、犯人を目撃した辻一夫、酒井勝夫の証言内容とも合致している。

(一〇) 本件犯行直後、既に、三枝方屋根上の電灯線、電話線が何者かにより切断されていた。

(一一) 犯行直後、犯人のものと思われる匕首一振が三枝方新館コンクリート壁にもたせかけるようにして遺留されていた。

以上の各事実は、三枝亀三郎殺害の犯人が外部より侵入した者の仕業ではないかと疑うに足りる充分な証跡であると考えられ、現実に、事件発生直後から昭和二九年六月末に至るまで、右証跡を手がかりとして徳島市警、徳島地検は鋭意捜査を続け、容疑者を絞る段階にまで到達していたものである。

八 以上よりして、茂子を亀三郎殺害の真犯人と断定した第一、二審の事実認定は、新旧証拠の総合的評価を終えた今、もはや維持し難いものになつたというほかはない。これら茂子有罪の認定を阻害する証拠は、単に新証拠の中に発見しうるだけでなく、旧証拠、すなわち第一、二審が事実認定の用に供することができた筈の確定記録の中にも数多く含まれていたものであることは詳細に見て来たとおりである。

当裁判所は、このことが数ある再審請求事件の中でも、本件の一つの特徴をなすものと考えている。

すなわち、判決理由を一読して読み取れるように、第一、二審判決は、未成年の西野、阿部両名の証言を全面的に信用し、茂子、佳子らの目撃供述を排斥し、茂子有罪の認定を阻害する結果に導くような証拠は、これを茂子自身の「偽装工作である」とか、「捜査を迷わしめる方法である」とか、「配慮作為」であるとか、「迷信的性格による」とか、或いは、「茂子の暗示や命令によるもの」とか、「年少者の野次馬性冒険性に基因する」とか、「茂子が未入籍であつたが故に懊悩した」とか、等々、必ずしも証拠に基いているとは言い難い不合理的要素によつて割切り、結局、茂子有罪の心証はゆるがないとしたものであつた。

しかし、かような第一、二審の事実認定と証拠説示は、厳密に証拠に基き、それらを論理法則、経験法則に従つて正しく評価するべき本来の事実認定の方法論とは相容れないものであることは勿論、それ自体、茂子有罪の心証を形成した証拠構造の脆弱性をも無言のうちに表現したものに他ならない。同時にそのことは、確定記録中の夫々の証拠が矛盾錯綜し、本件が旧証拠それ自体の評価からしても、茂子の犯行であるとは容易には断定し難い難件であつたことを物語つており、それらを或る一定の方向で割切ろうとする有罪心証の苦悶とその危険を端的に表現したものと考えられる。

再審制度の運用につき、法的安定性と確定力の擁護を念ずるの余り、極端に硬直した立場を取り、一旦、有罪判決が確定した以上、新規なる証拠に、それ自体で無実であることの明白なる証明力を要求する従来支配的であつた判例のような立場をとる場合、弱い証拠構造に立脚した確定有罪判決が、逆に確定判決により、諸々の矛盾は充分に検討済であるとの理由で再審により救済され得ることがより一層至難になるという一見パラドクシカルな運用をすら現実には生み出し兼ねないことを、本件の今日に至るまでの経緯は無言のうちに物語つている。

そして、このことは、真に救済されるべき者を早く正しく救済することを可能にした昭和五〇年以降の最高裁判例法理の正しさを端的に物語るものであろう。

九 三枝亀三郎殺害事件は、当初から、外部犯人の犯行として捜査が開始され、幾人かが容疑者として捜査線上に浮上し、その都度、逮捕勾留の上取調べられたが、いずれも起訴するに足るだけの証拠に欠け、結局、昭和二九年七月以降、警察制度の大巾な改革も重なり、それまでの捜査の積み重ねが必ずしも充分に引き継がれることのないまま、犯人は内部にあるとの徳島地検の想定に従い、三枝方の住込店員二名が逮捕勾留の上取調べを受け、主として同人らの身柄拘束期間中における供述に依拠して、亀三郎の内縁の妻冨士茂子が逮捕勾留の上、起訴されたのである。

公判段階においては、それまで外部犯人説に従いなされた捜査の成果は、或るものは公判に提出されないまま裁判官の目から隠され、又、或るものは、西野、阿部の供述を媒介として茂子犯人説への根拠づけに用いられることとなつた。遺留されていた匕首は阿部証言を媒介として篠原組から茂子のところまで運ばれた。誰かが遺留した懐中電灯は、西野、阿部の供述を媒介として、従前から茂子方にあつたものであり、茂子が警察官に提出したのは、外部犯人の犯行を装う偽装工作であるなどとされた。敷蒲団の敷布上に印象されていた靴跡は、西野、阿部の供述を媒介として、西野らが土足のまま四畳半に上つたのかもしれない、ということにされた、等々。

この不自然極まりない竹と木との接木は、それ自体到底両立し難いものであるだけに、確定判決の認定とその証拠説示の中にも、どうにも首肯し難い論理と割り切りとを随所に生み出すことになつた。

この竹と木との接着剤の役割を担わされたのが未成年の西野と阿部であつたのである。両名は、かような不幸な接木を、検察官という国家権力により託され、背負わされ、旱天の熱砂の中をその重味に耐え乍らひたすら歩くしかない可哀そうな駱駝のようなものであつた。二人は、第一、二審公判においては、辛うじて捜査段階における供述を維持したものの、良心の苛責に悶々とし、遂に、判決確定後一年を経ずして、法務省人権擁護局、警察等の公的機関に対し、偽証の告白を為すに至つたのである。

本件が発生してから、既に四分の一世紀以上の歳月が経過している。有罪判決を受け、服役した冨士茂子は既にもうこの世にはいない。その頃、義務教育を終えた許りの少年であつた西野も阿部も既に初老の坂を越えている。同人らが置かれた立場と、不可解とでもいうほかはない夫々の供述の変遷過程は、本事件の謎を解くアルフアでありオメガであつた。同人らの供述の変転、反対尋問に対する数多くの沈黙、そして阿部の偽証を告白する手記、自殺までをも企てた西野の遺書等は、刑事司法が具体的正義を追い求めようとする限り、いつまでも、何がしか今後の教訓となるのに相違ない。

一〇 然りとすれば、新旧証拠の総合評価を経た結果、三枝亀三郎殺害事件の真犯人は亡冨士茂子である旨断定した確定判決に対し、亡冨士茂子は無実であることが明らかな証拠が新たに存在するに至つたというに充分であるというほかはなく、当裁判所は、刑訴法四三五条六号、四四八条一項に則り、本件につき、再審を開始することとしなければならない。

よつて、主文のとおり決定する。

(裁判官 安藝保壽 秋山賢三 細井正弘)

図面(一)ないし(七)(略)

弁護団名簿(略)

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